誘拐
その日の午後、私は中庭で布を干していた。
柔らかな光が雲を透かして差し込み、風に揺れる布越しに白く輝いて見える。
全てが終わった日の朝はとても心地が良かった。
そんな時、背後から影が落ちた。
「美鈴」
低い声に振り返ると、そこにライエン様が立っている。
「……はい」
思わず緊張して背筋を伸ばす。
すると彼は、珍しく柔らかな表情を浮かべながら言った。
「少し歩かないか」
唐突な誘いに目を瞬かせる。
「雷鳴山の外れは静かで景色もいい。……ずっと宮殿の中では、息が詰まるだろう」
そう言って、大きな手を差し伸べてくれた。
「……嬉しいです」
私はその手をとりながら小さく頷いた。
村は今、平和だ。
みなが手を取り合って、助け合い自然と共存しながら生きている。
私も天上から見守りながらこれからも村のことを守っていきたい。
村の人もいつでも遠慮しないで遊びにきてくださいと言ってくれた。
神に頼るのではなく、自分たちの力で……私たちは一歩踏み出すことが出来たんだ。
二人で歩き出したのは、天界の外れに続く光の小道だった。
霧が薄く漂い、足もとを覆うように揺れている。
「いい空気ですね……」
思わず声がこぼれる。
「ああ、そうだな」
ライエン様は静かに答えた。
その落ち着いた声と並ぶ背中に、心臓がまた高鳴る。
これからはずっとライエン様と一緒だ。
うれしいな……。
彼と過ごす毎日に幸せを感じる。
胸が熱くなって、最近だと……私の方からもっと触れたいと思ってしまったり……。
なんて、そんなことを考えながら歩いていると、踏み出した場所がズルりとすべった。
「きゃっ」
ふと足を滑らせ、バランスを崩しそうになる。
その瞬間、雷神様の腕が伸びてきて私を支えた。
「大丈夫か?」
低く落ち着いた声が耳元に響く。
私は一瞬息を呑んだ。
「だ、大丈夫です。すみません……」
ドキドキと心臓が音をたてる。
恥ずかしさを隠そうと必死に顔を伏せると、それが気に食わなかったようで雷神様は私のあごをぐいっと持ち上げた。
「最近よく目を逸らすな……なぜだ?」
「そ、それは……」
そんなの決まってる。
雷神様がカッコよすぎるからだ。
「き、聞かないでください」
恥ずかしくなってまた目を逸らす。
すると雷神様は口もとをムッとさせて言った。
「なにかあるのか?」
彼の顔があまりに近く、耐えられなくなる。
かあっと身体が熱くなり、その熱がじわじわと私の全身に広がってゆく。
「言わないと放さないぞ」
そ、そんな……。
これ以上はもう限界だ。
私の心臓がおかしくなってしまいそう。
私は勢いで告げた。
「ドキドキ、するからです……っ」
「ドキドキ?」
「そ、そうです……!いつも……ライエン様とふたりになるとドキドキします……」
「なぜ?」
うう……。
ライエン様どうして分かってくれないの?
それとも分かっていて意地悪を……?
「それは……好き、だから……」
ここまで言ったら分かるよね?
おそるおそる反応を見てみると、ライエン様は嬉しそうに目を細めた。
「美鈴からハッキリ聞いたのははじめてだな」
「そうでしょうか」
もっとたくさん伝えていると思った。
心の中はライエン様への愛で溢れている。
自分がこんな気持ちになる日が来るなんて思わなかったもの……。
すると、ライエン様は遠くを見つめながら言った。
「もし、この先も美鈴と一緒に生きていくのなら、覚悟を決めなければならない」
覚悟……?
どういう意味だろう。
なんの覚悟が必要なのか。
ライエン様を見たけれど目が合わない。
「ライエン、さま……?」
少し不安になった時、彼は静かに告げた。
「その時は伝えたいことがある」
黄金の瞳がこっちを向き、まっすぐに射抜いてくる。
その真剣な眼差しに、思わず息を呑んだ。
「神の世界というのは案外キケンな世界だ。それに……やつの影が近づいてきてる」
「やつ……?」
ライエン様の声には、いつもの穏やかさよりも鋭い言葉が混じっていた。
「また争いが起きるかもしれない」
霧の中、彼は一歩近づき、私の手を包み込む。
大きな掌の熱が、真っ直ぐに伝わってきた。
「それでも……必ず美鈴に伝える。その時まで待っていてほしい」
ライエン様の声は静かだったが、その響きには重みがあった。
「はい……」
私と一緒に歩んでいくには覚悟が必要なんだ。
神の世界というのは難しい。
本だけでは勉強しきれないほどたくさんのルールと掟が存在している。
でも、ライエン様がそう言うのであれば、私は彼を信じて待っている。
「美鈴……愛している」
「私も、です……」
彼の顔がさらに近づいてきて、私の唇は柔らかな温もりに塞がれた。
熱に溶けるような口づけ。
「んっ……」
胸が破れそうなくらい鳴り響いて、もう自分ではどうにもできない。
そっと唇が離れるとライエン様は愛おしそうに目を細めた。
「足りないって顔してる」
「なっ……」
かあっと顔が熱くなる。
もう、ここ最近ライエン様は意地悪ばかりするんだから……っ。
「冗談だ」
ライエン様は笑うけれど、あながち間違えじゃなかったり……。
「……帰ろう。マルンとモルンが待ってる」
「はい」
ライエン様が離れたあとも、胸の鼓動はしばらく収まらなかった。
私とライエン様は手を繋ぎながらふたりが待っている場所まで帰った。
ふたりで帰る帰り道はどうしようもなく幸せで、さっきよりもキラキラして見えた──。
翌日。
この日、私は食料になりそうなものを取りに宮殿の外れにある小道を歩いていた。
最近は色んなものを採集してみて、お料理を作ることにハマっている。
「これもなにかに使えるかしら?」
見たことのないキノコのようなものを手にした時、背後から冷たい風が強く吹きつけてきた。
「えっ」
夏の風とは思えないほど冷たくて、思わず肩をすくめる。
「……誰?」
振り返ると、木々の影から一人の男が現れた。
髪は薄い緑がかった銀色に揺れ、瞳は氷のように澄んだ青。
笑っているのに、ぞっとするほどの冷気をまとっている。
「やはり……貴様が雷神に選ばれた娘か」
気がつけば、私の周囲の空気が凍りついたみたいに重くなっていた。
身体がうごかしにくい……。
なにかが変だ。
「雷神も滑稽なヤツだな。人間ごときと一緒にいるなんて」
男はゆっくりと近づいてくる。
衣が揺れるたびに風が巻き起こり、枯葉が渦を描いて舞い上がった。
私は喉を詰まらせながら一歩、二歩と後ずさった。
「……雷神様を、知っているんですか?」
恐る恐る声を絞り出すと、男の口元が皮肉げに吊り上がった。
「ああ知っているとも。あやつとは長い因縁がある。だが今はそれより──」
次の瞬間、私の周囲を突風が取り囲んだ。
耳元で風が唸りを上げ、視界が白くかき消される。
「きゃっ!」
髪が乱れ、袖がはためき息ができないほどの強風に飲み込まれていく。
「おまえを連れていく」
その一言が響いた瞬間、足元がふわりと浮いた。
まるで見えない腕に抱え上げられたように、私は空へとさらわれていく。
必死に地面へ手を伸ばすけれど、なにも掴めない。
「や、やめてっ──!」
叫びは風にかき消され、視界の端に雷鳴山の宮殿が遠ざかっていくのが見えた。
雷神様──!




