母の墓
ひとり、神殿の裏庭に腰を下ろしていた。
風は涼しく、花々の香りもかすかに漂っている。
けれど、胸の奥は重たく、張りつめた空気がまだ抜けないままだった。
あの後、村の嵐は静まったようだった。
でも、彼はどこかに行ったまま帰ってこない。
どうやって謝ったらいいのか……。
そんな思いが、胸の奥にしんと広がっていく。
「みすずー……?」
ふいに、小さな声がした。
顔を上げると、ちょこちょこと揃ってやってくるふたつの影。
白いもふもふの毛並みに、くりくりの瞳。
あやかしのマルンとモルンだった。
「どうかしたのか……?さっきから、元気ないゾ」
「なんだか……しょんぼりしてるジョ。なにかあったジョ?」
二匹が不安そうに私の膝のそばに座り、見上げてくる。
私は苦笑して、小さく首を横に振った。
「……ううん、何でもないのよ。ごめんね心配かけて」
そう言いながら、そっと手を伸ばす。
マルンの頭を撫で、続けてモルンの背をなでると、二匹は小さく「きゅうぅ……」と鳴いて、私の膝に寄り添ってきた。
ふかふかで、あたたかくて、なんだか抱きしめたくなる存在。
「ありがとうね……」
ぎゅっと抱きしめると、モルンが「むふぅ」と満足気に鳴いた。
「……雷神様って、とても優しい人ね」
私はぽつりとつぶやいた。
最初は怖い人だと思っていたのに、一緒にいればいるたび愛が深い人なんだと知った。
そんな雷神様を大事にしたいと思うのに、うまくいかない。
すると、膝の上にいたマルンとモルンが、ふたり同時に小さく肩をすくめるように動いた。
「そう、雷神様は……本当に優しい人なんだゾ。でも、誰も雷神様のところには集まってきてくれないんだゾ」
「どうして?」
私が目を見開いて彼らを見ると、モルンは眉を下げるようにしながら、ぽつぽつと話し出した。
「雷神様は生まれながらに強すぎる力を持っていたんだゾ……。それはもう恐れられるほどに」
「両親も手に負えないほどの力だったんだジョ」
えっ。
そんなことがあるの……?
「だから雷神様は捨てられてしまったんだゾ」
す、捨てられた……。
「いつか自分たちを亡ぼす恐れがあると思われたからなんだジョ」
「ウワサは流れて伝わり、それから誰も、この雷鳴山には近づかなくなったんだゾ」
そんなことがあるの……。
じゃあライエン様は一人で生きていたいわけじゃなくて、生まれながらにひとりにさせられてしまったの……?
「だから、相手の気持ちを読むのが苦手だったりするんだジョ」
そう、だったんだ……。
たったひとり、ここで生きてきた。
それはどんなに寂しかっただろう。
生まれながらにして、両親に捨てられて生きていくしかなかった。
それはどんなに苦しかっただろう。
私の胸に、冷たい風が吹き抜ける。
「怖くなんか、ないのに」
私がつぶやくと、マルンとモルンは言った。
「そうなんだジョ。僕たちも、大けがしている時に雷神様に助けられたんだジョ」
「それで居場所がない僕たちに言ったんだゾ。ここにいればいいって。雷神様は本当に優しい人なんだゾ」
嵐を抱いて生まれ、その力が強すぎるというだけで、誰にも寄り添われず、誰にも触れられず、ずっとひとりで、この雷鳴山にいたんだ。
「……知らなかった……」
ぽたり、と目から涙が流れる。
私はとっさに立ち上がった。
雷神様に伝えたい。
あなたが大切であるということ。
気づけば、足が勝手に動いていた。
神殿の廊下を駆ける。
風が髪をなびかせ、衣がひるがえる。
何も考えずに、とにかく探さなきゃ、と思った。
石の階段を上がり、回廊を渡り庭を横切る。
呼吸が荒くなっていくのも構わず、走り続けた。
どこにいるの……。
そして、神殿の外縁――白い石畳の角を曲がった、その瞬間。
「っ……!」
──ドンッ!!
なにか、硬いものに正面からぶつかった。
勢いのまま、身体がぐらりとよろめく。
そのまま転びかけた私の腕を、ごつごつとした大きな掌が、がっちりと掴んだ。
「……っ」
息を呑む。
視線を上げると、そこにいたのはライエン様だった。
肩で息をする私を見下ろすその顔は、驚いたような表情だった。
「どうした?」
掴まれた腕が熱い。
言葉が出ない。
気づけば私は、そのまま雷神様の胸に、ぎゅうっと抱きついた。
「美鈴……?」
「ライエン、さま……っ」
大きくて、温かい指先がそっと、私の頬に触れる。
「……なぜ、泣いているんだ?」
言葉が震える。
でも、伝えなきゃいけない。
今、ここで。
「あなたのことを……ひとりにはさせません。どれだけ強くても、どれだけ恐れられても……私はずっとそばにいます」
唇が熱くなるほど、必死に言葉をつないだ。
ふわりと風が吹いて、ふたりの間の距離を静かに包む。
すると雷神様はぎゅっと私のことを抱きしめた。
「キミは優しすぎる。人の孤独まで背負う必要はない」
「でも……っ」
「また間違えたかと思ったんだ」
「え?」
すると雷神様は私の耳元でそっとささやいた。
「相手がなにを思っているのか、なにを求めているのか……正直よく分からん。村を亡ぼせば、美鈴は笑顔になれると思った。でも……違った」
ライエン様の鼓動がドクン、ドクンと鳴っている。
温かくてちょっと切ない。
すると彼の親指が流れ落ちた涙を、やさしく拭い取るように目元をなぞった。
「マルンとモルンはおしゃべりだ。後で叱っておかなきゃいけない」
「……ダメですよ。可哀想です」
私はくすっと笑いながら言った。
すると雷神様はそっと私を引きはがしてから言う。
「……美鈴、これを持ってきた」
「え……?」
雷神様はそう言って、静かに袖の内側から、ひとつの小さな箱を取り出した。
掌にすっぽりと収まる、古風な桐箱。
表面には天界の紋が淡く浮かび、封じの印が刻まれていた。
彼は、それをそっと私に差し出した。
「村に戻り、拾い集めた。キミの……母君にまつわるものだ」
私はそっと箱を受け取る。
母の遺骨だ……。
荒らされたあのお墓にあったものを雷神様は拾い集めてくれていたんだ……。
「ここに作ろう。墓を」
雷神様の声は、穏やかでまっすぐだった。
「この天上に、お前の母君の眠る場所を。お前が会いたいとき、すぐに行けるように」
箱を胸に抱きしめた私は、堪えきれずに、静かに涙をこぼした。
「ライエン様……」
どうしてこの人はこんなにも優しいのだろう。
圧倒的な力を持ちながら、誰にも寄り添われず、孤独に生きてきたはずなのに。
それでもこうして、誰かのために動こうとしてくれる。
私の小さな痛みに耳を傾けてくれる。
私は、そっと胸に抱いた桐箱を見下ろす。
そこに、母の気配が確かに宿っている気がした。
「……ありがとう、ございます」
それからライエン様が母のお墓を立ててくれた。
天上の丘一面に草花が咲き誇るこの場所で、ようやく小さな祠がたった。
中には母の遺品……小さな鈴と、雷神様が拾ってくれた形見の欠片が祀られている。
そして私は、ゆっくりと膝をついた。
手を合わせる。
目を閉じると、懐かしい声が聞こえてきそうだった。
「……お母様。ここに、あなたの新しい眠る場所ができました」
雲の上にあるこの場所なら、誰にも汚されず、風と花と光に包まれて安らかにいられるだろう。
「わたしも……今は幸せに生きています」
風が優しく髪を揺らす。
まだまだ、泣いてばかりだけど……どうか……見守っていてくださいね。
祈る指先に、かすかな温もりを感じる。
それが風なのか、母の気配なのか――わからないけれど、胸がすうっとほどけていくのがわかった。
「……美鈴」
振り返ると、少し離れた場所に雷神様が立っていた。
いつものように感情の読みづらい顔。
けれど、その瞳の奥には、どこか柔らかいものが宿っていた。
「帰ろう。一緒に、食事でもしよう」
私は思わず目を見開いた。
「……はい」
笑みがこぼれる。
私は静かに立ち上がり、雷神様のもとへ歩み寄った。
ライエン様が、生きていく中で……もうひとりではないと実感できるといい。
共に生きる人がずっと側にいると証明出来るといい。
私はいつの間にか、ライエン様と共に生きて行きたいと思うようになっていた。
雲の向こうに沈みゆく光が、長い影をふたつ、やさしく並べていた。




