第9話「王手、詰み」
放課後の空気は湿っていた。梅雨の気配がじわりと忍び寄ってきている。
中間テスト直前。教室内は騒がしさを残しながら、少しずつ人が減っていく。
──将棋部の部室が荒らされた事件。
あれから数日が経ったが、状況は進展しないまま。
小田原は、まだ疑われたままだ。
駒の散乱、部誌の破損、施錠の形跡。
状況証拠は多いのに、決定打に欠ける。誰も確信を持てず、話題は風化しつつある。
でも──俺は、見過ごせなかった。
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帰り支度をしていると、ふと鎌倉が声をかけてきた。
「ねえ、逗子くん。あのさ、この前の事件のことだけど……」
「うん?」
「この間、小田原くんがテスト勉強で図書室にいたとき……誰かに見られてた、って言ってたの」
「誰に?」
「たぶん演劇部の……湯河原くん。私、そのときも近くにいて、感じたの。なんていうか──ずっと誰かを探してるみたいな目をしてた」
その瞬間、頭の中でパズルのピースがはまった。
──図書室、将棋部、小田原、湯河原、鎌倉。
そこに、ひとつの線が引かれた。
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その夜、俺はメモを広げて検証した。
・事件当日、部誌は特定のページが破られていた
・将棋の駒の中に、学校備品ではない「筆書体」の飛車が混じっていた
・湯河原は演劇部所属。だが、将棋部の動きに詳しかった
・彼は入学直後、SNS上で鎌倉にDMを送ったという噂がある
だとすれば──
彼は、鎌倉に好意を抱いていた。しかし、彼女と小田原が仲良くしている場面を見て、何か誤解した。
その結果、小田原や将棋部への“見せしめ”として部室を荒らした。
──あり得る。
でも、それだけでは動機として弱い。
本人に確認するしかない。
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翌日、放課後。
俺は、湯河原に声をかけた。
「ちょっと話せるか」
「……なんで俺?」
最初から警戒心を見せていた。だが、その態度が逆に核心を突いている証拠に見えた。
「将棋部の部室の件。君があの駒を置いたって、もう分かってる」
「……は?」
「学校の将棋駒はすべて楷書体。だけど、事件の日に散らばってた中に、筆書体の駒が一つだけ混じってた。あれ、通販の安価なセットでしか見かけないやつ」
「……偶然じゃないの?」
「偶然、そんな駒を将棋部の部室で使うか? そもそも、あれは部室にあった駒じゃない」
湯河原の視線が一瞬だけ泳ぐ。
「図書室で小田原を見張ってたよな? その日、彼が参考書を取るふりして席を立った時間と、事件が起きた時間、完全に一致してる」
「……ふざけんな。証拠、あんのかよ」
声が上ずっている。だが、認める気配はない。
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俺は、一歩前に出る。
「君があの駒を用意した理由、分かる気がする」
「……何が分かるってんだよ」
「たぶん、鎌倉のことだろ。入学してすぐ、彼女に近づこうとした。でも、小田原が先に仲よくなった。だから、小田原に対して“彼女の前から消えてほしい”と思った」
「……勝手に決めつけるな!」
湯河原が声を荒らげた。
「俺は、ただ見てただけだ! 向こうが勝手にくっついただけで……!」
「じゃあ、なんであの日、将棋部の棚を漁った? なんで駒をバラまいた? なぜ部誌を破った?」
「……っ……」
「見られてないと思ったんだろ。でも、ちゃんと目撃者がいた。図書室で小田原を見つめてた“君”を見た人がいる」
湯河原は口を噤んだ。拳をぎゅっと握りしめる。
数秒の沈黙のあと、低い声が漏れた。
「……俺なんか、初めから必要なかったんだよ……」
その言葉には、怒りよりも寂しさが滲んでいた。
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「彼女と話したかった。でも、タイミングを逃した。そのうち、小田原が彼女と仲よくなっていった」
「……見てるしかなかった。話しかけたら変に思われそうで。嫌われるのが怖かった」
「じゃあ壊したのか?」
「違う! ただ……俺のこと、見てほしかっただけだ!」
湯河原の目が潤んでいた。
見せたくない感情が、怒りに変わって溢れ出す。
「いいよな、お前らは。ふつうに友達がいて、誰かと話せて、将棋部とか入って、居場所があって……!」
「俺も、そんなに器用じゃない。人と話すの、実は苦手だ」
俺は静かに返す。
「でもな──“壊す”ことでしか自分を示せないなら、それはただの後退だ。お前は、間違った手を打った。詰み筋から、自分で逃げたんだ」
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湯河原は、肩を震わせながら立ち尽くしていた。
長い沈黙のあと──ようやく、彼は絞り出すように言った。
「……ごめん」
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後日、湯河原は自ら学校に報告した。
将棋部への謝罪、小田原への謝罪も行われ、事態は円満に収まった。
湯河原は、しばらくの間、部活も休んだが、その後、静かに演劇部に復帰したと聞いた。
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事件の数日後、放課後の教室で鎌倉に声をかけた。
「えっとさ、事件のとき、助けてくれたし……」
「ん?」
「お礼っていうか……その……戸塚の方に、ケーキ美味しいカフェがあるんだけど……」
「ふふ。誘ってる?」
「ち、違……いや、違くはない……かも……」
どんどん語尾がしぼんでいく。自分でも情けないくらい情けなかった。
でも、鎌倉はそんな俺を見て、やわらかく笑った。
「行くよ。ケーキ、楽しみにしてるね」
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カフェの帰り道、鎌倉がぽつりと呟いた。
「逗子くんって、不器用だけど……大事なところでは、ちゃんと手を打つよね」
俺はそれにどう返せばいいか分からず、ただ少し、胸の奥があたたかくなるのを感じていた。