第5話「誰よりも静かな声で」
白いメモの真相
放課後の教室は、空っぽのようで、まだ残っている。
誰もいないはずなのに、空気にわずかに“緊張の残り香”がある。
椅子の脚の角度、カーテンの揺れ方、誰かの気配が途切れたあとの静寂。
そういうものから、人の気持ちは漏れ出る。
あのメモ──白い紙に、たった一文。
> 「きみの笑顔が、誰かを救ってる。気づいてる?」
鎌倉ほのか宛のように見せかけたそれは、たしかに彼女に向けた言葉だった。
けれど、そこに乗っていた感情は──第三者の視点だった。
つまり、「観察している人間の言葉」。
俺は、その観察の質を、俺自身の観察で暴こうとしていた。
⸻
まず、あの紙には癖がある。
使われたのは市販のルーズリーフ。角の丸まり方から判断して、古いノートから切り離したもの。
筆跡は極端に細く、筆圧が弱い。カーブは右上がり。文字の大きさが不均等。
これは“人に見られる前提”ではなく、自分の中だけで完結している文字だ。
次に、配置。
メモはほのかの机の中央、消しゴムの真横に差し込まれていた。
彼女の登校タイミング、持ち物の配置を知っていなければ、そこに正確に置くことはできない。
つまり──彼女の行動パターンを熟知している人物。
ここまでで、対象は女子、観察癖あり、視線の管理が上手く、目立たない人。
そして、クラス内で唯一それを可能にしているのは──
放課後、俺は昇降口で待った。
やって来たのは、窓際の一番後ろの席の女子だった。
ボブカットに黒縁メガネ。目立たない。けれど、気配の処理が異常にうまい。
「ちょっといい?」
彼女が通り過ぎようとした瞬間、声をかけた。
「……え?」
彼女の目が少し揺れた。反射的に首をすくめる仕草。
それが“普段、人から話しかけられない人間の反応”だということはすぐわかった。
俺はまっすぐに彼女を見た。
「メモ、君が書いたよね」
数秒の沈黙のあと、彼女の肩が微かに震えた。
でもすぐに、口角を上げた。笑ってはいない。防御の表情だ。
「……は? なんで、あたしって思うわけ?」
その言い方もまた、“本当の自分を隠そうとする声”だった。
「根拠はある」
俺は静かに言った。
⸻
「まず、あの筆跡。女子のもの。筆圧の弱さとカーブのくせが典型的」
「紙は古いノートから切ったルーズリーフ。君は数日前、使い終わったノートを授業中にちぎってた。覚えてる」
「……」
彼女は口をつぐんだ。
「そして、視線の癖。
君は、周囲の人間にほとんど目を合わせない。
でも、俺がノートに視線を落とした瞬間、わずかに体の緊張が抜ける。
それを三回見た」
「……そんなの、誰でもある」
「ある。でも、君のは“隠そうとしている側の視線”だった」
「……あたしじゃないって言ったら?」
「言わない」
「は?」
「言わない。君は“自分が観察していたこと”をバラされるのを恐れてる。
でも、それを“誰かに知ってほしかった”から、あのメモを書いた」
彼女の顔が強張った。
メガネの奥の瞳が揺れる。
「……なんで……そんなこと、わかんの……?」
「俺も観察者だから」
静かに言った。
⸻
彼女は壁にもたれ、視線を床に落とした。
その肩が、ほんの少しだけ力を抜いた。
「……あたしさ、目立たないでいようって思ってたんだよ。
中学のとき、ちょっと成績良かっただけで『あいつ空気読まない』って言われてさ。
だから、高校ではさ、メガネして、髪も暗めにして、なるべく無口で──」
「でも、俺は気づいた」
彼女が一瞬だけ顔を上げた。
「君は、“俺を見てた”だけじゃない。
“俺が見る目”を、見てた。
観察者を、観察してた」
その瞬間、彼女の瞳が、わずかに潤んだように見えた。
けれど、すぐに鋭く反応が返ってくる。
「……変態じゃん、あんた」
「たしかに」
「うわ、肯定すんなよ」
「でも、君もだよ」
数秒の沈黙のあと、彼女は「ちっ」と舌を鳴らして、笑った。
⸻
その帰り道、俺は思った。
観察者同士は、視線ではなく“違和感”で繋がる。
名乗らず、語らず、ただ静かに“見ている”。
それでも、たしかにそこに「つながり」は生まれていた。
そして、俺はようやく──
“観察される側の感情”を、少しだけ理解し始めていた。
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