第45話「夏の合図」
五月の連休が過ぎ去り、梅雨の気配が近づく頃には、一学期の期末テストの足音がひたひたと迫っていた。湘陽高校2年A組の面々も、さすがに遊び惚けてばかりはいられず、授業中も休み時間も、どこかしら参考書やノートを広げる姿が見受けられるようになった。
俺――逗子悠人にとっては、勉強というのは「神」としての役割を果たす上で、ある意味、不可欠な要素だ。知的好奇心を満たすだけでなく、いざという時に役立つ知識として蓄えておく必要がある。だから、テスト勉強も手を抜くつもりはない。
昼休み、いつものように屋上でランチを広げていると、鎌倉ほのかが、おずおずといった様子で口を開いた。
「ねえ、逗子くん……あの、期末テストに向けて、みんなで一緒に勉強しない?」
彼女はちらりと茅ヶ崎リオの顔を見たが、リオはパンを頬張りながらスマホに夢中で、全く気づいていないようだった。小田原朝陽と厚木凛も、それぞれ自分の弁当に集中している。
鎌倉の提案は、俺にとっても渡りに船だった。一人で黙々とやるよりも、誰かと教え合ったり、問題を出し合ったりする方が効率が良いこともある。それに、みんなでやる、という状況なら、余計な詮索もされないだろう。
「いいな、それ。いつにする?」
俺がそう答えると、鎌倉の表情がパッと明るくなった。
「じゃあ、今度の土曜日とかどうかな? 図書館とか、カフェとか……」
鎌倉が具体的な場所を提案しようとした、その時だった。
「えー! みんなでやるの!? やだー、絶対集中できないし!」
それまでスマホを見ていたはずの茅ヶ崎リオが、突然顔を上げて、大げさに声を上げた。その声に、鎌倉はピクリと肩を震わせた。
「だったらさ、逗子くん! 私と二人で勉強しない!? 私、数学とかマジでやばいから、逗子くんに教えてほしいんだよねー!」
リオは、真っ直ぐに俺の目を見つめ、上目遣いでそう言った。その瞳には、悪意など微塵もない、ただ純粋な、そしてどこか無邪気な期待が宿っていた。
鎌倉の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。彼女は、ぎゅっと唇を噛み締め、俯いてしまった。
俺は、一瞬言葉に詰まった。鎌倉の誘いを遮って、リオが直接俺に誘いをかけてきた形になった。断る理由はない。だが、この場の空気は、明らかにギクシャクしている。
「あー……別に、いいけど。俺でよければ」
俺がそう言うと、リオは「やったー!」と歓声を上げた。
「じゃあ、今度の土曜日、放課後、うちに来ない!? 私の部屋でなら、邪魔も入らないし、とことん教えてもらえるでしょ?」
リオの言葉に、鎌倉の肩がさらに小さくなった。厚木は、この状況を静かに見守っていたが、その表情には、どこか呆れと、そして少しの同情が浮かんでいるようにも見えた。小田原は、相変わらず空気を読まない男なので、何も気づいていないようだった。
「わかった。じゃあ、今度の土曜日、放課後で」
俺がそう言うと、リオは満面の笑みを浮かべた。
「やったー! 逗子くん、マジ感謝! じゃあ、メッセージツールで詳しい時間とか連絡するね!」
リオは、そのまま鼻歌を歌いながら、スマホを操作し始めた。
鎌倉は、俯いたまま、何も言わなかった。彼女の周りだけ、冷たい空気が漂っているように感じた。俺は、何とも言えない居心地の悪さを感じていた。
週末の土曜日。放課後、俺は茅ヶ崎リオの家に向かっていた。彼女の家は、駅から少し離れた閑静な住宅街にあった。
「いらっしゃーい! 逗子くん、よく来てくれたね!」
リオは、玄関で満面の笑顔で俺を迎えた。彼女は、いつも学校で見せる派手な制服姿とは違い、薄手のTシャツにショートパンツという、ラフな格好だった。その健康的で飾らない姿に、少しドキッとした。
通されたのは、彼女の部屋だった。意外なほどに整理整頓されていて、可愛らしい小物が並んでいる。壁にはアイドルのポスターが貼られ、机の上には、数学の教科書と問題集が広げられていた。
「さ、逗子くん、遠慮なく座って! 何か飲む? ジュースとかお茶とかあるよ?」
リオが、ニコニコしながら尋ねる。
「じゃあ、お茶で」
俺が答えると、リオはすぐに冷蔵庫から冷たい麦茶を持ってきてくれた。
「それで、数学、どこが分からないんだ?」
俺が尋ねると、リオは困ったように頬をかいた。
「えっとねー、もう全部! 特に二次関数とか、全然わかんないんだよねー」
彼女は、指で教科書のあるページを指した。基礎的な部分からつまずいているようだった。
俺は、まず教科書の基本的な概念から丁寧に説明していった。リオは、真剣な表情で俺の言葉に耳を傾け、時折、大きな目で俺を見上げて頷いた。分からないところがあれば、すぐに質問し、理解すると「なるほどー!」と声を上げる。その素直な反応は、教える側としても心地よかった。
時間が経つにつれて、部屋の中は、俺たちの声と、シャーペンが紙を擦る音だけが響くようになった。窓から差し込む夕日が、部屋をオレンジ色に染めていく。
「ここ、こうやってグラフ書くと、視覚的にわかりやすいだろ?」
俺は、問題集の余白にグラフを描きながら説明した。リオは、俺の隣に身を乗り出して、熱心にそれを見ていた。その時、彼女の長い髪が、ふわりと俺の腕に触れた。かすかに甘いシャンプーの香りが漂ってくる。
その瞬間、俺の心臓が、わずかに跳ねた。
リオは、それに気づいた様子もなく、集中した表情で俺の手元を見つめていた。
「わかった! そういうことかー! 逗子くん、マジ天才!」
リオが、屈託のない笑顔で言った。その笑顔は、あまりにも純粋で、俺は、またドキッとした。
「いや、そんなことない」
俺は、少し照れながら答えた。
「だって、逗子くんの説明、めっちゃ分かりやすいもん! 学校の先生より全然!」
リオは、本気でそう思っているようだった。その言葉に、俺の心は、少しだけ満たされたような気がした。
「よし、じゃあ、この問題解いてみろ」
俺は、新しい問題を指差した。リオは、真剣な表情でシャーペンを握り、問題を解き始めた。彼女の横顔を、俺はぼんやりと見ていた。
茅ヶ崎リオ。いつも明るく、クラスのムードメーカー。高円寺とも気兼ねなく話す、いわゆる陽キャだ。そんな彼女が、今、俺の隣で、真剣な表情で勉強している。普段の彼女とは違う一面に、俺は少し戸惑いを感じていた。
そして、脳裏に、鎌倉の俯いた顔がよぎった。
あの時、鎌倉は、何を思っていたのだろうか。俺は、気づかないふりをしていたが、彼女が俺に、何かしらの特別な感情を抱いていることは、薄々感じていた。だが、俺は、それをどう受け止めていいのか分からなかった。
そんな複雑な感情が入り混じる中、リオが突然、顔を上げた。
「逗子くん、できた!」
彼女は、自信満々の顔で、俺に問題集を見せた。見ると、完璧に解答できていた。
「すごいな。ちゃんと理解してるじゃないか」
俺が褒めると、リオは嬉しそうに笑った。
「これも逗子くんのおかげだよ! 逗子くんがいなかったら、私、絶対赤点だったわー!」
リオは、俺に身を乗り出すようにして、満面の笑みを向けた。その距離は、普段の俺たちからは考えられないほど近かった。彼女の吐息が、俺の頬にかかる。
俺の心臓が、再び大きく跳ねた。
その時、リオがふと、俺の顔を覗き込むようにして言った。
「ねえ、逗子くんってさ……なんか、他の男子と違うよね」
その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
「何がだよ?」
「なんていうか……落ち着いてるし、頭良いし、でも、なんか掴みどころがないっていうか。ミステリアスな感じ?」
リオは、いたずらっぽく笑った。その笑顔は、まるで俺の心を覗いているかのようだった。
「別に、普通だろ」
俺は、そう返すのが精一杯だった。
「そんなことないよー。なんか、逗子くんって、秘密がいっぱいありそう。もしかして、彼女とかいる?」
突然の質問に、俺は動揺した。
「い、いるわけないだろ」
俺は、どもりながら答えた。正直、リオとの距離が近すぎて、冷静な判断ができなかった。
「ふーん? じゃあ、好きな子とかは?」
リオは、さらに踏み込んできた。その視線は、真っ直ぐに俺の目を見つめている。
俺は、思わず視線を逸らした。この質問に、どう答えるべきなのか。
その時、リオが、ゆっくりと俺の顔に近づいてきた。その距離は、さらに縮まり、俺は、彼女のまつ毛の一本一本まで見えるほどだった。
「ねえ、逗子くん……」
リオの声は、ひそやかで、甘く、そして、俺の鼓膜を震わせた。
俺の心臓は、激しく鼓動していた。まるで、今にも破裂しそうなほどに。
この瞬間、俺と茅ヶ崎リオの間には、ただのクラスメイトという関係では説明できない、何か特別な感情が芽生え始めているのを感じた。
茅ヶ崎リオの部屋での出来事は、俺の心に、これまでとは違う波紋を広げた。あの日のリオの言葉、そして彼女との距離感は、俺の「神」としての冷静さを少しだけ揺さぶった。恋愛感情という、これまで意識して避けてきた領域に、足を踏み入れてしまったような、そんな感覚だった。
期末テストは、その後、無事に終わった。俺は、いつも通り好成績を収めたが、どこか心が浮ついていた。試験中に、ふとリオの顔が頭をよぎったり、休み時間に彼女と目が合うと、ドキリと心臓が跳ねたりするようになったのだ。
一方で、鎌倉ほのかとの間には、目に見えない溝ができてしまったように感じた。彼女は、あの日の屋上での一件以来、俺に話しかける回数が明らかに減った。俺がリオと話していると、すぐに視線を逸らしたり、その場から離れたりする。俺は、鎌倉のそんな態度に、どう接していいか分からず、結局、何も言えずにいた。
放課後、俺は図書館で次の課題の資料を漁っていた。隣の席に座った厚木凛が、静かに声をかけてきた。
「逗子くん、最近、茅ヶ崎さんとよく話してるわね」
彼女は、推理小説を読みながら、サラリとそう言った。その声には、何の感情も含まれていないように聞こえたが、俺は内心、ギクリとした。
「ああ、まあ……テスト勉強でな」
俺は、言葉を選びながら答えた。
「そう。でも、鎌倉さんは、少し元気がないように見えるわ」
厚木は、眼鏡の奥の目を俺に向けた。その視線は、まるで俺の心の奥底を見透かすかのようだった。
「そうか……?」
俺は、とぼけたふりをした。厚木は、別に問い詰めるような口調ではなかったが、俺の内心を見抜いているのは明らかだった。
「逗子くんは、誰かと深く関わることを避けているように見える時がある。でも、人は、一人で生きていけるわけじゃない。時には、感情を共有することも必要よ」
厚木の言葉は、いつも的確で、核心を突いていた。彼女は、俺の「神」としての性質を理解しつつも、人間としての俺の感情にも寄り添おうとしてくれているようだった。
「お前には、全部お見通しってわけか」
俺は、苦笑いしながら言った。
「そうね。人の感情の機微を読み取るのは、私の得意分野だもの」
厚木は、いつものクールな表情でそう言って、再び本に目を落とした。
厚木の言葉は、俺の胸に重く響いた。俺は、これまで、自分の感情を理性でコントロールし、他者との間に一定の距離を置いて生きてきた。それが、俺にとっての「神」としての在り方だと信じていた。だが、茅ヶ崎リオとの触れ合い、そして鎌倉ほのかのサイレントな態度が、その俺の信念を揺るがし始めていた。
期末テストの成績発表の日。クラス中に歓声とため息が入り混じる中、俺は自分の成績を確認した。もちろん、今回も完璧だった。
「逗子くん、マジでありがとう! 私、数学、過去最高点だよ!」
茅ヶ崎リオが、弾けるような笑顔で俺に駆け寄ってきた。彼女の目は、本当に嬉しそうで、その笑顔は、俺の心に温かいものを灯した。
「まあ、よかったな」
俺は、照れ隠しにそう言った。
「うん! これも逗子くんのおかげだよ! お礼に、なんかおごるね!」
リオは、そう言って、俺の腕を掴もうとした。その時、彼女の背後で、鎌倉ほのかが、無言で通り過ぎていくのが見えた。鎌倉は、一度も俺たちの方を見ようとしなかった。その背中は、どこか寂しげに見えた。
リオは、鎌倉の存在に気づいていないようだった。彼女は、俺の顔を覗き込み、キラキラとした目で言った。
「ねえ、逗子くん。夏休み、もしよかったら、また勉強教えてくれないかな? もちろん、お礼はちゃんと、ね!」
リオは、いたずらっぽくウインクした。その仕草に、俺の心臓は再び跳ねた。
「夏休みか……」
俺は、少し考え込んだ。夏休みは、俺にとって、また新たな「事件」が訪れるかもしれない期間だ。だが、リオの純粋な誘いを断るのも気が引ける。
「いいよ。俺でよければ」
俺がそう答えると、リオは「やったー!」と小さくガッツポーズをした。その笑顔は、本当に可愛らしくて、俺は、少しだけ頬が緩むのを感じた。
しかし、その喜びと同時に、鎌倉の寂しげな背中が、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
一学期が終わり、夏休みが始まる。俺の周りの人間関係は、少しずつ変化している。茅ヶ崎リオとの距離が縮まり、鎌倉ほのかとの距離は、広がっている。
俺は、この関係の変化に、どう向き合えばいいのか。
「神」として、常に冷静で客観的であるべきだと思っていた俺の中に、人間らしい感情が芽生え始めている。それは、時に心地よく、時に戸惑いを覚えさせるものだった。
夏休みの始まりは、新たな事件だけでなく、俺自身の心の変化も予感させていた。




