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第43話「戸塚とモールと厚木凛」

桜の花びらが散り、五月の眩しい陽光が降り注ぐゴールデンウィークが目前に迫っていた。湘陽高校2年A組は、高円寺隼人の陽のオーラと、俺――逗子悠人の「神」としての存在感が奇妙に共存する、ある種の安定期に入っていた。高円寺は、あの食堂での一件以来、俺に対して直接的な挑発は控えるようになったが、相変わらずクラスの中心にいて、俺を「地味な存在」として認識していることに変わりはないようだった。それはそれで、ある意味健全だった。


「なあ、みんな! GWどうするよ? せっかくだし、どっか遊び行かねえ?」


昼休み、小田原朝陽がいつものように声を弾ませた。俺たち5人は全員横浜市在住。通学している湘陽高校も横浜市にある。遠出するほどの予算もないし、人混みも避けたい。そんな思惑が一致し、結局、俺たちの地元である戸塚の大型ショッピングモール、「テラスモール戸塚」で遊ぶことになった。


「テラスモールなら、映画も観れるし、美味しいものも食べれるし、一日中楽しめるね!」


鎌倉ほのかが目を輝かせ、茅ヶ崎リオも「行く行くー!」と即座に反応する。厚木凛は、いつものように冷静な表情で頷いた。厚木は、新しい推理小説のシリーズが出るとかで、モールの本屋を楽しみしているようだった。


「よし、それじゃあGW初日はテラスモール戸塚で集合な! 映画の時間とかは俺が調べて連絡するから!」


小田原が勢いよく立ち上がった。彼の行動力にはいつも感心する。かくして、俺たち5人のGWテラスモール戸塚での集合が決定した。


GW初日。天気は快晴。俺たちは、朝10時にテラスモール戸塚の広場で集合した。休日ということもあり、モールには家族連れやカップル、学生などでごった返していた。


「うわー、すごい人だね!」


リオが人混みに少し驚いたように声を上げた。


「これじゃあ、どこに行っても並ぶことになりそうだね」


鎌倉が少し困った顔で笑った。


まずは、小田原が事前に予約してくれた映画を観るため、シネマコンプレックスへ向かった。上映開始まで時間があったので、隣接するゲームセンターで時間を潰すことになった。


ゲームセンターは、休日ということもあり、子供から大人まで多くの人で賑わっていた。UFOキャッチャーの景品を狙うカップル、対戦格闘ゲームに熱中する若者たち。そんな喧騒の中、俺はふと、視線を感じた。


「なあ、鎌倉。何か変な感じがしないか?」


俺が隣にいた鎌倉に囁いた。


鎌倉は、少しきょとんとした顔で周囲を見回した。


「え? 変な感じって……特に何も。人混みがすごいからかしら?」


鎌倉は、感覚が鈍いタイプだった。だが、俺は確かに、誰かに見られているような、奇妙な視線を感じていた。


映画を観終わり、昼食はモールのフードコートで済ませた。午後は、各自好きなように過ごすことになった。小田原とリオは洋服店へ、厚木は本屋へ、そして鎌倉は雑貨店へ向かった。俺は、特に目的もなかったので、厚木と一緒に本屋へ行くことにした。


本屋は、多くの人で賑わっていた。厚木は、推理小説のコーナーへ真っ直ぐに向かい、新刊を手に取って熱心に読み始めた。俺は、その横で雑誌を立ち読みしていた。


その時、厚木が突然、小さく声を上げた。


「……っ」


俺は厚木を見た。彼女は、何かを警戒するように、顔を俯かせ、手にした本で顔を隠すような仕草をした。


「どうした、厚木?」


俺が小声で尋ねると、厚木は俺の耳元に口を寄せた。


「さっきの……視線を感じる。それに、何か……消毒液のような、ツンとする匂いがする」


消毒液のような匂い? 俺は鼻を鳴らしてみたが、特に変な匂いは感じない。多くの人がいる場所だ。様々な匂いが入り混じっているのだろう。


「気のせいじゃないか?」


「いいえ。この匂い、以前どこかで嗅いだことがあるような……」


厚木は、眼鏡の奥の目を細め、周囲を見回した。俺も、厚木に言われるまま、周囲の客の顔を観察した。


その中に、通路を挟んだ向こう側の棚に立つ、一人の女が目に入った。年齢は30代半ばくらいだろうか。黒いシンプルなワンピースを着て、ストールで顔の一部を隠している。手に文庫本を数冊抱えているが、その視線は、熱心に本を読んでいる厚木の方を向いているように見えた。


女は、俺と目が合うと、すぐに視線を逸らし、足早に本屋を出て行った。


「今の女……」


俺は、思わず呟いた。


「あの女よ……あの人から、視線とあの変な匂いを感じたわ」


厚木が、震える声で言った。


俺は、一抹の不安を覚えた。厚木の異常な感覚は、過去の事件でも常に正確だった。


「大丈夫か、厚木。もう行ったぞ」


俺は厚木の肩に手を置いた。厚木は、ゆっくりと息を吐いた。


俺たちは、その後も本屋にいたが、特に変わったことは起こらなかった。やがて、小田原たちから連絡が入り、モールのフードコートで夕食を食べるために合流することになった。


夕食を終え、解散する前に、俺たちはモールの出入り口で記念写真を撮ることにした。小田原が自撮り棒を伸ばし、みんなで笑顔を向けた。


その時、背後から、不意に強い衝撃が走った。


「うわっ!」


俺はバランスを崩し、大きくよろめいた。何かが俺の腕にぶつかり、地面に落ちた。それは、厚木の持っていたスマートフォンだった。画面が粉々に割れている。


振り返ると、そこに立っていたのは、数時間前、本屋で俺たちが視線を感じたストールで顔を隠した女だった。女は、何かを拾い上げるように屈んだかと思うと、一目散に人混みの中へと消えていった。


「な、なんだ今の!?」


小田原が驚いた声を上げた。


「厚木のスマホが!」


リオが、地面に落ちた厚木のスマホを見て叫んだ。


厚木は、その場に立ち尽くしていた。その顔は真っ青で、震えている。


「あの女……」


厚木が、絞り出すような声で呟いた。


「大丈夫か、厚木! 怪我はないか!?」


鎌倉が厚木に駆け寄った。


「うん……大丈夫。でも……」


厚木は、顔を上げて、俺の目を見た。その瞳には、恐怖と、そして何かを悟ったような、深い感情が浮かんでいた。


「あの女……私のスマホを拾おうとしてたんじゃない。あれは……何かを、スマホの近くに置いていったんだわ」


厚木の言葉に、俺はハッとした。確かに、女はスマホを拾うような動作をした後、すぐに立ち去った。だが、なぜ?


俺は、割れたスマホの周りをよく見た。すると、スマホのすぐ横に、小さなプラスチック片が落ちているのを見つけた。それは、まるで使い捨ての医療用手袋の切れ端のような、薄くて透明なプラスチック片だった。そして、そのプラスチック片からは、かすかに、あの「消毒液のようなツンとする匂い」がした。


「これだ……」


俺は、そのプラスチック片を拾い上げた。その時、俺の脳裏に、厚木が言っていた言葉がよぎった。


「誰かに見られているような……」

「消毒液のような、ツンとする匂い……」


これは、ただの偶然ではない。あの女は、最初から俺たち、あるいは厚木を狙っていた。そして、このプラスチック片を、わざと厚木のスマホの近くに落としていった。


目的は何だ? なぜ、こんな回りくどい方法で?


GWの楽しい一日だったはずが、一瞬にして不穏な空気に包まれた。俺は、この小さなプラスチック片が、今回の事件の始まりを告げる、不吉な予兆であるような気がしてならなかった。


翌朝。俺たちは、昨日の一件が気になり、再び集まっていた。厚木のスマホは、画面が割れて操作不能になっていたが、幸いにもデータは無事だった。


「昨日の女、一体何が目的だったんだ?」


小田原が、腕を組みながら言った。


「ただの嫌がらせにしては、不気味すぎる。それに、あのプラスチック片と匂い……」


鎌倉が、不安そうにスマホに落ちていたプラスチック片を見つめた。


「厚木、あの匂い、本当に以前嗅いだことあるのか?」


俺が厚木に尋ねると、厚木は眉根を寄せ、何かを思い出すように沈黙した。


「ええ……確かに、以前どこかで。でも、それがどこだったのか、どうしても思い出せないんです……」


厚木は、記憶を辿るように目を閉じた。彼女の感覚は鋭いが、時に具体的な情報に結びつけるのが難しいことがある。


「何か、手掛かりはないのか?」


リオが、厚木の壊れたスマホを覗き込んだ。


「割れた画面の隙間に、何か挟まっているような気がする……」


厚木が、震える指先でスマホの画面を指差した。


俺は、ピンセットで慎重に紙片を取り出した。それは、一見するとただの小さな紙切れに見えたが、表面をよく見ると、非常に精密な印刷が施されているのがわかった。それは、まるで古い医療カルテの一部のようだった。そして、その紙片からも、あの消毒液のような匂いがかすかにした。


「医療カルテ……それに、この匂い」


俺は、その紙片をじっと見つめた。この情報と、厚木の「匂いの記憶」を結びつけることができれば、何かがわかるはずだ。


「厚木、このカルテの切れ端と、お前が言ってた匂いのこと。もう少し詳しく教えてくれないか?」


俺が厚木に尋ねると、厚木は目を閉じたまま、ゆっくりと話し始めた。


「消毒液のような匂いは、去年の夏、親戚のおばさんが入院していた病院の廊下で嗅いだ匂いに似ています。カルテの切れ端は、その病院のロゴマークの一部のように見えますし、書体も同じです。そして、おばさんは、数ヶ月前に亡くなりました……」


厚木の言葉に、俺の頭の中で情報が整理されていく。


病院のカルテ。消毒液の匂い。医療用手袋の切れ端。そして、厚木の親戚のおばさんの死。全てが医療関係に繋がり、そして、その背景には何らかの不穏な事実が隠されている可能性があった。


そして、そこに**「Y.I.」**というイニシャルが加わる。


「Y.I.……横浜市内の総合病院。厚木の親戚のおばさんが入院していた病院の関係者の中に、『Y.I.』という人物はいたか?」


俺は、厚木に尋ねた。厚木は、考え込むように黙り込んだ。


「いたわ……! 親戚のおばさんの担当看護師で、**伊勢山祐子いせやまゆうこ**先生……」


厚木の声は、どこか不安げだった。彼女は、信頼していた看護師の名前を挙げることに、抵抗があるようだった。


「伊勢山祐子……」


俺は、その名前を反芻した。もし、彼女が犯人だとしたら、なぜ厚木を狙うのか? そして、なぜ、こんな回りくどい方法でメッセージを送ってくるのか?


「ちょっと待っててくれ、厚木。この件について、もう少し調べてみる」


俺はそう言って、皆に指示を出そうとした。その時だった。


「っ……!」


厚木が、突然、苦しそうにうめき声を上げた。彼女は、頭を抱え、その場にうずくまってしまった。


「厚木! どうした!?」


鎌倉が、慌てて厚木に駆け寄った。


「頭が……! 変な音が、する……!」


厚木は、錯乱したように叫んだ。その言葉に、俺は嫌な予感がした。


俺は、急いで厚木の様子を観察した。彼女の瞳は焦点が定まらず、呼吸は乱れている。まるで、何かに操られているかのように、体が小刻みに震えている。


「これは……!?」


俺が異変に気づいた、その瞬間だった。


部屋の窓が、突然、外側から激しく叩かれた。


「何だ!?」


小田原が、驚いて窓の方を見た。窓の外には、暗闇の中に、ストールで顔を隠した女の姿が、一瞬だけ見えた。


次の瞬間、窓ガラスが粉々に砕け散り、部屋の中に、強い風と、甘いような、それでいてどこか痺れるような、奇妙な香りが流れ込んできた。


「みんな、息を止めて!」


俺は、直感的にそう叫んだ。しかし、時すでに遅し。


厚木は、その香りを吸い込んだ途端、目を閉じて意識を失った。


「厚木!」


鎌倉が厚木に駆け寄った。しかし、厚木は、まるで人形のように、その場に倒れ込んだまま動かない。


そして、窓から侵入してきた女は、素早く厚木の腕を掴み、引きずるように暗闇の中へと消えていった。


「厚木! 厚木!」


小田原が、叫びながら窓の外に飛び出そうとしたが、俺がそれを止めた。


「待て! 無闇に追いかけるな! あの女は、何かを仕組んでいた!」


俺は、砕け散った窓ガラスの破片と、部屋に漂う奇妙な香りに視線を向けた。これは、誘拐だ。しかも、周到に計画された、目的のある誘拐。


俺たちは、呆然と、厚木が消えた窓を見つめるしかなかった。GW初日、戸塚のモールで始まった不穏な出来事は、最悪の形で現実となった。

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