第39話「二年生〜プロローグ」
真新しい教科書の匂いが、教室を満たしていた。始業式の独特なざわめきの中、俺、逗子悠人は、わずかな緊張と、それ以上の安堵を感じていた。
「おい、逗子! マジかよ、また一緒のクラスじゃん!」
背後から陽気な声が飛んできた。振り返ると、そこには屈託のない笑顔の小田原朝陽がいた。その隣には、控えめながらも嬉しそうに微笑む鎌倉ほのか。そして、すでに席に座ってスマホを弄りながらも、ちらりとこちらに視線を寄こす厚木凛。さらに、少し離れた場所に、目を輝かせてこちらを見ている茅ヶ崎リオの姿もあった。
「ほんとだ、よかったな、小田原」
俺は素直にそう答えた。1年生の間に、俺たちは様々なトラブルを乗り越え、いつの間にか固い絆で結ばれていた。特に俺にとっては、この四人がいることが何よりの安心材料だった。
去年の俺は、まさしく「空気」だった。クラスの端っこで、誰にも認識されないまま一年を終えるはずだった。それが、ひょんなことから学園のトラブルを解決する羽目になり、いつの間にか「神」と呼ばれるまでになった。もちろん、俺自身はそんな大それた存在だとは微塵も思っていない。ただ、ちょっとだけ周りの人間関係が、線と線で繋がって見えるだけだ。そして、その線が絡まったら、どう解けばいいか、なんとなくわかる。それだけだ。
だが、周りの評価は違った。「神」「軍師」「解決屋」。そんな仰々しいあだ名を付けられ、特に1年生の終わり頃には、俺が教室にいるだけで「なんか困りごとない?」と視線が集まるほどだった。それでも、俺は俺。平凡な外見、地味な存在感は変わらない。そう、思っていた。
新しい教室は、どこか浮足立っていた。クラス替え特有の高揚感と、少しの不安が入り混じった空気が漂う。俺たちは、自然と教室の隅の方に固まって座った。小田原が早速、周りの奴らに話しかけている。鎌倉は窓の外を眺めながら、時折不安げに友人の顔を見ている。厚木は難しい顔で配布されたばかりの時間割を凝視し、リオは新しいクラスメイトを興味深そうに観察していた。
その時、教室の扉が大きく開いた。
「おっ、ここが2年A組か。よろしくー!」
逆光の中に現れたのは、スラリとした高身長の男子生徒だった。少し色素の薄い髪は光を反射して輝き、整った顔立ちには、見る者を惹きつける天性の明るさが滲み出ている。制服も、どこか垢抜けた着こなしで、清潔感と余裕が感じられた。一瞬にして、教室中の視線が彼に集まる。彼はその視線を心地よさそうに浴びながら、悠然と教室の中央に進み出た。
「マジかよ、高円寺隼人じゃん!」
小田原が隣で興奮したように呟いた。小田原でさえ、こうもはっきりと動揺を露わにするのか。俺はそっと彼を見た。高円寺隼人。噂には聞いていた。1年生の時から学年でも一、二を争う陽キャで、常に周囲に人が集まる人気者だと。
高円寺は、教室の中心に立ったまま、周囲を見渡した。その視線は、瞬時にクラスメイト一人ひとりを値踏みしているようにも見えた。そして、その瞳が、俺たちの方に向いた。
俺の胸に、嫌な予感が走った。本能的に目を逸らそうとしたが、遅かった。
高円寺の口元に、悪気のない、しかし射抜くような笑みが浮かぶ。
「あれ? もしかして、君って……逗子くん、だっけ?」
彼の声は、よく通るが、決して響き渡るような大声ではない。しかし、なぜかその一言は、教室のざわめきを切り裂いて、俺の鼓膜に、そして脳裏に、鮮明に突き刺さった。
「あー、やっぱりそうか!」
高円寺は、俺の返事を待たずに、まるで腑に落ちたように頷いた。
「なんか、地味だよね。おはよ!」
「……え?」
俺は思わず声に出していた。地味。その言葉は、俺が1年生の時に最も恐れていた、そして最も慣れ親しんでいた自己評価だ。しかし、1年生の間に「神」とまで呼ばれるようになり、周りからは頼られる存在になった。少なくとも、もう「地味」とか「空気」とか言われることはないだろう、と心のどこかで油断していたのかもしれない。
高円寺の言葉は、まるで熱を持たないナイフのように、俺の心の平静を切り裂いた。悪意はない。むしろ、本当に悪気なく、思ったことをそのまま口にしただけなのだろう。だからこそ、その言葉は深く、容赦なく俺の根底にある「空気男子」としての自己認識を抉った。
隣にいた小田原が、目に見えて動揺している。
「おい、高円寺! 逗子は地味じゃねーだろ! 学園のトラブルを…」
小田原が言い募ろうとするのを、俺は慌てて制した。いや、違う。小田原は俺を擁護してくれている。だが、ここで「神」だの「トラブル解決の専門家」だのと言っても、高円寺には響かないだろう。彼が俺を見たのは、俺の「地味さ」だ。その一点だけを、彼は瞬時に見抜いたのだ。
高円寺は、小田原の言葉にも気に留める様子もなく、すでに隣にいた女子生徒に話しかけていた。
「君、名前なんていうの? あ、俺、高円寺隼人。よろしくね!」
彼の周りには、瞬く間に人だかりができていく。明るい笑い声が教室に響き渡り、まるで彼が磁石であるかのように、クラスの陽の気が吸い寄せられていく。
俺は、高円寺の背中を、ただ茫然と見つめていた。
「なんで俺、またこんなスタートなんだよ……」
心の中で、情けない呟きが漏れた。1年生で「神」と崇められたはずの俺は、たった一人の「陽キャ」によって、入学当初の「3軍」へと引き戻されたような気分だった。
「悠人、大丈夫?」
鎌倉が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。厚木は静かにメガネを押し上げ、リオはわずかに不満そうな表情で高円寺の方を睨んでいた。
「大丈夫……じゃないかもな」
俺は苦笑いを浮かべた。2年生。新たな学年。新たなクラスメイト。そして、新たな「神」の試練が、幕を開けたのだ。この「陽キャ」の磁場の中で、俺は再び「空気」に戻ってしまうのか? それとも、「神」としての役割を、彼にも認識させることができるのか?
俺の2年生は、高円寺隼人という嵐のような新キャラの登場によって、予期せぬ方向へと舵を切った。彼の周囲で巻き起こるであろう新たなトラブル。そして、俺の「神」としての存在意義が、今、再び問われようとしていた。




