第32話「それぞれの戦い」
冬の朝の冷気が、心まで凍らせそうなほど澄んでいた。
でも、この日の緊張感は別の意味で肌に突き刺さる。
期末テスト——それは、誰にとっても静かな“戦場”だった。
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「……おっはー。やばい、私、理科捨てたかも」
校門前で茅ヶ崎がテンション高めに言うと、厚木が冷たい視線を送る。
「開き直らないの。あと三分あるから、最後に公式確認しなさい」
「えー。公式ってどこに書いてあったっけ」
そのやり取りを聞きながら、逗子は静かに教室へと向かった。
すでに試験用紙が配られる前の張り詰めた空気に、緊張で背筋がこわばっていた。
——数学。
苦手意識が強い教科だ。
「逗子、昨日のプリント、ちゃんと復習した?」
声をかけてきたのは鎌倉だった。表情はまだ硬いが、目の色は以前より澄んでいた。
「ああ……ギリギリまでやったつもりだけど、不安しかない」
「……大丈夫。あのグラフの問題、たぶん出る。予想通りなら、応用問題の2つ目に」
「マジ? ……ほんと、助かる」
彼女の言葉に、逗子は深く息を吐いた。
ほんの数日前まで、心ここにあらずだった彼女が、今は僕を励ましてくれている。
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1時間目が終わると、教室の空気は一気に疲労に染まる。
それぞれが答案用紙を片手に、成功と失敗の余韻を引きずっていた。
廊下で会った厚木は、眉をひそめながら言った。
「数学、問4、あれ引っかけだったわね……文字の定義が途中で変わってたの、気づいた?」
「……いや、気づいてなかった」
「ま、逗子なら計算ミスしてても“推察”で部分点もぎ取るタイプだと思ってるけど」
「慰めになってないよ、それ」
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昼休み、食堂で合流した小田原が、いつもより静かだった。
「……おまえ、隣のクラスでどうだった? 英語、やばいって聞いたけど」
逗子が聞くと、小田原は苦笑して言った。
「単語のスペル、思い出したつもりが、思い込みだった。“accommodation”で一生迷った」
「あるあるだなぁ……」
「まあでもな」
彼は、唐突に話題を変えた。
「鎌倉、よく試験受けてるよな。普通、メンタルやられてたら、もっと荒れるだろ」
茅ヶ崎が頷いた。
「わかる〜。私、父親が単身赴任しただけでちょっと荒れたのにさ。マジ、尊敬」
「無理してると思うけどね」
厚木がぽつりと呟いた。
「でも、それを“見せない”って選択をしてる。強いわ」
それぞれが何かを思いながら、昼の鐘が鳴った。
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午後のテスト、理科と国語。
逗子は比較的得意な国語に賭けていた。
——一つでも、自分の中で「これはやった」と言えるものを残したかった。
国語の読解問題に向き合うとき、自分の“推理力”が役に立っていると実感する瞬間がある。
たとえば、筆者の意図を探るとき。言葉の裏にある心理を読むとき。
——これは、誰かに向けて書かれた文章だ。
そう気づいたとき、筆者が読者に求めているものが分かる。
逗子は、答えを導きながら、どこかで自分が日常でも「答えを探してる」人間だと気づく。
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翌日、2日目のテストが始まった。
社会、英語、そして最後に保健体育。
英語のリスニング問題のとき、鎌倉が一瞬だけ表情を歪めたのを、逗子は見逃さなかった。
イヤホンから漏れる音声の英語に、彼女の目は遠くを見るような焦点の合わなさだった。
終了後、廊下で声をかけた。
「……大丈夫だった?」
鎌倉は頷いた。
「……ちょっと、昔のこと思い出しただけ」
「昔?」
「母が海外に住んでた頃、一緒に行こうって言われたことがあったの。あの発音、似てたんだよね」
それ以上は語らなかったが、彼女の中で何かが揺れたのは確かだった。
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その日の帰り道。
逗子と鎌倉は並んで歩いていた。特に約束したわけでもないのに、自然とそうなっていた。
駅の近く、信号待ちの間に、彼女がぽつりとつぶやく。
「……ねえ、今日、父から連絡があったの」
「えっ」
「『一度話がしたい』って。離婚のこと、まだ決まってないらしい」
逗子は黙って頷いた。
「“まだ”ってことは、選べるってことだよな」
「うん。でも、何を選ぶべきか分からない。自分の気持ちが、どっちに向いてるのかも」
「だったら、もう少しゆっくり考えようよ」
逗子の言葉に、鎌倉は少しだけ笑った。
「そうだね。ありがとう、逗子くん」
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その夜。
グループチャットでは、茅ヶ崎が叫ぶようにメッセージを打ち込んでいた。
「理科の記述問題、0点でもいいから1点ちょーだいぃぃぃ!!」
それに対して厚木が冷静に返信。
「問題文に“化学式を書きなさい”ってあるのに、“きれいな水”って書いたらそりゃ無理よ」
小田原も続く。
「今日で全部終わったなら、週末、久々に集まる?」
「戸塚のあそこ、例のカフェ。勉強なしで」
誰もが、「この期末テストを終えたこと」に安堵していた。
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その頃、鎌倉はリビングで母と向かい合っていた。
「……ほのか、パパと話す?」
「うん。私、自分の気持ち、ちゃんと決めたいから」
あの図書室で感じた、仲間との時間。
それが、彼女の中で「守りたいもの」に変わりつつあった。




