第31話「彼女が抱える本当の恐怖」
図書室の奥、使われなくなった旧い閲覧席には、四人分のノートとプリントが広げられていた。
逗子、厚木、茅ヶ崎、そして鎌倉。放課後の静かな時間に、鉛筆の音だけが響く。
——本来なら勉強だけの場になるはずだったこの集まりは、徐々にそれ以上のものになっていた。
「……ここ、分かんないんだけど」
茅ヶ崎が、英語の文法問題を指差して首をかしげた。
「仮定法だね。『もし〜だったら』ってやつ」
厚木がさらりと説明する。いつもはちょっと棘のある口調も、この時間帯だけは柔らかい。
「マジ助かるぅ。てか、厚木って教えるの上手いよね? 普通に尊敬」
「褒めてないで、さっさと次進みなさいよ」
軽口を交わす二人の横で、鎌倉はほとんど話さず、ただ静かにノートに向かっていた。
その姿が、やはり気になる。
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勉強会が終わった帰り道、逗子は小田原にメッセージを送った。
「最近の鎌倉、やっぱ変だよ。たぶん家庭のことだと思う」
するとすぐに返信があった。
「明日会える? 放課後、食堂前集合で」
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翌日、放課後の食堂の隅。
小田原は自販機の前で缶コーヒーを飲みながら、逗子に言った。
「うちの兄貴、法律事務所で働いてるって言ってたよな?」
「うん、確か弁護士だって」
「その兄貴が言うには、未成年の子供がいる場合、親の離婚って簡単には決まらないんだと」
逗子は黙って聞いていた。
「たとえば、進学直前に無理やり引っ越しとかさせると、裁判で親の責任が問われるケースもある。学校の友人関係も“環境”として重視されるらしい」
「それって……つまり、今の彼女の生活を守れる可能性もあるってこと?」
「おう。本人がちゃんと意志を示せれば、状況を止められることもある」
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その話を聞いた翌日。
逗子は、放課後の図書室で、鎌倉とふたりきりになるタイミングを見計らった。
他のメンバーは自習室の方に移動していた。
沈黙の中、逗子は机に置いたペンをそっと置いて言った。
「……昨日、話してたよね。家族のこと」
鎌倉は一瞬だけ動きを止めた。
「……何が言いたいの?」
彼女の声は、やや硬かった。
「気づいてた。君、いつもみたいに集中できてないし……元気もない」
「……」
「僕にはどうにもできないかもしれないけど、それでも、もし君が今、自分の居場所を失うのが怖いなら……なんとか一緒に考えたい」
彼女は視線を落としたまま、ゆっくりと言った。
「……両親、別居するんだって。私、どっちについて行くか選べって言われた」
小さな声。でも、確かに届いた。
「でも、どっちを選んでも、何かが壊れそうで……」
「今のこの学校とか、友達とかも?」
彼女はうなずいた。
その目に、涙が溜まりかけていた。
「このまま何も言わなければ、母と一緒に引っ越すことになる。父はもう、話す気もないみたいで……」
「……君がそれを望んでないなら、止められる可能性がある」
「え?」
「僕の友達、小田原ってやつがいてね。兄貴が弁護士なんだ。色々調べてもらった。君が学校生活を守りたいと思ってるなら、それを証明できる方法があるかもしれない」
鎌倉は目を見開いた。
そして少しして、泣きそうな顔で、ふっと笑った。
「……ありがとう。でも、そんなの、君がやることじゃない」
「違うよ」
逗子は言い切った。
「友達が困ってるのに、動かないほうが変だろ?」
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その後、茅ヶ崎と厚木にも事情を伝えた。
もちろん、詳細は伏せている。けれど、彼女たちは何も聞かずにうなずいてくれた。
「だから鎌倉ちゃん、あんな顔してたんだね……」
茅ヶ崎はぽつりと呟く。
「放っておくつもりはないよ。私たちは、勝手に仲間だから」
「私も」
厚木も静かに言った。
「別に、特別に励ましたりとかはしないけど。必要なときは、ちゃんとそばにいるから」
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期末テストまで、あと三日。
図書室の勉強会は静かに、でも確実に、彼女の表情を取り戻していった。
時折、彼女が笑う。
冗談を返す。
プリントを差し出し、「これ、どこが間違ってるか分かる?」と聞いてくる。
それだけで十分だった。
彼女が、まだここにいたいと思ってくれている証拠だから。
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ある日の帰り際、逗子にだけ鎌倉が言った。
「……私ね、怖かったの。誰にも言わないで、このままひとりで、全部失うのかと思ってた」
「うん」
「でも、誰かにちゃんと話せたら、少し楽になった」
逗子は言葉を選びながら答えた。
「僕が何かしたわけじゃないよ。ただ、君が、逃げなかっただけだ」
「……ふふ。逗子くんって、たまに本当に“神”っぽいこと言うよね」
その言葉に、逗子は少し頬を赤くした。




