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第26話「凡人男子高生が「神」扱い?」

文化祭の喧騒が終わって、校舎が静けさを取り戻していた。

 祭りの余韻を残した飾り付けの残骸が廊下の片隅にまとめられている。教室にも、まだ片付けきれていない装飾がちらほら残っていた。


 僕は、教室の隅で机に肘をつき、ノートをぼんやりと眺めていた。別に授業の復習をしていたわけじゃない。ただ、文化祭のバタバタが過ぎた後の“空白”を、何となく埋めたくて、机に向かっていただけだ。


「逗子くん……だよね?」


 その声は、まるで壁をすり抜けてきたかのように不意だった。


 顔を上げると、教室の入り口に一人の女子生徒が立っていた。


 長い髪を後ろでゆるく結び、胸元で揺れるリボンは、微かにほつれている。柔らかい印象のその子は、僕と同じクラスの橋本だった。


 正直、これまで話したことはなかった。彼女がどこに座っていたのかすら、正確には思い出せない。


「うん。逗子だけど……何か用?」


 僕が椅子から立ち上がると、橋本はほんの少しだけ、体をすくめた。


「……あの、ちょっとだけ。話してもいいかな?」


「え? 僕に?」


 思わず聞き返してしまう。文化祭で人に話しかけられることは増えたけど、橋本のようなタイプに話しかけられるのは初めてだった。


「うん。えっと……変なことじゃないんだけど」


 橋本は教室の中に一歩、二歩と足を進める。僕の席の近くまで来たところで、ふと立ち止まった。


「ここ、座ってもいい?」


「どうぞ」


 僕は隣の席を指差すと、彼女は静かに腰を下ろした。椅子の脚が床をかすめる音さえ、妙に耳に残った。


「文化祭、お疲れさまでした」


「ありがとう。橋本さんは……うちのカフェ、来た?」


「うん。あの……すごく、よかった」


「へえ、嬉しいな。それなら、茅ヶ崎の宣伝が功を奏したな」


 そんな風に冗談めかして言ったけど、橋本はかすかに微笑んだだけだった。その笑みの奥に、少し影があるのが気になった。


「逗子くんって、こういうの……得意なんだね。人を驚かせたり、考えさせたり」


「まあ、趣味というか。推理小説とか、好きなんだ」


「そうなんだ……」


 また、間が空いた。


 彼女は両手を膝の上で重ね、視線をそこに落としたまま、何かを考えているようだった。僕は、彼女が何を話したいのかを測りかねて、黙って待つしかなかった。


「実は、今日……どうしても話しておきたいことがあって」


「うん」


「でも、誰に言えばいいのか、分からなかったの」


 静かな声だった。まるで、何かを割らないように気をつけながら話すみたいに。


「クラスの子と話すの、あまり得意じゃなくて。友だちも少ないし。……でも、文化祭のときの逗子くんを見てて、ちょっとだけ、話せるかもしれないって思ったの」


「……僕でよければ、聞くよ」


 自然と、そう返していた。


 文化祭以降、そういう場面が少し増えてきた。事件じゃなくても、人が何かを抱えているときに、「逗子なら、聞いてくれるかも」って思われるようになったのかもしれない。


「ありがとう……」


 橋本は、目を伏せたまま、指先を軽く握った。


「別に、大きな事件とかじゃないよ」


「事件じゃなくていい。何でも、話して」


 僕がそう言うと、橋本はほんの少しだけうつむいた頭を持ち上げた。その目は、やっぱり、どこか怯えているようにも見えた。


「家のこと、なんだ」


「家?」


「うん。お母さんのこと」


 彼女の口から、その単語が出たとき、教室の空気が変わった気がした。


「……ちょっとだけ、変なの。うちの家」


「変、っていうと?」


「全部、管理されてるの」


 最初にそう言ったとき、彼女の表情は曖昧だった。


「朝起きる時間、学校に行く時間、帰ってきてからやること、食べる量、寝る時間……全部、お母さんが決めるの」


「……」


「スマホ、持ってるけど、ロックはかけちゃダメって言われてる。メッセージアプリも、お母さんが全部見てる」


言葉が、ぽつぽつとこぼれるように出てきた。


「友だちとも、あまり出かけちゃダメ。学校が終わったら、すぐ帰ってこいって言われてる。カフェとか、寄り道も禁止」


「厳しいね」


「うん。でも、怒鳴ったりとか、殴られたりするわけじゃないんだ。ただ……全部、管理されてるの」


「……橋本さんは、それが……」


「苦しい。息が詰まりそう」


 ようやく、彼女は言葉にした。


 その瞬間、僕の胸にも重い何かが落ちた気がした。


「誰かに相談したことは?」


「ない。友だち、あまりいないし。先生も、なんとなく言いにくいし……」


「それで、僕に?」


「うん。逗子くんって、文化祭のときも、他人の問題をちゃんと考えてくれる人だなって思ったから……」


 そう言ってくれるのは嬉しい。でも、僕は“ただの高校生”だ。探偵でもカウンセラーでもない。


 だけど――


「……ありがとう、話してくれて」


 気づけばそう言っていた。


「僕にできることがあるかどうかは、まだ分からない。でも、今日、話してくれてよかったと思ってるよ」


「……うん」


 橋本は、ようやく少しだけ顔を上げた。


「よかったら、また明日も続きを聞いてくれる?」


「もちろん」



 校舎を出ると、夕日が差し込んでいた。橙色の光の中で、橋本は小さく「またね」と手を振って帰っていった。


 その背中を見送りながら、僕は思っていた。


 “事件”っていうのは、なにも証拠や推理が必要なことだけじゃない。


 誰かが黙って抱えてきたものに、ほんの少し触れること――それだって、きっと“解くべき謎”なのだと。


翌日の放課後、僕は昨日と同じように教室に残っていた。

 周りの席は空っぽで、遠くで誰かが掃除当番を終える雑談が聞こえる。昨日、橋本が話しかけてきた時間帯と同じ。僕は自然と、入口の方に目を向けていた。


「……逗子くん」


 その声は、やっぱり昨日と同じように静かだった。

 橋本は今日もロングの髪を一つに束ねていて、制服の裾をそっと両手で握っていた。だけど昨日よりは、わずかに迷いがないようにも見える。


「来てくれてありがとう」


 僕が言うと、橋本は小さく笑って、僕の隣の席に腰を下ろした。


「昨日……ちゃんと話せなかったけど、聞いてくれて、ありがとう」


「ううん。気にしないで。あれだけでも、すごく大きな一歩だったと思うよ」


 自分でも、らしくない台詞だなと思った。でも、今の橋本には、言葉のひとつひとつが意味を持つ気がした。


「……あのね」


 橋本は、机の上で自分の指を交差させながら言った。


「小学校の頃からずっとだったの。家のルールが、すごく細かくて」


「どんなふうに?」


「おやつは何グラムまで。お風呂は何時までに入って、髪はこの順番で洗って……。テレビは一日30分以内で、観る番組も決められてて、ゲームは禁止」


「それ、いつも?」


「うん。破ると、“あんたのためを思って”って怒られる」


 橋本は淡々と言ったけど、その言葉の裏には疲れたような響きがあった。


「それって、いわゆる“過干渉”だよね」


「……うん。でも、ずっとそれが普通だと思ってたの。小学校の頃までは」


 橋本の視線が窓の外に向かう。中庭では帰宅部の生徒が笑いながら談笑していた。


「でも中学に入って、少しずつ気づいてきた。他の子はもっと自由だった。放課後にカフェに寄ったり、メッセージアプリでグループチャット作ったり……」


「そっか」


「でも、私のスマホには制限がかけられてて。アプリも親の許可なしじゃ入れられない。通知は常に親と共有される設定になってるの」


 言葉の一つひとつが重い。思春期の自由を奪われることが、どれだけ息苦しいかは想像できる。


「友だちも……距離ができちゃうよね。普通の話についていけないから」


「……誰か、気づいてる人はいなかった?」


「いたかもしれない。でも……怖かった。言ったら、お母さんに何されるか分からなかったから」


 橋本はそのとき初めて、ほんの少しだけ声を震わせた。


「中一のとき、一度だけ先生に相談しようとした。でも、あとでお母さんに全部知られて……“裏切った”って言われたの」


「先生に?」


「たぶん、学校に電話して“そういうことを言う子なんです”って……」


 逗子としての僕は、これまでいくつかの“事件”に首を突っ込んできた。けど、これは全然違う。犯人がいるわけじゃない。証拠もない。ただ、“支配”されているだけ。


 橋本の母親が“悪人”だと断定できるような、分かりやすい暴力はない。けれど、自由を奪われた日常は、まるで牢屋みたいだった。


「今も、変わってないの?」


「うん。でも、最近……ほんの少しだけ、スマホの使い方にスキができたの。文化祭の準備で、学校にいる時間が長かったから。その間だけ、お母さんの管理から離れられた」


「それで、逗子に?」


「うん。逗子くんは、事件を解決してたけど、誰かのことをちゃんと見てくれる人だって思ったから」


 橋本は俯きながら、まるでそれが精一杯の勇気かのように話した。


 僕は、正直どうすればいいか分からなかった。

 これまでの“事件”みたいに、証拠を並べてロジックで詰めるわけにはいかない。


「……僕も、こういうのは初めてなんだ。だから、うまく言えないかもしれない。でも」


 僕は、自分のノートを開いた。文化祭のときに使った推理メモが少し残っていた。


「一緒に考えてみよう。どうすれば、少しでも楽になれるのか」


「……うん」


 橋本は、その一言にだけ、わずかに笑みを返した。


「まずは、外の誰かと繋がる手段を確保しよう。スマホの設定が厳しいなら、校内の端末やプリペイドSIMとか」


「そういうの、考えたことなかった……」


「この学校には保健室もあるし、信頼できる先生が一人でもいれば」


「でも、バレたら……」


 そのとき、橋本の表情がまた固まった。


「昨日、私が誰かと話してたこと、お母さんにバレたかもしれない」


「えっ?」


「学校に電話があったみたい。『最近、橋本が妙に帰りが遅いようなので』って」


 橋本の顔から血の気が引いたようだった。


「先生は“よくある心配電話”って言ってたけど、私は……絶対そうじゃないと思う。私が、逗子くんと話してるのを見られてたのかも……」


 これはまずい。親が学校にまで監視の目を伸ばしているとしたら、僕にも影響が出る可能性がある。


 でも、そこで一歩引くわけにはいかなかった。


「橋本さん、今は無理に何かを変えなくていい。だけど、話すことはやめないで」


「……うん。でも、迷惑かけたら……」


「大丈夫。今はまだ“ただ話してるだけ”だよ」


 僕は、できるだけ穏やかな声でそう言った。


「何も変わらないように見えても、話すことが第一歩になるって、僕は信じてるから」


 橋本は、その言葉を受け止めるように静かに頷いた。



 その日、僕たちは校門の前で別れた。

 夕焼けに染まる坂道を、橋本の小さな背中が歩いていく。


 その後ろ姿を見ながら、僕は思っていた。


 これまで扱ってきた“謎”の中で、一番難しいかもしれない。

 だけど、それでも。


 解いてみせる。

 彼女の“心の鍵”を、少しずつでも。


それは、三日後のことだった。

 放課後、僕はいつものように教室に残ってノートを眺めていた。橋本との約束を守るように、毎日ほんの数分でも、彼女の話を聞く時間を作っていた。


 しかしその日、僕の元にやってきたのは橋本ではなかった。

 代わりに現れたのは、担任の杉田先生だった。


「逗子。ちょっと、職員室まで来てくれるか?」


 声色は柔らかかったけど、目は曇っていた。


 


 職員室の空気は重かった。

 中に入ると、隅の相談スペースに通され、先生が向かいに座った。


「今日な、橋本さんのお母さんから電話があって……」


 その瞬間、嫌な予感が背筋を這った。


「“娘が最近、帰宅が遅くなっている。誰かと良からぬ交友関係があるのでは”ってな」


 やっぱり来たか、と僕は内心でうなずいた。

 橋本が言っていた“電話”は、やはり僕の存在に向けられていた。


「で、逗子、お前……橋本と何を話してる?」


「――ただの、相談ごとです。あっちから話しかけてきました」


「相談?」


「はい。あまり詳しくは言えません。でも、事件でも、いじめでも、恋愛でもないです。ただ……少しだけ、助けてって言われたんです」


 先生はしばらく黙って僕を見ていた。

 その沈黙が、言葉よりも重く感じた。


「……お前は、文化祭の件もあるしな。妙に目立ってきてるのは分かる。だがな」


「先生」


 僕は一歩、身を乗り出した。


「彼女は、自分で“話したい”って言ったんです。僕は、それを聞いてただけです。無理に関わったわけじゃない。彼女の“意思”を信じてやってください」


 すると、職員室のドアがノックされた。


 ドアが開き、橋本が立っていた。制服のスカートがわずかに揺れ、彼女の手は小さく震えていた。


「先生……私、自分で言いたいことがあります」


 その声は、かすれていたけれど、はっきりしていた。


「私が逗子くんと話していたのは、自分からです。逗子くんは、何も悪くありません。全部、私が……」


 先生が小さく息を吐き、メガネを外した。


「……そうか。分かった」


 その後、二人で相談室に移された橋本が、何を話したのか僕には分からない。

 けれど、翌日、担任から正式に「誤解は解けた」と告げられた。


 ホッとしたのは、僕よりも橋本の方だったろう。



 その日の昼休み。僕はいつもの屋上近くの階段にいた。誰にも会いたくないわけじゃないけど、ちょっと一人になりたい気分だった。


 「――逃げるつもり?」


 階段の影から顔を出したのは、厚木凛だった。ボブカットにメガネの、ちょっと刺すような物言い。でも、嫌な感じはない。


「逃げてない。ただ、ちょっとだけ静かにしてたいだけ」


「ふーん。逗子らしくない。いつもなら『状況を整理してる』って言うのに」


「……今回は、少し違ったからね」


 そのとき、もう一人、声がした。


「私、知ってるよ。逗子くん、相談室に呼ばれてたでしょ?」


 鎌倉だった。彼女は缶コーヒーを二本持っていた。一つを僕に差し出す。


「私たちのクラスでもちょっと話題になってた。でも、私は信じてたよ。逗子くんが、悪いことなんてしてるわけないって」


「……ありがとう」


「それに、あの子――橋本さん、偉かったね。ちゃんと自分の言葉で話してて」


「うん。本当に、あの一言で助かった」


 そしてもう一人、最後に現れたのは茅ヶ崎だった。


「なーんか、すっごいことになってたみたいだね。推理ものじゃないけど、これはこれで深いわー」


「文化祭のときみたいに、頭で組み立てて解ける事件じゃなかったよ」


「ううん、でもさ、逗子くん、今回のほうが“人助け”っぽかったよ。なんか、かっこよかった」


 僕は、ちょっとだけ照れた。


「そろそろ、“神扱い”に拍車がかかるかもね?」と厚木がニヤリと笑う。


「やめてよ、それ、マジで恥ずかしいから」



 放課後。橋本が静かに僕の席にやってきた。


「……今日は、ありがとう」


「僕は何もしてないよ。話を聞いただけ」


「それが、私には大きかった」


 そう言って、彼女はそっと小さな紙袋を差し出してきた。


「……これ、うちで焼いたクッキー。少しだけ自由にしてくれたから」


 それを受け取った僕は、言葉を詰まらせた。


 “自由”――きっとそれは、彼女にとって、ようやくつかんだ一歩。


「これからも、話せるよ。何かあったら」


「……うん。そうする」



 家に帰ってから、僕はノートを開いた。


 そこには、事件や謎とは違う、たった一つの言葉が書かれていた。


「人は、話を聞くだけでも、救われることがある」


 橋本の表情が少しずつ柔らかくなっていく様子を思い出しながら、僕はその言葉を何度も読み返した。

違う逗子を書いてみたくどうだったでしょうか

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