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第22話「立候補ゼロの開幕」

夏が去った教室には、冷房ではない風が吹き込むようになっていた。

 二学期が始まって数日──ようやく学校の空気に体が馴染んできた頃。


 その日の4時間目、LHRロングホームルームの開始を告げるチャイムとともに、担任の城ヶ島先生が教卓の前に立った。


「はい、静かに。今日は文化祭の実行委員を決めます」


 途端に、教室の空気が微妙に変わる。

 窓際の一軍男子グループが苦笑いを交わし、女子の何人かは筆箱を開けて「興味ありません」アピールを始めた。


 逗子悠翔は、窓から遠い席でその空気を静かに眺めていた。


 ──今年の文化祭、どうなるんだろうな。



「じゃあ、まず男子の実行委員。立候補は……いるか?」


 城ヶ島先生が教室を見回す。


 ……静寂。


 少し間が空いてから、一軍男子グループの中心にいる港南が、にやにやしながら手を挙げた。


「お、いないなら──あいつでよくね? 真鶴!」


 指さされたのは、教室の端で読書をしていた地味な男子生徒。黒縁メガネに猫背、制服はピシッとしているのに何故か影が薄い。


「……えっ?」


 彼──**真鶴怜司まなづる・れいじ**は、まるで呼吸を止めたように顔を上げた。


「お前さー、時間あるだろ? てか目立たないから、逆にいい思い出になるって」


「賛成〜!」と、便乗の笑いが教室を包む。


 先生はため息をつきつつも、「じゃあ、真鶴で決定」とまとめてしまった。


 ──誰も逆らわない。いや、逆らえなかった。



「女子はどうする?」


 城ヶ島先生が振り向いた瞬間、再び沈黙が教室を支配する。


 その空気に耐えきれなかったのか、一人の女子がゆっくりと手を上げた。


「……私、やります」


 静かな声だった。

 彼女の名前は寒川紗枝さむかわ・さえ。クラスで目立つタイプではないが、いつも真面目に授業を受け、先生受けはいい。

 空気を壊すことができず、断れなかったのだろう。


「え、寒川? マジで?」

「うっわ、やっさし〜」


 軽口が飛ぶが、彼女は何も言わず、うつむいたまま頷いた。



 休み時間。逗子は、厚木と鎌倉とともに屋上近くの踊り場にいた。


「……見てて、なんか嫌な感じだったな」


 厚木が小さく呟いた。


「真鶴くんって、あの読書してる子でしょ。無理やりやらされて、かわいそうだった」


 鎌倉の声にも、わずかな苛立ちが混じる。


「港南たちがああいうノリなの、今に始まったことじゃないけどさ。先生もあっさり流すし、どうなのかなって」


 逗子は、黙っていた。

 彼も感じていた──あの空気の重さ、目を逸らしたくなる鈍い圧力。



 放課後、教室では文化祭の出し物についての話し合いが始まっていた。


「で、何やるの? やっぱ喫茶系?」

「いや、ステージは?」

「準備めんどくない? 焼きそばとかならまだマシ」


 言いたいことだけ言い合って、まとまる気配は皆無だった。


「……なんでもいいよ、どうせうちのクラスやる気ないし」

「ってかさ、文化祭ってクラスで競うやつじゃないんでしょ? 適当で良くない?」


 寒川は、皆の意見を一つ一つ丁寧にメモしていたが、筆が止まっていた。

 その隣では、真鶴が何か言いかけて──やめたようだった。



 その様子を見ていた逗子は、溜息をついた。


 ──見て見ぬふりをしてきた自分が、今は少し情けなかった。


 そのとき、廊下から戻ってきたのは茅ヶ崎リオだった。

 リオはその空気を一瞬で読み取り、ふっと笑った。


「出し物さー、テーマ決まってないと話にならなくない? 文化祭って“文化”を見せるんでしょ? だったら“外国文化”とか、“昔の日本”とか、“ミステリーカフェ”とか……ジャンル先に絞れば?」


「おお、案外まともなこと言うな茅ヶ崎」


「はー? 言い方悪すぎ。私マジ真面目なんですけど?」


 軽口を交わす二人を見て、寒川が少しだけ笑った。

 真鶴も、リオの言葉に軽く頷いた。



 その日の帰り道。逗子は、鎌倉と一緒に歩いていた。


「……あのままだと、真鶴くんと寒川さん、潰れそう」


 鎌倉が呟いた。


「うん、思った。でもどうすればいいんだろうな。俺たちが手を出して、余計悪目立ちしても意味ないし」


 歩きながら、逗子は考えていた。

 何かを変えたい。だけど、どうすれば──。


 そこでふと、真鶴が読んでいた本のタイトルが思い出された。


『沈黙は賛同と同義』


 ──その通りだと思った。


「……俺、話してみようかな。真鶴くんに」


 そう言った逗子に、鎌倉はほんの少し驚いた顔をしてから、うなずいた。


「うん。逗子くんが言うなら、大丈夫だと思う」



 次の日。

 逗子は、真鶴に話しかけた。教室の隅、まだ始業前の時間だった。


「なあ、困ってること、あるなら言ってくれていいから」


 真鶴は少し驚いた顔をして、すぐに目を逸らした。


「……別に、なんとも。慣れてるから」


「でも、慣れなきゃいけないことじゃないと思う。俺でよければ、手伝うよ」


 逗子のその言葉に、真鶴はしばらく黙っていたが──


「……ありがと」


 小さく、でも確かにそう言った。



 文化祭の準備は、まだ始まったばかり。

 でも、小さなほころびは、すでにあちこちに生まれていた。


 このままでは、クラスがまとまらない。


 けれど逗子たちは、誰かの“ために動く”という選択をし始めた。


 ──そして、それは文化祭当日へとつながる“事件”への序章でもあった。

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