第19話「すれ違いの夜」
八月三十一日、午後五時二十七分。
江ノ島駅前はすでに、浴衣姿とTシャツ短パンの群れであふれていた。
人、人、人。ざわめきと夏の湿気に包まれて、息苦しいほどの熱気。
その中心、改札を出てすぐの自販機の前で、逗子悠翔は手帳を開いていた。
──いや、こんな人混みでメモをとる奴はそういない。けれど、逗子は例外だ。
「江ノ島駅、午後五時半集合。鎌倉、時間ぴったりの性格。……あと三分」
時計を見るまでもない。逗子の頭には、もう彼女の行動パターンが組み上がっている。
するとその瞬間、改札から浴衣姿の少女が現れた。
紫陽花色の布地に、白い帯。すこし不器用そうに下駄を履きこなして、周囲を見回すその姿──
「やあ、鎌倉さん」
「……あっ、逗子くん」
目が合うと、ほんの一瞬、鎌倉ほのかは視線を逸らした。
少しだけ、頬が赤い。きっと陽射しのせいだろう。
「待った?」
「予定通りだよ」
逗子は軽く笑って、手帳を閉じた。
⸻
午後六時すぎ。
二人は江ノ島の橋を渡り、花火会場の海辺へと歩いていた。
「──でさ、母が急に『浴衣着ていきなさい』って言い出して。帯の結び方がわからなくて動画サイトで見ながら、なんとか」
「うん、似合ってるよ」
「……へっ?」
「浴衣。柄の選び方も涼しげで、夏らしくていいなって」
逗子はあくまで事実を述べただけだった。が、その言葉に鎌倉は少し黙り込み、手元の小さな巾着をぎゅっと握った。
「……ありがと」
静かな感謝の言葉とともに、二人の間に少しだけ距離が近づいたような気がした。
だが、逗子はそれに気づかない。
彼にとって、目の前の現象は「浴衣=視覚的に夏の印象を増す」というだけの話。
褒めたのは、ただの情報の共有に過ぎない。
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午後七時。会場周辺は、もはや歩くのも困難なほどの混雑ぶりだった。
「ねえ、あっちの屋台でかき氷買ってこようかな」
「じゃあ、ここで待ってるよ。日陰になってるし」
そう言って逗子が木陰の空き地に腰を下ろす。
鎌倉は嬉しそうにうなずき、浴衣の裾を押さえながら人混みに消えていった。
──そして十五分後。
戻ってこない。
(……?)
さすがにおかしい。かき氷の列は長くても五分。
もし迷ったとしても、彼女が「戻らない」という選択肢を取るとは思えない。
逗子は立ち上がり、ゆっくりと辺りを見渡した。
通りの向こう、人の波。どこまでも同じような浴衣と笑い声と祭囃子。
ふと、思い出す。
「“人混みに慣れていない”って言ってたな……」
そしてもう一つ、彼女がよく言っていた。
「……静かなところ、好きなんだよね」
逗子は即座に地図を頭の中で展開し、近辺の“鎌倉が向かいそうな場所”を推測する。
「人混みから抜けて、静かで、視界がひらけた場所……」
候補は三つ。
1. 東浜の堤防
2. 鎌倉高校前駅の小高い歩道橋
3. 弁天橋の裏側の浜辺
どれも“花火を見るには良いが、人が少ない穴場”だ。
──そして彼女が選びそうなのは、あそこだ。
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午後七時半。最初の花火が打ち上がる。
バァン、と乾いた音。夜空に大輪が咲いた。
その頃、逗子は弁天橋の裏手、浜辺の突き当たりに向かっていた。
潮の香りと、打ち寄せる波の音。
その中に、ひとり、浴衣の少女が立っていた。
薄暗い灯りの下、浴衣が風に揺れる。手に持っているのは、少し溶けかけたかき氷。
「……やっぱり、ここにいた」
その声に、鎌倉はくるりと振り返った。
「……なんで、わかったの?」
「君なら、混雑した場所で長居はしない。しかも、花火を“少し離れて見たい”性格だ」
鎌倉は一瞬、ぽかんとした顔になったあと、ふっと微笑んだ。
「……逗子くんって、ずるい」
「何が?」
「自分のことになると鈍感なんだもん」
「え、俺なんか言った?」
鎌倉は答えず、かき氷を一口すすった。
甘く、ひやりとした味と一緒に、胸の奥のもやもやが少しだけほどけていく。
⸻
午後七時五十分。
二人は再び人の流れに沿って歩き始めた。
今度は、並んで。
すこしだけ、手と手が触れそうな距離で。
逗子は、鎌倉の横顔をふと見た。
浴衣の襟元から覗くうなじ。花火の光が髪を照らし、きらりと光った。
「迷子、になったかと思って少し焦ったよ」
「迷子って……子どもじゃないんだから」
「でも、“誰かを見つけたい”って気持ちは、久しぶりだったな」
「……へぇ、そっか」
花火が打ち上がる。
音と光が空を裂き、空に咲く。
その光の中、鎌倉はそっと口を開いた。
「来年も、また来たいね。江ノ島の花火」
「そうだね。また来よう。……皆で?」
──その一言に、彼女は少しだけ俯いた。
「……うん、そうだね」
⸻
午後八時。
花火大会のフィナーレが始まった。
無数の光が夜空を彩り、爆音が鼓膜を打つ。
逗子と鎌倉は、浜辺のちょっとした段差に腰を下ろし、並んで空を見上げた。
「きれいだな」
「うん」
しばらくの沈黙。
鎌倉はそのまま、逗子の横顔をじっと見つめた。
けれど、彼は気づかない。
彼女の視線も、鼓動も。
──その一瞬に込められた感情も、まだ全然。