第17話「推理」
逗子悠翔の手帳には、箇条書きのメモが静かに並んでいた。
1. 厚木の指に絆創膏(朝の怪我?)
2. 小田原が見た「細身の人影」──夜中2時半ごろ
3. 厚木が書斎の扉に手を当てていた
4. 鎌倉の証言「厚木の足音が消える」
5. 書斎の内部が“整いすぎている”
6. 小田原の焦り、やや不自然な口調
7. 登記簿の保管場所はキャビネット最下段
逗子はそのページを開いたまま、別荘の書斎に立っていた。
窓の外には深い森と、降ったり止んだりの夏の雨。
「整いすぎている」という違和感。
家具の位置、床の埃、鍵穴の傷ひとつない外観──
あまりに“完璧”だった。だが、完璧な空間は疑っていい。
人は、触れたものに“痕跡”を残す。
そこがゼロなら、それは“作り物”である可能性が高い。
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昼前、逗子はリビングにいた厚木凛に声をかけた。
「少し、いいかな」
「……なに?」
厚木は眼鏡の奥から警戒したような視線を向けてきた。
「この別荘、結構広いよね。君、初めて来たんだよね?」
「そうだけど?」
「じゃあ、夜中に歩くのって、ちょっと怖くなかった?」
「……別に」
「昨日の夜中、誰かが階段下を歩いていたのを小田原が見たって言ってた。細身だったって」
厚木は無言で目を細めた。
「それが私だったって言いたいの?」
「いや。ただ、君が今朝“指を切った”って言ってたけど、包丁で切ったわりに血は出てなかったよね。ちょっと不自然だと思って」
「はあ……」
厚木はため息をつくと、ソファから立ち上がった。
「じゃあ聞くけど。仮に私が夜中に歩いてたとして、何のために? 何か盗む動機でもあるわけ?」
「……たとえば、家族の誰かに頼まれてたら?」
その瞬間、厚木の表情がわずかに揺れた。
だが次の瞬間には、冷たく笑った。
「やっぱり、そういう推理ゲームごっこ、好きなんだね」
「ゲームだと思ってるなら、君はここにいない」
「……何それ、脅し?」
「違う。これは現実の話だよ」
ふいに沈黙が落ちた。
厚木は少し唇を噛んでから、言葉を絞り出すように言った。
「……もし私が、誰かに“頼まれて”たとしても。それが“家族のため”だったとしたら。君はどう思う?」
「“家族のため”に何をしてもいいと思うなら、それは正義じゃない。ただの誤魔化しだよ」
厚木はそれ以上何も言わなかった。
ただ、逗子を睨むように見つめ、その場を去った。
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昼過ぎ、鎌倉ほのかと廊下で鉢合わせた。
彼女は昨日と打って変わって、どこか落ち着きがなかった。
「逗子くん、話せる?」
二人はテラスに移動し、椅子に腰を下ろした。
「……あのね、厚木さんって、実は何か隠してる気がする。昨日、夜中に私が廊下を歩いてたら、誰かが物音を立てて慌てて戻る足音がして……そのあとすぐ、彼女の部屋のドアが閉まる音がしたの」
「何時ごろ?」
「……二時二十五分くらいかな。スマホ見てたから覚えてる」
それは小田原が「人影を見た」と証言した時間とほぼ一致する。
「君自身は、彼女が何をしてたと思う?」
「……わからない。でも、彼女が“必要以上に感情的になる”ところ、ちょっと気になる。普段は冷静なのに……私、嫌われてるのかな?」
「いや。君を嫌ってるわけじゃない。たぶん“距離を取ってる”だけ」
「……それって、なんで?」
「自分が“人と距離を取る理由”を、君は持ってない?」
鎌倉ははっとして、しばらく何も言わなかった。
やがて小さく、頷いた。
「私も……ちょっと、人間関係が苦手なときがあった。昔のことだけど」
「なら、きっと厚木さんも、そういう何かを抱えてるだけだよ」
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その日の夕方、逗子は小田原に話しかけた。
「鍵、今も持ってる?」
「ああ、ここにある」
小田原はズボンのポケットから鍵を取り出した。
銀色の、旧式の鍵。
「この鍵、昔からここにあった?」
「いや、去年くらいに祖母が交換したらしい。前のが壊れかけてたとかで」
「そのとき、合鍵は何本作った?」
「……三本。俺が一つ、母が一つ、もう一つは……祖母が“万が一のため”に渡したって言ってたけど、誰にかは知らない」
「“誰か”がもう一本持ってる可能性があるってことだね」
小田原は眉を寄せた。
「……もしかして、うちの伯父さんが……?」
「分からない。だが、今この中にある人間だけじゃなく、“外部犯”の可能性は残ってる。鍵を使える人間がもう一人、いるかもしれない」
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夜。逗子は再び書斎に入った。
メジャーとノートを手に、部屋の構造をもう一度確かめる。
天井の梁、壁際の本棚、床下収納の有無、机の裏──
完璧に整いすぎているこの空間に、“自然”の痕跡がない。
(誰かが、この空間を“再構成”した可能性がある)
つまり、犯人は単に登記簿を盗んだのではない。
“盗んだあとに空間を整え直す余裕”があった。
ならば、その人物は相当落ち着いていた。
つまり、衝動的な犯行ではない。
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その夜、リビングに4人がそろった。
厚木は相変わらず無表情で、鎌倉は不安そうに逗子を見ていた。
小田原はスマホを握りしめ、深く呼吸している。
「明日の朝、俺が“答え”を出す」
逗子が静かに言った。
その言葉に、空気が張りつめる。
「この登記簿がなぜ消えたのか。どうやって密室が成立したのか。そして、誰が、なぜそれをやったのか──全部、話すよ」
逗子の眼差しは、ひとりひとりの顔を静かに見つめた。
厚木は表情を崩さず、それでいて拳を強く握っていた。
小田原は唇を引き結び、何かを飲み込むように下を向いた。
鎌倉は──逗子を信じている目で、じっと彼を見ていた。
嵐の前の、静寂。
翌朝、この緊張は決着を見る。