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第16話「疑念とすれ違い」

朝靄が別荘の窓を薄く曇らせていた。

 蝉の声も届かぬ静寂の中、逗子悠翔はひとり書斎の前に立っていた。


 前夜の不可解な“密室の消失事件”。登記簿の保管ファイルが忽然と姿を消した現場──重厚な扉は鍵がかけられ、誰も侵入した形跡はない。鍵を持つのは小田原ただ一人。


 しかし、状況はそれほど単純ではない。

 逗子は、床に膝をつき、扉の隙間や丁番の動きを静かに観察していく。


 《密室》である以上、“鍵”と“内部構造”のいずれかに秘密がある。だが、それよりも──彼が気にかけていたのは“人”のほうだった。



 リビングに戻ると、小田原がソファに沈んでいた。

 手にはスマホ。だが、画面をじっと見ているわけでもない。

 ぼんやりと、何かを考え込んでいる。


「……よく眠れなかった?」


 逗子が声をかけると、小田原は少し驚いたように顔を上げた。


「ああ……うん。なんか、ずっと夢見てた気がする」


「昨日のこと、まだ気にしてる?」


「そりゃそうだろ。あれ、万が一相続に必要だったら……俺の親、かなり不利になる」


「親族で揉めてるんだっけ?」


「母さんの兄貴──つまり伯父さんが“この別荘は本来、兄の自分に継がれるべきだ”って主張してる。けど登記簿には、祖父の名義から直接、俺の母さんに移すって記録があるはずだった。……それが消えた」


「なるほど」


 逗子は頷きながら、さりげなく訊く。


「昨日、君がトイレに起きたとき──“人影”が見えたって言ってたけど、それってどこで?」


「階段の下あたり。ほんの一瞬だけど、誰かが横切った気がしたんだ」


「……音は?」


「聞こえなかった。ただ、シルエットだけ。細身だったと思う」


 逗子は小さくメモを取った。


 “細身のシルエット”。つまり、体格で言えば厚木か鎌倉の可能性が高い。



 朝食は、厚木が簡単なサンドイッチを作っていた。

 エプロン姿の彼女は、いつものように無駄口を叩かず、黙々と手を動かしていた。


「はい、どうぞ。あ、ソースは別にしてあるから、苦手なら抜いてね」


 渡された皿を受け取りながら、逗子は彼女の手元をふと見た。


(……絆創膏?)


 左手の人差し指に、小さな絆創膏が貼られている。

 昨日まではなかった。


「怪我したの?」


「ん? ああ、ちょっと包丁で……朝、切っちゃって」


 そう言って笑ったが、そこにはどこか“慣れていない作り笑い”のような気配があった。



 午前中、鎌倉と逗子はテラスで二人きりになった。


「逗子くん……昨日の夜さ、私、ちょっとだけ厚木さんと話したの」


「ふむ」


「……彼女、たまに変なタイミングで部屋から出るの。私が洗面所行こうとしたとき、ちょうど廊下を歩いてて……でも、気づくと戻ってないこともある」


「“気づくと”っていうのは?」


「なんかこう……ふと気配が消えてるっていうか……私、被害妄想かな……?」


 逗子は首を振る。


「いや。君がそう感じたなら、それは記録に値する」


 彼はポケットから手帳を取り出し、静かに記録を始める。


「……でもね、私、自分の感じ方にも自信がなくて」


「どうして?」


「逗子くんって、いつも静かに全部分かってる感じだから……私のこういう“何となく”って、あんまり意味ないのかなって……」


 その言葉に、逗子はペンを止めた。


「“何となく”が事件を動かすこともある。君の感覚は、俺よりも鋭いことがあるよ」


 鎌倉が少しだけ顔を赤らめた。だがその直後、何かを言いかけて、唇を噛んだ。


「……やっぱ、なんでもない」


「言いたくなったら、言って」


 彼女は頷いたが、それ以上は口を開かなかった。



 午後、厚木はひとりで別荘内を歩いていた。

 逗子は遠巻きに観察しながら、足音を立てずに距離を取る。

 厚木は廊下を進み、ふと“書斎の扉”の前で立ち止まった。


 そして──鍵もないのに、扉に手を当てた。


(何をしている?)


 その姿を見て、逗子はそっと廊下の陰に身を潜めた。


 厚木は鍵穴に顔を寄せ、何かを確認するような素振りを見せる。

 だが、それ以上の行動はせず、そのまま踵を返して立ち去った。



 夕食前、小田原の様子が少しおかしかった。

 言葉が少なく、時折スマホを確認しては顔をしかめている。


「連絡でもあったの?」


「……ああ、母さんから。“今朝から別の親戚が騒ぎ出してる”って。弁護士を挟む話になりそうだ」


「……君自身が焦ってるように見える」


「正直、ヤバいと思ってる。もしこの登記簿がなかったことになったら、うちの立場は……」


「でも、登記のデータは役所にもあるよね?」


「うん、あるはずだけど……“正式な遺言書”とセットで残ってたはずなんだ。原本の信憑性が争点になってるから、“原本があるかどうか”が重要だって」


「原本……それが、あのキャビネットに?」


「そう。祖父が死ぬ前、何かを“保管するため”にわざわざ鍵付きのキャビネットをここに設置したって話も聞いた」


 逗子はまた、メモを取った。

 そのメモ帳の隅には、既に小さな“違和感のリスト”が並び始めている。



■ 違和感メモ

1.厚木の指の絆創膏(朝に怪我したと言うが…)

2.小田原の“人影”証言(細身、夜中2時半)

3.厚木が書斎の扉に触れていた

4.鎌倉の証言「厚木が消えるように動く」

5.小田原の焦燥感(家族からの連絡)

6.書斎の中の家具が“整いすぎている”感覚



 夜。逗子はノートを閉じ、静かに窓を開けた。

 冷えた空気が肌をなぞる。


 まだ点と点はつながらない。

 けれど、厚木の行動、小田原の反応、鎌倉の観察──

 そのすべてが、ひとつの答えに向かって近づいている感覚はあった。


 密室で何が起きたのか。

 登記簿は誰が、何のために消したのか。


 今はまだ、“誰か”が嘘をついているという確信だけがある。

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