第15話「密室」
登記簿が、消えた。
それは単なる“紛失”ではなく、重厚な扉と鍵に守られた書斎──いわば密室からの“消失”だった。
「確かに……ここにあったんだ。昨日見たときは、間違いなく」
小田原の指さす先、古い木製キャビネットの最下段。
わずかに空いた引き出しが、まるで失われた存在の証明のように、虚しく口を開けていた。
部屋の空気が、じわじわと重くなる。
鎌倉が無意識に口元を押さえた。
「……鍵、ちゃんと閉めてたよね? 小田原くん」
「ああ、寝る前に確認した。鍵はずっと……」
小田原は、ポケットをまさぐる。そして銀色の鍵を取り出す。
昨日と同じ。それは間違いなく、書斎の鍵だった。
「ポケットの中から出しただけだろ。それが昨日と同じって、どうやって証明するの?」
思わぬ方向から、冷たい声が飛んだ。
厚木凛だった。
彼女は壁にもたれながら、じっと小田原を見つめている。
メガネ越しの目が鋭く光っていた。
「……俺がやったって言いたいのか?」
「言ってない。ただ、鍵を持ってたのは小田原くんだけ。だったら、まず疑うのは自然でしょ?」
「おいおい……」
言い返しかけた小田原を、逗子が手で制した。
「ちょっと待って。今は犯人探しをする場面じゃない。まず、冷静になろう」
逗子の声は低く、淡々としていた。
彼は部屋を見回す。目線は天井から床、そして家具の一つ一つへと流れていく。
「窓は?」
「全部閉まってる。鍵も掛かってた」
鎌倉が答える。
逗子はうなずくと、書斎の入り口に向かった。
扉は内側から鍵を掛けるタイプ。
外からも中からも施錠できるが、鍵を使わない限りは開かない仕組み。
特にトリックめいた構造はないように見える。
「……昨日の夜、誰かがこの部屋に入った?」
「入ってないと思うけど……いや、俺はずっと二階の部屋にいたし、みんなも……」
小田原が言いかけて、ふと言葉を止めた。
「なに?」
「いや……一瞬、深夜にトイレ行ったとき、階段のあたりに人影があったような……でも夢かもしれないし」
「それ、何時ごろ?」
「たぶん、二時半くらい。月明かりだけだったから、誰かは分からなかった」
厚木がそっと目を逸らす。
逗子の目がその一瞬の動きを逃さなかった。
⸻
午前中、四人は部屋に集まり、情報を整理した。
しかし、決定的な進展は得られなかった。
「そもそも、その登記簿って、そんなに重要なの?」
鎌倉の問いに、小田原は少し考えてから口を開いた。
「祖父がこの別荘を買ったときの正式な登記記録だよ。今、相続関係の書類で揉めてるから、原本があるかないかで変わるらしい。親戚の一部は、“そんな書類は存在しない”って主張してるけど……」
「じゃあ、それを誰かが盗めば、自分に有利になるってこと?」
「理論上は、そういうことになるな……」
「じゃあ小田原くんの親戚の誰かが、ここに来て?」
「でもそれって、外からどうやって侵入したの? 密室でしょ?」
鎌倉が眉を寄せる。
「……もしかして、鍵がもう一本あるんじゃないの?」
厚木がぽつりと呟いた。
全員の視線が彼女に集まった。
「その……小田原くんのお母さんが、東京に鍵を持ってるって言ってたけど。本当に、ここに来てないって、どうやって確かめるの?」
「母さんは仕事でずっと都内にいる。昨日も連絡取ってる」
「連絡“取った”ってだけじゃ、アリバイにならないよね」
厚木の言葉に、鎌倉が鋭く反応する。
「ちょっと、凛。それはさすがに言い過ぎじゃない?」
「別に疑ってるわけじゃない。ただ、確認したいだけ。そういう態度でしょ? 逗子くんって」
厚木の視線が逗子へと向けられる。
だが逗子は、相変わらず冷静な顔で言った。
「俺はまだ何も言ってないよ。ただ、状況を整理してるだけ」
「じゃあ、どう整理する? 密室から書類が消えて、鍵は小田原くんが持ってて、部屋に入った形跡はない。なら、何があるの?」
「“目に見えないこと”が、あるのかもしれない」
「は?」
厚木が目を細める。
「何かを見落としてる。人の行動か、部屋の構造か、それとも“思い込み”か──いずれにせよ、何かがズレてる。そこから始めたい」
逗子の言葉に、場の空気がまた少し変わった。
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午後、逗子は一人で書斎を再度調べ始めた。
メジャーを使って、家具と壁の距離を測り、床を軽く叩いてみる。
家具の裏にメモが挟まっているかを確認するように、隙間を覗き込む。
(……やっぱり、何かある)
彼は気づいていた。
この部屋は“完璧”すぎる。家具の位置も、埃の付着具合も、使用感も──すべてが揃いすぎている。
だが、“それ自体が違和感”だった。
完璧に整いすぎた空間は、時として“演出”だ。
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夕方。リビングに戻ると、空気が重くなっていた。
「厚木さんが……」
鎌倉が言いにくそうに口を開いた。
「夕方、少し散歩に行くって言って、そのまま戻ってこなくて……」
逗子が動いた。
外は霧雨が降り始めていた。
傘も持たずに出たという厚木を捜して、別荘周辺の林を歩く。
「厚木!」
声が響く。
数分後、木陰に座り込む彼女を発見した。
「……寒い」
「バカ、何やってんだよ。風邪ひくぞ」
逗子は上着を脱いで彼女にかけた。
「ごめん。ちょっと、疲れちゃって……この空気、息が詰まるっていうか……」
「……分かるよ。でも、今はまだ誰も断定しない。何も分かってないからこそ、全員に可能性がある。ただ、それだけだ」
「……うん」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
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夜。別荘は不気味な静けさに包まれていた。
誰もが、自分の部屋に鍵をかけて眠りにつく。
けれど、眠れない夜だった。
登記簿が消えた。
密室で起きたその不可解な出来事は、ただの“盗難”ではない。
誰かの意志が、確かにそこに存在していた。
逗子のノートには、すでに何十もの観察メモが記されている。
まだ点と点はつながらない。
だが、その時は、必ず来る。