そこに彼はいたか
時計はもう、世界を四分の一、進もうとしていた。
会社から家は遠い。まいにち快速に乗り、始業よりすこしだけはやめに着いたら、朝食を行うと決めている。たべるのはまいにち自分のデスクで、最寄のコンビニのすみにおかれている、カフェオレだけ。不人気のそれはいつも商品の位置やらそろいかたが、ほかの商品よりも手付かずで、ラベルに書かれている商品名は自分にまっすぐと向いている。おそらく、自分がいちばん手前におかれている商品をとるまで、店員が配置したままでいるのだろう。毎朝の恒例、習慣といっていい。
その習慣がはじまったのはいつごろだろう。彼と別れてからだろうか。一年前までものであふれかえっていたこの空間も、彼がいなくなったあとは整理されることはなく、自分の仕事の書類とすこしの生活雑貨だけが、すこし浮いたように置かれているだけだ。だから、この空間を家もしくは部屋とはよばず、あなぐらと呼ぶことにしている。彼がいなくなってから、この空間に意味はなくなり、この空間は、ぐうぜんできた穴で、そこにたまたまものがあるから住み着いているようなものだ。だって、部屋には彼が買ってきてくれたはずのカーペットも、マットも、ふたり用のテーブルもベッドも、もうなくなってしまったから。
そのもののない空間で、時計が六時をさすまえに、ひとり、床でまぶたを閉じる。床はカーペットがない(だって、彼と別れてしまった)から、フローリングがむきだしで、すこしつめたいけれど、でも散らかった書類の紙のあたたかさで、肌がびくつくことはない。シャツやジャケットがしわにならないように、ぱりっと下に引っ張って、いつものように目を閉じる。
時計は騒音対策に、かちかちという音の鳴らないようにしてあるやつだから、部屋にひびく音は何も無くて、ただ、たまにとなりやうえやしたから、生活の音が聞こえてきたりはして、さまざまな部屋のさまざまな生活のにおいをかいだりしながら、あの感覚を待つのだ。六時きっちりに、からだをゆさぶる、彼の手の感覚を。
「……、」
ほら、また、きた。
彼がやってくる。
左腕に、わずかな重み。ぱちりと、目を開くが、そこに姿はなく、床から起き上がった。その動きに、あたまのしたやからだのしたに敷かれていた書類がはらはらと、なんまいか舞い上がった。
彼は昔から時間にうるさいひとで、集合にはきっかり五分前にやってくるようなひとだった。その性質があわさり、そんなに親しくは無かった学生時代に、仲間うちで集合するときは、よく五分前に彼とまず待ち合わせ、待ち人たちが来るまでぽつりぽつりと話したものだった(たとえば、愚痴や、学校のうわさ、すきなもの……、本、ゲームに……すきなひとのこと、など)。その性質は、別れたあともずっとのことだ。彼は、毎朝、ねむるふりをする自分を起こしにやってくる。
立ち上がると、かばんをひだりに、キーケースを右手にもって、玄関へむかう。そして、装飾の金がはげかけた、細かな傷の目立つドアノブに、手をかけた。その手のうえに、彼の、手が。
(××……、××……、)
彼が、わたしを呼ぶ。
「はい、どうかしましたか」
うわごとのようなそれに、わたしは、ただ微笑む。
耳元でかすれるような、ちいさな声がわたしの名前を呼び、その声はかさなって、ああ、ああ、なんて心地のいいひびきだろうか。
(××、××、……もう、いくのか、)
「ええ、もう、時間ですから」
(なあ、もう、)
「ええ、ですから、」
からだじゅうが、あたたかさにみちていく。彼のからだが、そっと寄り添って、体温を分け与え、わたしたちはこの世界でゆいいつの、ふたりであり、ひとつであり、しあわせであった。
(なあ、もう、)
「……あいして、いますから、」
(××、)
あまいにおいのするような、彼の吐息と、それから、とろけるようにあまい自分の名前が、鼓膜を、頭をぼんやりとさせて、ただひたすらに、咽喉にからむような、そのあまさを、
「さあ、もう……」
わたしの苦笑とともにでた言葉に、彼はそっと身を引き、ドアノブをそっとひいて押すと、きりとられた世界から朝の空気が舞い込んでくる。この世界に生きて、ゆいいつ、わたしが彼と彼とのこの朝の逢瀬以外にすきだとおもう、朝のきよらかな酸素が、わたしの肺をみたす。すいこめばちくちくと肺の痛むような、すこし、刺激の強いそれ。
いってきます。
口のなかでそう言い、靴をはいたのちそとに踏み入れ、後ろ髪をひかれるおもいで部屋の中を見つめる。そこには、彼が、彼のうすいブラウンのひとみが、わたしを見つめ、すこし名残惜しげに、それでもあきらめたように細められている。
くちづけを、そのとうめいの、くうきの彼に残すと、わたしはドアを閉めた。
「……、」
「ああ―――、」
これだから、世界は、嫌いだ。
「お前、また」
ドアを閉めた、わたしと彼の空間のむこうがわ、とびらの向こうのこちらの世界にでるたび、
「あいつは、死んだんだぞ」
わたしは、となりにすんでいる彼の弟に、そんな事実をつきつけられるのだ。
―――ねえ、あなた、あなたはまだ、死んでなど、いないはずなのに。




