表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

そこに彼はいたか

作者: 藤沢藤秋
掲載日:2010/01/12

 時計はもう、世界を四分の一、進もうとしていた。

 会社から家は遠い。まいにち快速に乗り、始業よりすこしだけはやめに着いたら、朝食を行うと決めている。たべるのはまいにち自分のデスクで、最寄のコンビニのすみにおかれている、カフェオレだけ。不人気のそれはいつも商品の位置やらそろいかたが、ほかの商品よりも手付かずで、ラベルに書かれている商品名は自分にまっすぐと向いている。おそらく、自分がいちばん手前におかれている商品をとるまで、店員が配置したままでいるのだろう。毎朝の恒例、習慣といっていい。

 その習慣がはじまったのはいつごろだろう。彼と別れてからだろうか。一年前までものであふれかえっていたこの空間も、彼がいなくなったあとは整理されることはなく、自分の仕事の書類とすこしの生活雑貨だけが、すこし浮いたように置かれているだけだ。だから、この空間を家もしくは部屋とはよばず、あなぐらと呼ぶことにしている。彼がいなくなってから、この空間に意味はなくなり、この空間は、ぐうぜんできた穴で、そこにたまたまものがあるから住み着いているようなものだ。だって、部屋には彼が買ってきてくれたはずのカーペットも、マットも、ふたり用のテーブルもベッドも、もうなくなってしまったから。

 そのもののない空間で、時計が六時をさすまえに、ひとり、床でまぶたを閉じる。床はカーペットがない(だって、彼と別れてしまった)から、フローリングがむきだしで、すこしつめたいけれど、でも散らかった書類の紙のあたたかさで、肌がびくつくことはない。シャツやジャケットがしわにならないように、ぱりっと下に引っ張って、いつものように目を閉じる。

 時計は騒音対策に、かちかちという音の鳴らないようにしてあるやつだから、部屋にひびく音は何も無くて、ただ、たまにとなりやうえやしたから、生活の音が聞こえてきたりはして、さまざまな部屋のさまざまな生活のにおいをかいだりしながら、あの感覚を待つのだ。六時きっちりに、からだをゆさぶる、彼の手の感覚を。

「……、」

 ほら、また、きた。

 彼がやってくる。

 左腕に、わずかな重み。ぱちりと、目を開くが、そこに姿はなく、床から起き上がった。その動きに、あたまのしたやからだのしたに敷かれていた書類がはらはらと、なんまいか舞い上がった。

 彼は昔から時間にうるさいひとで、集合にはきっかり五分前にやってくるようなひとだった。その性質があわさり、そんなに親しくは無かった学生時代に、仲間うちで集合するときは、よく五分前に彼とまず待ち合わせ、待ち人たちが来るまでぽつりぽつりと話したものだった(たとえば、愚痴や、学校のうわさ、すきなもの……、本、ゲームに……すきなひとのこと、など)。その性質は、別れたあともずっとのことだ。彼は、毎朝、ねむるふりをする自分を起こしにやってくる。

 立ち上がると、かばんをひだりに、キーケースを右手にもって、玄関へむかう。そして、装飾の金がはげかけた、細かな傷の目立つドアノブに、手をかけた。その手のうえに、彼の、手が。

(××……、××……、)

 彼が、わたしを呼ぶ。

「はい、どうかしましたか」

 うわごとのようなそれに、わたしは、ただ微笑む。

 耳元でかすれるような、ちいさな声がわたしの名前を呼び、その声はかさなって、ああ、ああ、なんて心地のいいひびきだろうか。

(××、××、……もう、いくのか、)

「ええ、もう、時間ですから」

(なあ、もう、)

「ええ、ですから、」

 からだじゅうが、あたたかさにみちていく。彼のからだが、そっと寄り添って、体温を分け与え、わたしたちはこの世界でゆいいつの、ふたりであり、ひとつであり、しあわせであった。

(なあ、もう、)

「……あいして、いますから、」

(××、)

 あまいにおいのするような、彼の吐息と、それから、とろけるようにあまい自分の名前が、鼓膜を、頭をぼんやりとさせて、ただひたすらに、咽喉にからむような、そのあまさを、

「さあ、もう……」

 わたしの苦笑とともにでた言葉に、彼はそっと身を引き、ドアノブをそっとひいて押すと、きりとられた世界から朝の空気が舞い込んでくる。この世界に生きて、ゆいいつ、わたしが彼と彼とのこの朝の逢瀬以外にすきだとおもう、朝のきよらかな酸素が、わたしの肺をみたす。すいこめばちくちくと肺の痛むような、すこし、刺激の強いそれ。

 いってきます。

 口のなかでそう言い、靴をはいたのちそとに踏み入れ、後ろ髪をひかれるおもいで部屋の中を見つめる。そこには、彼が、彼のうすいブラウンのひとみが、わたしを見つめ、すこし名残惜しげに、それでもあきらめたように細められている。

 くちづけを、そのとうめいの、くうきの彼に残すと、わたしはドアを閉めた。

「……、」

「ああ―――、」

 これだから、世界は、嫌いだ。

「お前、また」

 ドアを閉めた、わたしと彼の空間のむこうがわ、とびらの向こうのこちらの世界にでるたび、

「あいつは、死んだんだぞ」

 わたしは、となりにすんでいる彼の弟に、そんな事実をつきつけられるのだ。


 ―――ねえ、あなた、あなたはまだ、死んでなど、いないはずなのに。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ