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上野駅の掲示板

作者: 山村 京二

励みになりますので、作品の感想や応援コメントよろしくお願いいたします。

■第1章:営業部の先輩


ひいらぎ 浩一郎こういちろうは都内の商社に勤める入社2年目の若手営業マンだ。父を早くに亡くして女手一つで育ててくれた母に恩返しがしたいという一心で必死に勉強して大学を卒業、競争率14倍という難関の就職活動を見事パスしてやっとの思いで入社した会社に勤めている。


6つ年の離れた兄がいるが、早くに結婚して長男にもかかわらず婿養子になった。しかし、仕事で失敗をして離婚し、今は実家に戻っている。そんなこともあってか、母の期待は浩一郎に注がれていることは、浩一郎自身がよくわかっていた。兄の分まで自分が頑張るんだと意気込んでおり、とても家族思いの青年だ。


浩一郎の所属する部署は20人程度の部署で部長の小早川こばやかわは浩一郎から見ても非常に仕事のしやすい人間で、何かあるとすぐに相談に乗ってくれるまさに理想の上司だ。


そんな浩一郎の部署でひときわ目立っていたのが7年先輩の立花たちばな あかねだった。茜は仕事もでき口も達者だったことから、部長の小早川にさえも食って掛かることがあるほど男勝りの女だ。ただ、その容姿は誰もが認める美人で、細い肩にかかる長い髪をなびかせて、小さな整った顔立ち。それでいて、出るところは出ているという映画スターのような風貌だった。


当時の日本では女性もスカートにスーツというのが主流だったため、茜もグレーのタイトスカートをよく着ていたが、他部署でもその美貌に噂が立つほどの美人だった。そのため言い寄ってくる男は社内外でも多く、そのたびに理詰めで捲し立てる茜に度肝を抜いて逃げ帰る男は後を絶たなかった。


茜と浩一郎は同じ営業グループだったので、仕事が一緒になることが多かった。ある日の昼休み、茜が昼食行こうと浩一郎を誘った。横浜の会社にアポがあったので中華街で食事を済ませようということになったのだ。雑踏の中をカツカツと茜のヒールが音を立て、その音を追いかけるように浩一郎はついて行った。


浩一郎は入社して2年になるが、都会の人の歩く速さにはまだ慣れていない様子で『茜さん、ちょっと待ってくださいよ』そう言いながら小走りに茜を追いかけるも『早くしなさいよ!営業でしょ!』といつも茜は振り返りもせずに言い放つのだった。


ある中華屋に入ると茜は手早くメニュー表を開いて『もう決まった?』と浩一郎を急かした。『いや、まだ・・・』浩一郎が言いかけた時、『もう、グズなんだから!ここは私のおすすめだから同じのでいいよね!?』そう言って店員を呼び止め、麻婆炒飯セットを2つ注文した。『あと、食前で春雨スープ2つ』茜が慣れた様子で注文をすると、中国なまりの店員は厨房へ帰っていった。


『ここね、店員の愛想はないんだけど味は私が保証するわ!』何に対しての自慢なのか茜は強い口調でそう言った。とりあえず腹が満たされればそれでよかった浩一郎は、適当に話を合わせて、ふと開いた店の入り口から見える雑踏のほうを指さした。


『横浜駅って、掲示板ありましたっけ?初めて見たような気がします。』そう言って店員が持ってきた水を一口飲むと、『あー、確かに。都内だとどこの駅にもあるけどね。掲示板かー・・・』茜の声色が聞いたことないくらい細くゆっくりとした口調になったのを察した浩一郎は、『どうかしましたか?』と尋ねた。


『・・・うん、まぁ・・・』珍しく攻め時だと思った浩一郎は『なんですか?教えてくださいよ。茜さんらしくないじゃないですか。』と詰め寄った。『そっか、浩一郎君は入って2年だもんね知らないのも無理はないか。えーっと、私が入社して半年くらいの頃の話なんだけどね。』と話を続けた。


■第2章:強気なキャリアウーマンの弱点


茜が入社した時には、すでに就職倍率は5倍以上という難関企業だったものの、茜は持ち前の行動力と発言力で入社試験を突破した。入社してからも仕事の覚えが早く、3か月もする頃には部内でトップの営業成績を残して表彰されていた。そんな茜にも一つだけ弱点があった。それは田舎出身だったということだ。田舎出身であること自体はそれほど咎められる事もないのだが、電車主体の都会の生活に茜はなじめず、上司との待ち合わせや客先への訪問に苦労していた。


小早川に相談した茜だったが、『慣れるしかないな。そうだ、駅の掲示板を使ったらどうだ?まぁ、あまり仕事で使っている人は少ないがな。ただ、客先に遅れるよりはいいんじゃないか。慣れるまで使ってみるってのも一つの手だと思うぞ。』そう助言された。『掲示板ですか?』茜が聞き返すと、『ああ、お前の営業エリアは上野駅近辺だろ?上野駅だったら改札を出たところに掲示板があるから、そこで客先と連絡を取るようにしたらいい。俺が先方の社長に根回しはしておくから。』そう言い終わると、小早川は秘書からの呼び出しに席を立った。


それからというもの、小早川の根回しもあって、茜は駅の掲示板を利用して客先と連絡をとり、商談に遅れることもなくなった。ますます営業成績を上げていった茜は小早川に御礼を伝えた。掲示板が非常に便利だと感じた茜は、プライベートでも掲示板をよく利用するようになった。都会に出てきて仕事も慣れてきたころだったため、友達が出来たことがその理由だった。


特に、美人の茜を周りの男が放っておくはずもなく、次から次に食事の誘いがあった。ただ、茜は電車が苦手だったことからほとんど断っており、社内の知り合いぐらいとしかプライベートを共にする事はなかった。これからは仕事に関係のない人とも仲良くなれるかもしれない、茜はそんな期待を掲示板という存在に感じていたのだ。


ある日の仕事終わりに、茜は最寄りの駅でとある男性と待ち合わせをしていた。この男性とは近所のスーパーで買い物している時に声を掛けられて、何度かアタックされていた。当初は断っていたが、掲示板を利用するようになった茜は週末にデートの約束を承諾したのだ。駅に着いてみると、掲示板に次のように書いてあった。『茜さん 仕事が長引きそうなので今日はご帰宅ください。明日、約束の時間にここで。 智一』例の男性からの書置きだった。


『なんだ、残業ってことか』少し残念に思っていた茜だが、明日はすでに約束しているし、今週は外回りが続いていたこともあり、疲れていたので丁度いいと考えていた。時間が出来た茜はいつものスーパーに寄って、つまみと缶ビール2本、そして今朝方使い切ってしまったゴミ袋を購入した。


ツルツルしたスーパーの袋は疲れていた茜を苛立たせた。まだ若かった茜はスーパーで見るオバサン達がやるように、指を舐めて袋を開けるという行為をしたくなかったからだ。ようやく開いた袋に買ったものを詰めていると、ふと誰かに見られているような気がして視線をゆっくりと上げた。頭は動かさずに目玉だけをキョロキョロさせてあたりを見てみるが、特に自分を見ているような人は居ないことに気づいた。


『今週は頑張りすぎたかな・・・多分気のせいでしょ。』


元来カラッとした性格の茜はそう心の中で呟いて荷物をまとめると、仕事カバンを肩にかけて左手でスーパーの袋を持ちながら、右手で後ろ髪を掻き上げた。スーパーから茜の住むアパートまではそれほど距離はないので、いつも歩いて帰るのが常だったが、仕事で歩き回っている茜にとっては、なるべく歩きたくないといつも思っていた。


『ただいまー』


今にも切れそうな蛍光灯がチカチカする階段を、ヒールで踏み外さないように上りながら、茜はいつものようにつぶやいた。ポケットから取り出したキーホルダーで玄関をガチャガチャやった後、キーっと小さく軋むドアを開けながら茜は部屋の中に入った。茜が住んでいるアパートは社宅になっており、家賃は会社が負担しているので生活は楽だった。


ただ、当時は女性の一人暮らしに対しての配慮はそれほど十分ではなかったため、裏通りに面したこのアパートの立地には茜は不満をいただいていた。それでも、2DKの間取りで築年数も12年とそれほど古くない社宅のアパートは、都内ということを考えればかなり贅沢なもので、さすが一流商社と言わざるを得ない。茜は仕事から帰りこの間取りを眺めるたびに就職試験を頑張ってよかったと自分を褒めているのだった。


買ってきたつまみを電子レンジで温めながらスーツを脱いで部屋着に着替えようとした瞬間、茜はさっきの嫌な感じがした。ふと窓の方角を見るとカーテンが開いている。さすがに女性の一人暮らしでカーテンを開けたまま着替えをするのは良くないと思った茜は、窓際へと歩み寄った。次の瞬間ー


『え!?』


茜は息を飲んだ。


15cmほど開いていたカーテンを閉めようとしたその刹那、窓の外の裏通りに人影が見え、自分のほうをじっと見ているような気がしたのだ。思わず後ずさりしてしまった茜だが、意を決して再度窓の外を覗いてみたが、そこには誰もいなかった。『なーんだ』カラッとした性格の茜だったがその時ばかりは自分に言い聞かせるかのように意識して声に出していった。


■第3章:お守りのキーホルダー


智一と約束した土曜の11時20分、茜は待ち合わせ場所である最寄り駅の掲示板前に向かっていた。9時には起きて化粧も済ませて準備はバッチリだった。昨日のことがあったのでカーテンや窓の戸締りは入念に確認した。


待ち合わせ場所に向かうと、智一は先に待っていた。『ごめんなさい。待たせちゃったかしら?』そう言いながらも茜は、時間通りであることを腕時計で確認しながら、なかなか紳士的である智一の様子に感心していた。


『全然ですよ。時間作ってくれてありがとう。いやー、うれしいな!さ、いきましょう!』智一は念願のデートに喜びを隠せない様子で、茜をエスコートした。車通りが多い道では車道側に立ち、茜のペースに合わせて歩いてくれる、まさに紳士を絵にかいたような智一のふるまいに茜は好感を抱いていた。


ただ、一つだけ茜を落胆させたのは案内された食事だった。蕎麦だった。初デートで麵ものを選ぶのはどうかと思ってはいたが、口には出さず、なるべく上品に食べることを心掛けた。それでも智一の印象がとてもいいものであることは変わらず、茜は満足していた。


喫茶店で少し話をして、帰ろうという段になった時、智一はすかさず次の予定を聞いてきた。『その辺もなかなかしっかりしているのね』と茜は思ったが、悪い気はしなかったので鞄から手帳を取り出してスケジュールを確認した。『来週も土曜日は空いてます。日曜は母が来るので、土曜が都合いいですね。』そう言いながら智一を見た。智一もそれを了承し、来週もデートをすることになった。


今度は麺もの以外でお願いしたいと言いかけたが、茜はそれを飲み込むと、最寄り駅の掲示板の前で智一を見送った。改札に入っていく智一を見守りながら、見えなくなる寸前で振り返った智一の顔は笑顔だった。小さく手を振る智一に茜も手を振り返した。『これって恋愛なのかな』なんてことを考えながら、手帳に来週の約束の日時を書きこんだ。


自宅へ帰ろうとすると足元にピンク色のハンカチが落ちているのに気付いた。茜はピンク色のハンカチは持っていないし、智一がピンク色のハンカチを使っていたとしたらちょっと考えてしまう。おそらく落とし物だろうということで、改札の脇にある交番に届けることにした。


交番には一人の警察官が居たので、引き戸をガラガラっと開けて『すみません、落とし物を届けに来ました』と茜は警察官に挨拶をした。


『あ、ご丁寧にご苦労様です』その日勤務していたはやし 隆文たかふみ巡査が茜を迎えた。『持ち主が現れた時に謝礼は求めますか?』とマニュアル通りに林巡査が尋ねたので、『いや、ハンカチくらいなので結構です。大切にしてくださいと伝えてください。』と少し含み笑いをしながら茜は答えた。


『了解しました。ご協力ありがとうございます。』林巡査は敬礼しながらそう言うと、『夜道は暗くなりますから、これ使ってください。』と茜に反射板が付いたキーホルダーを手渡した。


『これなんですか?』


『OLさんとかだと、地味な服を着ていることが多いじゃないですか。車からだと思った以上に見えないんですよね。でも反射板があると、それが目印になって人が居るってわかるんです。』


林巡査は方にかけたペンライトで反射板を照らしながら説明した。『あーそういうことですね。でも青い反射板って珍しいですね。自転車とかで赤とか黄色なら見たことあるけど。』茜はキーホルダーをマジマジと見つめながら言った。


『あぁ、それは山口県限定で作成されたやつなんですが、あまり見かけないので余ったみたいで。先日出張の際に少しもらってきたんです。だから経費も掛からないので差し上げます。お守りにでもしてください。』


林巡査はちょっとバツが悪そうにそういったが、茜は好意を素直に受け取った。男勝りな茜にとっては、赤や黄色よりも青いキーホルダーで良かったとすら思ったくらいだ。


■第4章:ストーカーの影


『青い反射板なんてあまり見かけませんけど、貰い物なら何でもいいですかね』


提供された麻婆炒飯をつつきながら、浩一郎が茜にそう言った。さすが本格中華の店だけあって味はうまいが、まだ熱いので冷ましながら浩一郎は茜に尋ねた。


『そうなのよ。でもね、ここから話が変わってくるんだけどね』茜は自分の口元を左手で隠しながら小さな声でそう言った。


2回目の約束以降、茜は智一と何度か食事を重ね恋仲になった。お互いの家にも行くようになり、週末に泊りで出かけることもあった。そのうち男女の関係にもなって順調に交際していた。しかし、スーパーで感じた、あの誰かから見られている視線はその後も実は続いており、智一にも相談していた。


ある日、仕事終わりに智一に書置きを残すために掲示板へ立ち寄った茜は、例の誰かに見られている視線を感じた。すぐにその視線を感じた方向を見ると、交番の隣に見知らぬ男が立っていて、しばらくすると自分と目が合った。男は不思議そうな顔をしながらこちらを見つめて、口元が緩んだと思った瞬間、足早に駅の改札へと歩いて行った。


背筋が凍るような思いで茜が掲示板へ向き直ると、心臓が高鳴っているのがわかった。あの男が自分の事をつけてきているのではないか、もしくはストーカー?『夜な夜な窓の外に感じる視線もあの男だとしたら?目的は何?男なら声をかけてくればいいのに!』不安と憤りを感じながら茜は掲示板に書置きを残すと、すぐさま交番に駆け込んだ。


そこには例のキーホルダーをくれた林巡査が電話をしている姿があった。『ええ、わかりました。当直の担当には伝えておきます。それじゃ。』そう話し終わると、茜に気づいた林巡査は小さく敬礼をしながら『先日の。どうされました?ハンカチはまだ持ち主が見つかってませんが。』そう言い放った。


『いや、実はその・・・勘違いかもしれないんですが・・・』茜が言いにくそうにしていると、林巡査はパイプ椅子を広げながら茜を促した。


『それで、どうされました?』


『実はさっき、知らない男の人にじっと見られていたような気がしたんです。顔は見たことなくて知り合いでもないのですが、私がその男の人のほうを見たら目をそらしたんですが、そのあと目が合って・・・それでもその人動じずにずっと見ていて、しばらくしてニヤッと笑った気がしたんです。そのあとすぐに駅に入っていってしまったんですが・・・』


明らかに動揺している茜に向って林巡査は落ち着くように諭した。


『仕事帰りとか、待ち合わせで掲示板よく使っていらっしゃいますよね?駅に来た時だけでも警戒できるように、その男の特徴を教えてもらえますか?いや、正式な捜査というわけではなく、私個人のできる範囲でということになりますが。』


そういうと林巡査はノートを開いて男の特徴を訪ねた。『太り気味で短髪、眼鏡をかけてTシャツにジーパンですね。身長はどのくらいですかね?』ノートに走り書きをしながら林巡査は続けた。『多分オタクっぽい感じだったと思います』茜がそう告げると、『バンダナは何色でしたか?』林巡査が質問した。


『え?』


『いや、オタクの人ってバンダナを鉢巻みたいに巻いてる人が多いじゃないですか』


『あー、そこまで覚えてなかったなぁ・・・オレンジか、赤か・・・』茜があやふやに答えると、『わかりました。とりあえず、この服装の人が居たら警戒するようにします。戸締りはしっかりしてくださいね。あ、それと念のため住所もお伺いできますか?何かあったらご連絡しますので。』そう言って巡査はノートを茜に手渡した。


茜は藁にもすがる思いで、自分の名前、電話番号、住所、部屋番号を記載して林巡査に手渡した。これで、しばらくは大丈夫だと自分に言い聞かせる茜だったが、さすがに不安だったのか、田舎の母親に電話で近況を相談したのだ。


母親に相談したのは、駅で見かけた男の姿に留まることなく、最近ではそれ以外にも妙なことが立て続けに起こっていた。というのも、仕事をしている最中に小早川部長に呼び止められて、自分宛の電話だと言われ出てみると無言電話で、こちらがいくら問いかけても喋らない不気味な電話がかかってきたり、最寄り駅の掲示板で智一と連絡を取るために書置きを残そうとすると、『茜さん 昨日はお仕事早く終わったんですね。もっと遅いと思ってたのに。』という差出人の名前がない書置きがあり、後日智一に聞いたらそんな書置きは残していないと言われたり、極めつけは、ある日の仕事帰りに、いつも通りチラチラと点滅する蛍光灯を上り、自分の部屋へ入ろうとすると、郵便受けに茶封筒が入っていた。


中身は手紙のようだったので、玄関に入ってから部屋着に着替えて封を開けると、1枚の便せんが入っていた。そこにはこう書かれていたのだ。


『君を見ている。君は素晴らしく美しくまっすぐな人だ。I rob you 今すぐにでも会いに行きたい』という気持ちの悪い手紙が入っていたのだ。


林巡査に相談にも行ったが、ありふれた手紙の内容だし、脅迫めいた記載もない、無言電話は妙だが、実害がないと警察としては動けないので今は様子見をしてほしいという回答だった。どうすることも出来ず、気持ちの悪い出来事ばかり起きるので、さすがの茜も憔悴しきっていた。


ここまで聞き終えた時に、麻婆炒飯を食べ終えていた浩一郎は、茜の話をさえぎって『その手紙、おかしいと思いませんでしたか?』と疑問を投げかけた。『何が?』と聞き返す茜に浩一郎はこのように説明した。


『いいですか、書いてある文章は正直ストーカーが送ってくるような・・・もちろん、それがストーカーだったとしたらの話ですが、巡査の言うように大した内容ではないと思うんですね。ただ、英語が間違っていますね。もしくはあえてそうしたのかも・・・』浩一郎は怪訝な表情を浮かべた。


『さすが浩一郎君、頭がいいんだね。私は英語が苦手だったから、”love”の綴りを間違えたんだとすっかり思い込んでいたの。でも彼に・・・智一に相談したら、それは”君を奪いに行くっていう悪ふざけなんじゃないか”って言われて初めてゾッとしたのよ。』


『rob』というのは英語で『奪う』という動詞だ。もし仮に智一の言う通りの意味で書かれたとしたら、茜の身に危険が及ぶのではないかというのも納得できる。しかし、実害がないという点で警察が頼りにならないので、母親に相談したほうがいいと助言したのは智一だった。茜としては智一にもっと心強い一言を言ってほしかった気持ちもあるが、状況が状況だけに彼の指示に従った。


思い出しながら話をする茜に、的確な質問をぶつけてくる浩一郎には、感心するとともに『年下のくせに』という気持ちと若干の違和感を感じながらも、もう冷め切った麻婆炒飯をよそりながら、その後の流れを茜は話し出した。


■第5章:茶封筒とパトロール


その後も何となく気持ちの悪いことは続いていたが、母親が遊びに来る回数を日曜と水曜の週2回にしてくれたこと、智一が気を遣って電話をかけてきてくれることが茜の心の支えになっていた。手紙が届く事はあれから無かったが、窓の外や出先で感じる視線は続いており、次第に買い物も母に任せることが多くなっていった。


そんな矢先、茜にとって一大事が起きる。


智一の自宅に、嫌がらせと思われる鶏の死骸と『立花茜と別れなければお前を呪う』という文章が書かれた手紙が送りつけられてきたというのだ。それ以外にも無言電話がかかってきたり、夜中に玄関をノックする音が聞こえたりと、誰だかわからないものからの嫌がらせが続いているというのだ。茜は自分のせいで智一に被害が及んでいることに心を痛め、自ら智一に別れを告げた。


智一は『自分は大丈夫だよ!いざとなれば、林巡査が力になってくれるだろ?そんなこと言うなよ。』と引き留めたが、そのころの茜はストーカー被害に悩んでいたためかすっかり元気がなく、これ以上自分の周りで被害を広めたくないという気持ちが勝っていた。茜のハッキリとした性格を理解していた智一は一通り自分の気持ちを告げると『わかった』とだけ返事をして、『でも、ことが落ち着いたらまた掲示板に連絡をくれよ。俺、待ってるからさ。せっかく口説いた美人をみすみす逃したくないしな!』とわざとらしく明るく振舞った。茜はコクリと頷いただけで、それきり智一には連絡を取ることはなかった。


1週間も経たないうちに今度は茜の家にまた茶封筒が届いた。


『そうだ。君は僕こそ相応しい男なんだ。早く気付いてほしい。』


そんな内容の手紙が送られてきた。ビリビリに破って窓から捨てようとカーテンを開け、裏通りに面した窓から、まるでシュレッダーにかけたように細かく千切られた便せんを捨てようと思った瞬間茜は悲鳴を上げた。


『ギャッッ!!』


裏通りにはギラギラした目でこちらを見つめている男の影があるのだ。咄嗟にしりもちをついた茜だったが、顔を上げるとそこには男の姿はなく、いつもの人通りの少ない裏通りが静かに佇んでいた。急いで窓を閉めてカーテンをピシャっと締めると、茜は部屋着から外に出ても恥ずかしくない格好に着替えた。とにかく今起きたことを林巡査に相談するためだった。もう夜も遅いので、林巡査が居るとは限らなかったが、とにかく交番まで走った。


交番には煌々と明かりがともる中、林巡査ではない遅番と思われる警官が書類仕事をしていた。


『すみません!○○アパートの立花と言います!』挨拶もせずに交番に駆け込んだ茜を、警官はびっくりした様子で見つめたが、『あー、立花さんですね。林巡査から聞いてますよ。何かあったということですね!?』と椅子を促した。茜は息を切らして自分が見たこと今起きたことを当直の警官に話し、林巡査に伝えてほしい、できれば自宅の警備をお願いできないだろうかということを相談した。交番の電話を借りて母親にも電話をして、その場で事情を話し、母からも警察に対して依頼をしてもらった。


茜の必死な様子が伝わったのか、当直の警察官が本部に連絡を取ってくれたおかげで『近隣の見回り』という名目で事実上の警備をしてくれることとなった。ただ、個別の対応をあまり長くは続けられないので、1週間の期限付きというのが条件だった。それでもお願いしたいと茜は承諾し、その場で非番だった林巡査が交番に駆け付けてくれた。


『状況は本部から連絡を受けました。これから私がご自宅までお送りしますので、安心してください。そのあとは夜中の2時まで近辺をパトロールします。もっと早い段階で動くことが出来ずすみません。』


林巡査のその話に安心した茜は少し涙を浮かべながら、当直の警官が出してくれたコーヒーをすすった。


■第6章:すぐそこに迫る影の正体


林巡査に先導されながら茜は自分のアパートへのゆっくり歩いた。いつもは少しでも早く帰りたい一心で速足はやあしで歩くのだが、今はそういうわけにもいかない。いつも通っている道にも関わらず、まるで始めてきた道かのようにあたりに警戒しながら、ゆっくりゆっくりと歩いた。『大丈夫ですか?』と背中越しに林巡査が声をかけてきたが、『ハイ』と返事をすることしかできなかった茜だが、『彼氏さんとも別れなきゃいけなかったなんて大変でしたね。さすがに犯人の行動がエスカレートしていますね』と林巡査は続けた。


林巡査の話はほとんど聞いてなかった茜だが、先ほどの男の影を思い出して妙な不安と違和感に駆られた。それでも、今は林巡査が自分の前を歩いてくれていることだけが心の頼りだった。


家に着くと林巡査は茜のアパートの部屋の玄関まで来たところで、『戸締りはしっかりしてくださいね。何かありましたら交番に電話をしてください。交番から連絡を受けて私が駆け付けますので』そう茜に告げた。『ありがとうございます』と深々と御礼をして茜はバタンッっと玄関の扉を閉めた。


やっとの思いで自宅に帰ってきた茜は交番に行くときに化粧をしていなかったことを思い出して、少し恥ずかしい気持ちに駆られた。ただ、夜だったこともありそんなことはどうでもいいかと、いつものカラッとした茜の性格が出ていた。それはそれで、ある程度気持ちが落ち着いた証拠だと茜自身も感じていた。その晩は特に何もなかったので、23時を回ったくらいに茜は布団で眠りに落ちた。


次の日も仕事から帰ると交番に立ち寄り、林巡査に同行を頼んだ。


昨日と同じように林巡査は自分の前を歩いてくれた。


『それでは、何かありましたら交番まで』


林巡査はそう告げると昨日と同じように近所をパトロールすると話した。


茜が鞄をテーブルに置き顔を上げた瞬間、『あ!!』と声を上げた。相当大きな声だったのか、まだアパートの敷地を出た位に居た林巡査が戻ってきて、玄関越しに『どうしました?立花さん?』と声をかけた。茜は玄関のカギを開け、チェーンロックを外して林巡査を迎え入れ、悲鳴を上げた理由を話した。


それは、朝は間違いなく閉めたはずのーーそもそも最近は開けてすらいないはずのカーテンが開いていた。それだけではなかった。自分の衣装箪笥が荒らされており、辺りには下着が散乱していたのだ。見る見るうちに茜の表情は強張りガタガタと震え始めた。


状況を理解した林巡査は『少し待ってください』と告げその場で無線で交番に連絡を取った。今目の前で起きている事を説明し、本部に了解を取ってほしい旨話していた。実害を現認したので、期限が来るまでの残り数日、茜の要望次第では自宅で一緒にいてくれるということ、茜の仕事中は見回りを強化することなどを連絡していた。本部の了承が取れたようで、『しばらくは安心できると思います。』と林巡査は茜に話した。『そ、そうですか・・・』と茜は返事をしながら、さすがに林巡査と言えども自分の下着が見られるのは憚られるので、手早く片付けた。


林巡査は無線を終えると、『どうなさいますか?少しの時間ご一緒しましょうか?』と茜に促した。しかしながら自分の下着を見られた男性が同じ空間にいるという恥ずかしさに耐えられなかった茜は『また何かありましたら交番までご連絡させていただきます。お気遣いいただきありがとうございます。』と丁寧に御礼を述べ、『良かったら』と冷蔵庫にあったシュークリームを林巡査にふるまった。


次の日も茜は仕事を終えると交番まで出向き、林巡査に自宅までの帰路を同行してもらうよう依頼した。自宅までたどり着くと、『今日はどうされますか?ご一緒しますか?』と林巡査は茜に尋ねた。茜は今日も丁寧に断ると玄関のドアを閉めた。


またその次の日も交番に行こうとすると、林巡査が掲示板で待っていたので、家までの数分を同行してもらったが、明日で警察の警備も一旦期限を迎えることに茜は大きな不安を感じていた。『皆さんに警備をしてもらってから、茶封筒も届かなくなったんですが、またいつもの生活に戻ったら、それも同じようにまた続くんじゃないかって不安で・・・』茜はうつむきながら林巡査に相談した。


『大丈夫ですよ』


林巡査はいつもと同じような足取りで、茜の歩幅に合わせながらそう言った。


『今日は一応明日が最終ということもあり、窓の外を確認させていただきたいのですが大丈夫でしょうか?』林巡査は薄い青色をしたバインダーにまとめた書類を手に持ちながらそう言った。『はい、お願いします。』茜がそう答えると、林巡査は無言のまま、いつものようにアパートの階段を上がっていった。茜が玄関のドアを開けると、『それじゃあ、窓と玄関、それから念のためお手洗いの窓、これらが外部からの侵入経路になると思うので、戸締りの具合や鍵の形状を記録させてもらいますね。』と林巡査は仕事を始め、茜にはトイレの点検が終わったら声をかけてほしいと告げ、着替えを促した。


茜が着替え終わり林巡査に声をかけると『では、次は玄関ですね』と言って、玄関の調査を始めた。茜は警備の期限が終わってしまうことを考えると不安になり母親に電話したが、どうやら母は出かけているらしく電話は繋がらなかった。


『では最後に窓を確認させてください。』


手際よく林巡査が仕事を終えるので、全てのチェックまで、そう長い時間はかからなかった。茜はさすがにまたシュークリームではバツが悪いと感じたのか、お茶菓子とコーヒーを淹れ、『全部終わったら召し上がってください』と林巡査に声をかけた。『ありがとうございます。』林巡査は小さく敬礼しながら言った。


と、その時、茜の家の電話が鳴った。


少しビクビクしながら出てみると、茜が住むアパートの大家さんからの電話だった。


『あぁー・・・立花さんですか?警察からお話窺ってますよ。色々と大変みたいですね。大丈夫ですか?』警備を始めてからもう数日が経つが、遠方に住んでいる大家さんがようやく話を聞きつけて心配して電話を寄こしたのだ。


『はい。警察の方に色々とお世話になりまして、大事には至ってないです。』茜は答えた。


『そうですか。それは良かった。合鍵も警察の方に送ってあるので、何かあればすぐに駆け付けてくれると思うんですがねぇ。』大家は言った。


『合鍵・・・?それはいつのことですか?』茜は少し声を落として聞いた。


『えぇーっと、4・5日前ですよ。ほら、窓から人が覗いてたとかで、立花さん、夜に交番に行ったでしょ?その次の日に警察から電話をもらってね。捜査協力して欲しいってことでお電話もらったんですぐに車で届けたんです。・・・名前は、林・・さんだったかな。』


茜は受話器を落とした。気にしないようにしていた違和感と大きな不安が茜の中で全て繋がったからだ。それと同時に、背後にかすかな息遣いが聞こえ、恐る恐る振り返った。


そこには、林巡査が仁王立ちしていた。


『まさか、あなたが・・・』茜は今にも途切れそうな弱弱しい声で呟いた。目には涙を浮かべ、歯をガタガタと震わせながら、小刻みに揺れる右手で林巡査を指さした。


『アハハ。やっと気づきましたか。いやー、時間が掛かりましたね。一目見た時からね、綺麗な方だなって思ったんです。僕はあなたがお仕事でここに住むことになったくらいから、ずぅーっとあなたの事を見ていたんですよ。』林巡査は、ニタニタしながらゆっくりとした口調でそれでいて紳士的なふるまいはそのままに、茜と距離を取って薄い青色のバインダーを持ちながら言った。


『いやー、長い黒髪に小さな顔、女性らしい体つきにタイトスカートはお似合いですよ。まるでショーケースに並べられた美少女フィギュアそのものじゃないですか。アハハッ!アハハッ!ハーハハハッ!!』林巡査が持っていた薄い青色のバインダーがガサっと床に落ちると、茜を隠し撮りした写真があたりに散らばった。通勤途中の写真、買い物をする写真、部屋で着替えをしている時の写真まで、そこには、まざまざとストーカーの仕業が散らばっていた。


『この辺じゃ珍しいあのキーホルダーをまさか律義にバッグに付けてるんですから。あなたが居るとすぐに分かりましたよ。我ながらあれは傑作でした!アハハハッ!』


『変態!アンタが犯人だったんだね!今すぐ交番に行ってやるから!』茜は泣きそうな金切り声で林巡査に言い放った。


『おかしいと思ったんだ!夜中に交番に駆け込んだ時、彼氏の話はしてなかったのにアンタはそのことを口にした。一番最初に交番に相談に行った時も、不審な男性としか言ってないのにバンダナの色を聞いて来たり、アンタは交番から私を見ていたからその場にいた男性の事も見ていたってことでしょ!!!?』


茜は近くにあった箒を持ちながらそう言った。箒を振り回して林巡査を牽制しながら、茜は玄関のドアへと近づいて行った。テーブルを挟んで向こう側にいる林巡査に箒を投げつけた瞬間、急いで玄関のドアから出ようとサンダルを履いた。


ガタッ、ガタガタ、ガタンガタン


なぜか鍵が開かない。『なんでよ!!?』茜は叫んだ。後ろには林巡査が迫っていた。振り向くと帽子を取った林巡査の姿があり、『もう逃がさないよ・・・』と呟きながら、茜の首筋に両手を回してきた。さすがにもうダメだと思った茜は抵抗することもできず、林巡査に引きずられながら、ガタガタと震え、涙で顔はグチャグチャになっていた。


『僕はね、フィギュアが大好きなんですよ。だから、傷つけたりはしたくないんです。でも、自分のショーケースに飾りたいという欲求はもちろんあるわけで』そう言いながら、林巡査は茜の髪の匂いを嗅いだ。『いやー、本当にアニメのヒロインみたいだ。こんな女性が世の中にいるとは・・・』林巡査はなおも震える茜の顔を自分のほうへ向けてそう言い放った。


『気持ち悪いな!離してよ!!』


茜は林巡査の腕を振り解こうとするが、さすがに警察官だけあって力が強く逃れられなかった。


『フィギュアが喋っちゃだめですよ。かわいいポーズでニコッと笑ってないと・・・ハハハッ。今日は何色の下着にしましょうか。赤がいいですか?白がいいですか?茜さん、ピンクは持ってなかったですもんね?フフフ、ハハハハハハッ!!!』そう言いながら林巡査は茜の服を脱がそうと、羽交い絞めにしていた腕を一瞬緩めた。最後の賭けに出た茜は、ふいの隙をついて力いっぱい林巡査の股間めがけて自分の足を蹴り上げた。


『ガッ!ウグ!ウウゥゥゥゥッ・・・』


林巡査はその場にうずくまった。何かブツブツ言っていたがそんな事はどうでもよかった。茜はカーテンを引きちぎり、上半身に被せてそのまま窓を突き破った。玄関が細工されているのなら窓も当然同じだと思ったからだ。ガラスが大きな音を立てて割れ、茜は裏通りへ飛び出した。裸足のまま交番へと走り当直の警察官に助けを求めた。警察の急行により林巡査は暴行と不法侵入等の現行犯で逮捕された。


警察の調べによると林は、茜が仕事を始めて1か月が経ったくらいからずっと茜をストーキングしていたとの事で、林の自宅には茜の写真はもちろん、ビデオテープや茜そっくりに自作されたフィギュアが所狭しと飾られていた。また、数点の茜のものと思われる下着や衣服も見つかったそうだ。どうやら奥さんとも別居していたようで、その異常性に誰も気付く事が出来ない状況だったという。


勤務態度は真面目だったものの、今回の一件で懲戒解雇となり、別居していた奥さんとも離婚。裁判を受けて、懲役に服したとのことだった。


■第7章:突然の告白


『本当にあの時はダメかと思ったよ。』茜は昔話に少し含み笑いを浮かべながら、浩一郎のほうを見た。『それは本当に大変でしたね。林巡査は・・・犯人はその後どうなったんですか?』浩一郎は当然の興味として質問してみた。


『もちろん警察はクビになって何か月か服役したみたい。事件が事件だから接近禁止命令も出て、今日までアイツに会うことはなかったよ。』茜はいつものあっけらかんとした表情で、昼食の伝票を持ちながら言った。


『あ、割り勘で。』浩一郎は急いでそう言った。『たまにはいいよ。奢ってあげるよ。』茜は愛想の悪い店員を呼び止めてお会計を済ませた。浩一郎は一つだけ気になったことを言いにくそうに茜に尋ねた。『例の彼氏さん・・・智一さんとはその後どうなったんですか?連絡はされたんですか?』聞いちゃ悪かったかなと思いつつも浩一郎は聞かないわけにいかなかった。


『いや、それからめっきり。まぁ、蕎麦ばっかり連れていかれても困るしね・・・』明るく話す茜だったがどこか寂しそうな眼をしているのを浩一郎は見逃さなかった。『茜さん、こんなタイミングでどうかと思うんですが・・・僕と・・・お付き合いしてもらえませんか?』浩一郎は雑踏の中でもしっかりと聞こえる声で茜を呼び止めた。


『え!?えっ!?冗談でしょ?』茜の返答は当然にも思われた。ただ、振り返った茜が見たのは真剣な表情で顔を赤らめた浩一郎の姿だった。『いや、僕、茜さんは前からすごい先輩だなって思ってましたし、美人だし、男勝りなところもとても素敵だなって思ってました!好きです!付き合ってください!お願いします!!!』


突然の中華街での告白に茜は動揺したが、浩一郎のまっすぐな目を見て了承した。『ほんとですか?やったー!』浩一郎は初めて契約が取れた時以上に喜んでガッツポーズを見せた。『じゃあ、今週末浩一郎君のウチに行くね!蕎麦以外でお願いね!』茜はまた急ぎ足で歩きながら言った。『え、僕の家ですか?実家ですよ?』浩一郎は尋ねた。


『だって、私の家はさっき話した通り、ある意味”曰くつき”だからさ。』まぁ、確かに色々なことがあったことを考えると、茜が言うことも無理はないなと浩一郎は感じた。こうして、キャリアウーマンの茜を射止めた浩一郎は午後の営業現場に向かい、茜の駅の掲示板に纏わる思い出したくない話は終わった。


・・・はずだった・・・・


■第8章:いたずらな小早川部長


午後の営業から帰社した茜と浩一郎は、いつも通りデスクについた。浩一郎は当日の営業結果を日報にまとめ、茜は小早川部長に商談の状況を報告していた。


『・・・ということで、来週にはご契約いただける流れになっておりますので、水曜日に先方へ確認の電話をして、契約となれば木曜の14時でご同行をお願いします』テキパキと段取りを説明する茜だが、人取り報告が終わると小早川へ耳打ちした。


『それと、私、柊君とお付き合いする事になりました。部内ではご内密にお願いします・・・』


さすがの小早川も驚いた表情を見せたが、察しの良い小早川は、変に部内で浩一郎がヤジの的になることを恐れ、それでいて上司である自分への筋を通す茜らしい報告だと感心していた。


『では、報告は以上です。失礼いたします。』


茜はいつものようにハキハキとした口調で報告を終えると、浩一郎の反対側の一番端のデスクに腰を下ろした。浩一郎と同様、日報を作成するためにワープロを開いてカタカタとやりだした。西日も沈み始めた午後17時前の出来事だった。


手早く残務処理を終え茜は先に退社したころ、小早川は浩一郎を呼んで会社の1階にある古びた自販機でコーヒーを買い浩一郎に渡した。


『今日の商談お疲れさん。新しい契約も取れそうだし、いい女をゲットしたな。アッハハハハハッハ!!』と高笑いをした。『何、立花からも言われてるから、このことはワシしか知らんよ。安心せい。』小早川はコーヒーの缶をプシュッと開けると、乾杯のポーズを取ってにっこり笑いながら一気に飲み干した。


『部長、本当に内密にお願いします!さすがに社内で知られたら僕居場所ないですよ!!』


浩一郎は小さな声ではあるが真剣な目で小早川を見つめながらそう言った。あたりはすっかり陽が落ちて、自動販売機の明かりが二人を照らしていた。小早川は胸ポケットから取り出したタバコを、自慢のジッポライターで火をつけて、大きく吸い込んで吐き出しながら続けた。


『それにしてもお前も肝が据わってるんだなぁ。あんなに勝気な立花に愛の告白はなかなか勇気が要ったんじゃないか?』小早川は少し茶化すような顔でそう問いかけた。


『まぁ、そうですね・・・。でも結構前から考えていたので。』


浩一郎は周りに人がいないことを確認するようにキョロキョロしながら、小早川の質問にまた小さな声で答えた。『そうか、じゃあ仕事にも精が出るな!期待しているぞ!』小早川は浩一郎の背中をウチワくらいはありそうな大きな手でバシッと叩くと、帰り支度をするために浩一郎と共に執務室に戻っていった。浩一郎は早く家に帰りたい一心で、手早く荷物をまとめると、『それでは、お先に失礼します!』と小早川に告げ会社を後にした。


■第9章:上品な母親


浩一郎と約束した土曜日の朝、何となく茜は寝起きが良くなかった。予定していた時刻よりも30分ほど遅れて布団を出た。外は生憎の雨が降っており、傘をさす必要があると思うとげんなりした。台所の食パンをトースターに入れて3分のところまでタイマーを回して、冷蔵庫からマーマレードジャムを取り出した。


前日の仕事の帰り際に待ち合わせ場所と時間を浩一郎と話したときに、茜を家族にも紹介したいと言われていた。だから、今日は勝気な茜は少しの時間封印しなければいけないと思っていた。なるべくおしとやかに、なるべく浩一郎を立てて、そんなことを思うと少し窮屈に茜は感じていた。


浩一郎の実家は、浅草駅から歩いて10分ほどのところにあった。会社と家の往復くらいしかしたことがない茜にとっては、浅草の町並みは新鮮なものに映った。人の多さは仕事で慣れているが、古い文化と新しい文化が混ざり合うような独特の雰囲気に、雨降りの道でも少し頼もしく感じた。


大通りから少し外れた住宅街に、茜の家の近くのスーパーの系列店があった。待ち合わせはそこですることになっていた。一応手土産くらいは買ったほうがいいと思った茜は、贈答品のコーナーでカステラを1本購入して、紙袋をもらってそれに入れた。ツルツルした開けにくい袋は雨避けには最適だった。スーパーの建物の角にある公衆電話のところで雨宿りをしながら浩一郎を待っていると、後ろから『茜さん!』という聞きなれた声が聞こえた。


どうやら浩一郎の実家はスーパーの裏にあるらしく、買い出しが楽だとか、昔母親がパートで働いていたとかたわいもない話を浩一郎がしていた。しかしながら、浩一郎が差してくれた傘に二人で収まってはみたものの、微妙な距離感から右ひじが雨に濡れることのほうが茜は気になっていた。スーパーの駐車場を出て左に曲がるとすぐに浩一郎の実家が見えた。なんてことない普通の建売住宅だ。亡くなったお父さんが地主だったこともあり、近くにあるアパートはお母さんが大家をしているとのことだった。


『どうぞ』


全体的には黒いペンキが塗られているが、所々茶色く錆が目立つ門を開けて浩一郎と茜は庭に入った。近くで見ると、よく手入れがされており、ガーデニングは母親の趣味だろうと思われる可愛らしい植木鉢が並んでいた。


玄関のドアを開けると、上品なカーペットが目についた。家自体はどこにでもあるような日本の住宅に見えたが、内装は洋風の装飾や置物が目立っていた。おそらく母親の趣味なんだろうと茜は思った。


『あら、いらっしゃい。立花さんね。浩ちゃんがいつもお世話になってます。』


奥の台所らしきところから顔を覗かせたのは浩一郎の母親だった。自分の息子に『ちゃん付け』で呼ぶのはどうかと思ったが、チェーン付きの眼鏡をかけて、上品な茶色に染められた巻髪が胸のあたりまで伸びて、花柄のエプロンをつけた50代くらいの女だった。パタパタとスリッパの音をさせながら、浩一郎の母親は玄関まで迎えてくれた。


『つまらないものですが』


茜はできる限り上品な口調を心掛けながら、さっき買ったばかりのカステラを母親に差し出した。『あら、お気遣いのできる素敵なお嬢さんね』母親はまんざらでもない様子で、『あそこのスーパーのカステラ美味しいのよねぇ』と皮肉を言ってきた。茜は少しイラっとしたが、初対面なので顔に出ないように必死で奥歯をかみしめた。


『母さん、お茶と一緒にカステラ出してよ。』浩一郎は台所へ母親を退散させるためにうまく立ち回った。『ごめんなさい。うちの母さんちょっと嫌味なところがあるから。気を悪くしないでください。』浩一郎は小さな声で茜にそう囁いた。


『大丈夫よ。私も営業だからさ。』茜も小さな声で浩一郎に答えた。


■第10章:ピーチティー


居間へ通されると、やはり茜の思った通りだった。洋風の色調にまとめられた家具は、まるでモデルルームのようにキラキラしていた。テーブルは黒い大理石のような作りになっていて、煌びやかな内装にアクセントになっていた。気になったのは、カーペットと同じくらい重そうなカーテンが全て締め切られていたことだ。今日は雨だから閉めているのかなと思い、それほど気にはならなかった。


『さ、少しお話ししましょ』


その声が聞こえたと同時に、プーンと甘い桃の香りと共に、母親がティーカップとポットを持ってソファーに腰を掛けた。エプロンと眼鏡を外していた母親は意外にも美人に見えた。どこかで見たことがあるような、テレビタレントにいるようなそんな気がする。


『立花さんはお紅茶はお好きかしら?』上品な口調で母親は茜に尋ねた。『ハイ、頂戴します。』と茜は答えながら、ニッコリと微笑んで見せた。先ほど買ってきたカステラも一緒にテーブルに並べられたが、普通のカステラだと思っていたら、クルミが入っているタイプのカステラだった。茜はあまり豆類が好きではないので、ちょっと損した気分になったが、上機嫌でナイフを入れる母親に愛想笑いをするしかなかった。


『広いおうちですね』


牛乳とシュークリームで満足できる茜にとっては、ピーチティーが出てくる雰囲気に、そんな当たり障りのない話しか切り出せなかった。なんでもこのピーチティーはリラックス作用があるらしく、人によっては眠くなってしまうことがあるほど効果があるというのだ。たかが紅茶でそんなはずはないと茜は信じていなかった。


『それで、今日はお夕食も一緒にいかがかしら?』


巻紙をゆらゆらさせながら、母親が茜をまじまじと見つめながら問いかけた。


『いや、さすがに憚られます。お気持ちだけいただいて夕方にはお暇させていただきます。明日、母が自宅に来る予定にもなっていますので。』茜は自分にできる最上級の上品な言葉づかいで答えたつもりだったが、浩一郎も母親も残念そうに顔を見合わせた。


『そうなの?じゃあ、それまでゆっくりしていってね!このお紅茶美味しいでしょ?お代わりどうぞ。』


確かにおいしかったが、紅茶をそんなにガブガブ飲むものではないし、トイレが近くなるのも茜は嫌だと感じていたが、まだ2杯目だったので少し口をつけてカップをテーブルに置いた。


浩一郎の母親が言った通り、少しフワッとした気分になり、体が暖かくなっているような気がした。紅茶にこんな作用があるなんてすごいなと思っていると、浩一郎と母親の声がだんだんと遠くなっていくような気がした。まるで暖かい昼下がりに公園でランチを食べた後のような気持のいい感覚に襲われて、茜はフッと意識が遠のいて眠ってしまった。


■最終章:事の顛末


『茜さん、茜さん』


肩を揺り動かされながら呼びかけられたことで茜は目を覚ました。


『あちゃー、これはさすがにやらかしちゃったなぁ。』そう思いながら目をこすろうとするが、右腕はなぜか動かなかった。まだ寝ぼけた状態でわかるのは、どこかにあおむけで寝ているということだけだった。しばらくすると意識もハッキリとしてきたので、茜は周りを見渡してみると自分は大きなキングサイズのベッドに寝ていた。


『茜さん』


声のする方を見た茜はあまりの驚きと恐怖に心臓が止まりそうになった。


声の主は、林巡査だった。


『やっと目を覚ましましたか。』林巡査はニコニコしながら茜に歩み寄った。『なんでアンタが!どういう事よこれ!』茜は林巡査を威嚇しようと精一杯の声でそう言ったが、なんと茜の手足はロープで繋がれて動けない状態だった。


さらに茜の恐怖を増長させたのは、林巡査の隣で、意識が遠のく前と同じように、紅茶とカステラを楽しむ浩一郎と母親の姿だった。『どういうことよ!』浩一郎に問いただすと、『教えてあげましょうか?』と母親のほうが口火を切った。


『あのね、立花さん。いや、茜さん。隆ちゃんはね、あなたのことが本当に好きだっただけなのよ。その思いを伝えたくて何度もあなたにアプローチして』上品な口調ではあるが、その表情は狂気そのものだった。紅茶を出された時に母親を見たことがある気がした理由がよくわかった。


あの時の林巡査の顔とそっくりだった。


『立派に警察官になって市民の平和を守っている隆ちゃんのほうが、タダの体目当てで近寄ってきた男よりもずーっと安心できるでしょ。ね?そう思わない?フフフフッ』


『でもね・・・あなたが隆ちゃんの愛を受け止めなかったせいで、隆ちゃんはあれからおかしくなっちゃったのよ!子供も作れない体になって!フィギュアだかなんだか分からないけど、一晩中人形と話をしてさ!あんたに何が分かるっていうのさ!え!?大事な隆ちゃんをこんなクズみたいな人間にしやがって!』


今までの母親と同一人物とは思えないその発狂ぶりに、茜は怖気づいていた。


浩一郎が続けた。


『茜さん、ビックリしたでしょう。一応意識があるうちにお伝えしておきます。この前、中華屋で話してくれた昔のストーカー事件。僕はね、ずっと前から知っていましたよ。知っているも何も、兄さんがこんなになってしまったので、母からの言いつけで僕はあなたをここに呼ぶためにあの会社に入ったんです。』浩一郎は顔色一つ変えずに淡々としゃべり続けた。


『要は、兄さんの復讐のために、あなたに近づくために僕はあの会社に入社したんです。あ、そうそう。兄さんは交番勤務の時は結婚してたので苗字は”林”でしたけど、今は旧姓に戻ったので”柊 隆文”っていうんですよ。』


『あなたが昔話をしてくれた時、全部知っているのに知らない振りをするのは大変でしたよ。おかげで麻婆炒飯の味は、ほとんど覚えていないくらいですよ』浩一郎は少しだけフフッと不気味に笑った。


『浩ちゃんは本当に家族思いよね。パパが亡くなってからも、ママの言いつけはちゃんと守ってくれたもんね。今回も隆ちゃんのためだからってママがお願いしたら見事に茜さんを連れてきてくれて』母親は浩一郎の口元についたカステラを指でつまんで自分の口へ運んだ。


『さ、昔話はこの辺にして、僕のフィギュアになってもらいますよ』


林巡査・・・隆文がニタニタしながら茜に近寄ってくる。手に持っていたガムテープで茜の口をふさいだ。茜は必死に抵抗するが、さすがに両手両足が縛られた状態では何もなす術はなかった。


隆文はどこからともなくセーラー服を手に持って、よだれを垂らしながら茜に近づき、茜の体にセーラー服をあてがった。『いやー、似合うと思ったんですよ。茜さんはスタイルがいいですからね。さ、僕が着替えさせてあげますね。アハハハッ!アハハ、アーハハハハハッハッ!!!!!!』血走った目で茜を見つめながら隆文は奇声を上げた。その横で浩一郎と母親は相変わらずカステラをお茶うけに紅茶を啜っていた。


『ギャアアアアアァァァッッ!!!!!やめてぇぇぇぇーーーー!!!!!!!!!・・・・・』


耳をつんざくような茜の叫び声は浩一郎の実家の外まで響いていたが、その後、茜の行方を知っているものは居ない。

お楽しみいただけましたでしょうか。

最新作品を本家ブログ https://novels.tx-life.info にて公開しております。

また、朗読動画を https://youtube.com/@keiji_yamamura にて公開中です。

是非こちらにもお越しいただけたら幸いです。

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