表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界の終わりと始まり 第2部 覚醒編  作者: とみなが けい
16/26

真田は退行催眠実験をうけ、今までの人生と、前世の記憶を垣間見るが…自分でも忘れていた懐かしい感触を記憶から呼び起こした。

記憶



 夜が明けてあたりがすっかり明るくなった頃、通勤ラッシュの先陣の人々とすれ違いながら私は練馬のアパートに戻った。


 長い長い一日だった。


 昨日あの犬達、アラン達とあったばかりなのだ。


 今日は夕方から病院の夜勤だ。


 私はそそくさと布団にもぐりこんで夕方まで泥のように眠った。


 それから私に新しい日課が追加された。


 風呂に入った時、手鏡を使って体の隅々までチェックをする事。


 何か変なものが生えてきていないか、どこか変色していないか、体の部分が特別大きくなっていないか…


 これという変化は無かった。


 もうひとつの新しい日課は、朝と晩に山口から心配そうな声で電話が入るようになった事だった。


 私は特に変化が無いことを告げると、山口はほっとしたような吐息を漏らし軽く世間話をした後に電話を切った。


 そして、桜田と約束していた退行睡眠実験の日が来た。


 ある大学の研究室に行くと、山口と数人の研究者が私を待っていた。


「真田ちゃん、体調はどう?」


「至って順調です」


「じゃあ、実験に取り掛かる前に少し説明しておこうかな?

 そこに座って」


 私は桜田に座り心地がよい椅子を勧められた


「退行睡眠は催眠療法hypnotherapy (ヒプノセラピー)の一種で、年齢をさかのぼって、忘れてしまっている記憶を思い出すためのものなの」


 研究者の一人がコーヒーを差し出した。


「カフェイン無しですけど」


 私はコーヒーを飲んだ。 


「通常は患者が現在持っている症状の原因が解らない時に、その原因が幼児期の過去にあると仮定してその原因を突き止めるために退行催眠を用いるの。 

 そして思い出した過去の記憶を元に、現在の症状を解決するのが退行催眠療法よ」


 ここまで話して桜田がコーヒーを口にして顔をしかめた。


「カフェイン無しはちょっと不味いね。

 でも、実験前は刺激物を控えないといけないから少し我慢してね」


「桜田さんまで私に合わせる事無いですよ…タバコ吸っとけば良かったな」


「ほほほほ、少し我慢しなさい。

 タバコよりもずっと刺激的なことが起こるかもしれないわよ」


 桜田が笑顔で言うと、説明を続けた。


「退行催眠でさかのぼる年齢を幼児期の過去のさらに過去に推し進めて前世にまでさかのぼる退行催眠療法のことを指して言う言葉なんだけど。

 ここで前世があるとかないとかいう問題は本質的な問題では無いのよ。

 実際、前世まで遡れなかった人の方が多いわ。

 その前世だって本当の前世なのか、その人の記憶や願望が複合したものが表層に現れたのか、今の段階ではなんともいえないのよね。

 もっとも世間でやってるちょっといかがわしいところではうまく前世らしいものが出るように誘導しているけど、ここでは厳密な実験としてデータを取るから、これといった誘導はしません。

 前世が顔を出すかどうかは…あなたしだいよ、ほほほほ」


 桜田がコーヒーを飲み干して笑った。


 部屋の隅では、研究者たちが私の脳波や心拍数を調べる準備を進めていた。


 私はそれを眺めながらいまいちインパクトが無いカフェイン抜きのコーヒーを一口飲んだ。


「まぁ、基本的な説明はこんなところかな?

 後は催眠誘導するときの説明をするけど、その前に脳波とか取るから色々着けさせてもらうわよ」


 桜田が立ち上がり、ガラスで仕切られた隣室に私を案内した。


 隣室には足を伸ばしてゆったりと座れるリクライニングチェアーが置いてあり、隅の方に脳波測定や心電図モニターなどの機械があった。


 部屋の反対側には椅子とテーブルがあり桜田に勧められて椅子に座ると何枚かの書類が出された。


「真田さん、退行催眠実験の被験者同意書なんだけど、よく読んで納得がいったらサインと捺印…拇印でもいいわ。

 よろしくね」


 私は書類の端から端まで目を通した。


「…これ…心肺停止なんて…起こる事あるんですか?」


 桜田が何人かのスタッフと機械のセッティングをしながら振り向いた。


「ごくごく稀にあることもあるわよ」


「…背筋が凍るなぁ~」


「フフフ、ごくごく稀に、よ。

 それこそ何千人に一人いるかいないか。

 脳波や心電図をモニターしていて、何か異常を感知したら即座に催眠解除をするし、万が一真田ちゃんの心臓が止まったら直ぐ隣の大学病院の救命センターに担ぎ込むから安心してね~」


「…背筋が凍るなぁ~」


 私はそう呟きながら書類にサインし、捺印した。


 桜田が書類を取り、サインと捺印を確認するとニコリとした。


「はい、じゃ、まず体温と血圧測るからね、腕を出して」


 桜田が私の腕を捲り血圧計と聴診器を当てた。


「血圧はオッケー、はい、耳出して」


 桜田が私の耳に体温計を突っ込んだ。


 ピッと音がして桜田が体温計を覗き込み、書類に書き込んだ。


「体温、血圧…脈拍が少しだけ速いけど、これは許容範囲。

 真田ちゃん、そこに座って…背もたれを倒して楽にしてね」


 私が椅子に座り、背もたれを調節をして楽な姿勢を取ると頭に脳波測定ネットが被せられ、胸をはだけて心電図モニターの端子が付けられた。


「じゃあ、いよいよ始めるわよ。

 リラックスしてね。

 私が催眠誘導するからね」


 桜田がリクライニングチェアーの近くの机に置いたメトロノームの振り棒を押した。


 桜田がペンライトを持ち、光量を最小にした。


 部屋の蛍光灯は消されて、天井の所々の小さなスポットが弱々しく灯っていた。

 

 いつの間にか、室内には私と桜田だけになっていた。


 頭を巡らせて先程までいた部屋の大きなガラスを見たが、暗がりの先はみえなかった。


「真田ちゃん、光を見てて。

 瞼が重くなったら目を閉じて良いわよ」


 メトロノームが静かにリズムを刻み、私は瞼が重くなり、目を閉じた。


「そう、瞼が重くなったね…」


 私は佐伯邸の前に立っていた。


 私は佐伯邸を見ていた。


 手にじっとりと汗をかいていた。


「もっと昔に行きましょう」


 遠くから桜田の声が聞こえて景色が滲んで数年前に同棲していた女が現れた。


 彼女は涙と鼻水で光らせた顔をくしゃくしゃに歪めて、意味不明な事を叫びながら両手に握った包丁を何度も床に突き立てた。


 いつのまにかツェップとノッチェの二匹のフェレットがジャンバーの懐から顔を出した状態で同棲していた女と手を繋いで散歩をしていた。女は幸せそうな笑顔だった。


「インカミング!」


 ヒュルヒュルと言う音がピーともビーとも言えない音に変わり、物凄い爆発音となって地面を揺るがせた。


 50メートル程先に重砲弾が炸裂して、塹壕を吹き飛ばし、兵士達の身体をボロキレの様に吹き飛ばした。


 何かが飛んで来て、私のヘルメットにガツンと当たった。


 衝撃で首に痛みが走った私が後ろを見ると、私に当たったのは兵士の肘から千切れた腕だった。


 私は転がった腕に向かってカメラを向けてシャッターを切った時、病院の廊下に立っていた。


 看護師がやって来て、私を新生児室に案内した。


 ガラス越しに小さな赤ん坊を抱いた看護師が近寄って来た。

生後数日経った一人娘の香織だった。


 香織を抱いた看護師が滲んで私は基地祭のステージで白いタキシード!を着せられて歌を歌っていた。


 客席最前列中央に最初の妻の順子が座っていた。


 それが順子との最初の出逢いだった。


 順子を見つめ、順子に見とれながら私は歌っていたが、目の前に大きな板が現れた。


 周りでは様々な高校の制服を着た受験生が合格発表の板を見て、跳び跳ねて喜んだり、顔を覆って泣き崩れたりしていた。


 私は自分の受験番号を探していた。


 261番。


 あった。


 私はニヤリとして、受験生達が並んでいる公衆電話に走って行った。


 目の前に私が高校生の時に教育実習に来た女性の顔があった。


 視聴覚教室の長テーブルの上に横たわった私の上に股がった女性は快感に顔を歪め腰を振っていた。


 私と女性は繋がっていた。


 私は女性の奥に入っていた。


「まだ駄目だよ、まだ駄目、まだイッチャ駄目」


 彼女は荒く息をつきながら、圧し殺した声で言った。


 手で額の汗を拭いながら女性はみだらな笑みを浮かべた。


 女性の腰の動きが速くなり、彼女は私の顔に顔を近づけ私の唇を貪った。


 私の初めてのセックスだった。


 私は先の方までカチカチになり、今にも射精しそうだった。


 教室の壁掛け時計を見ると3時27分だった。


 私は更に記憶を遡った。


 記憶は視覚や聴覚以外に嗅覚や触覚も伴って現れた。


 何かを食べた記憶が現れたら味覚もリアルに蘇るだろう。


 私は中学生の記憶を遡り、小学生になった。


 小学2年生の私は公園で一人で遊んでいた。


 恐らく同じ学年と思われる見知らぬ女の子が、数人の悪ガキ達に苛められていた…と言うか攻撃を受けていた。


 何かに怯えているような必死の形相の悪ガキ達は、執拗に女の子を攻撃していた。


「そのまま、そのままとどまって」


 桜田の声が聞こえ、私は女の子を見つめた。


 やがて、私は足元の小石を拾って悪ガキ達に投げ付けて声を上げて追い払った。

 

 悪ガキ達は散り散りになって逃げていった。


「だ、大丈夫?」


 私は膝を抱えて蹲る女の子に声を掛けた。


 女の子が涙と土に汚れた顔を上げて私を見た。


 一見ハーフにも見える彫りが深い綺麗な顔立ちの女の子の顔を間近に見て、私は子供ながらに胸がドキドキした。


「ありがとう…」


 じっと私を見ていた女の子が涙を手で拭いながら言った。


「お前…何で苛められてたの?

 この辺で見ない顔だよ。

 転校生?」


「遊ぼうよ」


 女の子は私の質問に答えずに笑顔で手を差し出した。


 私と女の子は何故か他に誰もいない砂場で遊んだ。


 砂山を作って棒崩しをしたり、色々と遊んだ。


 信じられない程楽しかった。


 夕暮れになり、公園の子供達が次々と家に帰って行き、又は親が迎えに来て、いつしか公園には私と女の子だけしか居なくなった。


 女の子がじっと私を見つめ、少しだけ緊張した声で言った。


「ねえ、結婚しない?」


「良いよ」


 私が答えると女の子の顔がほころんだ。


「ホントに?

 ホントに結婚する?」


「うん、結婚しよう」


 女の子は笑顔で私の両手を取って砂場の枠に座らせた。


「愛と真実に誓い、二人はここに永遠に結ばれます」


 いきなり女の子が難しい事を言って私を驚かせた。


「ほら、一緒に言ってよ」


 女の子が口を尖らせて言った。


「愛と真実に誓い、二人はここに永遠に結ばれます」


 私達は口を揃えて言った。


 女の子が笑顔になった。


 それは今まで見たなかで一番美しい笑顔だった。


 私は思わず女の子の口にチュッとしてしまった。


 女の子の唇の感触を追体験した私は、つい最近にもそっくりな感触を覚えた事を思い出したが、それがどこで、誰とのキスだか思い出せなかった。

 だが、圧当的に懐かしい感触。


 女の子が俯いた。


 私は女の子を悲しくさせたと思い、怖くなった。


 私は俯いた女の子を見下ろした。


 なにか、とても大事なものを傷付けてしまった様な感じがして、怖く、悲しくなった。


 私は女の子に背を向けて、逃げるように家に向かって走り出した。


「待って!」


 女の子の声で私は足を止め、恐る恐る振り向いた。


 砂場に腰掛けた女の子が笑顔で私を見ていた。


「約束だよ!結婚しようね!」


 私はその頃に父親が良くやっていた、親指を立てるしぐさを女の子に向けた。


「うん!約束!」


「バイバイ!」


「バイバイ!」


 私は女の子に手を振って公園を駆け出した。


 夕日がとてもきれいだった。


「真田さん今から三つ数えて指を鳴らしたら、あなたは目が覚めます。

とてもとても気持ちよく目が覚めます。


3、2、1」


 桜田の声が聞こえて、耳元でぱちんと指を鳴らす音がして私は目を開いた。


 薄暗い部屋の中で、桜田が私の顔を覗き込んでいた。


 私は長い旅から帰ってきた。


 う~んと伸びをした。


「お帰りなさい」


 桜田が微笑みながら言った。


「…ただいま帰りました」


「気分はどう?」


「…悪くないですね…気持ち良かったです」


「誘導がスムーズに行ったし、記憶もかなり細かく引き出せた…途中で私が言っている言葉は聞こえた?」


「はい…少しのどが渇きました」


「ふふふ、そうね、あれだけ話せばのども渇きます」


「え?」


「あなたは、今あなたが引き出したことをすべて私に話していたのよ」


 桜田が手元のICレコーダーのスイッチを入れると、私が体験したことを話している言葉が聞こえた。


 テレビでよく聞くような催眠術にかかっている人間のちょっとした寝言のようでなく、普通に会話しているようにはっきりと聞こえた。


「第一回目のセッションはこれくらいにしましょう。

 少し休憩してから、また再開します」


 桜田が立ち上がった。


「何か飲みましょう。

 あ、今、それをはずすから待ってね」


 ドアが開いてスタッフが入ってきて私に取り付けた脳波測定用のパッドなどを外し始めた。


「ちょっとだけタバコ吸いに行こうか?」


 桜田が小声でウィンクしながら言った。


「良いんですか?」


「タバコを我慢してるストレスの方が影響が大きいと判断します」


 桜田が私を大学の向かいにある喫茶店に連れて行った。


 お昼少し前の喫茶店は客はまばらだった。


 桜田と私はテラス席に座り、オレンジジュースを注文した。


 私はエコーを一本取り出して火を点けた。


「どう、最初の感想は?」


 桜田もタバコを盛大に吸いながら私に尋ねた。


「いやぁ、なんていうか…人生をリフレッシュした感じですね。

 例えが悪いけど、死ぬ瞬間に人生が走馬灯見たいに通り過ぎるって感じですかね、あれよりもずっと細かくて懐かしかったけど…なんかとてもすっきりした感じですよ」


「経験したことあるの?

 死にそうなときの走馬灯?」


「何回か」


「ふふふ、そうなんだ…真田さんは戦場の体験があるからね。

 今、催眠中のあなたの脳波とかを解析していると思うけど、私が見た限りでは辛い体験を話していても安定してるわね。

 これなら大丈夫そうよ」


「それって大事なんですか?」


「とても大事よ。

 記憶によって自律神経が乱れると激しい記憶の場合それこそ心停止とかする場合もあるから…」


「背筋が凍るなぁ~」


「フフフフ、あなたは大丈夫よ、もう一本吸って良いわよ」


 私はもう一本タバコに火を点けた。


「これからあなたの幼少期の記憶に入って行きます。

 ひょっとしたら次のセッションであなたは前世に踏み込むかもしれないわね」


「前世…興味がありますね」


「私もあなたの前世に興味があるわ…さて、戻りましょうか?」


 桜田が残ったオレンジジュースを飲み干した。


「ちょっとトイレに行ってきます」


「そうね、長丁場になりそうだから全部出しておいてね」


 桜田が意味ありげに笑った。



前世



 桜田と私は部屋に戻った。


 再び椅子に座り、スタッフに測定器具を付けてもらっている私にプリントアウトした紙を持った桜田が話し掛けて来た。


「オーケー、問題は見当たらないわ。

 セッションを再開します。

 私の声は聞こえていたわね?」


「はい、きちんと聞こえていました」


「オーケー、オーケー」


 測定器具を付け終わってスタッフが出て行き、再び部屋の中は私と桜田だけになった。


 室内の照明が落とされ、桜田のペンライトが私を照らした。

直ぐに私は過去の記憶の中に入って行った。


 幼稚園の頃の私が、子供の頃に住んでいた機械工場の敷地内の家の玄関で幼稚園に行きたくないと愚図っていた。


 作業服姿の父親がズカズカと私に歩みより、私の横にいた母親を突飛ばして、思いきり私をぶん殴った。


 私は鼻血を出して壁までぶっ飛んだ。


 母親が泣きながら私を庇う様に覆い被さって、尚も私を殴り付けようとする父親の盾となった。


 母親の顔がグロテスクに滲んで父親の母、つまり、父方の祖母になった。


「孝正はリオで生まれたブラジル人だからお年玉はないんだよ」


 私の周りではお年玉を貰った従兄弟達がはしゃいでいた。


 私の肩に手が置かれて見上げると母親が悔し気に歯をくいしばっていた。


 いつの間にか私はブラジル・リオ・デ・ジャネイロのガレオン空港の出発ロビーにいた。


 おめかしした服を着た私を、母方の親戚達が代わる代わる泣きながら私を抱き締めた。


 ブラジルに来て、日系二世の母親と結婚した父親が十二指腸潰瘍になり、日本に帰り、日本から母親と私を呼び寄せる事になったのだ。


 結婚したらずっとブラジルで住むと言う約束で結婚した父親の違約に怒り、日本行きに反対する親戚達を説得した母親と私は日本に行く事になったのだ。


 飛行機に乗る時に初めて私は母方の親戚達と別れる事を知って泣き叫んだ。


 激しく泣く私を抱き締めて母親は飛行機に乗った。


 ずっと見ていると落ちて行きそうな青空が私の目の前に広がっていた。


 私は海水パンツを履き、私を肩車した父親が砂の山を登っていた。


 すぐ隣には笑顔の母親がいた。


 ブラジルの、まだ、私が赤ん坊の時に住んでいたアパートから歩いて5分程の所に海があった。


 砂の山を登って行くと、空よりも青く、緑がかった、大西洋の海が広がっていた。


 海風で帽子が飛ばされた母親が慌てた声をあげ、父親が屈託の無い笑い声を上げた。


 私は訳も判らずに笑った。


 父親の肩の上で笑っていた私は窮屈な暗闇からいきなり引きずり出され、足を捕まれて吊り下げられた。


 恐怖に駈られて私は泣き叫んだ。


 数人の男女の笑い声が聞こえた。


 私は目を開けようとしたが開けられなかった。


 そして私は闇に沈んで行った。


 次の瞬間、両足を襲う激痛で目を開けた。


「良介さん!良介さん!」


 新聞社のお茶くみの若い女の子が煤で黒くなった顔で私を覗き込んで叫んでいた。


 新聞社の記者部屋の中は滅茶苦茶になり、火の手が上がっていた。


「駄目だ!足が抜けない!よっちゃん逃げろ!」


 倒れた資料棚の下敷きになり、落ちてきた梁が私の足をしっかりと押さえ付けていた。


 太ももから耐え難い激痛が走っていた。


 恐らく折れているだろう。


 よっちゃんが私の服を掴んで力を入れて引っ張ったが、私の足はしっかりと資料棚と梁に押さえ付けられていた。


「よっちゃん!俺は駄目だ!逃げろ!早く!」


「私、誰か助けを呼んできます!」


 よっちゃんはそう言い残すと倒れた棚や散らばった書類を踏みつけながら部屋を出て行った。


 私は火の手が強くなる部屋の中で一人になった。


「今はいつなの?」


 桜田の声が聞こえてきた。


「9月1日……大正12…うわぁあああ!」


 火が回って来て、私の身体を焼いた。


 私は苦痛に身悶えた。


「あなたは誰だったの?

 あなたの仕事は?」


「新聞記者!文屋だよ!政治部の!熱い!」


「過去に行って。

 もっと過去に。」


 火に焼かれながら私は神社で結婚をしていた。


 良く晴れた秋の空の下、私は隣にいる和服の花嫁をチラリと見た。


 花嫁が少しだけ顔を上げて私をチラリと見上げるといたずらっ子の様な微笑みを浮かべた。


 私と花嫁が三三九度の盃をした。


 いきなり顔に雪の玉がぶつかった。


「良ちゃん戦死!」


 顔を真っ赤にした、和服の上からドテラを着た男の子が叫んだ。


「何を!

203高地を落とすまでは死なないぞ!突撃…!」


 叫んだ私の顔にもう一発雪玉が当たった。


 そして、ねんねこに包まれた私はまだ良く見えない目で、私の顔を覗き込む黒猫の目を見つめていた。


 苦労して目の焦点を合わせていたら黒猫と目と目があった。

黒猫が私の鼻を舐めた。


 日向くさい臭いがした。


 私は黒猫のざらざらした舌の感触に痛みを感じ、泣き声を上げた。


 若い女の声がして黒猫は逃げ去った。


 母親がやって来て、泣いている私を抱き上げた






続く

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ