真田が思っていたよりも山口は戦術家で策謀家で…そして真田を愛していた。
私は山口の手を握り返した。
「…毎晩?」
「調べ始めた最初の晩から2日間…深夜から明け方に烏の群れがベランダに…」
「3日めからは…今の所までは…」
「何か…手伝える事、有りますか?」
「え?」
「そうだ!ベランダの窓ガラス取り換えましょう!私、業者を探しますよ!パソコン借りますよ」
私はリビングのパソコンの前に座り、電源を入れた。
「針金で強化したガラスに換えましょう!それでガラスの部屋側にラミネートのシートを貼りましょう!あれって凄いんですよ!金属バットで思い切りぶん殴っても破れな…」
山口が私の背中にしがみついた。
「…真田さん!」
私は肩にかかった山口の手を握り締めた。
「ダイバーとコマンダーは一蓮托生…」
私が言うと、山口も小さく、しかし、はっきりと繰り返した。
「ダイバーとコマンダーは一蓮托生」
振り向いた私に山口が口づけをしてきた。
私は椅子に座ったまま山口を抱き締めた。
「…さあ…日が沈む前にガラスの手配をしましょう!
その後で今まで調べて判った事とか、教えて下さい」
「…はい、了解です」
山口がにっこりとした。
今までのどこか無理が感じられた笑顔と違い、心の底からの笑顔の様に感じた。
「コーヒーをもう一杯貰えます?
それから…腹減ってませんか?」
私がピザを食べたいと言うと、山口が宅配ピザのメニューを持って来た。
私と山口は頼むものを決め、山口が注文をしている間に私は24時間ガラスの修理に駆け付ける業者を探し、電話で新しいガラスとガラスの部屋側に貼るラミネートシートの手配をした。
山口はジーンズとトレーナーに着替えて、髪を後ろに留めて、リビングの目の付く所を掃除した。
「さてと…どうも腑に落ちない事があるんだけど…」
「何?」
「あのルシファーが2日間で嫌がらせ…と言うか、脅しを止めたのが、何か中途半端な気がするんだ」
コーヒーカップを両手に持って飲んでいた山口は、茶目っ気がある笑顔を浮かべた。
「それは…あれの内のどれかが効いたのかも知れない」
「あれって?」
「来て」
山口が立ち上がって寝室に向かった。
「あれって…これよ」
山口が寝室の電灯を点け、ベランダに面した床や壁、天井を指差した。
さっきは暗くて気がつかなかったが、そこには黒や赤、黄色などで様々な古代文字で様々な呪文や記号が書き込まれ、枯れた薔薇や、ニンニクの房、鶏の干からびた足などが吊るされていた。
私はベランダに面した窓の周りに様々に施された魔除け?を見入った。
「古文書や信頼できる…といってもどうだか判りませんけど、フフフ、色々な資料から拾い出した物を試しました。
どれかが効果あるのかも知れませんね」
山口が腕組みをして言った。
「なるほど…流石にコマンダー」
「小夜子って呼んで下さい。
これらを窓の所に置いてから、烏の襲撃は有りませんし、悪夢に悩まされる事も無くなりました」
「悪夢?」
「フフフ、今はまだ内容は言えませんけど」
インターホンが鳴り、宅配ピザが来た。
私と山口はピザをリビングで食べた。
「色々な文献を調べたのですが、悪魔には共通点があります」
山口がピザをジンジャーエールで流し込んで言った。
「共通点?」
私はピザを口に頬張りながら聞いた。
「ウフフ、孝正さん、チーズで吊り橋が出来てる」
山口が手を伸ばして私の口の端のチーズの糸を絡めとって、自分の口に入れた。
「悪魔は契約に忠実、と言うか誠実なんですよ、こちらに落ち度が無い限り、結ばれた契約は忠実に実行します。」
「なるほど…」
「過去の資料を読む限り、悪魔と契約を結んだ人間の方が契約の内容を反古しようと色々な策を凝らしています」
「人間の方がズルい訳か…」
「ある意味でそうとも言えますね…『ゲーテ』の劇詩に『ファウスト』と言うお話があるのご存知?」
「年老いた堅物のファウスト博士が悪魔メフィストフェレスを呼び出して賭けをすると言う…」
「そうです。
メフィストフェレスによって若返ったファウスト博士がこの世のありとあらゆる快楽を味わい尽くし、人生に満足した時にファウスト博士の魂を奪えるはずだったんですけど、快楽を味わい尽くしたファウスト博士が『時よとまれ、お前は美しい』と満足して死を選ぶと魂が天使達によって天上に運ばれてメフィストフェレスは魂を奪えなかったと言うお話ですね」
「ずいぶんいい気な話だよね」
私が言うと山口がもう一切れのピザを手にとっていたずらっ子の様な微笑みを浮かべた。
「しかし、この話のファウスト博士は実在したと言うのはご存じですか?」
「ええ?そうなの?」
山口がピザを口に入れて飲み込むのを私はじっと待った。
「ああ、美味しい」
「焦らさないでよ」
「ウフフ、御免なさい。
いきなり食欲が復活しました…16世紀にヨハン・ファウスト博士は実在していたんです」
山口がいたずらっ子のような微笑みを浮かべて続けた。
「魔術師で錬金術師、占星術師であったヨハン・ファウスト博士はメフィストフェレスを呼び出して、24年後に魂を渡す約束をしたのが、本来の伝説です」
「…」
「そして、24年後のその日に知人が博士の部屋を訪れると、博士の2つの眼球と歯が血塗れの室内に転がっていた」
「メフィストから逃れる事が出来なかったんだな…」
「そう、悪魔は契約を忠実に実行する…」
私は黙ってピザをもう一切れ手にとってかぶりついた。
「ヨーロッパにいた、ある城主は悪魔と契約を交わし、一晩で橋を掛けさせました。
そして、最初に橋を渡った者の魂を差し出すと言って、橋が出来ると猫を最初に渡らせた、と言う話も残ってます」
「…」
「孝正さん、ルシファーともう一度しっかりした契約を結び直すと言うのはどう?」
「もう一度?」
私が聞き返した時にインターホンがなった。
ガラスの業者だった。
私と山口は話を中断し、ベランダに面した窓のガラスを針金入りのガラスに入れ換えさせ、更に部屋側にラミネートシートを貼らせた。
業者は、ベランダに散乱した烏の羽と、ひび割れ、血が付いたガラス、室内の魔除けを見て怯えつつも仕事を済ませた。
「これでカーテンを開けても大丈夫ね」
業者が帰り、山口が腕組みをして窓を見た。
「それより、早くさっきの話の続きを聞きたいな」
「そうね、でも、私、お腹空きました」
「え?ピザを食べたじゃない?」
「私、3切れしか食べてないわ。
孝正さん、むしゃむしゃ食べちゃうんだもん」
「ごめん」
「買い物行きましょう。
材料を買って、私何か作ります」
山口がそう言って、私の腕に自分の腕を絡めた。
「孝正さんのお陰で、元気と食欲が出たみたい」
山口が私の頬にキスをした。
私と山口はマンションを出て有栖川公園の先にある、俗に「外人マーケット」と呼ばれる近所の大使館員の家族達がの御用達にしているスーパーマーケットに向かって歩いた。
有栖川公園の手前の愛育病院と言う産婦人科病院の前を通った。
私の妻が一人娘の香織を産んだ病院だ。
病院を眺めながら、私の歩みが遅くなった。
「お嬢さんが産まれた病院でしょ?」
「知ってるの?」
「私は真田孝正の詳細なデータのファイルを頭に入れてあります」
山口が笑顔で目をくりくりさせた。
「参ったな」
私は頭をかいて苦笑を浮かべた。
「フフフ、懐かしいですか?」
「そりゃあ、ね」
「あ、公園の中を行きましょう。」
山口が私の腕を引いて有栖川公園の中に入った。
白人の夫婦が赤ん坊とヨチヨチ歩きの子供を連れて歩いて来た。
「外人マーケット」からの帰りなのか、夫は長いフランスパンが飛び出た袋を抱えていた。
「うわぁ!可愛い!」
山口が目を細めて子供を見て、声を上げた。
白人の夫婦が山口と私に笑顔を向け、子供が山口に手を振った。
私達も笑顔を返して彼らとすれ違った。
「子供って本当に可愛いですね。
真田さんのお嬢さんも可愛かったでしょうね」
「うん、可愛かったし…何て言うかな、親ばかかも知れないけど…美しかった。赤ん坊の時から…」
「もう一度…子供…欲しくありません?」
山口が私の腕に絡めている手に、心なしか力が入った気がした。
「…」
私が無言になり、山口も自然と俯いた。
私達は有栖川公園を無言で歩いた。
「外人マーケット」の看板が見えてきて、山口がはしゃいだ声を上げた。
「私、あの看板見るとウキウキしちゃうんです!
ミーハーですね」
しかし、私も山口同様に心が弾んでいた。
白金に住んでいた時に買い物に来ていた時を思い出すと言う事もあるが、何より海外の製品がそのままの規格サイズで豪快に並んでいるし、チーズやサラミなど、私の海外にいた時の好物が置いてあるからだ。
「さて、さっきはピザを食べたから……フフフ、パスタにしましょうか、真田さん、美味しいイタリアンサラダを作って下さる?」
山口が買い物かごを手にとって、笑顔を向けた。
端から見たら、私と山口は仲が良い夫婦に見えただろう。
世にも恐ろしい場所に飛び込むダイバーと、それを指揮するコマンダーのコンビなどとは到底信じないに違いなかった。
「俺がイタリアンサラダを作るの~?」
「真田孝正はカメラマンの頃、イタリア、ミラノの家庭料理屋に一時期下宿をしていた。
店の主人から料理の腕を見込まれ、婿になって店を継ぐことを勧められたが、その時に既に結婚していた事、店の主人の一人娘が非常に好みから乖離していたので断った。
その時に教わったイタリア家庭料理、特にサラダ、煮込み料理の評判が非常に良かった。
以上、真田孝正経歴ファイルよりの抜粋」
買い物かごを持った山口が私に身を寄せて笑顔で見上げた。
「参ったな」
私は山口が私の過去の細かい事まで知っている事と、惟任研究所が徹底的に私の事を調べ抜いている事に軽い戦慄を覚えた。
私は山口から買い物かごを取った。
山口は私の腕に手を絡めて来た。
「俺の事、どこまで知っているの?」
「あら、私は惟任研究所の調査責任者ですよ。
現場に飛び込むダイバーの事は全て把握するのは当然です」
「……参ったな」
「さあ、孝正さん、買い物買い物!
私はお腹が空いてるんです!」
私と山口は店内を歩き回り、パスタとサラダの材料、山口の買い置き用の食材などを買ってマンションに戻った。
私が普段はとても買えない高価なオリーブオイルやバルサミコ酢などを使ってサラダを作っている間に山口がパスタを茹で、ニンニク、唐辛子、ベーコン、ナスでパスタソースを作った。
出来上がったサラダとパスタ、山口が奮発して買ったワインを並べて私達は食事をした。
「うわぁ!
このサラダ美味しい!
孝正さん、今度は煮込み料理も作って下さいね」
「あれは時間がかかるから…いつか暇が出来たらね。
でも、このパスタもとても美味しいよ、山口、あ…小夜子さん」
山口は無邪気な微笑みを浮かべてワインを飲んだ。
今この時、私は長年忘れていた「家庭の雰囲気」と言う物を思い出した。
平凡で細やかな、それでいて何者にも犯されない、神聖な物…失ってから初めて判る貴重な物。
しかし、私にはそういう感傷に浸っている暇が無い事を、嫌でも目に入るリビング一杯に所狭しと積み上げられた、山口があちこちからかき集めた夥しい悪魔に関する資料が思い出させた。
「所で小夜子さん、さっき言ってた、ルシファーとの契約の件だけど…」
楽しげに食事をしていた山口の手が止まり、顔が引き締まった。
「私、あの江古田の夜の事を考えました。
あの晩にルシファーが言った事を。
あの夜、ルシファーは孝正さんを守る代わりに魂を貰うと言いましたね?」
「うん」
「そして、私達も守ると言いましたね。
気が向いたらと…」
「うん、覚えてる。ルシファーは気が向いたら守ると言った」
「悪魔は契約に忠実です。
つまり、今のところルシファーが孝正さんをあの世界の物からの攻撃を防ぎきれなかったら…これはその他の不慮の事故も入るのかしら?
つまり、そうなったら…ルシファーの契約は御破算です」
「そうなるね」
「あの時ルシファーは、孝正さん以外にも私達も守ると言いました」
「気が向いたらと…」
「もう一度ルシファーと話して、私達も守れなかったら、魂を渡さないと言ってみるんです」
「……」
「私達の誰か一人が犠牲になっても契約は無効になります」
「今後、惟任研究所の誰が犠牲になっても…契約が無効になると言う事か…」
「そうです。
その契約を結んで、誰かが犠牲になってしまえば…ルシファーが私達全員を守りきれなければ、孝正さんの魂は救われると言う事です。
…誰かが…或いは不注意であの世界…悪魔の犠牲になれば…孝正さんの魂は…救われます」
山口の言葉を聞いて、山口の顔を見て、私はハッとした。
山口の、どこか決意を込めた思い詰めた表情を見て、私は戦慄を覚えた。
(山口小夜子は…俺の身代わりになろうとしている)
「小夜子さん…それはどうかな?
俺は誰かを犠牲にしてまで助かりたくないよ。
誰でもだ!」
「…それを覚悟している人間が一人いれば…真田さんだけでなく惟任研究所のメンバー全員がルシファーに守られ…」
「聞きたくない!
そんな理屈、聞きたくない!
悪魔と契約をして我が身を守るなんて!しかも、いざと言う時に身代わりに用意するなんて!」
「あの時、あの江古田の夜、孝正さんは私達を守る為にルシファーと契約を交わしたんでしょ?」
「それは…」
山口が立ち上がり、私の体を抱き締めた。
「孝正さん、私にも荷物を背負わせて下さい…あなた一人でなんて…嫌です…コマンダーとダイバーは…」
「それとこれは違うよ!」
「少しも変わらないわ」
「…」
「あなたをこういう状況に追い込んだのは…私達かも知れない…」
私の中の何かが切れ、体が震えだし、涙がこぼれた。
嗚咽が漏れ、山口にしがみついた。
「かわいそうに…」
山口が私の頭を優しく撫でてくれた。
まるで母の様に。
続く