佐伯邸のアンノウンは駆逐もしくは封印もしくは破滅されたようだった…ルシファーの手によって…。
仮説
私は惟任の顔を見つめた。
惟任は煙草に火を点けて一息吸うと私を見返した。
あの、実験動物を冷静に観察する目つきで、じっと私を見つめた。
「さっき君が描いた絵を一通り見せてもらったよ…佐伯玲子の昔の写真を君は見ていなかったよなぁ?」
「ええ、昏睡状態になってからの写真、最近の写真は拝見しましたが、彼女が子供の頃の写真は資料にはありませんでしたよね」
「ふむ…そうやな」
惟任が横に置いた封筒から一枚の写真を取り出して、私に差し出した。
手首の処置を終えて足の傷の処置を受けている私は写真を受け取って、見た。
古ぼけた白黒写真には、改築前と思われる佐伯邸のダンスホールに置かれたピアノの前に白いワンピースを着た少女が笑顔で立ってこちらを見ていた。
昨日の昼と夜に私が見た、そして、見えない力に押しつぶされてボーリングの玉くらいの球体になったピアノを見ながら描いた絵の少女そのものだった。
じっと写真を見ている私の目からいきなり涙がこぼれおちた。
何の感動もなく、ただ単に、涙が私の頬を伝って流れ落ちた。
足の傷の処置をしている桜田が、私の涙に気付いて、ハンカチを渡してくれた。
「なんだろ?
なんで涙が出るんでしょうね?」
渡されたハンカチで涙を拭きながら私は小声で言った。
惟任は私の問いに答えずに、じっと煙草を吸いながら私を見つめていた。
「…その写真を見て何か感じるんかい?」
「いや、特に何の感慨が浮かんだ訳じゃなくて…涙が出ました」
「ふぅん…興味深い…」
惟任が私の手から写真を取ると封筒に入れた。
「まぁ、細かい検証はこれからするし、君のレポートを読んでからでないと色々言えんがなぁ…これは仮説にすぎないんやけど…どうやら、佐伯邸に数々の異常な現象を引き起こした『アンノウン』は…消滅したかも知れん」
「……?」
「仮説やぞ、これはあくまで仮説や。
今日の午前3時55分からなぁ、佐伯邸で唯一生き残ったセルゲイエフセンサーがなぁ、一切のクルニコフ放射を検知していないんや。
そして、君も気が付いたと思うけれどあの佐伯邸の寒気…あれも消えた。
私が思うには、佐伯邸の『アンノウン』を遙かに上回る力を持った何か別の新たな『アンノウン』が現われ、君を破滅させようとした佐伯邸の『アンノウン』を消滅させた…いや、封じ込めたと言う風に私は思っている。
あの鴉が体当たりした窓を見たかい?」
「ええ」
「あの壁面のへこみは、とんでもない物理的な力が外部から働いたとしか思えんのや。
およそありえない力やね。
あれは佐伯邸の外部で発生した。
今までにない現象や。
佐伯邸のシェルターのフレームもかなりの力が加わったと思うが…おそらく介入してきた新しい『アンノウン』の力は私達の想像をはるかに超えているだろうね。
あの圧縮されたピアノを見れば判るよ。
今も縮小を続けておる。
恐ろしい密度になりつつあるな。
佐伯邸の『アンノウン』を遙かに上回る力を持った、桁違いと言っても良い程強力な『アンノウン』がな…なぜ、急に介入してきたかわ判らんがな…そして元々いた佐伯邸のアンノウンをあの球体に封じ込めた………そして、佐伯邸の『アンノウン』の呪縛を解かれた佐伯玲子が覚醒した………こんな所かな?」
「………飯坂信子さんが亡くなったと聞きましたが…」
「それや!
それがなぁ…見るか?」
惟任がもう一枚の写真を封筒から取り出すと暫く写真を見つめてから私に差し出した。
写真には、何か見えない力によって飴細工の様に丸められたべッドが写っていて、飯坂信子がそれに押しつぶされていた、特に頭の所にあるベッドのフレームは、しっかりと彼女の頭を掴んでから思い切り握りしめた様に…丸まったベッドの中から飯坂信子の手が一本だけ突き出していて、助けを求めるように指を折り曲げ硬直していた。
それは、あのシェルターに閉じ込められて、押しつぶされそうになった私自身の姿を連想させた。
「彼女は…とばっちりを受けたのか…それとも、新しく出現した『アンノウン』にとって、生きていては都合が悪かったのか…あくまでも仮説やけどな…どうもこういう調査をしているとなぁ…色々と仮説ばかりが出てくるんや…今回も物理的な現象のデータはたくさん手に入れたんやが…どうもなぁ……佐伯玲子も覚醒したが、今はまだ話せる状態やないしなぁ…そのうちに色々と訊こうとは思っているんやが………」
惟任はぼりぼりと頭をかいた。
「………」
足の処置を終わらせた桜田はちらりと惟任を見た。
「教授、そろそろ…」
「ああ!そうやったな!
いやぁ、君のレポートを楽しみに待っているよ!
佐伯邸の垢を落してきたまえ!」
惟任は私の手から写真を取り、肩をポンポンと叩いてからトラックを出て行った。
「真田さん、これから観測機器を外してスーツを脱いでからシャワーを浴びて下さいね。
それから、近くの病院で準備を整えていますから、CTやMRI、レントゲンであなたの体に異常がないか調べます」
「それから?」
桜田がほほ笑んだ。
「それからは…自由行動。
後はレポートを提出するだけですよ。
お疲れ様でした」
後はレポートを書いて提出するだけ。
こうして一通り、佐伯邸での調査は終わった。
だが、これは、今から思うと、私の、長い長い異常な奇妙な体験の始まりにすぎなかったのだ。
その後、私は体中に付けた観測機器を次々と外されていると、平岡がトラックに入って来た。
平岡はすまなそうな表情を浮かべて私をじっと見ていた。
こちらから見ていても痛々しい平岡の顔を見て、私は声をかけた。
「平ちゃん、シェルターの事は、気にしないでね。
あそこに置いていたらどうにかなるのが当たり前だったんだよ」
平岡が目に涙をためて頷いた。
「真田ちゃん…ごめんねぇ…」
「しょうがないよ。
未知の物を相手にしてるんだから。
どんどん改良して行ってゆけば良いよね」
平岡がうんうんと頷きながら、涙を拭いて微笑んだ。
「そうだね…がんばるよ。
もっともっと頑丈な凄いの作っちゃうよ!
真田ちゃん、ありがとう!」
平岡が手を振りながら出て行った。
「真田ちゃん…優しいね。」
桜田がくすくす笑いながら、心電図のパッドを外した。
「だって…しょうがないですよ。
人間の力をはるかに超えているものに対抗しようなんてねぇ…」
「人間の力をはるかに超える…
そうね…確かに人間の力や知識が及ばない存在ね。
あなた、また仕事の依頼が来たら引き受ける?」
「………今、考えていますけど……多分引き受けるでしょうね。
とてもとても怖いけど、僕の好奇心がそれをはるかに超えていますよ。
何か…麻痺してしまったんですかね、心の部品がいくつか死んでしまったようです。
上手く言えないけれど…僕の中で何かが変わりました。
正直に言うと、アンノウンなんて言いながら、今までこういう物が存在する世界を全然信じていなかったと思います。
でも、確実に何か別な…普通に生きていると絶対に見る事が出来ない何かを見てしまいましたからね。
…とことん見て、その正体を見極めたいと思います」
確かにそうだ。
佐伯邸調査の体験、この仕事を引き受ける時から起きた奇妙な出来事、それらが私を変えてしまったと思う。
雨にけぶる木々を見ても、青空の下の草原を見ても、公園で遊ぶ子供たちを見ても、親しい人たちの笑顔を見ても、もう、何を見ても、何をしても、今までの私とは違う受け止め方をするだろう。
私の中で、何かが変わった。
永遠に何かが変わってしまった気分がした。
私を変えてしまった『それ』の正体を見極めないと、気が済まない。
『それ』の存在を暴きたててやらないと私の気が済まないのだ。
「そうね、でも、真田さん。
あなた、一つだけ間違っているわよ」
桜田が脳波を測定する電極を外しながら言った。
「何が間違ってるんですか?」
「……普通に生活していても……ごく普通に生きていても、誰にでも未知の不可解な存在と遭遇する可能性があるのよ。
ごく普通に生きていても、不可解で奇妙な存在に遭遇する事がある。
凄く遠い存在だと思っていても…実は常に身近に存在しているんだわきっと。
そして、息をひそめて、私達の目の前に姿を現す機会をじっと窺っているんだわ。
……何を教えたいのだか、何を訴えたいんだか判らないけれど……敵なのか…味方なのか…神なのか…悪魔なのか……その両方なのか判らないけどね。
いざその場に立ってみて、一つ対応を誤ると命さえ取られかねない何かが…じっと息をひそめて…すぐ横にいるのよ……」
「………」
「私はその対応を間違って娘を奪われた」
「………」
「真田さん、お願い、そういう存在の正体を暴くのに力を貸して」
「……判りました」
桜田が脈拍を測定するパッドをはがした。
「あなたは佐伯邸から、死なずに、精神状態も正常のまま生還した初めてのダイバーなんだから…私達にはとても貴重な存在なの。
これからも…私の娘の為にも力を貸して」
「……娘さんに一体何が起きたんですか?」
桜田が測定機器をすべて取り外して笑った。
「いつか機会があったら話すわね。
すこし時間をちょうだい。
さっシャワーを浴びてきなさいよ。
傷の所の防水はがっちりしておいたからね」
「はい」
私はシャワーを浴びに行った。
そう、私は唯一佐伯邸からまともな、と言っても傷だらけになったが、状態で生還したダイバーなのだ。
だが、それは、一回きりの幸運だったのかも知れない。
次も生き残れるのだろうか?
私の脳裏を、あの赤い目をした鴉の言葉がよぎった。
「お前を守ってやる」
そしてもう一つの言葉も
「お前は旨そうだな」
私はシャワーブースに行きスーツを脱いだ。
嫌な臭いのベタベタした粘液、これはあの人形を踏みつぶした時の物だろう。
あの屋根裏部屋は今はどうなっているのだろうか?
あの気味悪い人形達は裂けた口から牙をむき出したままで息絶えているのだろうか?
あのボーリングの球ほどに押しつぶされたグランドピアノは、今も縮み続けているのだろうか?
そして、今まで嗅いだ事がない様な獣臭い汗の臭い。
どうしたらこんな汗をかけるのだろうか?
加齢臭?
(俺ももう、良い年したジジイだからな)
私は少し寂しく感じながらスーツを脱いだ。
そして、耳と手首と足の傷に注意しながらシャワーを浴びて、丹念に汗と汚れを落とした。
シャワーを浴びてさっぱりし、着替えると山口がシャワーブースの前に立っていた。
「惟任さんはまだいますか?」
「教授は神戸にとんぼ返りです。
屋敷の中は今総動員で事後調査中です。
…真田さん、佐伯邸で最後の食事して行きません?」
「いいですね!
チャベスの料理はとても旨いです。
何処か有名レストランのコックさんなんですか?」
「うふふ……いいえ、彼はある貨物船のコック長をしていたんです。
教授がどうやって探したのか判りませんけど。良い腕してますよね。
私、昨日の夕方から食べていないんですよ。
お腹ぺこぺこです」
私と山口は調理トラックに行って、チャベスが作ったボリュームたっぷりの料理を堪能した。
スパイスを利かせたチキンステーキとシーザーサラダ、具がたっぷりのコンソメスープ、そして、ふわふわのパンケーキにシロップとバターをたっぷり載せて食べた。
私も山口も、会話をそこそこに食べまくった。
2人ともパンケーキをお代わりし、食後の香り高いコーヒーを飲んで
膨れた腹を撫でながら幸せな時間を共有した。
まだ、暑さは残るが9月も下旬に差し掛かった空は。のどかで、そして限りなく高かった。
桜田が小走りにやって来て、私と空になった皿を交互に見ると頭を抱えた。
「あ~!
真田さん!食べちゃった!
採血するの忘れてた!
血糖値の測定を…もぅ~…」
私と山口は顔を見合わせて笑った。
佐伯邸の調査の為に奈良に来てから、初めて笑った気がする。
私は大きな口を開けて、ゲラゲラ笑った。
(大丈夫、俺はまだ笑える。まだ、笑う事が出来るんだ)
じっと見ていると落ちて行きそうなほど青く晴れ上がった空を見上げながら、私は笑った。
桜田が暫く私を睨んでいたが、やがて、クスクス笑いだし、そして、腹を抱えて笑いだした。
「まぁ、佐伯邸でバナナとか食べちゃってるから…いいか?」
私達は暫く笑い続けた。
まるで私の生還を確かめるための儀式であるように、私達はしばらく大口を開けて笑い続けた。
ひとしきり笑った後の桜田が頭を振って言った。
「まぁ、良いか。
しょうがないわ。
指揮車で待ってます。
真田さん用意が出来たら病院に行くから来て下さいね」
「はい、判りました」
私はコーヒーを一口飲んで言った。
桜田が苦笑を浮かべて頭を振りながら歩いて行った。
山口がコーヒーを飲みほして立ち上がった。
「さて、私も行かないと。
真田さんは後はレポートを出すだけだけど、私達はあそこでやる事が山ほど出来ましたので。」
「僕はもう一杯コーヒーを飲みますけど、構わないですか?」
「どうぞ、少しゆっくりして行くと良いと思いますよ。
桜田さんも気長に待ってくれると思いますよ。
……真田さん」
「なんですか?」
「あそこから生きて帰ってくれてありがとうございます」
山口が深々と頭を下げて言った。
「だめですよ、指揮官がそんなに低姿勢じゃ」
私は慌てて立ち上がった。
山口が頭を上げるとほほ笑んだ。
「そうですね………あの、何でも奢ると言う話。
本気ですから、いつでも言って下さいね」
それだけ言うと、山口の顔がきりっと絞まった。
「それでは、指揮官の仕事をしてきます」
山口は指揮者の方に歩み去った。
山口の後ろ姿を見ながらコーヒーを飲んでいたら、チャベスがくわえ煙草で、コーヒーカップを二つ持って来た。
「おう、コーヒーお代わりするでしょ?」
チャベスが淹れたての熱いコーヒーが入ったコーヒーカップを一つ、私に差し出した。
「ありがとう」
私がカップを受け取ると、チャベスは山口が座っていた椅子に腰を下ろした。
「煙草、吸っても良いの?」
「誰もいないんだから大丈夫よ。
綺麗な空気の中で吸うタバコは旨いね」
チャベスがウィンクをしてのんびりと言ったので、私もエコーを取り出して火を点けた。
しばらく、2人でのんびりと煙草をふかした。
鳥のさえずりが聞こえ、涼しいそよ風が吹いて木々の梢を揺らせた。
目の前の風景が一服の絵の様で、いつまでも椅子に座って眺めていたかった。
「もうすぐ良い季節になるよ。
日本の夏は私の国より暑いけど、秋はとっても良い季節ね」
チャベスがそう言いながら、コーヒーを飲みほして立ち上がった。
「あなた、とても疲れた顔してるよ。
でも、仕事終わり。
そうでしょ?」
チャベスが私の顔を見つめて言った。
「そう、仕事終わり」
私が言うと、チャベスが親指を立てて笑顔を浮かべた。
「おつかれさま。
仕事終って、仕事頑張って、男は家に帰るよ。
そしてゆっくり休む。
…食器そのままで良いよ」
チャベスはもう一本煙草に火を点けて、一息吸うと調理トラックの方に歩み去った。
私はコーヒーを飲みほしてから立ち上がり、桜田が待っている指揮車に向かった。
その後、私は桜田と共に立花が運転するランドローバーに乗って、奈良のある総合病院でCTやらなんやら撮られてから、昼過ぎに解放された。
「真田さん、どうする?
まっすぐに帰るの?」
「いや、出来れば大阪まで送ってもらえます?」
「ああ、良いですよ。
大阪はどこまで?
新大阪で良いの?」
「トビタ新地まで…良いですか?」
「いいですよ。
昼から、飲みですか?良いなぁ!」
立花が笑いながら車を出した。
「いえ、少し気になる所があってね。
明日の夕方から病院の仕事だから、長く大阪に入れないんですよ。
今日の夕方には東京に着いてないと…」
「ふ~ん、大変ですね」
立花が車を走らせていると、いきなり強い睡魔が私を襲った。
私はいつの間にか眠りこんだ。
続く