119 リングの上で
服を着たままではあるが、俺は何も持たずにリングに上がった。
元々の世界で、俺がリングに上がることなど考えられなかった。
人と殴り合うことなど、考えたこともなかったのだ。
観客が騒いでいる。
リングのもう一方の端には、森の王者というのが最も似合う巨大なゴリラ、ギャスティが、ドラミングならぬシャドーボクシングをしていた。
俺の倍はあるのでないかと思われる身長に、3倍はあるのではないかと思われる腕に、10倍はあるのではないかと思われる筋肉をしている。
リングの反対側にいるのに、ギャスティの拳が空を切る音が聞こえ、風が頬を撫でた。
この世界の人間とは、ゴリラでありその他の霊長類であるらしい。
それなのに、なぜ魔王に従っているのかという疑問を、俺は抱いていた。
ギャスティを見て納得した。
この世界の人間は、魔物と互角に殴り合うだけの力がある。
その力を持たず、世界を滅ぼしたのが、かつての人間である俺のような種族なのだ。
俺は、どう見ても不利だ。
なぶり殺されるのが目に見えている。
だが、リングの外から聞こえる声に、俺に対する好意的なものは一つもなかった。
全員がチャンプを応援し、俺の死を願っている。
チャンプの応援をするのは仕方がない。
チャンプというぐらいだ。きっとこれまでに数多くの同類や魔物をリングで倒した人気者なのだろう。
だが、俺に対する罵詈雑言は酷い。
もっとも、俺に対する声援を期待できる容貌の持ち主はいない。
リングの外に並んでいるのは、醜く歪んだ魔物たちか、毛深い霊長類の二種類だけだ。
俺が服を着たままなのとは対照的に、ギャスティは腰蓑以外は全身がむき出しで、関節に金属の覆いをつけている。
毛皮と筋肉だけではあきたらず、関節も守っているというわけだ。
審判が入場した。その姿に、俺は唖然とした。
「魔王、あんた、何をしているんだ?」
審判としてリングに上がってきたのは、鋭い角を持った赤い肌の女性、俺がずっと魔王と呼んできた女性だった。
「メインイベントを特等席で見る。それが王たるものの特権である」
「権利濫用だ」
「ほざいておれ」
俺の皮肉など聞く耳も持たないのだろう。
魔王は声も高らかに、俺とギャスティを紹介する。
俺のことは、世界を滅ぼした悪魔の末裔だと言った。
魔王の優しさを感じる。俺自身が世界を滅ぼしたと紹介されなかっただけましなのだ。
観客からのブーイングに、いまさら動じることもない。
魔王が試合開始を告げ、ゴングが鳴った。
ギャスティが突進してくる。
俺は横っ飛びに跳び、リングに伏せた。
同時に、左手に魔法の石板を取り出す。
「立て! リングに立ったのは貴様の意思だろう!」
怒鳴ったのは魔王だ。
試合を盛り上げる義務感があるのかもしれない。
この試合は、総合格闘技に近く、要は何でもありだ。
急所攻撃も問題ない。凶器の使用も、初めから持ち込んでいなければ認められる。
魔法の石板を取り出しながら振り返ると、案の定ギャスティはリングに伏せった俺に上から拳を打ち下ろした。
間一髪で拳をかわす。
俺がいたリングの一部が凹み、リングが跳ねる。
それほどの衝撃だった。
俺は、精神魔法をタップした。
石板の画面を見なくても、魔法ならば位置がわかる。
「眠れ!」
「ゴウォォォォッ!」
俺の指令を無視して、ギャスティが吠えた。
リングに上がり、猛っている相手に、精神魔法は悪手だったのだろう。
魔法を切り替えようとする。
背中が、何かに触れた。
リングの周りに貼られたロープかと思った。
だが、意外と硬い。
「逃げるな。みっともない」
声に振り向くと、魔王だった。
魔王の足に当たったのだ。
ギャスティが拳を振り下ろす。
俺はかろうじて、生命魔法を使用することができた。
拳を両腕で受け、衝撃で体が浮かぶ。
舞い上がり、転がった。
何とか、立つことができた。
使用したのかが生命魔法でなかったら、全身の筋肉で防御していなかったら、衝撃で背骨がばらばらになっていただろう。
俺は立ち上がった。
魔王が目の前にいた。
「まだやれるな?」
「ああ。俺はまだ、何もしていない」
「よし。悪魔の所業を見せてみよ」
「ああ」
俺に笑いかけ、魔王が横にずれる。
「ファイト!」
魔王が声を張り上げた。
ギャスティが再び迫る。
俺は、作戦を誤っていたことを理解した。
これまで、強い相手とは何度も戦ってきた。
魔法やアイテムで急場を凌ぎ、なんとか生き延びてきた。
圧倒的な実力差の前では、アイテムも仲間も間に合わないのだ。
頼るべきは、一つの魔法だ。
俺は、生命魔法を連打した。
連打することに意味があるのかどうかは、はっきりわからない。
全身に意識を向け、見よう見真似で、拳を顔の前に掲げて前に出た。
ギャスティの拳が、俺の頭部に横から襲い掛かる。
俺は腕の防御を固めながら、前に出た。
ギャスティの胸板が目の前に迫る。
拳を突き出した。
ギャスティの懐に入ったのだと知った。
普段の俺の拳をどれほど叩きつけようと、ギャスティの筋肉に阻まれて終わる。
だが、俺の生命魔法は、すでにレベル4に達している。
拳の先端がギャスティの脇腹に減り込み、ギャスティは楽しげに牙を剥き出しにした。
笑ったのかと思った。
大きく口を開け、長く突き出た2本の犬歯で、俺の肩に噛み付いた。
総合格闘技かと思っていたが、噛みつきが反則ではないことを忘れていた。
生命魔法の魔力を全身に巡らせ、ガニ股の短い足の内側に足を絡ませ、体を捻った。
ギャスティの体が浮き上がり、俺の体と一緒にリングに叩きつけられた。
ギャスティはリングに寝転がりながら、俺の首に手を伸ばした。
手で直接首を絞める行為も、反則ではない。
俺自身は、噛みつかれた肩から出血しているが、牙は外れていた。
俺は咄嗟に飛び出し、ギャスティの腕から逃れた。
生命魔法をさらに何度か連打し、指の位置を変える。
距離が離れた俺を捕まえるため、ギャスティが全身の筋肉を躍動させて飛び上がった。
リングに立ち、同時に拳を構えていた。
俺は、爆発魔法レベル2を見舞った。
立ち上がった直後のギャスティが、目の見えない衝撃波で後方に吹き飛ぶ。
観客がどよめいた。
俺はさらに追い討ちをかけ、体勢を戻す前に爆発魔法を2発炸裂させてから、距離を詰めた。
生命魔法の力を信じ、ギャスティの懐に入った。
思い切り拳を振るう。
ギャスティの顎に入った。
毛深い頭部が振られる。
だが、効いていない。
俺は後方に飛んだ。
魔法の石板の画面をスライドさせ、アイコンをタップした。
一声咆哮し、目を血走らせてギャスティが迫る。
その目の前に、俺が呼び出した、幼女が飛び出した。
「なんじゃ? ここは……」
「ベティア、人間だ。ご馳走だ!」
俺がギャスティを指差すと、呼び出された吸血鬼の王ベティアが、ギャスティ以上に目を輝かせて振り向いた。
「猿ではないか!」
ベティアが俺を振り返り、文句を言う。
「あれが、この世界の人間なんだ!」
「約束が違うではないか! 妾が求めている人間のいる世界は、こんな……」
文句を言い続けるベティアが、ギャスティの足に蹴られた。
だが、ベティアは言葉を切っただけで、不愉快そうに振り向いた。
「この猿が! 妾を誰だと思っておる!」
ベティアが眼中になかったギャスティは、突然足が止まったことで、足元にいる幼女に気づいた。
蹴り飛ばそうとして足が止まったことを含めて、気がついたのだ。
俺から視線を離し、ベティアを見た。
ベティアは、怒りに任せてギャスティの太い足に噛み付いていた。
鮮血がほとばしる。
俺は魔法の石板の魔法画面を再び呼び出し、爆発魔法をタップした。
足に噛みつかれ、動きがとれなくなったギャスティは、俺の爆発魔法で頭部に衝撃を受け、尻餅をついた。
どうやら、生命魔法の力で全力で殴るより、爆発魔法を喰らう方がダメージが大きいらしい。
だが、観客と審判である魔王に、俺が戦って勝ったのだと知らしめになければ意味がない。
俺は再び生命魔法をタップし、リングを蹴った。
「ふむ……思ったほどは悪くない」
不快そうに口元を拭うベティアを飛び越え、俺はギャスティに蹴りを見舞った。
度重なる衝撃でふらついていたギャスティが、ついに倒れる。
「勝者、世界を滅ぼした悪魔!」
魔王が俺を手で指した。観客が総立ちになり、特に猿の姿をしたこの世界の人間たちが、俺を殺せと喚き立てる。
「静まれ、猿ども! 余を怒らせるか!」
魔王の怒鳴り声に、猿たちが俯いた。
俺は、口元を拭うベティアに尋ねた。
「どんな異世界か、俺も行ってみないとわからないんだ。助かった」
「あまり、変な血を飲ませるでない。猿の血をあまり飲むと、妾が猿になるぞ」
「えっ……」
「この姿は、十分な血がないための倹約型じゃ。いずれ、本来の姿を見せてやる」
「ああ」
ベティアは気になることを言いながら、短い手を伸ばした。
周囲の観客が、猿か魔族、あるいは魔物であることを見て、この世界への興味を失ったのだろう。
俺が魔法の石板を見せると、自ら触れて姿を消した。
「約束だ。お前の力は証明された。奇妙な力を使うようだな。お前の望みとやら、聞くだけは聞いてやろう」
俺の背後に、魔王が立った。
「……俺のことを、悪魔と呼ぶのはやめてほしい。この世界にいたホモサピエンスも、大部分はごく弱い生物だ」
「だが、世界を滅ぼしたのは事実なのでな。そう簡単には変えられん」
「ソウジだ」
「なに?」
「俺の名はソウジ。魔王様は、個体名は持っていないのか?」
「いや。ソウジだな。余は魔王であり、この世界に唯一の存在だ。名前など必要ないが、親しい部下はランドゥと呼ぶ。お前は呼ぶな。親しくはない」
「わかった。ランドゥ、よろしく頼む」
俺は早速魔王を名前で呼び、殴り倒された。
ギャスティの打撃に耐えた俺が、一撃で気絶したらしい。
目を覚ますと、見たことがない場所に寝かされていた。




