112 異世界の湯治場 ☆
この世界での温泉の存在を、アリスも、シルフも、ウーですら知らなかった。
3人とも、同じ世界ではあっても千年前の存在だ。
この世界で今の時代で生み出された魔物は、ハンヘドだけだ。
俺たちは、全員がハンヘドの背に乗って移動した。
その速さは凄まじく、それ以上に揺れた。
しがみつくのに必死になっていた俺は、請われてアリスとシルフを魔法の石板に収納した。
ウーは平気そうだった。
魔法の杖をハンヘドの背中に押し付けている。以前にも接着魔法呼ぶものを使っていた。杖で張り付いているのだろう。
「ここだ」
数時間移動を続けたが、ハンヘドは疲れた様子もなく足を止めて、背中に乗っている俺を振り向いた。
ずっと森の中だった。
途中から、木々が少なくなっていたのに気づかなかった。
ハンヘドが足を止めた場所から先は、草も生えない岩と砂の地面だった。
さらに前には地面が上り坂になっており、その先に白い湯気が立ち上っている。
「あれが温泉か?」
「そうだ。温まるぞ」
ハンヘドが巨大な口を開けて優しく言った。
俺は、ウーを抱えてハンヘドの背中から降りる。
「臭いです。お腹が減りました」
ウーが言った。
ウーは鼻が上向いており、要は豚づらだ。
鼻の穴も大きいため、塞ぐのは簡単ではない。
「臭いのに、腹が減ったのか?」
「臭くても、美味しいものはたくさんありますから」
豚の顔を器用に歪めながら、ウーは涎を拭いた。
やはりオークという種族がら、食い意地はすごいのだ。
「何の匂いだ? 硫黄みたいだな」
「硫黄がなんだかわからないが、温泉の近くには、腐った卵がたくさんあるのだ」
ハンヘドが頷きながら言った。
確かに、腐った卵のような匂いがする。
それは、硫黄の匂いとして喩えられる匂いだ。
「だから、硫黄だろう?」
「硫黄が何か知らない。卵が腐っているのだ」
「腐った卵が、実際に転がっているのか?」
「見たことはないが、匂いがする以上、あるはずだ」
ハンヘドは譲らない。俺は、議論することは無駄だとわかっていたが、本格的に言い合うのはやめた。
「毒じゃないよな?」
「大丈夫だろう」
ハンヘドにとっては大丈夫かもしれないが、俺はもっと弱い生物だ。
俺は、試しにアリスとシルフを呼び出した。
「……ああ」
アリスは、草の生えていない地面に絶望するかのような声を出した。
「臭いな。誰が死んでいるんだ?」
シルフは鼻を摘む。
「誰も死んではいない。卵が腐ったのだ」
「なんだそうか」
ハンヘドの説明に、シルフは摘んでいた鼻から手をはずした。
「もし、空気に有害な成分が含まれていたら、シルフはわかるか?」
「そのためにあたしを呼び出したのか?」
「ああ」
「わかった。先に行く」
言うと、シルフは斜めに傾斜した地面を登り出した。
立ち上る白い煙に向かう。
「ちょっと待て。どうした? 何が『わかった』んだ?」
追いかける俺に、シルフは言った。
「空気が毒なら、あたしが死ぬだろう。あたしが死んだら逃げろ。そのためにあたしを呼んだんだろう」
「そんなことをさせるために呼んだんじゃない」
俺はシルフに追いつき、シルフを抱え上げた。
「ハンヘド、案内してくれ」
「はいよ」
巨大な体躯が宙を舞う。
俺たちを飛び越して、前の地面に降りた。
「上まで登るほど、お湯は熱くなる。頂上にはドラゴン様たちが湯浴みにくるほどだ。ぬるい方がよければ、あちこちに洞窟があるだろう。どの洞窟でもお湯が溜まっている。好きな湯に入るといい」
「……へぇ」
俺は、坂道になっている岩と砂の地面を見た。
言われなければ気づかなかったが、洞窟のような入り口があちこちにある。
「ハンヘドは、どのぐらいのお湯に入るんだ?」
「我は、沸騰するお湯ぐらいだな。七合目にある」
「百度じゃないか。死ぬぞ」
「ゆっくり浸かるには、それぐらいの方がよいのだ」
ハンヘドはぬるめの温度を求めて、百度のお湯に入るらしい。
温泉としての不純物が混ざっていれば、沸点はさらに高いはずだ。
「もっと熱いお湯なんてあるはずがない」
「ドラゴン様たちは、マグマの湯に浸かるぞ」
「……うん。わかった。俺には無理だ」
上り坂になっているのは、これが火山だからなのだろうと俺は思った。
頂上では、活火山が噴火活動をしており、マグマが貯まっているのだろう。
それを求めて、ドラゴンが浸かりにくるのだ。
「いくらドラゴンでも、本物のマグマに入るわけがない。それだけ、煮立って熱いお湯だってことだな」
「そうなんですか?」
俺の言葉を受けて、ウーは並んで歩くハンヘドに尋ねた。
ウーはドラゴンをとても尊敬しているが、尊敬しすぎて直接会うことも避けている。
ドラゴンのことはよく知らないのだろう。
「見ればわかるだろう」
ハンヘドは、体の割には小さな前足で前方、斜め上を指した。
俺は、視線を向けて後悔した。
俺たちが歩いている山の頂には、間違いなくマグマが吹き出し、山頂から溢れ出している。
しかも、マグマが溜まっているだろう山頂で、揺れ動く長い首を発見した。
「……竜兵か?」
「ドラゴンソルジャーはあんなに小さくない。ドラゴンナイトだな」
ハンヘドが答える。俺は、足を止めた。
山頂でおそらくマグマに浸かってくつろいでいるドラゴンが、真っ直ぐに俺を見たような気がしたのだ。
気のせいではなかった。
周囲にマグマを撒き散らし、巨大な翼が空を隠す。
熱風が渦巻き、ドラゴンが舞い上がる。
俺の目の前で、地響きが上がった。
俺は背後に逃げた。
ドラゴンの体から、マグマの水滴が散らばったのだ。
「ソウジか。やはり、ダンジョンを攻略したのはお前だったな」
ドラゴンが言った。
俺の名前を知っている。
俺は、足を止めて振り返った。
全身が赤い岩に包まれた、ドラゴンの石像が身震いした。
マグマは、冷えると石になる。
マグマの湯に浸かっていたドラゴンが空を飛んだために冷やされ、石を纏っていた。
「キリシアンかい?」
「うむ。この美しい鱗に見覚えがあるのだろう」
ドラゴンナイトであるキリシアンは、俺が名前を覚えていたことに満足したようだ。
自慢らしい鱗を見せたが、マグマが冷えて硬化した岩で見えなかった。
「そうだな。綺麗な鱗だ」
俺は嘘をついた。ドラゴンソルジャーの頃より小さくなったとはいえ、象の3倍以上ある巨体の相手に、正直ではいられなかった。
「次のダンジョンに行く前に、休暇か?」
「ああ。俺の仲間は、魂の結晶に収納している間は、時間が止まるだろう。次のダンジョンですぐに動けるように、体調を万全にしてやりたい」
「やはり、ソウジは変わった魔法士だな。そんな考え方をする魔法士は、他に見たことがない。魔物とは、使い潰すものだ」
「そういうことを言うから、こいつらが怖がるんだ」
「怖がる?」
俺の言葉に、キリシアンが長い首を捻って首を傾げた。
「そ、ソウジ、何を言うんです。私は、怖がってなんていません」
「そ、そうだ。ただちょっと、恐れ多いだけだ」
「あっ、漏れました」
「アリスはいつもだろう」
「し、失礼ですよ」
ウーとシルフとアリスは、俺の足にしがみついて体を隠して震えていた。
顔だけで俺の身長ほどもあるキリシアンを目の前にすれば、恐怖して当然だ。
「怖がっていたわけじゃないみたいだ。でも、大事な仲間だ」
「そうだな。ダンジョンを3つも攻略した魔法士が言うのだ。それが正しい考え方なのだろう」
キリシアンは笑って言った。俺に近づけていた首を、やや遠ざけて下の位置に戻しながら、続けて尋ねた。
「休憩したなら、ダンジョンに向かうか? また、送ってやろう」
「いや。今休憩にきたところだ。もう少し、のんびりさせてくれ。ここは、温泉なのだろう?」
「うむ。魔法士であっても、頂上付近の湯は勧めない。入れば死ぬだろう。麓近くの洞窟に入るといい。魔物たちが商売をしている。金がなくとも、我へのつけで好きなものを買うといい」
「『つけ』か……俺、あんたに金貨五百枚を渡して、ヒナを助ける予定なんだが」
「もし、ソウジの望みが叶うのなら、それは1000年も昔に遡った後のことになるだろう。この時代に金貨を返されても、もう返すべき人間はいない。1000年前に戻って金貨を返そうとしている男に、これ以上金を出せとはいわんさ」
キリシアンは笑いながら翼をはためかせた。
「わかった。温泉でくつろいでから、またキリシアンを呼ぶ。今度はできれば……2番目のダンジョンに近い匂いの場所がいい」
時間を遡るのに、科学技術が発達した異世界へというのは、俺の判断だった。意識してはいなかったが、俺の元の世界のSFの影響だったのだろう。
俺の知る物語で、時間を遡るのは科学だけではない。魔法を使った物語でも、時間渡航をした例は多い。
1000年後の地球でもタイムワープは実現されず、科学技術が進歩した異世界に行くことも失敗した。
俺は、今度は魔法が発達したダンジョンに賭けようと思い直したのだ。
「わかった。探しておく」
「ああ。頼む」
キリシアン自身は、マグマの湯を堪能した後だったのだろう。高く飛び去った。
俺は、山を登ることは止め、熱いお湯に入りたがっているハンヘドを見送り、ウー、シルフ、アリスを連れて近くの洞穴を探した。




