エアコン
怖さ控えめ
マイルドに仕上げました
暑い時に読んで♡
都心では破格の家賃三万円。
六畳一間のフローリングにユニットバス。
手狭ながら綺麗なキッチンに各種家電付きの好物件。
そんな謳い文句に誘われて一人暮らしを始めたのはつい二か月前のこと。
うまい話には裏がある。と怪しんだのは最初だけ。
紹介される他の物件は、同じ値段のおんぼろアパートや郊外の物件ばかり。同じ条件の部屋を探そうものなら家賃は二倍以上に膨れ上がる。
悩みに悩んだすえ、幽霊や妖怪を見たことが無い自分の霊感の無さを信じハンコを押した。本音をいえばもう少し不便でも事故物件以外に住みたかったが、奨学金とアルバイトで食いつなごうという貧乏大学生には幽霊が出るリスク以上にこの部屋にすむメリットが大きすぎたのだ。
この部屋に住み始めてわかったことが一つだけある。それは、人間とは環境に慣れるものだということだ。
住み始めてすぐのころは、夜になる度に何かが出るのではないかと不安で眠れないこともあった。暗闇から何かに覗かれているように感じたり、たまに悪寒を感じることすらもあった。が、違和感と言えるものはその程度であり、特に実害もないと判断してからはこの格安の優良物件を満喫できるようになった。
後悔があるとすれば、コロナの影響で大学の開始が遅れ、在宅授業に切り替わったためわざわざ一人暮らしをする必要が無かったことくらいだ。
せっかく自分一人の城、それも当初想定していたものよりも遥かに高いグレードのものを手に入れたのに女子どころか男にすらも紹介する機会が無いのはもったいなく感じてしまう。せめてコロナ収束後の友達作りの一助になってくれることを願うばかりだ。
――そうして、この部屋が事故物件であることすら半ば忘れていたある日の晩、俺は猛烈な暑さを感じて目を覚ました。
汗を吸い、少し重くなった布団をはねのける。むわむわと全身に纏わりつくような熱気を感じながら手探りで部屋の灯りをつける。
「げっ、36度もあんじゃん。どーりで暑いわけだわ」
コップに注いだ麦茶で喉う潤しながら、エアコンのリモコンを覗き込む。
そう言えば引っ越しの際に、建物の構造上部屋に熱気が溜まりやすくなっているという注意を受けたことを思い出す。たしか、そのせいもあって以前の住人の一人が熱中症で亡くなり不良物件から事故物件へと変わってしまったんだとか。
話を聞いた時は事故物件にしてはあまり大したことない背景のように感じてむしろ喜んだものだが、いざ体験してみると笑えない。まだ6月上旬の夜中にこの暑さなら、8月には文字通りの死体が出来上がっていてもおかしくない。
ホントは使いたくないんだけどな。そう思いながらエアコンの電源を入れる。というのも、この部屋に備え付けられていた家電の中で唯一、このエアコンだけが少し壊れ気味なのである。
冷気はちゃんと排出するのだが、まるで虫か何かが詰まっているのかのような異音を発生させるのだ。
――カリカリ、カリカリ
異音はテレビなどを点ければ気にならない程度のうるささでしかないが、かといって耳を澄まさなければ聞こえないというほど小さな音でもない。安眠を阻害するであろうことは容易に想像できる。
冷気が充満し始めた代わりに、異音が響き渡るようになった部屋。俺は、これからの睡眠に一抹の不安を覚えながらも、ベッドに潜り込んだ。
それから、一週間が経過した。
その間、当然のごとく35度を超える室温に根を上げて一日中冷房をつけることにした。
どんどん嵩んでいく電気代のことを考えると冷や汗が出る思いだが、背に腹は代えられない。冷房を付けるということは、当然あの異音もセットで着いてくる。
その異音であるが、当初はテレビを点けていれば気にならないレベルのものだったものが、日を追うごとにその存在感を増していき、今では人の話し声くらいの大きさの音にまでなっていた。
しかも音量と共にその音質も変化してしまっている。最初は甲高いカリカリとした音だったのに、今では機械同士が擦れるようなガリガリという音になっているのだ。もしかしたら虫の死骸か何かが変なところに入ってしまったのかもしれない。とにかく、ここ一週間は夜寝る際に非常に不快な思いをしている。
というわけで、事ここに至って俺は修理業者に連絡することを決意した。部屋の契約内容により備え付け家電の修理費は一部負担しなくてはいけないのが財布に痛いが仕方ない。この音と付き合うのも明日までの辛抱だと思うと気が楽になった。
――その日の夜、ガンガンと鳴り響くエアコンの駆動音で俺は目を覚ました。
「なんなんだ一体。うるさすぎだろ」
電気を点けて目を向ければ、これまで以上に大きな音をたてながら稼働するエアコンの姿があった。それだけでなく、心なしかがたがたと振動しているようにも見える。
「明日修理だってのに勘弁してくれよ……」
エアコンを一時止める。さすがにこのまま運用するのは近所迷惑になるし、何より明日までこの音と過ごすのは精神衛生上よろしくない。修理できるとは思わないが一応見るだけ見てみよう。
改めて近くで見ると、思っていたよりエアコンが大きいことに気付く。
もちろん、業務用エアコンほどの大きさをしているわけではないが、六畳一間に備え付けられているものにしては少々大型だ。少なくとも、両手を大きく開かなければ取っ手の部分に手が届かない程度には横幅がある。
ただそれも、熱気が溜まりやすいこの部屋の特性を考えればそうおかしなことでもないだろう。実際エアコンを作動させなければこの部屋はサウナのようになるに違いない。
「もしかしたら、この暑さに惹かれた虫なんかが外から配管を通って住み着いてたりしてたのかもしれねーな」
正直、虫は苦手だ。
幼虫のあのブヨブヨとした質感も嫌いだし、昆虫類のあの無駄に細かい手足なんかも生理的嫌悪が掻き立てられる。
実際にそうなったことは無いが、エアコン掃除をしようとしたら中から黒くて素早いアイツが出てきたなんて話はそう珍しいものでもない。
一週間異音の正体を突き止めようとせず、果ては修理業者に依頼することにしたのも、偏に虫に触りたくないからである。
「ただあの音はなぁ」
さすがにガンガンと異音を発生させるエアコンを使い続けるわけにはいかないだろう。かといってエアコンなしで明日まで過ごすのは冗談じゃなく命に係わる。
――せめて明日までもってくれたら良かったのに。
世の中とはままならないものだと落胆しながら、取っ手に指をかける。
そのまま、ふぅ、と一呼吸。
――開けるか。
意を決してエアコンを開く。
するとそこには虫の大群が! ……なんてことはなく。
引っ越しの際にきちんと清掃がなされていたのだろう。フィルターを外すも、これと言って目立った汚れは感じられない。そのまま内部構造を流し見てみるが、目につく範囲に異常らしいものも見当たらない。排出口にもカビ一つ無く綺麗なもの――
「——ん?」
それに気付いたのは奇跡としか言えない。それほどまでに小さな紙切れが、エアコンの排出口、ルーバーと呼ばれる羽の奥から飛び出しているのが見えた。
指で掴み引っ張る。その紙は俺の予想より大きく、途中引っかかりながらも破けることなく取り出せた。
開いて確認すると、その紙には赤い塗料で何かしらの魔法陣のようなものが書かれている。大きさはちょうど紙幣くらいのサイズだ。
「なんか薄気味悪いな。これで治ったなら良いんだけど」
紙をゴミ箱に投げ入れる。
作業に時間がかかったせいで室温が少し上がってしまっていた。異音が取り除かれようがそのまま残っていようが今日もエアコンをつけたまま寝るしかないだろう。
不安に思いながらエアコンの電源を入れる。
エアコンがゆっくりと排出口から冷気を吐き出す。異音は――
――無い。
「よっしゃ、ラッキー」
なんだかよくわからないが詰まっていたものを上手く取り除くことができたようだった。
冷気はそのまま、異音はない。これが本来の姿だとは知っているが、一週間異音に悩まされた身としては感動を覚えずにはいられない。
まるで深呼吸するかのように静かに冷風を吐き出すエアコンを見て、悩みの種が一つなくなった喜びをかみしめる。
一週間ぶりに静寂を取り戻した部屋。俺は晴れやかな気持ちでベッドに潜り込んだ。
――ピンポーン
ふいにインターホンが鳴り、俺は目を覚ました。
窓から見える太陽はすでに高く昇っている。どうやらここ一週間の寝不足が災いし寝過ごしてしまったらしい。
――ピンポーン
続けて鳴らされる呼び鈴に、寝起きの身体を引きずって玄関まで向かう。
「エアコン修理会社の者です。本日二時からのご予約で伺いました」
「修理……? ああ、忘れてた。一応見てもらってもいいですか?」
鍵を開け、修理業者を部屋に招き入れる。
その時。
何故だか一瞬寒気がしたような気がしたが、その感覚を確かめる前に修理業者が声をかけてきた。
「いや~、それにしても熱いですね。猛暑日も記録したみたいですし」
「そうですね。外には出なかったのでいまいち実感はありませんけど、エアコンは欠かせませんでした」
ですよね。と笑ながら顔を仰ぐと、修理業者はエアコンの方に向き直った。
「たしか、異音の検査でしたよね? ぱっと見変な音は聞こえないけど、今度は内部が壊れたのかな……」
修理業者はぶつくさ言いながら。エアコンに近づく……。
――ふいに。
そう、ふいに眩暈に襲われた。
よろけながら壁に手を付く。
視界の隅で修理業者がエアコンに手をかざしたり耳を近づけたりしている。
点検、しているのだろうか。
頭が割れるように痛くて意識が保てそうにない。
あわや意識を失う寸前、修理業者の大声が耳に届いた。
「ちょっと、お客さん! これ暖房になってますよ! すぐに電源切って窓開けてください」
暖房?
修理業者の慌てように面食らいながら、首をかしげる。
だって、エアコンは稼働してちゃんと冷風を送り続けているのだ。
そもそも、エアコンを止めるという行為自体にどうしても拒否感が湧き上がってくる。
「これのどこが冷風なんですか! ちょっと失礼します……うわっ、すごい熱だ。とりあえず救急車? いやエアコン止めるのが先か」
修理業者は早口でまくし立てると携帯を取り出しながらエアコンのリモコンに手を伸ばした。
正直、さっきから目の前のこの人が何を言っているのか一ミリも理解できないが、エアコンを止めようとしているということだけはわかる。
この暑いのにエアコンを止めるだって? 到底許されることじゃない。
「ちょ、やめてください! なにするんですか」
目の前の男から無理矢理リモコンを奪おうとするも、何故か身体に力が入らず、逆にあお向けに倒れてしまう。
そこで、俺の意識は暗転した。
◆◆◆
都心では破格の家賃三万円。
六畳一間のフローリングにユニットバス。
手狭ながら綺麗なキッチンに各種家電付きの好物件。
8月という微妙な時期の引っ越しにもかかわらず、こんな掘り出し物に出会えた幸運に男は感謝した。
「それでこちらの物件なのですが、過去に二件ほど、不幸な事故が発生しておりまして……」
「ああ。曰く付き物件って奴? 俺そういうの気にしないタイプの人間だから。殺人でもあったの?」
「いいえ、熱中症と伺っております」
「は? 熱中症?」
予想外の言葉に男の声が裏返る。
不動産屋の話は質の悪い冗談にしか聞こえない。
曰く、一人は死亡。その後の入居者は一命はとりとめるも今も入院中なのだとか。何でも二人揃って冷房と暖房間違ったらしい。
正直、冷房と暖房間違うなんて馬鹿のすることだ。そう男は思いながらも、そのおかげで格安で住める自らの幸運に感謝した。
契約を完了し、部屋に入る。清掃が行き届いた部屋の中に新品のエアコンが一台。
縁起が悪いとかいう理由で新品に交換されたらしいそれには、御札が一枚貼ってある。
――エアコン自体も交換しましたし、問題ないとは思うのですが、念のため近くの神社の神主さんに貰った御札を貼り付けさせていただきます。
不動産屋の言葉を脳内で反復しながら、男はその御札を見る。
スピリチュアルなことを信じていない身からすると、正直ダサいことこの上ない。
前は神父に作ってもらった魔法陣を貼り付けていた、とも言っていたからこの御札も不動産屋の趣味なんだろうと男は理解した。
「とりあえず、暑いから冷房点けるか!」
引っ越しの後片付けもそこそこにエアコンを点ける。
エアコンから吹く風が肌に纏わりついていた熱気や湿気を払いのけるのを感じ、男は息を吐き出した。
冷気が身に染みていく。
――とその時。
男の耳が小さな異音を拾った。
「あ? 新品なのに壊れてんじゃん」
エアコンの内部から何かをひっかくような音が響いている。
虫か何かが詰まったんだろうか。
ついてないと思いながらも、男はそれ以上気にすることなく引っ越しの続きに取り掛かった。
男が作業を続ける傍らで、エアコンもその仕事を果たす。
――カリカリ、カリカリ、と異音を響かせながら。
みんなも熱中症には気を付けような!