白山鯨
僕は友達がいない。
友達がいなくても、何も不自由しないし、寂しいとも思わない。
偏屈というのではない。
普通に周囲の人間と馬鹿話をするし、誘われれば合コンとやらにも行く。
でも、僕にはある一定の境界線があって、そこの内側に踏み込んで来る人が苦手で、疎遠になるよう立ち回ってしまう。踏み込んでこない人はもともと関係が希薄だ。
薄い関係がいい。
スカしているわけでなく、絆とか友情とか、本当に疲れてしまうのだ。
多分、僕はきっと、どこか心の歯車がおかしいのだろう。
大学に入って、僕が没頭したのは登山だった。
一人でコツコツ出来るからはじめたので、集団行動となる山岳部には入らなかった。
僕は横のつながりよりも、上下のつながりの方がもっと苦手なのだ。
先輩と名のつく人は鬱陶しい。そして、後輩は面倒くさい。
それは、小学生の頃から芽生えた感覚で、今でも変わらない。
小遣いを貯め、高価な山の道具を少しづつ買い揃え、交通費を積み立てる。
学生のバイトなど、タカが知れているので、飲み会や合コンの出費が馬鹿らしくてたまらず、僕は次第に脳の代わりにクソが詰まっているような、いわゆる『パリピ』とは疎遠になっていった。
そして、それが惜しいとも思わなかった。
自分の趣味のために親の脛を齧るべきではないというルールを、自分に課していたというのもあるけど、交通費が地味にキツい。
東海道線の深夜の最終便、これに乗る何人かの若者が山で命を落とすことから『親不孝列車』と呼ばれる鈍行列車でトコトコと長野方面に抜けるなどして、交通費を節約してなお、キツい。
そこで、僕が選んだのは『歩荷』というバイトだった。
大学というのは、やたらと休みが多くて長期だ。
その期間中、山小屋に物資を運び上げるバイトをしていた。
山に滞在しっぱなしなので、交通費がかからない。
宿泊も山小屋の管理人室が使える。
週休二日なので、休暇は滞在している山小屋を基点に、トレッキングが出来た。
接客や清掃などの山小屋維持管理のバイトもあったけど、彼ら、彼女らは、夜の自由時間は焚火を囲んでギターとか、青春を謳歌している。うれし恥ずかしの恋愛模様もあるみたいだ。
こうした、交流が面倒くさい僕には、歩荷は最適だった。
午前と午後の二回、麓から五十キロ近い荷物を担ぎ上げるのは、傍目には重労働なのだろう。
疲れた顔をしていると、「気が利いている私」を演じている女子が世話を焼こうとしてきたが、僕があまりにも無愛想なので、放置してくれるようになった。
「疲れているんだから、そっとしておいてあげましょう」
という事だろう。
どうせ僕は、朝食を摂ったら下山して、昼食までに荷物を担いで帰還。昼食後に再び下山して、荷揚げし、夕食を摂り、風呂に入って寝る。休日は、早朝に握り飯を持ってふらっと出かけ、夜まで帰ってこない。
友情ごっこに興じる時間的余裕はないし、『仲間』も気を使わなくて済む。
僕の望む薄い関係が、ここでは容認されていた。
◇ ◇ ◇
登山シーズンが終わり、訓練を兼ねた歩荷のバイトで、だいぶ金も稼いだ。
なにせ、金を使う場所がないのだ。
食費・宿泊費を引かれて、決して高給ではないけど、まとまった金にはなった。
「助かったよ」
北アルプスにある、この山小屋の管理人の親父さんが、僕に給料袋を渡してくれた。
歩荷の仕事は辛い。なかなかバイトの山小屋スタッフもやりたがらないのだが、僕は率先して引き受けていた。
「すこし、弾んでおいたから」
髭面の親父さんが、ぼそっと言う。
「また会おうね!」
「メアド交換しよう」
などと、別れを惜しむ『素敵な仲間』たちを尻目に僕は親父さんに「押忍」とだけ返事をした。
「まだ下山しないなら、一人、歩荷を探しているんだけど、受けるかい?」
それは、渡りに船だった。
ギリギリまで山に残り、次の登山の資金を作りたいところだった。
北海道や東北の山々への遠征を、僕は考えていた。金は一円でも多い方がいい。
「ちょっと、変わった人なんだけど、山じゃベテランだよ。荷運びを探しているんだ」
管理人の親父さんが、肩越しに別れを惜しんで涙ぐんだりしている一団を、彼等にわからないように指さし
「多分、彼等じゃ半日でバテ切っちゃうね」
およそ一ヶ月、延々と歩荷をやっていた僕は、かなり脚に自信がついていた。
「引き受けますよ」
下山を始めた、青春グループへ惜別を装って手を振りながら、僕は即答した。
「そうかい、助かるよ。登山シーズンが終わると、御山がざわつくからなぁ」
親父さんがポケットから銀色のジッポライターを出してセブンスターに火をつける。
僕にも箱ごと差し出してきたので、一本をありがたく頂戴する。
貧乏学生には、タバコは貴重品だ。
しばらく、二人で小さくなってゆく青春グループを見送りながら、タバコをふかしていた。
「で、山が『静かになる』のではなく『ざわつく』って、なんです?」
僕の質問に、親父さんの顔が曇る。
何かを説明しようと、口を開けたが、結局言葉にはならなかった。
「雇い主についていけば、わかるよ。山は、怖いんだぜ」
それだけを言うと、親父さんは人気のなくなった小屋に、箒を持って入っていった。
◇ ◇ ◇
青春グループが下山した三日後、そぼ降る霙交じり雨の中、来春までの小屋終いの準備をすすめる僕と親父さんのところに、一人の老人が来た。
白髪で左目は革のアイパッチ。深い皺が刻まれた顔をしており、渋染めしたかように、日焼けしていた。
背負っているのは、巨大な筒状の何か。
錦の布がすっぽり覆われていて、荒縄で縛ってある。
「おお、英羽生さん。彼がお探しの荷物運びだよ」
窓を突き破って雪が小屋に入ってこないように、戸板を打ち付けていた親父さんが、トンカチで僕を差す。
やや白く濁った眼を、その老人は僕に向けてきた。
その眼がすぅっと細まる。
家畜を品定めするような、不快な目線だった。
「俺が何を撃つのか、言ってあるのか?」
ふぃっと、僕から視線を外し、英羽生老人が、親父さんに言う。
梯子から、よっこいせと降りて、親父さんがトンカチを道具箱に投げ込んだ。
そして、その道具箱の脇に置いてある、銀のスキットルを開け、中の液体を口に放り込んだ。
中身は、マイヤーズのダークラムだったか。
「いや、何も言ってない。言っても信じないだろうからな」
ゲップ交じりに、親父さんが答えた。
やれやれという風で、英羽生老人が首を振ってため息をつく。
「爺さんが一人でやれなくなった時点で、誰かが行かなきゃならんだろう」
胸ポケットから、セブンスターを出して咥え、ジッポで火を点けながら親父さんが言った。
「お前さんが来ればいいだろうが」
吐き捨てる老人に、ポカリと紫煙を吐き出しながら、親父さんは言った。
「いや、俺はもう限界だ。後継者にはなれねぇし、協力もできねぇ。すまんね」
ごま塩状の無精髭を撫でながら、英羽生老人が僕を見る。
使い古された革の手袋みたいな、彼の掌でじょりじょりと髭がこすれて音を立てる。
「で、コイツか?」
「見どころあるぜ。耐性もありそうだ」
僕の知らないところで、何か人身売買じみたことが行われている。
どうも、単純な荷運びのバイトじゃなさそうだ。
「いいだろう、ここにサインしろ」
老人が、ポケットからしわくちゃになった紙を取り出す。
それは、何かの『合意書』だった。
「なんです? これ?」
この段階でやっと僕は口をはさんだ。
奇妙な二人のやりとりに、唖然としていたというのもある。
「シーズンが終わった山に入るための許可書と『何があっても自己責任です』という合意書みたいなものだよ。ほら、バンジージャンプとかの前に書かされるやつ」
そんなことを、しれっと親父さんは言った。
なんだか騙された気分で、その書類に目を通す。
小屋の前庭にあるベンチに、英羽生老人は筒状の包みを立てかけ、ボロいナップザックから、缶の甘酒を出して、旨そうに啜っていた。
◇ ◇ ◇
僕は結局、その訳のわからない書類にサインした。
どうやら害獣駆除の許可書らしいのだが、『主たる駆除責任者』とか『従たる駆除補助員』とか『神罰免責にかかる諸手続き』とか、意味がわからない。特に『神罰』が意味不明だった。
でも、これは、環境庁と林野庁の正式な業務で、バイト代と比べるとけっこう高額な報酬というのが、サインする要因になった。
駆除補助員で、危険手当込で日当三万円。駆除成功の場合は、その『等級』に従い、十万円から最高百万円まで褒賞金が支払われる。しかも、宝くじと同じく免税だ。
何があっても訴訟を起こせないという部分が気になったが、結局僕は金額に目がくらんでしまっていた。
『ハイリスク・ハイリターン』という言葉をすっかり忘れていたのだ。
僕の役割は、『主たる駆除責任者』に任命された英羽生老人の荷物運び。かつては、山小屋の親父さんがその役を担っていたのだが、断ったのは先程の会話でわかった。
事前に教わった、『駆除補助員』の作業は、水中銃みたいな小型杭打ち機に、炸薬を突っ込み、尾錠を閉めて、トリガーを引く手順。
長さ五十センチほどの鋭い杭が、地面に突き刺さるという仕組みだった。
微妙に銃刀法違反な気がしたけど、まぁ、国から許諾を受けた仕事なので、免責されるのかもしれない。
ズシリと重い錦の包みを、フレームザックに縛り付けて背負う。
重さはおよそ二十㎏ぐらいか。それに、水と食料と寝袋とツェルトを括りつけて、プラス十㎏といったところ。
毎日その倍の重さの荷物を背負って、片道三時間の山道を二往復していた僕なら、普通に歩ける。
英羽生老人は、水と双眼鏡だけを小さなナップザックに入れた軽装で、僕の前を歩く。
尾根道を進む。
僕たちが見えなくなるまで、山小屋の親父さんは見送ってくれていた。
登山道をしばらく行き、ハイマツが地面にこびりつくように生える森林限界を超えたあたりから、霧が出てきた。
「ああ、濃いな」
英羽生老人は、そうつぶやいて、岩の上で胡坐をかく。
この濃霧の中歩くのは危険だ。
胸ポケットから、英羽生老人が取り出したのは、葉巻だった。
一本づつ包装されているいかにも高そうな品だ。
「お前にもやるよ」
英羽生老人が、よじ登った岩の上から僕に言う。
山道を歩きはじめてから、初めて交わした会話かもしれない。
『Cohiba Silo I』と、その包装紙には書いてある。コヒバ・シロⅠ?
「コイーバ・シグロⅠ って読むんだよ」
ふっふと笑いながら英羽生老人が僕の思考を読んだみたいなタイミングで言った。
「キューバの上物だぜ。葉巻の吸い方、知ってるか?」
◇ ◇ ◇
葉巻は最初はタバコのつもりで吸いつけて盛大に咽たが、今はぽかりぽかりとふかしている。
タバコは吸うもの、葉巻はふかすもの。
似ている様で違う。そして、香りも全く違う。
『コイーバ・シグロⅠ』の香りは、まるで蜜のようにトロリと甘く、微かな苦みを伴って鼻腔から抜けてゆく。
「新鮮な体験だろ? この感じをよっく覚えておけよ。迷子になった時に、お前さんの指標になる」
そんな、謎かけみたいな事を、英羽生老人は言った。
霧は晴れない。
あたかも僕はミルクの中を漂っているようで、葉巻を持った手を伸ばすと、微かに赤く燃える先端ばかりが見えた。
こんな視界が悪い中、英羽生老人は一体何を双眼鏡で見ているのだろう。
「こいつは、カールツァイスの双眼鏡だ。歴戦の勇者『戦艦長門』がクソアメ公に接収され、標的艦として曳航されるのを見送った元・乗組員の所有物だったものだよ。無念が染みついているのさ」
葉巻を咥えたまま、英羽生老人が問わず語りをする。
「こうした『呪物』じゃないと、アイツは見えねぇ。『白山鯨』は、よ。で、一回見れば『縁』が結ばれて、肉眼でも見えるようになる」
山鯨? たしか、肉食が忌避されていた江戸時代、滋養強壮の薬膳として食された『猪』の隠語だったような記憶がある。
白ってことは、アルビノの猪でも、この山にいるのだろうか?
それに『縁』が結ばれるってなんだ?
「違う、違う、違う。アレは、そんな代物じゃねぇんだ。人が、この山に捨てていったモノを吸いこんで、化物になっちまった、山の怪異そのものさ」
僕は心霊だの怪異などには、興味はない。
それでもなお、この場ではさぁっと鳥肌が立つほどの寒気を感じていた。
じっとりと染みこんでくる、霧の細かい粒子のせいばかりではあるまい。
声が聞えた。
まるで、遠くでカナリアが鳴くような微かな声。
霧に音が吸い込まれているような静寂の中、それはまさに異音だった。
「来たな! 昨年、撃ち漏らしちまったから、デカいぞ!」
英羽生老人が、身軽に岩から飛び降り、僕のフレームザックから、錦の袋に包まれた筒状の物を引っ張り出す。
剣型の鉈を腰から抜き、荒縄をブツブツと切ってゆく。
つぶやいているのは、何かの祝詞のようなもの。『山窩』と呼ばれる昭和の頃まで存在していた日本の山岳民族の儀式の音声に似ている。
今気が付いたのだが、無造作に巻いてあると思われた荒縄は 三重、五重、七重の順番で巻かれていた。
結び目は『男結び』で、これは正月の門松の結い方と同じだった。
呪術的な臭いのする錦の袋から出てきたのは、武骨な大型の火縄銃だった。
たしか、国友鍛冶が造った『国崩し』とか呼ばれる一抱えもある古銃。
いや、この大きさは、まるで小型の大砲と言った方が近い。
カナリアのような声がさっきより大きい。
何かが接近してきているのだろうか。
その割には、声の聞こえる角度が変だった。
ここは、尾根に近い場所。
その更に上空から、声が聞こえてくるのだ。
「何なんです? アレは!」
濃霧の奥から、何かが飛来してくる。
巨大な圧力にちりちりと鳥肌が立った。
「一度、思い切り吹け。葉巻内部に残った煙を出すんだ」
英羽生老人は、地面に『国崩し』を立て、火のついた葉巻を咥えたままという頭がおかしいとしか思えない危機管理の無さで、筒先から火薬を流し込んでいる。
いつの間にか僕の葉巻は火が消えていた。
ふかし続けないと、葉巻は火が消えてしまうらしい。
無意識にぷっと葉巻を吹く。
「よし、それでまた火をつければ、おいしく葉巻を吸えるぞ」
僕の質問には答えず、ニカッと英羽生老人が笑った。
◇ ◇ ◇
英羽生老人が、地面にドンと銃床を叩きつけて、流し込んだ火薬を奥に詰め、赤子の拳ほどの鉛玉を銃口から押し込む。
濃かった霧はだんだんと晴れてきて、その奥に何かが空中を遊弋しているが僕にも見えた。
ボロ布を銃口から追い込み、鉛玉が転げ出ないように押さえて、もう一つの道具を錦の袋から英羽生老人が取り出す。
僕が作動の練習をさせられた、火薬式の杭打機だ。
「ここだ! ここに刺せ!」
山靴の先で地面の一点を差しながら、英羽生老人が重い『国崩し』を担ぎ上げる。
「答えてください! アレは何なんです!」
作業をしながら、僕はたまらす叫ぶ。叫びながら、地面に杭打機を押し付け引金を引いた。
バンと火薬が爆ぜて、地面に深々と鉄杭が刺さる。
「山鯨だよ! 言っただろ!」
面倒くさそうに言い返しながら、英羽生老人が、地面に刺さった杭打機の尻のU字形の金具に、『国崩し』の先台を乗せる。
この金具を嵌め込む穴が先台にあって、がっちりと固定される仕組みになっていた。
「山鯨って『猪』の別名じゃないんですか!」
空中を遊弋する真っ白な化け物は、まるで巨大なマッコウクジラだった。
聞いてない! こんなの、聞いてないぞ!
「御山にいる鯨だから、山鯨だろうが! くるぞ! 神性を帯びやがって、白くなっていやがる!」
晴れてきた霧の中、一直線に向かってくる真っ白なマッコウクジラの姿が見えた。
「ウソでしょ! モービーディック?」
「違う、白山鯨だ!」
彼我の距離はおよそ五十メートル。
真っ白な体に、目ばかりが爛々と赤く光っている。
「今年こそ、仕留めてやるぞ! 化け物め!」
『国崩し』の撃鉄を起こし、そこに英羽生老人が葉巻を挟み込む。
火皿に火薬を流し込んで、カシャっと蓋をし、余分な火薬を吹き飛ばす。
たしか、これが『火蓋を切る』の語源だったっけなどと、情報処理オーバーを起こした僕の脳が、記憶の引き出しを冷静にあけていた。
「よし、射程内!」
英羽生老人が、火蓋を指でズラして火薬を露呈し、『国崩し』の銃床に頬付する。
撃鉄が落ち、そこに挟まれた葉巻が火薬に押し付けられる。
シュっと火薬が燃焼する音がして、静寂をつんざいて雷鳴が鳴った。
いや、それは『国崩し』の発砲音だ。
白いマッコウクジラの頭に、デカい風穴があいて、苦悶のあまり身をよじる。
巨大な尾ひれが、呆然と突っ立っていた僕を跳ね飛ばす。
悲鳴を上げて、尾根を転げ落ちた……と、思ったら、僕はふわふわと宙に浮かんでいた。
見下ろすと、呆けたように立ち尽くす僕と、尻餅をついた英羽生老人が見えた。
パニックの波に襲われる。
一体、何が起こった? まさかこれ『幽体離脱』ってやつ?
英羽生老人は、漂う僕が見えているのか、怖い表情で僕を見上げている。
「もういいやとか、思うんじゃねぇぞ! 葉巻を思い出せ!」
そんな事を、叫んでいる。
たしかに、ふわふわ飛ぶのは楽しくて、風に吹かれてどこか遠くに行きたいという願望が僕に湧き出ていた。これなら、登山も楽ちんだ。
でも、素直な僕は『コイーバ・シグロⅠ』のテイストを思い出すことにした。
甘くて、苦くて、咥えた感じはタバコよりずっと太くて、唇にタバコの葉が触れる感覚が、新鮮だった。
すると、細い穴に水が吸い込まれるように、漂う僕は地面の僕に吸い込まれてゆく。
ずっと息を止めていたかのように、急に自発呼吸が始まり、咽ながら息をむさばる。
「あぶねぇとこだった。魂ごと持って行かれるとこだったぜ」
見れば、一旦逃げた白山鯨が、大きくカーブを描いて、再び突撃コースを取りつつあるのがわかった。
「よし、二射目行くぜ……あっ……」
英羽生老人が、立ち上がろうとして、へなへなとへたり込む。
僕は医者じゃないけど、わかる。ギックリ腰だ。
「あ、あ、いててて」
杭打機から『国崩し』を下ろそうとして、またへたり込む。
「お前さんが……」
「無理です」
何を言いたいか分かったので、即座に拒否する。
火縄銃とか撃ったことないからだ。
「しかたない。俺を置いて逃げろ」
英羽生老人は、かっこいいセリフを言ったが、表情には『置いていかないでくれ』と墨痕鮮やかに書いてある。
確かに、ギックリ腰の老人を置いて行ったら、寝覚めが悪い。
かといって、抱えて走れば、あの空中を泳ぐ非常識な鯨に追いつかれるリスクが高まる。
まぁ、空身で走ったところで、逃げ切れる保証などないのだが。
ここまでの思考は一瞬。
僕は雄叫びを上げて、杭打機に飛びついた。
左右にゆさぶり、前後に動かす。
火事場の馬鹿力というやつで、岩に打ちこまれた杭を引き抜いてゆく。
一ヶ月体を鍛え続けて来た。
筋肉は、一回り太くなっている。
特に鍛えられた広背筋がみちみちと音を立て、グン、グンとリズムをつけて杭打機を引っ張ってゆく。
バキっと音がしたのは、地面。
岩が割れていた。
思い切り杭を引き抜く。
杭を筒の中に引き戻して、予備の装薬を嵌める。
僕が教わった作業はこれだけだ。
これで戦うしかない。
ぐんぐんと非常識な白山鯨が盛大に血をしたたらせて迫ってくる。
「何やる気だ、お前……」
英羽生老人がオカマ座りしながら言う。腰が楽なのだろう。
「実は僕『機甲猟兵メロウリンク』が好きなのです」
そんな事をカミングアウトする。
勿論、英羽生老人は何を僕が言っているのか、分からなかっただろう。
『国崩し』を金具から外して、杭打機を構える。
尾錠を閉め、トリガーガードに指をかけた。
僕は杭打機を銃剣のように突き出して、雄叫びを上げつつ空中を泳ぐ山鯨に突っ込んでいった。
◇ ◇ ◇
歩くことが出来ない英羽生老人をフレームザックに座らせて、下山する。
彼は、なんだか一気に老け込んでしまったようで、
「もう、引退かのぅ」
などと、スキットルのウイスキーをちびちび啜りながら呟いている。
「結局、アレは何なんです?」
ずっとはぐらかされていた質問だ。
「この御山は、吸引装置みたいなモノだ。だから霊山として入山が規制されていたんだが、登山道が整備されて、ハイカーが押し寄せるようになった」
マッチを擦る音が聞えた。
新しい葉巻を吸う気だろう。いい気なもんだ。
「山に来ると、清々しい気持ちになるだろ? それは、澱の様に溜まった昏い念みたいなものを、人がここに捨てていくから。そいつを喰らって、大きくなるのが、山鯨よ」
この山は鯨だが、大蛇だったり、大百足だったり、地域によって念の形は様々だそうだ。
「お前さん、才能……」
「お断りします」
もう、あんな怖い思いはたくさんだ。
今回は、たまたま『これはメロウリンクごっこ』と自己暗示をかけたからいいものを、次はもう無理だ。
「とにかく、よくやった。牡丹鍋を御馳走するよ」
結局、僕はこの山の管理人になるのだが、それはまだ、ずっと未来の話。
どんとはらい。
===白山鯨(了)===