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お詫び婚 

作者: 緑谷めい

 




 姉が駆け落ちをした。

 姉は豪商の次男と恋に落ちた。公爵家の長女である姉が、平民の彼と一緒になれるはずがない。しかも姉は王太子殿下の婚約者だったのだ。愛し合う二人は逃げるしかなかった。そして私は、二人の逃避行に協力した。姉と恋人が本当に愛し合っていることを知っていたから。大好きな姉と、その姉が大好きな彼に幸せになってほしかったから。


 それから1年後。私は王太子殿下と結婚した。

 言ってみれば、この結婚は「お詫び婚」である。公爵家として姉の不始末の責任を取る「お詫び」だけではない。私は姉の駆け落ちに協力をした。両親はそのことに気付いていると思うが、何故か知らないフリをして私を責めない。だが、私は何の落ち度もない王太子殿下に酷いことをしたと思っている。だから、私個人としての「お詫び婚」でもあるのだ。


 姉から聞いていた話では、王太子殿下は姉に特別な感情を持っていらしたわけではないようだ。けれど、婚約者としてきちんと姉のことを尊重し、いつも紳士的でお優しかったとか――政略結婚の相手に対する態度としては、至極誠実なものだったらしい。王太子殿下は何も悪くない。他の男性と恋に落ちた姉が一方的に殿下を裏切ったのだ。

 それなのに、姉の駆け落ちによって王太子殿下は大変な恥をかくことになった。「婚約者を平民の男に奪われた情けない王太子」と、貴族社会で嗤われ、憐れみの目を向けられ……本当に申し訳ない事態になってしまったのだ。


 姉は、婚約者である王太子殿下にとんでもない仕打ちをした。そして私は、その件に積極的に加担した共犯者なのだ。王太子殿下に対して、どんな償いをしても足りないだろう。

 ただ、私は姉と恋人を応援したことを後悔はしていない。二人は心から愛し合っていた。けれど姉の立場と彼の身分ではその関係は許されるはずもない。どう考えても二人が一緒になるには逃げるしかなかったと、今でも思うのだ。





 ◇◆◇◆◇◆◇◆





 姉が駆け落ちをした1年前。

 姉は19歳。その恋人は23歳。私は16歳だった。ちなみに王太子殿下は姉と同い年である。

 姉と恋人が計画を実行した当日。私はわざと騒ぎを起こした。二人の駆け落ちを成功させるために、この夜騒ぎを起こすことを提案したのは私だ。


「キャー!!」

 そろそろ皆が眠りに就こうかという夜半前、屋敷中に響き渡る大声を上げる私。

「ユリア! どうした!?」「何事です!?」「何だ!?」「お嬢様!?」

 両親と兄、そして使用人達が慌てて私の部屋に駆けつける。

 私は震える指で窓を指差し、

「知らない男が窓をこじ開けようとしたのです!! 怖い!!」

 と泣き叫んだ。私の部屋は2階だが、窓の近くに大きな木がある。男性なら簡単にその木を登れると推測できる。

「あっち、あっちに逃げました!」

 私は南を指差した。父が怒りに満ちた声で、

「庭にある出入り口を目指したな! まだ庭にいるはずだ! 男を探し出せ!」

 と怒鳴り、兄や使用人達が庭に飛び出して行き、屋敷は大騒ぎになった。

 姉はこの混乱に乗じて北門から抜け出した。そして、北門のすぐ近くに隠れて待っていた恋人と落ち合い、手に手を取って逃げたのだ。姉たちは外国に行くつもりだと言っていた。恋人は手広く商売をしている商家の次男だったから、外国にも頼れる伝手があるのだそうだ。

 恋人の家は豪商だし、彼自身も商売の才のある男性だった。駆け落ちをしてもお金に困ることはないだろうとは思ったが、念の為私は自分の持っている宝石を全て姉に渡していた。姉は、

「ユリア、これは受け取れないわ。私の宝石を持って行くから大丈夫よ」

 と言ったが、私は、

「お姉様、この先外国で落ち着いて暮らせるようになるまで、しばらく時間がかかるでしょう。お金になる物はいくらあっても邪魔にはなりません。お姉様を応援する私の気持ちだと思って、どうか受け取ってください」

 と言って、姉に宝石を押し付けた。

 私は完全なる姉の共犯者だった。真に愛し合っている姉とその恋人を心から応援していたのだ。



 姉が駆け落ちをした半年後、私は王太子殿下の婚約者となった。王家と私の父が話し合い、決定したことだ。

 私は自分の婚約者だった侯爵家の長男と婚約解消を余儀なくされた。彼は私より一つ年下の幼馴染で、私と彼は姉弟のように仲が良かった。お互いに恋愛感情はなかったけれど、きっと暖かい家庭を築けると思っていた。だが私は、

「我が公爵家は王家に対して不始末の責任を取らなくてはならない。ユリア、すまない。王太子殿下と婚約してくれ」

 と辛そうな表情で話す父に、頷くしかなかった。

 姉の駆け落ちを積極的に手助けしたのだ。私はこの件の当事者であると言ってもいい。騒動の果てに王太子殿下を苦しめた責任を取るべきだ、と覚悟を決めた。


 こうして姉の駆け落ちから半年後には婚約が調い、更に半年後に結婚式を挙げることも決定した。つまり駆け落ち騒ぎからわずか1年後に、私と王太子殿下は結婚することになったのだ。あんな事があったというのに、あり得ないスピードである。王家は王太子殿下を醜聞から遠ざける為に、とにかく早く結婚式を挙げさせたかったようだ。大々的に結婚行事を行えば、過ぎた事は皆が忘れていくだろうという考えのようであった。

 まるで最初から私が王太子殿下の婚約者であったかのように、姉の存在などはなから無かったかのように、王家と公爵家は結婚に向けて突き進んだ。幸いと言っていいのかどうか、姉との結婚の為に王家の準備は進んでいた。勿論、公爵家側も準備をしていた。姉の為に用意されていた物や人をフル活用して、スピーディーに結婚準備が整ったというわけだ。勿論、そのことに私は何の不満もなかった。私にとっては、この結婚は「お詫び婚」なのだ。何も言える立場ではない。


 ウェディングドレスも、姉の為に用意されていた物でかまわないと私は申し出た。

「サイズ直しをしてもらえば大丈夫ですわ」

 私がそう言うと、王太子殿下は悲しそうな顔をされた。

「それでは余りにも貴女が可哀想だ。せめてウェディングドレスは貴女の為に新しく用意したい。そのくらいの時間の猶予はあるはずだ」

 お優しい王太子殿下……自分を裏切って他の男と逃げた元婚約者の妹に気を遣って下さるなんて。


 そうして、ウェディングドレスだけは私の為に一から新しい物が作られた。

「殿下、本当にありがとうございます」

 完成したウェディングドレスを見て、私は王太子殿下にお礼を述べた。自分の為に用意されたドレスを目の前にすると、やはり心が弾んだ。素直に嬉しかった。私は自然と笑顔になっていたようだ。

「……初めて笑ってくれた」

 ポツリと呟く殿下。

「えっ?」

「婚約以来、貴女は私の前で一度も笑わなかったから……」

「申し訳ございません」

 深々と頭を下げる私。

「謝らないでくれ」

 殿下は続けておっしゃった。

「こんな経緯で私と結婚することになって、仲睦まじかったと聞く婚約者の侯爵家令息とも引き離してしまって、貴女には本当に可哀想なことをしたと思っている」

「そんな……姉が起こした不始末は、決して許して頂けるような事ではございません。私は自分の立場をよく分かっております。私はこれから殿下の為に誠心誠意尽くして参ります。私の一生をかけて殿下に償いをする覚悟でございます」


「……そんな覚悟は要らない」

「えっ?」

「貴女を幸せにしたいと思っている。貴女に償ってほしいなどと思ってはいないよ」

 殿下は私を見つめて更におっしゃる。

「すぐに私のことを好きになってくれとは言わない。私も今の時点で貴女に恋愛感情は持っていない。でも、結婚するからには貴女と幸せな家庭を築きたいと思ってるんだ。できれば仲睦まじい夫婦になりたい」

「殿下……」

 本当に優しい方なのね。そう感じるほど余計に罪悪感が募る。いっそ、

「あんな女の妹など信用できるか! お前などお飾りの妃だからな!」

 と罵られた方が、余程気が楽だわ……


 その点、王妃様は清々しいくらい私に意地悪だ。

「グラートを言いくるめて新しいウェディングドレスを作らせたんですって? さすが女狐の妹は女狐ね。男を誑かすのはお手のものというわけ?」

 聞いていて惚れ惚れするような嫌味である。

「申し訳ございません」

 私が頭を下げると、王太子殿下が気色ばんで王妃様に詰め寄る。

「母上! ユリアを苛めるのはおやめ下さい! ユリアには何の罪もないのに、そのように意地の悪い事をおっしゃるとは! 見損ないました!」

「まぁ、本当にこの女狐に誑かされているのね。この女も姉と同じように男がいるかもしれないわ。婚約者だった侯爵家令息とは随分と親密だったそうじゃない。結婚を待たずに既に男女の仲になっているのではなくって? それとも他に情を通じた男がいるのかしら? 何せふしだらなあの女の妹ですもの。全く信用できないわ。グラート、きちんとこの女の身辺調査をなさい」

「母上! 何という事を! 私の妃になる女性を侮辱なさるおつもりですか!」

「あの、殿下。私は構いません。どうぞ私の身辺調査をなさって下さい」

 私がそう口を挟むと、殿下は私の目を真っ直ぐ見つめたまま、

「ユリア! 私は貴女を疑ったりしていない! 母上の妄言など気にしなくていい!」

 と言って下さった。


 その後、機嫌を損ねた王妃様が去り、二人になると殿下は私を抱きしめた。突然のことに驚いたけれど、殿下の温もりに安心する自分がいた。

「すまない。本当にすまない。貴女に辛い思いをさせて。母上があんなに感情的になるとは……」

「仕方ありませんわ。姉のやった事は許される事ではありませんもの」

「ユリアは何も悪くないのに……貴女をこんな理不尽な目に合わせてしまって、本当に自分が情けない。貴女を守りたい。母上や他の者に何か言われたらすぐに私に知らせてほしい。全力で貴女を守る」

「ありがとうございます。殿下」

「グラートと呼んでくれ」

「はい、グラート様」

「ユリア……」

 私を抱く腕に力を込めるグラート様。


 皮肉なことに、王妃様が余りにも露骨に私を苛めるので、グラート様が同情して下さって、恐らく王妃様の思惑とは逆にグラート様と私の距離はどんどん近くなった。





 ◇◆◇◆◇◆◇◆





 そして迎えた結婚式。

 荘厳な雰囲気の中、グラート様と私は結婚の誓いを立て、正式に夫婦となった。

 式の後の披露宴は、姉の駆け落ち騒ぎを皆に忘れさせるべく盛大で豪華絢爛であった。

 私は本来、姉が居るはずだった花嫁の席でこれからの結婚生活を思った。誠実なグラート様を傷つけてしまった罪を一生かけて償おう。姉の駆け落ちを積極的に手助けした私は、グラート様を苦しめた当事者なのだ。グラート様に愛されたいなどと願ってはいけない。ひたすら尽くそう。この結婚は「お詫び婚」なのだから……


 披露宴が長引き、その為ずいぶん遅い時間になって迎えた初夜。

 緊張に身を硬くする私にグラート様は優しかった。グラート様の囁く言葉から重ねる唇から私に触れる指先から、私のことを大切にしたいと思ってくださっている気持ちが伝わってきて、戸惑いながらも嬉しかった。

 けれど……グラート様がお優しいからといって私の罪が消えるわけではないのだ。勘違いしてはいけない。覆い被さってくるグラート様の熱い裸身に身も心も乱されながら、私はその行為に愛情を求めてしまいそうになる自分に必死に言い聞かせた。”私にはこの人に愛される資格はない。そしてこの人を愛する資格もないのだ”と。

 それなのに、行為が終わった後、私はグラート様の両腕の中にすっぽり包まれ、その胸に甘えたまま幸せな眠りに就いてしまった。本当に立場を弁えない図々しい女だわ。私は自分の厚かましさを秘かに恥じた。



 結婚後、グラート様はますます私に優しく接してくださる。

 姉の代わりに嫁いできた私に最初は刺々しかった王宮の者達も、次第に態度が軟化してきた。グラート様が私を大事にして下さるおかげだ。私は確かにグラート様に守られていた。本来なら、どれだけ恨まれても憎まれても仕方のない立場だというのに……

 ただ、王妃様は安定の意地悪姑だった。

 グラート様があまりにもお優しくて心苦しさを感じていた私は、王妃様が3日と空けずに繰り出して来られる意地悪に正直ホッとする気持ちがあった。


 今日も私は王妃様に呼びつけられている。

「ユリア。貴女に婚約者だった侯爵家令息から手紙が届いたそうじゃない。やましい事がないなら私に見せなさい」

「母上! ユリアへの手紙を検閲なさるおつもりですか? ここは戦場でも牢獄でもありませんよ!」

 私が王妃様に呼び出されたと知って駆け付けて下さったグラート様が、険しい声で王妃様に抗議される。

「私はかまいません。お見せいたします」

 私は侍女に命じて、すぐに自分の部屋から手紙を持って来させた。

「王妃様、どうぞお読みください」

 元婚約者からの手紙には、私を案じる言葉が綴られていた。駆け落ちした姉の代わりに王家に嫁いだ私が王宮で辛い思いをしていないか、心配してくれたのだ。そして、彼自身の新しい婚約者が決まった事も書いてあった。


「ふん! 元婚約者は別の令嬢と婚約したようね。貴女はもうこの男の元へは戻れないわ。さぞ残念でしょう」

 王妃様がいかにも意地の悪そうな笑顔でおっしゃる。まるで御伽話に出て来る悪役王妃のようだわ。

「私と彼は幼馴染で姉弟のような関係です。婚約者ではありましたが、彼は私にとって可愛い弟のような存在なのです」

 私がそう言うと、王妃様は眉を吊り上げた。

「あら、上手い言い訳ね。でも私は騙されないわよ。貴女たちは随分と仲睦まじかったと聞いているわ。グラートを裏切ってこの男と逃げたりしたら許しませんからね! 貴女の姉のことを私は決して許さないわ! 公爵家もあの女を探しもせずに放置して、結局娘の好きにさせているだけじゃない! まったく腹立たしいこと!」

「申し訳ございません」

 それについては反論は出来ない。

 父は駆け落ちをした姉を探そうとしなかったのだ。父曰く、

「探し出して無理に連れ帰っても、こんな事を仕出かした以上、もう王家に嫁ぐことは出来ない。このまま好きな男と生きていけばいい」

 と。とても貴族とは思えぬ、あっさりした父の考えに何と母も同意した。兄と私は呆気に取られたものだ。


 王妃様は更に言い募る。

「だいたい姉が不始末を起こしたのに、どうしてその妹を嫁にしなくてはいけないのよ! 陛下と貴女の父親だけで勝手に決めて! 私は納得していないわよ!」

「申し訳ございません」

 もともと姉とグラート様との婚約は、グラート様の後ろ盾として、どうしても三大公爵家の一つである我が家の力が欲しいと、陛下から私の父に頼み込まれたものであった。王妃様のご実家の爵位が低い為にグラート様の王太子としての立場が盤石でない、と陛下は心配をされていたのだ。

 姉が駆け落ちしてしまって一番頭を抱えたのは、実は陛下かもしれない。陛下は姉の代わりに私をと望まれた。さすがに父は姉の不始末を恥じ辞退する旨を伝えたが、我が国の三大公爵家の中でグラート様の結婚相手となれる年齢の未婚の女性は私しかいなかった。どうしても力を持っている公爵家の令嬢を王太子妃にと望まれる陛下に、結局は父も折れて私を姉の身代わりにした、というのがこの結婚話の経緯である。王妃様は、この決定に全くの蚊帳の外であったようだ。その苛立ちを全て私にぶつけて来られる。


「貴女、あの女と顔もそっくりで余計腹が立つわ! もう、その顔を私に見せないでちょうだい!」

「……」

「母上! いい加減にしてください! ユリアは私の妃になったのです。ユリアを苛めるなら、私ももう母上にお会いしません!」

 グラート様は尖った声でそう言うと、王妃様に冷たい目を向けた。

「グラート。貴方、すっかりこの女に骨抜きにされたって噂されてるわよ。情けないこと。こんな女狐に騙されてはダメよ。私がもっといい女性を紹介してあげるから側妃に迎えるといいわ」

「母上! 私をバカにする気ですか? 側妃など持つ気はありません!」

 グラート様はそう言い放つと、私の手を掴んだ。

「行こう! ユリア!」

 そのまま私の手を引き、部屋を退出するグラート様。

「あの、グラート様。王妃様に失礼になってしまいますわ」

「母上など放っておけばいい!」


 二人になると、グラート様は言いにくそうに私に尋ねた。

「その……元婚約者の令息とは姉弟のような間柄だったというのは本当なのか? 仲睦まじかったという噂は、つまりその……恋愛関係にあったという意味ではないという事なのか?」

「私と彼はお互いを異性として見てはいませんでした。幼い頃からの姉弟のような関係がずっと続いておりましたの。確かに周囲から『仲がいい』と言われていましたが、そういう意味での仲の良さでございます」

「そうだったのか……」

 グラート様は明らかに安堵された様子だ。

 まさか、私が元婚約者と一緒に逃げるかもしれないと本気で懸念していらしたのかしら? 初夜でグラート様に純潔を捧げたのに? それでも私を信じてはくださらなかったの? 私は悲しくなった。そして改めて思い知らされた。私とグラート様の結婚はゼロからのスタートではない。大きなマイナスからのスタートなのだと。この結婚は「お詫び婚」以外の何物でもないのだと。



 結婚から半年後、私は妊娠した。

 妊娠中の私にも遠慮なく嫌味をおっしゃる王妃様。王妃様にタブーなどないのだ。尊敬してしまう。

「本当にグラートの子なの? あの女の妹ですものね。誰の子か分かったものではないわ!」

「母上! 何ということを! 私の妃を侮辱するなら、たとえ母上でも許しません!」

 グラート様の声が怒りに震える。

「グラート。貴方、この女狐に騙されてるのよ。お腹の子は貴方の子じゃないかもしれなくってよ」

「そんなことはあり得ない! 母上! いい加減にしてください!」

 グラート様は王妃様を暫く睨みつけた後、何かを思いついたかように薄く笑った。

 そして私の肩を抱き寄せると、これ見よがしに額にキスを落としたのだ。更に、驚いている私の唇を吸うグラート様……。王妃様は真っ赤になって、

「こ、このバカ息子! 親の前で何をし始めるのよ!? 女狐を連れて部屋から出て行きなさい!」

 と、叫んだ。



 産まれた男の子はグラート様にそっくりだった。

 グラート様はとても喜んでくださった。

「ユリア、ありがとう。可愛い赤子だ」

 そう言って、目を細めて赤ちゃんを腕に抱くグラート様。良かった……グラート様の子供を産んで、少しは償いになったわよね。男子にしか王位継承権のない我が国で世継ぎを産んで、王家のお役にも立てたはず。私は幾許かホッとした。






 そののち、私は更に男の子2人と女の子1人を産み、4人の子供の母となった。

 気が付けば、結婚して10年が過ぎていた。私は27歳になった。グラート様は30歳である。本当に月日が経つのはあっという間だ。

 この10年間、グラート様は王妃様の執拗な斡旋(?)を拒み続け、側妃も愛妾も作ることはされず、ずっと私を大切にしてくださっている。つまり私はグラート様の子供を産んだ唯一の女性である。それも4人だ。勿論、この10年間、私は公務も精一杯行ってきた。結果、いつしか王太子妃としての私の立場は揺るぎないものになっていた。駆け落ちした姉の代わりに王家に嫁いできた私を、揶揄する者も軽んじる者ももはや誰もいない。


 そんな中で、ずっとブレずに私に辛く当たってきた王妃様が、私へ意地悪をなさることが最近めっきり減ってきた。私を苛めると子供たちが反抗するようになったからだ。

 第1王子(9歳)「母上を苛めるお祖母様など大嫌いです!」

 第2王子(6歳)「母上をいじめるなー!」

 第3王子(3歳)「ばあば、キライ!」

 第1王女(1歳)「だぁ~! んばぁ~!」

 子供たちの気持ちは嬉しいのだが、王妃様に苛められることが少なくなって、私は逆に精神的に追い詰められていた。何故ならこの結婚は「お詫び婚」なのに、これでは私が幸せ過ぎるからだ。

 私は姉の駆け落ちに協力した。それも自ら積極的にだ。本来ならグラート様からも王家からもとことん憎まれる立場なのに、私は自分が姉の共犯者だと誰にも打ち明けていない卑怯者だ。そんな私の罪悪感を和らげて下さるのが王妃様だった。私を容赦なく苛める王妃様のおかげで、私は自責の念に押し潰されることなく、10年もの間、無事に結婚生活を送ることが出来たのである。その王妃様が私に対して滅多に嫌味をおっしゃらなくなり、私は心理的に追い込まれつつあった。


 私の様子に何か感じたのか、グラート様は最近しきりに私の事を気にして声をかけて下さる。

「ユリア、どうした? また母上に酷いことを言われたのか?」

「いいえ、王妃様は何も」

「……そうか。では他に何かあったのか?」

「いいえ」

「ユリア。困っている事があるなら、何でも私に話してくれ」

「…………」

 グラート様は、黙ったままの私を心配そうに抱き寄せる。本当に優しいグラート様……

 王妃様に苛められることがなければ、今の私はただ幸福なだけの王太子妃だ。恵まれた立場に居て、優しい旦那様と可愛い子供たちに囲まれた幸せな妃……それが今の私。「お詫び婚」をしたにもかかわらず、自分が幸せになってどうする? こんな幸せは許されない。私に許されるはずがない。いっそ、グラート様に11年前に私がした事を打ち明けようか? その上でグラート様に嫌われても蔑まれても一生尽くせば、それこそ「お詫び婚」になるのではないか? やはり本当のことをグラート様に話そう。

 そう決意したものの、いざとなるとグラート様に嫌われるのが怖い。グラート様は私に恋愛感情はお持ちではないけれど、家族としての情は感じていらっしゃると思う。そのグラート様に嫌われるのはどうしても恐ろしかった。しかも11年も隠していて今更打ち明けるなんて軽蔑されるわよね……思い切って結婚当初に全てを話して謝罪すれば良かった。悔やんでも時は巻き戻せない。

 今日こそ言おう、明日こそ言おう、と思うのに、グラート様の反応が怖くてどうしても言い出せない。




 迷路に迷い込み、逡巡しているうちに季節は冬になった。

 その事故は、私が王都の郊外にある孤児院の視察をした帰り道に起きた。

 私と侍女3人は馬車に乗っていた。そして護衛が5人それぞれ馬に乗り、馬車の前後左右を固めていた。十字路に差し掛かった時だ。私の乗った馬車の側面に向かって、大きな荷車を引いた馬が2頭、狂ったように暴走して来たのだ。荷車の車輪の尋常でない音と護衛達の叫び声を聞いて、私はほとんど反射的に隣に座っていた、まだ16歳の新米侍女に覆い被さった。その瞬間、大きな音と同時に物凄い衝撃を感じて、私の意識はそこで途絶えた。



「ユリア、目を開けてくれ。頼むから……ユリア……ユリア……」

 グラート様? グラート様の声がする……泣いてらっしゃるの? どうしたのかしら? 

「ユリア……愛してる。愛してるんだ」

 愛してる? 家族としてという意味よね? あぁ、……眠い……意識が遠ざかる。

「母上。お願いです。起きて下さい。僕たちを置き去りにしないで下さい」

「母上! 死んじゃダメだ! 死なないで!」

「ははうえ~……ははうぇ~……うぇ~ん」

「まぁ~ま? まぁ~ま?」

 子供たち……どうして泣いてるの? 私、死にそうなの? あー、また意識が薄れていくわ……

「ユリア! 貴女って人は! 侍女を庇って自分が意識不明の重体になるなんて王太子妃失格よ! 自分の立場を考えなさいよ! こんなにグラートや子供たちを悲しませて! いい加減にしなさい!」

 王妃様? 怒ってらっしゃるの? あぁ、久しぶりに怒られるとホッとするわね。やっぱり王妃様はこうでなくてはね。

「母上! 出て行ってください! 意識のないユリアに嫌味を言って楽しいですか!? なんて酷いお方だ!」

「グラート! 何よ! 見舞いに来たのに失礼ね!」

 また王妃様とグラート様がケンカしてる? 私が嫁いできたばかりに、この母子は諍いが絶えなくて……本当に申し訳ないわ。

 私の意識は時折浮上しては、また消えていく。瞼は開けられないし、身体も動かせない。せめて指が動けば……あぁ、また意識が遠のく……私は夢を見ているのかしら? どこまでが夢で、どこからがうつつかもわからない。一体どのくらいの時間が経っているのか見当もつかない。もしかして、グラート様と子供たちと過ごした幸せな日々こそ、全て夢だったのかしら? グラート様がいつも私に優しくしてくださったことも……グラート様に情熱的に抱かれたことも……グラート様と二人で子供の誕生を喜び合ったことも……全部、夢だったのかもしれない……


「ユリア……私の声が届いてるかい? 聞いてほしいことがあるんだ」

 グラート様の声が聞こえた。

「私は貴女にちゃんと気持ちを伝えたことが一度もない。あんな経緯で結婚したから、なかなか素直に言い出せなかったんだ」

 グラート様が私の髪を撫でる感触がする。大きくて優しいグラート様の手を感じる。

「ユリア、愛してる……結婚して、気付いた時には貴女を一人の女性として深く愛するようになっていた。いつの間にか貴女は私の心を占めていた。私はもうユリアなしでは生きていけないよ。私を置いて行かないでくれ」

 グラート様? 私を想ってくださってたの? 本当に?

「いつかきちんと伝えたいと思っていたのに、言えないまま時だけが過ぎてしまって……ユリア、許してくれ。もっと早く伝えるべきだった。愛してる。本当に愛してるんだ。貴女を愛してる……ユリア」

 涙声になるグラート様……何度も「愛してる」とおっしゃる。

 やっぱり私、夢を見ているのかしら? 随分と自分に都合のいい夢だわ。私の願望が表れてるのね……だったら……夢の中なら……私の気持ちを言ってもいいわよね?


「グラート様……好きです」


「ユリア?!」

 グラート様の驚いた声がした。

 えっ? あれ? 瞼が持ち上がる? 目を開けることが出来た!

「ユリア! 気が付いたのか!? わかるか? ユリア!」

「グラート様……」

「ユリア!」

 グラート様が私を抱きしめる。夢じゃなかったのね。グラート様の温もりが伝わってくる。

「ユリア! 良かった! ああ、神よ! 感謝いたします!」


 私は2週間、生死を彷徨っていたらしい。

 意識を取り戻した私を診察した主治医に、もう命の危険はないと判断された。ただ全治3ヵ月とのことで、当分は療養生活が続くことになる。


  意識が戻った翌々日。私は寝台の上で上体を起こせるようになり、かなり会話も出来るようになった。

「グラート様。あの、一緒にいた侍女や護衛の皆は無事ですか?」

「皆それぞれ重軽症を負ったが、命に別状はない。全員が快方に向かってる。安心していいよ」

「良かった……」

「ユリアだけが意識不明の重体で生命が危なかったんだ。年若い侍女を庇ったことはユリアらしいと思ったけれど……私がどれほど心配したかわかるかい? 子供たちもずっと泣いていたんだよ」

「ごめんなさい……」

「ユリア……良かった。貴女を失ったら私は生きていけない」

「そんな……」


「ユリア、意識が戻った時に言ってくれたことは本当?」

「えっ?」

 私、あの時、夢の中だと思って……

「私のことを好きだと言ってくれた。あの言葉はユリアの本心なのか?」

「申し訳ありません」

「どうして謝るんだ? 私はものすごく嬉しかったよ」

 私は覚悟を決めた。

「……11年前、私……姉に協力したのです。姉の駆け落ちを積極的に手助けしました。私はあの件に無関係ではありません。グラート様に酷い仕打ちをした当事者なのです。申し訳ございません。私にはグラート様を愛する資格もグラート様に愛される資格もありません。本当に申し訳ありませんでした」

 一気に話して頭を下げる私。とうとう言ってしまった。グラート様はどう思われるだろう? きっと私に幻滅されるわね。グラート様の反応が怖くて、俯いたまま顔を上げられない。握りしめた手が震える。沈黙が流れる。


 ふいにグラート様の両手が伸びてきて、震えている私の手を包み込んだ。

「ユリア。そんな事を気にしてたのか? 11年前のことなんて。そんな昔の事を今更どうとも思わないよ。ユリアと結婚して、私はあの駆け落ち騒動に感謝したくらいだ。おかげで貴女と一緒になることが出来たのだから」

「……グラート様。私を許してくださるのですか?」

「当たり前だろう? 何も気にすることはないんだ。もうずっと以前に終わったことだ。私はユリアを愛してる。それが全てだ」

「グラート様……」

「それでもまだ、私を愛してるとは言ってくれないのか?」

 グラート様は私の目を見つめて懇願するようにおっしゃる。

「……愛しています。結婚してから、いつの間にか愛していました。あんな経緯で結婚した私にいつも優しくして下さって、大切にして下さって、本当に嬉しかった。グラート様のことが好きです」

「ユリア、私も同じだ。いつの間にかユリアを愛してた。誰よりも貴女が好きだ」

 そう言ってグラート様は私を抱擁した。怪我をしている私を気遣ってそっと。グラート様の腕の中でようやく私は愁眉を開いた。


 その日、意識が戻って初めて、子供たちと面会することが叶った。

「母上~!」「ははうえ~!」「まぁま!」

 寝台に座っている私に6歳の次男と3歳の三男が縋り付いて来る。侍女に抱っこされている1歳の長女が私に向かって懸命に手を伸ばす。私は3人をかわるがわる抱いた。怪我をしているので軽いハグだけれど。

 そんな中、9歳の長男、第1王子のアルトだけは一歩引いて弟や妹が私に甘えるのを見ていた。

「アルト、おいで」

 私が声をかけると、アルトは泣きそうな顔で私を見つめる。アルトは王太子であるグラート様の長男、つまりは王家の後継者である。自らの立場をちゃんと理解して、その立場に相応しくあろうとする真面目な子だ。私が生死を彷徨っている間、きっと自分の感情は抑え込んで、弟や妹を気遣い励ましていたに違いない。

「アルト、おいで」

 私は両手を広げて、もう一度声をかけた。


 アルトが苦し気に顔を歪めて私に歩み寄り、抱きついてくる。骨折している肋骨に少し響いたけれど、私は彼を強く抱きしめた。

「アルト。心配かけてごめんなさいね。私はもう大丈夫よ」

「母上……良かった。母上が死んでしまったらどうしようって……すごく不安で……眠れなくて……」

 ごめんね、アルト。

「母上、母上、母上……」

 泣きながら繰り返すアルト。

 兄のそんな姿を見たことのない次男と三男が驚いた顔をしている。

「アルト。貴方は私の宝物よ。我慢ばかりせずに私には甘えてね」

「はい、母上」

 アルトは泣きながら笑顔を見せてくれた。




 私は今までも時折、アルトに姉を重ねて見ていた。

 姉もまた真面目な人だった。公爵家の第1子長女として生まれた姉は、子供の頃から第2子である兄と第3子の私の面倒を、嫌な顔一つせずによく見てくれた。兄は姉の2つ下。私はその更に1つ下だった。2人とも姉と大して歳の差があるわけでもない。けれど、いつも姉は私たち2人に気を配ってくれて、何事も譲ってくれていた。兄や私がどんなに我が儘を言っても「仕方のない子達ね」と笑って、必ず受け入れてくれた。自分が我慢をして。兄や私が悪戯をして父に叱られていると、いつも庇ってくれて一緒に謝ってくれた。兄も私も幼い頃からずっと、姉に頼り切りだった。

 それでも、長男である兄は、三大公爵家の一つである我が家の次期当主として厳しい教育を受けていたから、相当のプレッシャーがあったと思う。本当に甘やかされてお気楽に育ったのは、末っ子の私だけだ。両親は、私が嫁ぎ先で苦労しないようにと、気心の知れた年下の幼馴染との婚約を早々と決めた。相手方は我が家より家格が下にあたる侯爵家で、姑となる幼馴染の母親は私を小さな頃から可愛がってくれていた優しい夫人だった。私は何も気負うこと無く嫁ぐ予定であった。本当にとことん甘やかされていたと思う。

 一方、姉は15歳の時に王太子殿下と婚約をした。王太子殿下の婚約者に決まってからの姉は、他の貴族達から常に注目される存在となり、それまでよりも更にいっそう自分自身を律するようになった。それでも魑魅魍魎が跋扈する社交界で揚げ足を取られ、陰口を叩かれたことは1度や2度ではなかった。けれど、何があっても姉は愚痴一つこぼさず、姉の悪口を言った貴族夫人に我慢ならずに言い返した私を逆に静かに諫めるような淑女の鑑だった。


 きっと姉は息が詰まったのだ。

 その姉を救い出してくれたのが、平民の恋人だったのだろう。豪商の次男として育った恋人は、明るくて快活で自由な人だった。生真面目な姉が彼に惹かれたのは、とてもよく分かる気がした。この人と一緒なら、きっと姉は幸せになれる! そう思ったから、あの時、私は全力で二人の応援をしたのだ。


 4人の子供の親になった今、私は11年前の両親の気持ちがようやく理解できるようになった。あの時、両親は駆け落ちした姉を探そうとしなかった。

「このまま、好きな男と生きていけばいい」

 そう言った父と同意した母の、姉への思いが、今なら痛いほど分かる。

 あの駆け落ちは、最初で最後のたった一度の姉の我が儘だったのだ――




「アルト。私はいつも貴方の味方よ。そのことを覚えていてね」

「はい、母上」

 私はアルトの額に長いキスをした。

 すると……

「兄上だけ、ずるいぞ!」

「あにうえ、ずるーい! ははうえ~! ぼくも~!」

 次男と三男が私にしがみついて来る。やれやれ。

 アルトは私の顔を見て少し照れたように笑うと、私から離れ弟たちに譲った。

 ごめんね。そして、ありがとう。アルト。




 私は順調に回復した。


 そして事故から1年が過ぎた。

 5人目の妊娠を報告した私とグラート様に向かって、王妃様は、

「まったく……あきれるくらい仲がいいのね、貴方たち。グラートに側妃を迎える余地が無くって残念だわ」

 と、嫌味っぽくおっしゃった。

 グラート様はウンザリした様子で返される。

「母上、いつまで側妃の話をされるのです? 私はユリアを愛しています。他の女性は要りません。心からユリアを愛しているんです」

 それを聞いて王妃様は腹立たし気におっしゃった。

「わかってるわよ! だから残念だって言ってるでしょう? 臆面もなく自分の妃を『愛してる』『愛してる』繰り返すのはやめなさい! まったく! もうこうなったら、その女狐に6人でも7人でも産ませればいいわ! 孫は可愛いからいくら産んでも構わなくってよ! 実は女の子がもう2人くらい欲しいな~なんて思ってませんからね! 1人くらい私に似てる孫も産まれないかな~なんて期待もしてませんからね!」


「母上……」

 グラート様は残念なモノを見る目で王妃様を見ていらっしゃる。

 私は笑いを堪えるのに必死だった。



 私の「お詫び婚」は、ただの幸せな結婚となった。










 あの夜以来、消息の分からない姉も、どうか愛する人と幸せに暮らしていますように……




 終わり










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