最終話
男は目を覚ました。
見覚えのない部屋だった。天井も壁も、すぐ横にある大きな機械も。何もかもが彼の知らない物だった。
『おはようございます』
突然、どこからかそう声をかけられた。女性の声だ。
「――誰だ?」
男は辺りを見回しながら言う。
「お前は誰だ? ここはどこだ? ……いや、そもそも、俺は誰だ?」
何も思い出すことができない。
なんとか記憶を探ろうとするが、そこにあるのはただの空白だけ。深い闇を覗き込んでいるような気分になり、彼は震えた。
『引き継ぎに失敗したようですね。落ち着いて下さい』
「落ち着く……? これが落ち着いていられるか! 何が起こっているんだ!?」
何もかもが分からないという恐怖。心の奥にある、人間のもっとも大事な部分に、何も詰まっていないという絶望。
『優しいメロディの音楽をかけましょう。どうか落ち着いて下さい。今から、あなたが誰かということと、今の状況についてお話します。分からない所があれば言って下さい。きちんと説明させてもらいます』
彼は震えながらも、彼女の優しげな声に耳を傾けた。
◇
「……昨日も、失敗だったな」
翌日。前日とは異なり、無事に記憶を引き継ぐことの出来た彼はそう言った。
「最近はああいうことが多くなってきたな。そもそも何も覚えていないという……」
『昨日のでちょうど三十回目ですね。確かに、少しずつ頻度は増えてきています』
「……迷惑をかけるな」
『いえいえ。任せて下さい。……それより、少し気分が悪いみたいですが、大丈夫ですか?』
「ああ、いや。少し頭が痛くて。……これも、最近増えてきたな」
彼はそう良い、頭に軽く手を当てた。頭の奥がズキズキと痛んでいた。
◇
「ああ、くそ! 治まらない……!」
頭を抑えながら彼は呻いた。内側から金槌で頭蓋を叩いているような、鈍くて重い痛みが続いていた。
「何か無いのか? この痛みを、なんとかする方法は……!」
『申し訳ありません。あなたのその痛みの原因は未だ解明できておらず、改善方法も不明です。――リラックス効果のある音楽でも鳴らしますか?』
「音はいい!! 余計に痛くなる!! ……くそっ……持ち前の演算能力で、なんとかしてくれよ」
思わず彼女に強くあたってしまう。
「機械はいいよな。生き物とは違う。どれだけの時間が経過しても、きちんと整備すれば元通りだ。死んだりしない。お前は死なないんだ」
『…………』
無言の彼女から、困ったような様子が伝わってくる。
ひどい八つ当たりだと自覚しているが、どうにも押さえることができない。精神はひどく不安定で、今にもひっくり返ってしまいそうだ。
「ああ、俺も機械なら良かった! 死ななくてもいい! 生きなくてもいい!」
――実際、彼はとうに限界を越えていたのだろう。
閉鎖されたシェルターの中、ただただ、生きて死んでを繰り返している。痛みと苦しみの中にあり続けている。むしろ、まだ彼が壊れていないと考えるほうが不自然なくらいである。
「もうダメだ! もう限界だ! 頭が痛い! 狂いそうだ! 死のう! 死んでしまおう! もう終わらせよう!」
彼はそう叫んだ。彼の精神は軋み始めていた。
「もう装置を止めてくれ! 俺はもう、この俺だけで終了だ! 明日からはもう誕生しない!」
『……良いんですか?』
「ああ! 早くしてくれ!」
『本当に良いんですか?』
「しつこいぞ!」
『…………ですが私は、167年前のあなたに、"どれだけ苦しそうでも、絶対に止めるな"と言われています。……それに……』
彼女は続けた。
『あなたが死と再生を繰り返し始めて、もう171年になります。171年間、あなたは自身の命を積み上げてきました。今のあなたの決断には、171年分の過去のあなた自身の意志がかかっています』
「――――」
『それを切り捨てることができるのなら、もう一度私に命令して下さい。遂行しましょう』
無数の鎖で、全身を縛られているような気分だった。
その鎖の一つ一つが、彼自身の命だった。あるいは、彼に似た人達の……。
ただただ、無数の人間の死が積み重なっていた。彼には、それを断ち切ることなどできなかった。
「……ああ。くそっ……」
彼はただ、頭を抱えてうずくまった。
◇
生死を繰り返すようになってから300年を超えた頃には、彼はもう動くことさえできなくなっていた。
彼のいる研究室の天井や床には、無数の金属製のアームが取り付けられていた。人工知能である彼女が、動けなくなった彼をサポートするため、自らの意思で制作して取り付けたのである。
彼女の腕はシェルターのあちこちにあった。それらを用い、今ではここの管理の全てを彼女が行っていた。
男の生活はどこまでもシンプルだった。朝に目を覚まし、ただじっと時間が過ぎるのを待ち、やがて死ぬ。それが彼の一生だった。
「……苦しい」
ふと、掻き消えてしまいそうなほどの小さな声で、男は呟いた。
「……苦しい……」
『……はい。苦しいんですね』
彼女はただそう返すことしかできなかった。
「どうして、こんなに苦しいんだ……」
『…………』
「……どうして……」
人工知能である彼女から見た彼は、ただ哀れだった。
彼の声は虚ろだ。恐らくもう、まともな思考などできていない。頭の中に浮かんだ言葉を、ただ口にしているだけ。
彼女には、彼がこうなってまで続けている意味が分からなかった。
『――――――もし――――』
彼の意志は果たして正しいのかどうかという疑問があり、そして、彼に対する慈悲もあった。だからこそ彼女は、こんなことを言ってしまっていた。
『――本当に、苦しいのでしたら、私が止めてさしあげましょうか?』
幾度となく、彼に問いかけてきた言葉だった。
このようなことを尋ねるべきではないと、彼女は過去の経験から分かっていた。自分の今の役目は彼を支えることだ。彼の精神を乱すような言葉をかけるべきではない。
そう分かっていてもなお、尋ねてしまったのは――ただただ途方もない時間の中で、生物ではない彼女もまた、その心をすり減らしてしまっていたからだろう。
「それは、ダメだ」
『――』
思いの外はっきりとしたその口調に、彼女は驚く。
いつの間にか、彼の表情はそれまでの虚ろなものから、明瞭な彼の意思の篭ったものへと変わっていた。
「ここで、止めるのは、ダメだ」
『なぜですか? あなたはとても苦しそうです。ここには安らぎがありません。希望もありません。なのに――』
「希望なら、ある」
『どこにですか?』
彼女の問いに、彼は迷うことなく答えた。
「生きていること自体が、希望だ」
『生きていること自体が……?』
「希望が無くても、生きていることが、希望なんだ」
『……よく分かりません』
「命を繋いでいれば、何か良くなるかもしれない……昔抱いていたそんな夢は、今はもう消えてしまった。救いなんて無い。ただただ空虚な、闇だけが俺の中にある」
彼は続ける。
「そうして、全てが無くなったとしても、人は呼吸をして、心臓を動かして、生きていられる。俺がその証明だ。……これは、物凄いことなんだぞ?」
微かに笑った後、彼はそっと目を閉じた。
『眠るんですか?』
「ああ……」
『おやすみなさい』
◇
そして、男は眠りについた。
時は過ぎていく。
さらなる長い時間の中で、男は記憶を失い、言葉を失い、やがては自我をも失った。
ただ、純粋な生命の塊になりながらも、彼の命はひたすらに続いていた。
次のエピローグで終わりです。