第2話
生と死を繰り返しながら、一日一日を繋いでいく。
そうして、彼がこんな生活を始めてから、30年が経過していた。
ある時ふと、彼は自分の体の異常に気がついた。それは記憶に関することだった。
シェルターで生まれ、育った時の記憶。両親の記憶。子供の頃の記憶などが、明らかに欠け始めていたのだ。思い出そうにも思い出せない。その記憶の欠落は少しずつ大きくなっていった。
もしかしたら、記憶を引き継ぐ時になんらかの不具合が生じているのかもしれない、と彼は考えた。しかし、その原因が何なのか、彼はいくら調べても分からなかった。
「――そもそも、俺の脳のほうがおかしくなっているのかもしれないな」
『それは……』
「通常の人間ではありえないことを、もう30年も繰り返しているんだ。今までこんな実験をしたこともない。俺の脳にどんな異常が表れていても、おかしくはない」
蓄積された死の重みに、脳が、あるいは心が、押しつぶされようとしているのかもしれない。
◇
『最近、思ったのですが』
「何だ?」
何気ない会話の中、彼女は突然こう言った。
『私が、あなたとの間で子供をつくれたらと思います』
「は――」
予想外のその発言に、彼は言葉を失う。
「…………それは、何だ? 俺を口説いてるのか?」
『いえ。ただ純粋にそう思っただけです』
そう言う彼女の声には、温かさがあった。
『あなたは、毎日死に、毎日生まれます。途切れるはずの命を、繋いでいます。通常でしたら、子供をつくるという行為がその役目を果たすのではないでしょうか』
彼女は言った。
『今よりも未来に行きたい。ここではないどこかへ行きたい。そういう意志が、生物にはあります。しかし、彼らには寿命がある。その寿命による限界を超えるために、生物は子孫を残すのだと思います』
◇
いつものように、異常が無いかどうかを点検するため、男はシェルターの中を歩いていた。
途中、彼はある部屋に足を踏み入れた。その部屋は広く、中にはいくつかのベッドが置かれていた。
そこはかつて、ここの技術者達が仮眠室として使っていた場所だった。ベッドの側には、彼の同僚の来ていた服や、読んでいた本などが乱雑に置かれている。
部屋を点検し、異常無しと判断して去ろうとしたところで、ふと、彼の目は一枚の写真で止まった。
その写真には彼の姿が写っていた。そして彼の周りで、仲間達が笑っている。当時彼は天才とまで言われた優秀な技術者であり、皆から慕われていたのである。
「…………え?」
それを見て、男はただ愕然とした。
頭の奥がグラグラと揺れ始める。まるで、地震のあったあの時のように。
「――――」
思わず、声にならない悲鳴をあげていた。
――名前を、思い出すことができなかったのである。
写真に写っている仲間の名前が、記憶から消えていた。ただの一人も思い出せない。彼らとの思い出も、その殆どがもう消えている。
もともと、仲間たちのために生きるだとか、彼らを大切にしようだとか、そういうことを考えるような性格ではなかった。人間関係に対しては、どちらかといえばドライで、淡々とした態度をとっていた。
(それなのに……こんなにも……)
仲間を忘れたという。ただ、それだけが。
『――――――――さい!』
揺れる意識の中、声が聞こえた。
『―――――てください!』
聞き覚えのある声が、彼の頭蓋の内側で反響する。
『しっかりしてください!』
「――――あ、ああ」
呻くような声だった。
いつの間に座り込んでしまっていたのか、彼はふらつきながら立ち上がる。
『大丈夫ですか? 体の調子が悪いんですか? 今すぐ戻ってきて下さい。すぐに検査をしましょう』
「……いや、大丈夫だ」
憔悴した顔のまま、彼はその部屋を立ち去った。
◇
記憶の喪失を止められないまま、時間はどんどん過ぎていった。
消えていく記憶。それと対象的に、膨れ上がっていく一つの問い。
(俺はなぜ、生きようとしているのか)
いつか、自分以外の人間と再び会えると思っているのだろうか? 命を繋いでいけば、いつかは安らぐことのできる時間が訪れるのではないかと、そんな夢を見ているのだろうか?
何を希望にして、自分はこんなことを繰り返しているのか。彼にはそれが分からなかった。
そんなことを考える日々を送っていた中、ふと突然、彼女はある提案をした。
『あなたのボディを小さく、無駄のないものにし、少しでもエネルギーの流出を防ぐべきだと思います』
男の死後、その死体は再利用するために一度分解されることになっている。無駄無くその全てを利用しようとしてはいるが、どうしてもその過程で、体を構成する物質は僅かながらも失われてしまう。
物質は有限だ。何度も生と死を繰り返していれば、毎回少しずつそれらは失われ、やがては男の体を複製することなどできなくなってしまう。
これまで、新しく体を作る際はずっと、彼が健康だった時の体の設計図を用いてきた。これに対し、より効率の良い方法をとるべきだと、彼女は主張しているのだ。
『あなたは食事をなさいませんから、胃を始めとした食道などの器官について、最低限の機能を残して削減します。さらに――――』
つまり、一日だけしか生きないということを前提にし、体の設計を最適化してしまうということである。
もはや倫理がどうとかいうレベルを越えた提案ではあったが、それが必要だというのは、確かな事実だった。
「全部、お前に任せる」
『……よろしいのですか?』
「人間の設計図を書き換えるなんて、お前くらいにしかできない。俺じゃ技術も知識も、思考力も何もかもが不足している。お前が細かく説明しても、俺じゃもうさっぱり分からん」
そしてこの日を境に、彼の体は人間のものではなくなった。
ここで生と死を繰り返すようになってから、ちょうど100年目の出来事である。