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Replay (復活)  作者: 瀬里那 淳
1/4

(1) 復活

プロローグ 


 大吾は夕食後、気分が悪くなり(とこ)に横になった。

頭がフラフラとしてテレビの音が急に遠くなった。

「おーい 母さん気分が悪い 調子良くないよ」

大吾は力なく手を上げたり下ろしたりしながら妻を呼んだ。

「どうしたの、大丈夫?」

妻が大吾を 心配そうな顔で覗き込んで声を掛けた。

「うーん、あかん。一寸やばそう。何時もと違う」

大吾は歳を取ってから、ずっと血圧が高く降圧剤を服用していた。

血圧が異常に上昇した時に起きる身体の異常は、

何度も経験しており自分なりに対処してきた。

今日の変調は、今まで味わった事の無いものだった。

「救急車呼ぶ?」

妻は過去に何度かそう云った事が有った。

何時もは

「大丈夫、大したことないよ」

と云って済ませてきた。

しかし、今度は

「ああ、呼んだ方がよさそうや」

とやっと口にした。

これまでに救急車など呼んだ事がなく 初めての事である。

部屋の中が騒がしくなり、妻の声に交じって野太い男の声が聞こえた。

「ご主人、聞こえますか?」

大吾は、井戸の底の遠くから聞こえるような声に手を弱々しく上げて応えた。

慌ただしい動きの中で血圧計が腕に巻かれるのが分かった。

身体を持ち上げられ担架に移されるのが分かり、運ばれる担架の揺れが気分を一層悪くした。

「うー、目が回る。気分が悪い」

「ご主人、頑張って、すぐ病院に着くから我慢して」

狭い救急車の中が次第に薄暗くなり、看護士が病院と話す声を遠くに聞きながら 

大吾は、意識が無くなった。

大吾 六十五歳のことである。





1 復 活 


 大吾が目覚めた時 あたりは薄暗かった。

「うん、助かったのかな」

救急車の中で朦朧とした意識のまま真っ暗になり 暫らくすると辺りが紫色に包まれた。 

そして、ポニーテールの顔を少し(かし)げた佐智さんが笑っていた。

そして、セーラー服姿の真希ちゃんが、手を振りながら遠くから走って来るのが見えた事を思い出した。

「ああ、夢か。怖い夢やったなぁ、死にかけたんや」

と思ったが、どうも様子が可笑しい。

ここは何処や?

見覚えがある。

まさか----夢の続き?

其処は子供のときから二十三歳まで母と姉と三人で、居候して過ごした母の実家である。

布団の上で起き上がって前を見ると厠の扉があった。

尿意を催して便器の前に立った。

勢いよく小便が迸り出た。

「ふーん、若い時は、こんなもんや。それにしても変やなぁ」

鼻を突くトイレの臭気に

「えらい生々しい夢やなぁ」

と思いながら厠を出て横のガラス障子を引開けると、一部屋おいた向こうに卓袱台に向かって お茶を飲んでいた おばあちゃんから声が掛かった。

「よう寝とったなぁ。よんべから ずっと一日中、もっとや。ご飯お食べ ソップ美味しいで」

ソップとは、シチュウのことである。

「有難う、顔洗ってくるわ」

おばあちゃんは、怪訝な顔をして

「お前寝起きで まだ眼 覚めてへんのと違うか?ものの言い方けったいやで」

「うん、頭ふらふらして一寸おかしいかな」

大吾は何かが変だと思い おばあちゃんの声をうわの空で聞いていた。

卓袱台に座った大吾は、まじまじと目の前のソップに目を注ぎ おばあちゃんの顔を見、狭い四畳半の部屋の中を見回した。

黒ずんだ水屋と古ぼけた真空管のラジオが、大吾の昔の記憶通りそこにあった。

おばあちゃんが、よそってくれたご飯は麦飯である。

長く見てなかったので新鮮に見えたが不味かった。

でもおばあちゃんに悪い気がして旨そうに頬張った。

ソップの味は記憶通りで美味しかった。

ラジオから「てってってっちゃん かねてっちゃん」

のコマーシャルソングが流れていた。

おばあちゃんが再び

「なんやら お前けったいやなぁ」

と大吾を見ながら呟いた。

「うん」

と云ったきり大吾は黙々と箸を動かした。

早々に食事を済ますと 大吾は自分の部屋に引っ込んだ。

前栽に増設した四畳半程の板張りの狭っくるしい部屋である。

机に向かって座ると 中学二年の数学の教科書が開かれており よく覚えているピタゴラスの定理のところが目に入った。

と云うことは、自分は是を学校で黒板に証明をして見せたのか、それとも これからそれをやるのか?

もし これからだとすれば、皆の前で上手く出来るようにおさらいをしておかなければと思った。

そんな事を考える---と言う事は、やっぱり夢だろうと又思った。

そして、慌てて時間割を探しながら ところで今は何年?何月何日?何曜日?

携帯を(さぐ)ったが、そんな物有るわけがなかった。

新聞を見ようと中の間の四畳半にとって返した。

体が自然に動いた。

新聞は、ラジオの台の下に置いてあり日付を見ると 昭和三十年九月十一日、日曜日である。

大吾は、隣部屋の鏡台で自分の顔を見た。

若々しい少年の顔?

手の甲を見ると 皮膚はピンと張り切っている。

頭の中身は?色々反芻してみると どうやら頭の中身は以前のままであるようだ。

部屋に戻り机に向かって 横の壁に貼った時間割を見ると 明日の午後の一時限目が数学である。

若しかすれば明日の数学の時間に ピタゴラスの定理の証明をする事になるのかもしれない。

大吾は慌てて ぼやっとした頭を振りながら、うろ覚えの証明をノートに書き込んだ。

少し考えると(なん)という事なしに出来てしまった。

えらく現実的な夢もあるものだと感心しながら 一体いつに成ったら醒めるのだろうかと思い

耳を強く引っ張ってみた。

「痛いっ」

段々と不思議な思いがしてきた。

夢なら、何処か辻褄の合わない所が有って こんなに生々しく何時までも続く筈がないと思い始めた。

夢だと思いながら目覚めて二時間は、過ぎていた。

夢ではないのか?

自分は、あのまま救急車の中で死んだ。

そして六十五歳だった自分は、中学生に甦った? 

そんな事が有る?

キリストの復活や かつて読んだリプレイ小説のストーリーを思い浮かべながら、何故自分が?

と思った。

大吾は部屋の中、机の引き出し、学校のズックのカバン、そこいら中のチェックを始めた。

パニックに陥りながら懸命に冷静になろうとした。

頭の中は、六十五歳で死んだ時の侭、今は中学二年生。

もしも、現実にそんな事が自分に起きているとしたら もう一回同じ事をして生きて行くのかと思うと暗澹とした気分に陥った。

六十五歳の自分が、今の十四歳に?

絶えず肉体年齢を意識しながら そんな事が 上手く出きるだろうか?

不安が湧き起こった。

誰かに自分の変化を伝え、縋りたい気持ちになった。

誰もが、頭が可笑しいと思うだろう。

この世で全く独りぼっちになった孤独感が押し寄せた。

自分の事を知っている者が、誰もいない寂しさを感じ 自分が逝ってしまった後の妻は、如何しているだろうと思った。 

そして もし今 又死んだら さっきのおばあちゃんは悲しむだろうなぁ と漫然とした意識の儘 横に敷きっぱなしの蒲団に潜り込んだ。

(だい)、大や」

とおばあちゃんの声がして 硝子障子を開く音がした。

彼が布団から頭をもたげると

「何や また寝たんかいな。お前さっきから可笑しいよって心配になって見に来たんや。

どうもないんか」

と優しげな おばあちゃんの顔が覗いている。

「ああ、何ともないよ。寝すぎて頭が、ぼーっとしてるだけや」

「そんなら ええけど。おばあちゃんも寝るわ」

おばあちゃんは、戸を閉めて隣の部屋に戻って行った。

暫くすると おふくろが、仕事から帰った声が聞こえてきた。

硝子障子が開いて若々しい母の顔が覘いた。

「大ちゃん、もう寝てんの?明日学校やろ。履いて行くズボン寝押ししときや」

と布団から顔を出して目を開けていた大吾は

「ああ、ズボンな、僕のズボン何処にあんの」

「何寝ぼけてるんや。頭の先に懸かってますがな、けったいな子」

と云って戻って行った。

大吾の気持ちは、何んとなく落ち着いた。

おばあちゃんと母親を身近に感じた。

暫く天井を見つめていた大吾は、なんとなく今の自分が薄気味悪くなってきた。

そして、又死ぬ?怖い。

得体の知れぬ恐ろしさに 全身が鳥肌立ち頭から布団を被った。

息苦しくなって顔を出し 又、天井を見上げた。

そして、以前に読んだ事があるリプレイ小説の事を思い出すと 少し気持ちが落ち着いた。

もし、このまま生き続けられるとしたら---。

今から六十五歳までの知識と経験を持っている自分は----。

今度は、先程と違った肌の泡立ちを感じた。

これが夢でなかったら----とてつもない事だと思った。

いきなり山上佐智さんの事が甦ってきた。

佐智さんに会える、会う。

(そうや、今度の人生では、彼女を自分の本当の恋人に、妻にできる)と思った。

仕事の事、友人達の事、チャンスに巡り合いながら 物に出来なかったこと等々沢山の事が有りながら、佐智さんの事だけが実感を持って捉えることが出来た。

そして うまく必要な金を稼がなければと言う思いが湧き上った。

かつて読んだ小説では、リプレイした主人公が 記憶にあった競馬で稼いだ事を思い出したが、自分は競馬のことは知らない。

如何する?どうやって?

もう寝ていられるものではなかった。

布団を抜け出した大吾は、机に向かって座った。

(そうや、学校に履いていくズボンの寝押し----!)

母の言葉を思い出し 布団を捲り上げズボンの寝押しをを始めた。

手は勝手に動いた。

(明日は、中学校か)と思うと胸がどきどきした。

机に座り引き出しを開け、部屋の中を見回し 何がどこに有るのかを確かめた。

時間割を確かめ 明日の学校の用意をした。

そして机に向かいノートに書いたピタゴラスの証明を改めて見直し 学校の教科書を見、再びそこいら中をチェックし始めた。

(よっしゃ、取り敢えずこれで良し)

机の前に座り直した大吾は、やはり落ち着かなかった。

頭の中を色んな思いが目まぐるしく飛び交った。 

(こらあかん、しっちゃかめっちゃかや---)

大吾は、自分を小説の主人公に据えることで少しは落付きを取り戻した。

今の状態が、何時まで続くのか半信半疑ながら 

(先は長い ゆっくり、あせらんと、俺は中学二年生。まぁ、明日学校に行くことからや)

と自分に言い聞かせた。

遂に布団に入ること無く目覚めたのは、机の上だった。

外は明るく 朝になっていた。

目の前の目覚し時計は、七時を少し回ったところだった。

起きて お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、母、姉、叔父に顔を併せるのが なんとなく気恥ずかしかった。

まだ若い母親、自分より歳上の高校に通う姉を見て戸惑った。

(だい)ちゃん しんどいんか?元気ないなぁ」

姉が覗き込むようにして云うのに

「そうでもないけど、朝方まで宿題してたから、寝不足なんや」

「あ、そう----?」

姉は、少し怪訝な顔をしたが 何も云わなかった。

やはり、自分は少し可笑しいのかも知れないと思ったが、卓袱台の前に座り お祖母ちゃんがよそってくれた 茶粥を黙々と口に運んだ。

「これお昼のご飯代」

と言って母が、五十円をくれた。

毎日学校に行く時に 母が昼食代をくれたことを思い出した。

(五十円?これ昼飯代?そうか、今はこんなものか)

と気が付いた。


八時半頃

「かんのくぅーん」

と大吾を誘いに来た亀井君の眠たげな声が聞こえた。

大吾は、玄関の戸を開け

「お早よ、一寸待ってや、靴履くから」

と云って一瞬 狼狽(うろた)えたが、目の前の下駄箱を開くと 自分の白いアップシューズが目に付いた。

大吾は、靴の紐を結びながら 彼が二、三年先に交通事故で亡くなる事を思い出した。

顔を上げると眠たげな眼をした彼の顔が笑っていた。

「お待たせ」

と云って二人は連れ立って 学校へ行く途中にある松山君の家に向かった。

松山君の家は天理教の白い練壁を通り越した少し先である。

すでに彼は用意を済ませ 家の前で手を振っていた。

彼の家はタバコと駄菓子、雑貨を賄っており、店先は何時も関東炊きの匂いがしていた。

松山君はペッちゃんこにした学生帽を 大きな顔の上に載せ

「おっす」と云った。

彼らと連れ立って学校に向かいながら 大吾の胸は、これから出会う人たちの事を考えて 胸をドキドキと波打たせ その頃の記憶を甦らそうと懸命になっていた。

先生達と親しかった友達は、思い出す必要もないくらい鮮明に甦って来た。

道を歩いていると よく昼飯を食べに行った角屋の看板があり その先の古ぼけた文具屋もあった。

「神野、おい神野」

松山君の声にはっと我に返った大吾は

「うん、何?」

「おまえ、どないかしたんか。さっきから 一言も物言えへんや無いか」

「ああ、すまん、すまん。昨夜(ゆうべ)見た けったいな、おもろい夢思い出しとったんや」

「へぇー、おもろい夢?」

「別に 面白(おもろい)い夢でもないけど まぁ、けったいな夢かなぁ」

「お前、なんか可笑しい。顔も物の言い方も。その夢の所為かも知れへんなぁ」

「そうか?可笑しいか?夢の所為かなぁ?」

と話しているうちに学校に着いてしまった。

学年とクラスは、教科書の裏表紙に 二年四組と書いてあったので助かった。

校門を潜り校舎に入ると 右側の壁に自分の描いた絵が、十枚ほどの絵や習字の作品に交じって張り出されていた。

級友宮田君の横顔を描いた絵だった。

大吾は、通称河童こと、絵画の先生を思い出した。

河童先生に続いてダッチョピーカーこと音楽の先生、デバガメこと女性の数学の先生、ガンジーこと体育の先生の特徴のある人たちが、次々と頭に浮かんだ。

遥か遠い昔の懐かしい思い出である。

張り出された絵を見ながら、そのまま校庭に出ると左手に古い二階建ての大きな木造の校舎が有った。

この建物だけが、鉄筋校舎に建て替えられずそのまま残っていた。

その木造校舎の自分の教室のある辺りの二階の窓を目で追いながら その建物に何時も何処から入っていたのか思い出せなかったが、松山と亀井君の後について行った。

入口は、建物の左手の植え込みの後ろにあった。

一階は、講堂になっていて 渡り廊下で右側の新たらしい鉄筋の校舎と繋がっていた。

大吾の記憶が、一度に甦って来た。

大吾は、そこを通り職員室の前を通って歩くことが多かった。

二階の教室への階段は、建物に入ってすぐ目の前にあった。

二階に通じる階段がもう一つ 建物の右側の外に張り出している事も思い出した。

教室に入ると 懐かしい顔のクラスメイト達が、あちこちに集まり わいわいガヤガヤとお喋りしていた。

大吾は、自分の席が何処かわからなかった。

自分の方を見た河田君が

「おお、すまんすまん、お前の席にすわっとって」と云って立ち上がった。

「おおきに、僕の椅子 暖めてくれてたんや。河田、太閤さんやなぁ」

「ははは、神野がまた鬱陶しい事云いよんで。

 おれかて、その話位知ってるわ。そやけど 今は冬やないで」

と云ってまた笑いながら

「今、話 ええとこやったんや、なぁ、乗兼」

と椅子の背を抱えて座っていた乗兼君に向かって云った。

彼の周りには、もう一人 男生徒が居た。

身体が、小っちゃな松末君である。

彼は、生まれつき体が大きくならない体質だった。

何時も河田君と一緒に居た。

「ええとこて 何を話しとったんや?」

河田は、顔を窓側の席でお喋りしている三人の女生徒うちの一人 山上佐智さんの方に向けて、顎をしゃくった。

おちょめちゃんこと 佐智さんは、机を二列隔てた窓側の席で横向きに座り いつも仲の良いファッソンモデルこと満嶋さんと もう一人少しガラの悪い中村さんと 何やら楽しげに話をしていた。

おちょめちゃんも ファッソンモデルも河田君が付けた綽名である。

「おちょめちゃんが、どないかしたんか?」

彼は、勿体ぶって 

「聞きたいか、聞きたいやろうなぁ」

「そんなに勿体付けんと 早よ云えや」

「うぇっへっへ、おれなぁ、昨夜(ゆうべ) おちょめちゃんと やったんや」

河田君は、奇妙な笑い声を漏らして云った。

彼は、おちょめちゃんが好きだった。

「やったて なにを?」

「お前鈍いなぁ。やる云うたら 決まってんがな。ああ もう堪らん、(しび)れてまうわ」

彼は、目を瞑り、首を振って痺れるゼスチャーをした。

大吾は、嘘に決まっていると分かって居たが目を見張り 

「なに?ほんまか」と驚いて見せた。

「あほ、そんな事有るわけないやん。こいつ話信じよったで。真剣な顔して聞いとるわ。 夢、夢や」

「なぁーんや、夢かいな」

と云って 大吾は、佐智さんの方をちらっと見た。

大吾は、彼女を見て胸がどきどきした。

二十歳を過ぎた彼女と二年程の間だったが、付きあった記憶が甦った。

昨夜 突然頭に浮かんだ彼女との再会を果たし 思いを実現させる為には、戻って来る前の人生と同じ道を進む必要があるとこの時思った。

始業ベルが鳴り、皆バタバタと慌ただしく自分の席に着いた。


一時限目は、国語であった。

ベルが鳴りやんで 担当のしぇんしぇいがやって来た。

小柄で角顔 少なくなった頭髪を七三に分け 金縁眼鏡を掛けた四十がらみの一寸女性的な感じの教師である。

大吾は、以前から嫌味な奴と思っていた。

彼の綽名は、しぇんしぇいで さ行が、上手く発音できずに しゅ(’’)、しぇ(’’)、 となるからである。

しぇんしぇいは、ぐるっと教室を見回し 佐智さんのところで目を留め 続いて出席簿に目を落とした。

順に名前を読み上げて行きながら 何時もの通り佐智さんのところで急に声音が変わった。

なんだか妙に嫌らしい声音である。

佐智さんが、少し鼻にかかった声で

「はぁい」と返事をすると 

しぇんしぇいは、さも満足そうに顔を緩め次の名前に移った。

大吾は、記憶にあったその様子を頭に思い浮かべながら しぇんしぇいの顔を最後まで見続け

内心「すけべぇおやじ」と毒づいた。

授業が始まった。

今日は、日本文学で明治後期の詩人石川啄木が出てきた。

彼の詩集“一握の砂”の中の一節のところで

「神野君」

しぇんしぇいが、彼を呼んでいた。

大吾は、自分に起こっている事を考えていた。

はっとして慌てて

「はい」と返事をすると

「このページの詩を朗読してくれましゅか」と しぇんしぇいが云った。

大吾は、話が耳に入っていなかったので 通路を挟んで座る真田さんの開かれた教科書のページを見ながら

「済みません、どの詩ですか?」と問い返した。

しぇんしぇいは、にこやかにほほ笑みながら

「僕の話 聞いていなかったのでしゅね、啄木の所でしゅ」と云った。

隣の真田さんが開いていた教科書を差し出してくれた。

大吾は、慌ててそれを受け取りながら、立ち上がり朗読を始めた。

それは、大吾がよく知っている詩だった。

「かにかくに 渋民村は恋しかり 思い出の-----」

「戯れに母を背負いて そのあまり 軽きに泣き-----」

「働けど 働けど猶わが暮らし らくにならざり じっと-----」

よく知っている詩なので すらすらと朗読を終えた。

「さすがでしゅねぇ、見事でしゅ」

「はぁ 有難うございます。小学校の時の先生が、啄木が好きで教わりました」

「あ そーぉう、小学校で教わった、凄いでしゅねぇ」

教室の皆が、大吾と しぇんしぇいのやり取りに目を見張っていた。

いや大吾の大人びた物言いに目を見張っていた。

隣の真田さんは、大吾に教科書を差し出したことで嬉しそうに 彼を下から見上げていた。

大吾は、腰を下ろすと 真田さんに軽く会釈をしながら教科書を返した。

受け取る真田さんの手が、大吾の指に絡んだように思った。

大吾は、以前の記憶を呼び戻した。

彼女が放課後 大吾の住まいを訪れたことがあった。

美代子と云う名前で、韓国人の少しおませなスタイルの良い()であった。

そして、今の指を絡ませたことで 大吾に気があることが分かった。

大吾は、気づかないふりをしながら

「どうも有難う」と きちっと礼を言った。

教室の誰もが、今日の大吾をいつもと少し違うと思っていた。


 午後の一時限目は 数学で担任の坂本先生である。

坂本先生は、久保田先生と結婚したばかりだった。

久保田先生は、学校で一番の美人教師で 色白でむっちりして色気があり 男生徒の一番人気だったが、玉に疵で前歯が二本変色していた。

教壇に立った坂本先生は、新婚ほやほやの嬉しそうな顔をしている。

大体普段からいつも嬉しそうな顔であった事を思い出した。

出欠をとり終わった坂本先生は

「宿題のピタゴラスの定理、証明考えてきたやろうな。出来た人は?」

誰も手を上げなかった。

「神野、如何かな?」

皆が、大吾の方を見た。

大吾は、その視線を感じながら 昨夜おさらいをして良かったと思った・

「はぁ、何とか出来たと思います」

「それじゃ、前に出て黒板に書いてみてくれるかな」

大吾は、黒板に向かって 二等辺三角形を描き 相似形を用いて 三角形の辺の長さを表す数式を書いた。

実に達筆である。

元々、大吾はこの頃から字は上手であったが、大吾のチョークの運びは物慣れていた。

坂本先生は、証明もさることながら そのチョーク運びに驚き 大吾の手元を見ながら いちいち頷いた。

大吾が、書き終わると

「ご苦労さん、出来た見たいやな。そやけど、君えらい達筆になったなぁ」

と云って席に戻るように促した。

最後の方は、小さな声だったので教室の皆には聞こえなかった。

「はぁ」と大吾は答えた。

証明が出来たことに対してか、達筆に対してかどちらともとれる返事だった。

大吾は、先生に丁寧な一礼をして 自分の席に戻った。

先生は、大吾の書いた証明を 生徒たちに大きな声で説明していったが、誰もが大吾を見ていた。

誰も、之まで先生に一礼などした事が無かった。

大吾の落ち着きと自然な大人びた仕草に 誰もが、違和感を感じていた。

やはり先週までの大吾と どこか違っていた。

真田さんが、眩しそうな顔で大吾を見上げほほ笑んでいた。

目の隅に佐智さんの姿も入っていた。

彼女は、大吾のほうを見ていた。

大吾は、席に着いた時 急に疲れを覚えた。

そして一瞬軽い眩暈が襲ってきた。

大吾は机に片肘を突いて暫く目を瞑った。

(若しや、これでおしまい?死ぬ?)

と云う恐怖感に襲われ額に冷たい汗が滲んできた。

隣の真田さんが心配そうに「神野君 大丈夫?」

大吾は、その声を遠くに聞きながら、助けて と云いそうになるのを堪えて

「うん、大丈夫、大丈夫や」と応えた。

「先生、神野君 気分悪そう」

真田さんが先生に声を掛けた。

皆が大吾のほうを見やった。

坂本先生が急いで教壇から降りて来て 

「神野、大丈夫か?どうした?」

「大丈夫です、済みません。一寸睡眠不足やったもんですから、ふらっとしただけです。

 大丈夫です。もう大丈夫です」

と言いながらも大吾は、死ぬのではないかと思い 冷や汗を滲ませていた。

「保健室に行くか?」

「大丈夫ですから、お気遣い無く」

気分は元に戻りつつあった。

大吾の物言いは、大人びていた。

急激な変化が、大吾の身体に相当な負担を与えていた。

「君、次の時間は体育やろ。なんやったら体育は休み。

 職員室に戻ったら内藤先生に君のこと云うとくから」

大吾は、体育のトレパンを用意していなかったことに思い当たり

「はぁ、済みません、お願いします。次の時間教室で休んどきます」

暫くして終業のベルが鳴った。

河田、亀井、松山が寄ってきて

「神野、お前大丈夫かいな。なんやら、いつもと違うみたいやけど」

「ほんまや、神野君なんやら、どうかしたみたいや。保健室へ行った方が、ええのんと違うやろか。

 あたし一緒に行きましょうか」

真田さんも話の輪に入ってきた。

「大丈夫、このまま教室で休んどくから」

遠くから佐智さんが、大吾のほうを見ていた。

あたりは体育の着替えでざわついていた。

着替えを終えた皆が運動場へ出て行くと あたりは急にひっそりと静かになった。

大吾は、机に俯せて少し眠りかけた。

人の気配に顔を上げると

「神野さん、大丈夫?」

佐智さんが、大吾を覗き込んで 鼻にかかった甘い声を掛けてきた。 

「山上さん?君も体育休んだの?」

大吾は、野沢---さんと云いかけたのを飲み込んだ。

この時点では、彼女は山上であった。

彼女もおそらく自分の姓が、野沢になることを知らないかもしれない。

「ええ、うちあれ」彼女は生理日なのである。

佐智さんは、隣の真田さんの席に横座って大吾に話しかけた。

「あそう、アンネやな」

「何?そのアンネって」

「あ、そうか御免。ほんまに今日は、僕どうかしてるわ」

佐智さんは、恥ずかしそうにしながら 首をかしげて大吾を見つめた。

こんな事は、以前の人生に無かったことである。

大吾は、佐智さんの顔をじっと見つめた。

そして頬を緩め「心配してくれて有難う」

「ううーん。大丈夫みたいやね。

 話変わるけど今日の神野さん 恰好良かった。

 それに神野さん何時もと全然違う、一遍に大人になりはったみたい」

「そんな事ないやろ。何時もと同じやで。それにしても 君とこんな風に話しすんの始めてやなぁ」

「そうやしぃ、神野さん取っつき(にく)いから。

 そやけど こうして話してたら普通やなぁ」

「そらそうや、普通やで」

二人は、取り止めもない事を 二十分ほど喋っていた。

佐智さんも楽しそうである。

大吾も頭の中で 過去の人生のその頃を思い起こしていた。

「山上さん もう、そろそろ自分の席に戻った方がええことない?皆戻ってくるで」

「そうやなぁ、そうするわ。もし気分悪うなったら遠慮せんと呼んでね」

「有難う」

彼女は、自分の席に戻り 窓から運動場を眺めていた。

そして時おり振り向いて大吾を見て微笑みかけた。

大吾は、机にうつ伏せ手の甲に乗せた顔を横に向けて頷いた。

そして、高校を卒業して社会人になってからの彼女との出会いを思い出した。


 大吾は、暫くの間に皆から “何やら何時もの神野と違う”と言われ気を付けなければと思った。

そして以前の若いころの自分を思い出し自分を取り繕うことの大変さを思った。

暫くして気分が戻った彼は、助かったと思った。

そして、何故か自分は、もう死なないと漫然と思った。

大吾が、一度死んで戻って来た今は、彼にとっては過去だったが、死ぬ前の世の中は、今の人々にとっては、未来であった。

大吾は、今から五十年先までの未来を知っていると思った。

そして、如何してこの時代に戻ってきたのかを考えて見た。

自分は、知らず知らずのうちに念じていたのかも知れない。

何度も 寝る前に佐智さんの事を夢見るように思った事を。

さっき佐智さんが自分を気遣かってくれた事を思い出し、その事と関係が有るように思えた。


 ようやく 戻ってきた人生に馴染んだ大吾は、中学の卒業を間近にしていた。

大吾の成績は、良かった。

過去の大吾も、成績は良く 区の中学校の合同テストでも三位以内に入っていた。

担任の坂本先生は、彼を全日制の公立高校に通うことを強く勧めたが、大吾は夜間高校に行くことを告げた。

大吾は、成績優秀で義務教育の学費を免除されていたが、高校はそうも行かなかった。

大吾の家は、貧しかった。

母の実家に姉と三人で居候し 母の僅かな稼ぎで暮らしていた。

昼の高校に通う姉は、もう直ぐ卒業で ずっと夜は、近くの豆菓子屋でアルバイトをして学費を稼いでいた。




2 定時制高校入学 


 中学校を卒業した大吾は、定時制高校に通った。

何とか早く金を稼げるようにと思ったが、今の歳ではまだ無理だった。

経済的に余裕がなかったせいで自分の事は、自身で働いて賄う事にした。

過去の人生の筋書き通りである。

すでに経験した事の繰り返しなので何ら不安はなかったが、同じ事の繰り返しに疎ましい感もあった。

今回は工業高校ではなく、最初から普通科の高校に通うことにした。

入試は特に難しい事はなく すんなりと合格した。

成績は、同期入学でダントツの一番であった。

クラスメイトは、過去の人生で一緒だった人が かなり居たが、みんな幼く見えた。

教師も半数以上が大吾の記憶にある人達だった。

懐かしい顔と思い出が沢山あったが、相手はその事を全く知らないと思うと 奇妙な違和感と堪らない寂しさに包まれた。

授業が始まり、学科の国語、漢文、社会、理科は、すでに相当な知識を持っていたので 全く苦になることは無かった。

英語も昔よりもましになっていたが、今度は会話できる事を真剣に考えようと思った。

数学はもともと苦手であったが、経験から考える力がついていたので 以前よりましであった。

成績は、いつもダントツである。

一年生の間は、自分から進んで親しい友人を作ることはなかった。

無口で物静かな生徒だったが、近寄りにくい存在であった。


 仕事は、曾て 大吾を大切にしてくれ 給料も良かった吉田硝子を最初から選んだ。

記憶を手繰り京橋のガラス工場を下見すると 以前通りの工場があった。

電話帳で番号を調べ 直接電話して面接を申し込んだ。

吉田の親父さんは不思議がった。

「あんた、何で うちみたいな所で仕事する気になりはったんや」

「はぁ、切子覚えたいと思いましたので」

「さよか。珍しい人も居るもんやなぁ。

 まぁ ええわ、給料たいしてよう払わんけど やってみはりまっか。

 そのかわり学校は、(かよ)てもろてよろしいで」

と云う事で無事に就職することができた。

切子の仕事は、すでに経験済みのことなので何の苦も無かった。 

吉田の親父さんは、あまりの理解の速さと、巧みさに驚き 天から降ってきた拾いものと大いに喜んだ。

吉田の親父さんは、無学で何時も鉛筆を舐めながら伝票、請求書の作成など苦労していたが、大吾は進んで引き受けてやった。

大吾は、子供の居ない吉田夫婦に自分の息子のように可愛がられた。

親会社のガラス工場から事務方にスカウトの話があったが、大吾は断った。

そして学校の休みの日などは、可能な限り残業もし 只ひたすら金を稼ぐことに精を出した。

定時制に通っていたが、この時代の高卒並みのサラリーを稼いだ。

職場でも口数の少ない物静かな学生として見られた。

そして驚くほど何でも知っていることに皆は驚いた。

先輩の今南さんは、大吾を弟分として以前の人生同様に親しみ可愛がってくれたが、物言いは兄貴に対するが如く丁寧であった。

大吾は、あくまで彼を先輩として折り目正しく遇して付き合った。

以前にも居た松井と云う名の母、娘も居た。

娘の名は良子と云い 少し太って居るが可愛らしい娘である。

以前は、彼女を可愛いと思っていたが、自分のタイプではなかったので気には懸けなかった。

今の大吾には、彼女が自分に関心が有る事に気付いていたが、むしろ母親の方とよく話した。

彼女も若い頃は、きっと美人だったのだろうと思いながら 母親のほうに関心が向いた。

大吾の精神年齢の所為かも知れない。

目の前の彼女は、おそらく五十歳位だと思われた。

娘の良子が、何かに付け母親を圧倒しているようだったが、大吾はそんな彼女が あまり好きになれなかった。

「小母さん、良子ちゃんの他に子供さん居てはるの?」

「居てへん。良子だけ」

「旦那さんは?」

「居らへん。三年前に死んでしもうて、しょうがないから娘と二人 こないして働いてんのよ」

「大変やなぁ。何れ良子ちゃんも嫁入りやろ。小母さん寂しくなるなぁ」

「しゃあないわ」

「僕の処も親父居らへん。おふくろが働いて 僕ら大きくしてくれた」

「お母ちゃん、二人何話てんの?」良子が割って入った。

「大吾君と家の事。親父さん居てはらへんのやて」

「なんや、うちと一緒やんか」 

良子の会話は、ぞんざいである。

母親の名は、直子と云った。

直子は、目の前の学生帽を被った自分の息子の様な年頃の少年と話して居て 何故か子供のように思えなかった。

良子が、こんな人と一緒になって呉れたら良いのにと思った。

良子は、お昼休みの時など よく喋りかけてきたが、大吾は少し鬱陶しく感じていた。

「あんた、冷たいなぁ。偏こか?」

「そうかも知れへん。偏屈もんやろうなぁ。よう云われる」 

と適当にお茶を濁した。


 定時制高校の一年が、終わりかけていた。

大吾は、二年に進級せずに 仕事の都合を理由に休学する事にした。

過去の人生では、身体を壊し仕事だけをして休学したが、今回は健康だった。

休学は、金を稼いで貯めようと思った事と 過去の人生の筋道通りにしようと思ったからである。

あと六ヶ月程で、今の勤務先の吉田硝子に名古屋行の話しが来る筈である。

その時の給料は必ず今の倍に成る筈で 今度は金を貯めようと考えた。

それを元手に自分だけが知っている世の中の出来事により 金を増やすチャンスが巡ってくる事を信じていた。

大吾は、吉田硝子の親父さんにとって 無くてはならない存在となっていた。

切子の職人としてだけでなく 吉田硝子の事務方として重要な役割を果たしていた。

大吾が一年間休学して、仕事を続けてくれるという事で 吉田の親父さんは大層喜んだ。

給料も上がり大吾は、フルタイムで働いた。

残業もいとわず 終電車間際になる事も多々あった。 

親父さんは、まだ名古屋のことは知らなかった。

大吾だけが知っていることであった。

そして八月のお盆休みが始まる前に やはりその話が舞い込んできた。

大吾は、これから起きることに自信を持った。

全く過去の人生で経験した通りのことが、起きているのである。

大吾は、休学しているせいで 結構残業で稼いだ。

そして僅かであるが、事務手当も貰っていた。

毎月給料の半分は貯金した。

吉田硝子で働き出して一年半ほどの間に それは、八万円程になっていた。

先の人生の貨幣価値で八十万円位である。

大吾は、株式投資の本を買って将来に備え勉強を始めた。

過去の人生で今の時代の事は、大きな流れとして記憶しており、それを確かなものにする為、新聞を丹念に見た。

株式欄は毎日チェックした。

名古屋が終われば 吉田硝子を辞めて証券会社の給仕になり、更に知識を蓄えようと考えていた。

大学に行く為に定時制に復学して勉強すると云えば、吉田社長も納得せざるを得ないだろうと考えていた。

過去の人生では、名古屋から帰った後、詰まらない安い給料の広告代理店に勤めた事を思い出した。

金を貯める発想もなく、名古屋で稼いだ給料も一体何にどう使ったのか思い出せなかった。


 九月から名古屋での仕事が始まった。

中部特殊窯業と云う耐火煉瓦やタイルを作るかなり大きな会社が ガラス部門を新設した。

大阪から出向いたのは、吉田の親父さん、奥さんと大吾の三人で有る。

住まい、三食の賄い付きで金を使うことは、自分の身の回り品ぐらいである。

給料は、大卒三年目くらいの額である。

半年頑張れば貯えは、二十万円程に出来ると計算した。

コロッケが五円、珈琲が二十円、タクシーの初乗り八十円の時代である。

二十万円は恐らく大吾が、晩年生きていた頃の価値で二百万円位であろう。

新しい職場には、吉田の親父さんの名古屋の友人、年配の速水さんと云う男性が居た。

他に三人の若い新人が配属された。

女子二名と男子であった。

金城学園の定時制に通う小塚さんが居た。

色白で髪の毛も 瞳も茶色がかった可愛らしい()である。

硝子工場には似つかわしくなかった。

大吾は、映画で見たハリウッド女優のキムノヴァクが好きだったが、小塚さんの鼻から口元の雰囲気が、何となくキムノヴァクに似ていると思った。

何時も綺麗なグリーンに茶色の千鳥柄のツイードのハーフジャケットを着ていた。

それは、彼女の色白さを際立たせ 大吾の記憶と全くたがわなかった。

以前には、あまり上手に彼女と接することが出来なかったが、今度の職場では、臆することなく 彼女に話しかける事が出来た。

過去の人生経験が、大吾を何事にも躊躇しない人間にしていた。

昼食後の休憩時間に

「小塚さん、今度の日曜日、予定有る?」

「別に、何にもにゃーだよ」

「そしたら、映画を一緒に見に行かない?納屋橋の名劇。僕見たい映画が有るんや」

「神野君の見たい映画ってどんなやか 興味があるんやねえ。あたしも 一緒に行くがや」

「良かった」

「何時に 何処で待ってたらいい」

「昼から一時に 名劇の前にする?納屋橋の名劇分かるよね」

「当たりみやぁでしょう、うちは名古屋の人間だがや」

懐かしい名古屋弁である。

以前は一人で見に行った名劇の“朝な夕なに”を二人で見た。

映画が終わって外へ出ると

「めちゃんこよかったがや。あの女の先生もええがや。それと音楽も」

それは、大吾の好きだった Midnight Bluesだった。

映画を見てから、テレビ塔の展望台に上がり 以前は独りで聞いたジュークボックスのマントヴァニーの“碧空”や“美しき青きドナウ“を二人で聞いた。

そうこうしているうちに彼女が、大吾の事を気に入ってる事が感じられた。

それから、日曜ごとに彼女と会うようになった。

何時もテレビ塔の展望台に上がりベンチに腰かけて話した。

彼女は、大吾がなんでもよく知っており、彼女から話をうまく引出し飽きることのない楽しい会話に導いてくれるので 楽しく満足しているようだった。

学校のこと、家庭のこと、将来のこと 何でも聞いてやり 彼女の相談相手になってやった。

「大吾君、素敵な人だがや。まるで お兄ちゃんみたい」

「お兄ちゃんかぁー」

「大吾君、お酒飲めれる?」以前彼女が口にした懐かしい言葉である。

彼女とは、別れる時いつも握手をした位で真面目な付き合いだった。

大吾は数年すれば いい女になると思った。

三月になり大阪に引き上げることになった。

中部特殊窯業から、定時制に通わせるから会社に残って欲しいと云う話があったが、大吾は辞退した。

小塚さんとの最後のデイトの時

「一度大阪へも遊びに出ておいでよ。待ってるよ」

「大吾君 うち手紙必ず書くがや。又会いたいだが」こんなだった。

彼女とは 二、三度文通をしたが、遂に大阪に出てくることもなく途絶えた。

大吾には、彼女を如何こうしたいと云う思いが無かったからである。


大阪に戻った大吾は、以前の人生とは異なり 其の儘吉田硝子で仕事を続ける事にした。

吉田の親父さんは、名古屋の中部特殊窯業からの引き抜きを 彼が断ってくれた事を甚く感謝して以前にもまして、大吾を大切にしてくれた。

夜学生(休学中であったが)にも拘らず給料も上げてくれた。


大吾と母と姉の三人は依然として母の実家に居候を続けていたが、母はずっと働いており 姉も全日制の高等学校を卒業後、一流商社のタイピストとして勤めていた。

三人が働いていたので 暮しはかなり楽になっていた。

今の大吾には、二人の子供を学校に通わせて来た母が、経済的にも精神的にも苦労の し続けだった事が痛いほど理解できた。

そして母を早く楽にしてやろうと云う気持ちが湧いていた。

この年 姉は、同じ商社の営業マンと結婚し、母の実家の居候から抜け出した。

大吾は名古屋で働いた貯えと 今回の給料が上がった事で母の実家を出ることを決意した。

母に話すと喜んだが躊躇した。

母の稼ぎでは、とても二人の生活を賄うことが出来ないと思っていた。

「母さん、大丈夫。家賃は、僕が責任持つよ。

 給料も少し上がったし 礼金は、僕の貯えで賄えるから任せといて。

 何時までも居候で肩身の狭い思いも辛いやろう」

母は、彼の貯えがどれ位有るのか知らなかったし、子供達に頼るのは恥ずかしい事だと思っていた。

気丈な彼女は、子供たちに貧乏をさせていることを恥じていた。

幸い子供たちは、自分の力で自分の面倒を見られるようになって居たが、その事にも親として力の及ばなかった事で自分を責めていた。

姉も大吾もそんな事は、一向に気にせず 親を責めることは決してなく 当たり前の事だと思っていた。

大吾は自分の学校に近く、母の勤め先にも近い上六近辺を 仕事の休みの度に自転車を漕ぎ探し回った。

一ヶ月程してそれは見つかった。

近鉄百貨店の裏道を走っている時 綺麗なアパートが目に入った。

表の壁に「空室有ます」と書いた張り紙に電話番号が書かれていた。

大吾は、瀟洒な佇まいが一目で気に入った。

家賃は、高そうだったが意を決して電話をする事にした。

電話をすると家主は 二、三分も経たないうちに歩いてやって来た。

少し離れたところに見えていた庭付きの二階建てが、家主の家だった。

家主は、頭の禿げあがった眼鏡を掛けた六十年配の人だった。

アパートの前で待って居ると

「お宅だっか、電話して来やはった人」

と云って胡散臭そうに大吾を見遣った。

家主は、内心 何やこの()(せがれ)と思った。

「はい、神野と申します。お部屋 見せて頂けますか」

「よろしおまっけど 家賃高こおまっせ」

「はぁ、とりあえず見せてください」

「さよか、一階に一つ、二階に一つ 空いてま。間取りは同じですわ」

「それでは、二階をお願いします」

家主は、無愛想な顔つきで先に立ち コの字型の建物の真ん中にある鉄板階段を 麻裏草履をぺたぺたさせながら上がって行った。

鍵をガチャガチャさせ玄関ドアを開けた家主は

「見とくなぁれ」

と云って自分は右手の部屋に入り ベランダの大きな掃出し窓を開けた。

狭苦しい古い長屋の母の実家で暮らした大吾には、素晴らしいものに見えた。

この頃には、珍しく洋風の(しつら)えであった。

まず驚いたことに風呂場と洗面所が有り、二階建てなので便所は水洗だった。

なるほど これは、家賃高いやろうなぁと思った。

給料の半分は、軽いと踏んだ。

部屋に戻ると家主は、開け放ったベランダの窓から腕組みをして外を眺めていた。

この子倅では、見せるだけの手間かけて えらい損やと思っていた。

大吾は 「気に入りました。とっても素晴らしいです。決めさせて貰います」

と家賃も聞かずに云った。

「えっ、未だ家賃云うてまへんで。それと ちゃんとした保証人も付けてもらわなあきまへんで」

家主は、この子倅 何にも知らんのと違うかと思い高飛車に言った。

「はい、決めせて頂きますが、家賃はお幾らですか?それと礼金」 

家主は、うん、多少の心得は有るらしいと思った。

「お兄さん、家賃は月五千五百円、礼金が家賃の二カ月分だすわ。

 ところで あんさん一人で住まはりまんのか?」 

「いいえ、母と二人です」

「お二人?親御さんはお勤めでっか?」

家主は、多分母親は水商売だろうと思った。

「ええ、この近くの 山田ボタンと云う処に勤めています。ここだと丁度母の勤め先の近くですし」

山田ボタンと聞いた時、家主の目が驚いたように大きくなった。 

「ほんまでっかいな、山田はん(とこ)行ってはりまんのか。

 山田はん処の社長やったら、よう知ってまんがな。

 わしの囲碁友達や。へぇー、これは奇縁や。それであんさん、どこの大学で?」

「いいえ、まだ高校です。高津高校の夜間に通ってます」

家主は、先ほどからの臆する事の無い大吾を 大学生と思っていたらしい。

「へぇー、未だ高校でっか、それも夜学。それに高津高校云うたら名門でんがな。

 そやけど偉いなぁ、夜働いて、勉強しやはる、中々見上げたもんや」

家主は、母親が山田ボタンに勤めていると聞いてから、打って変わって饒舌になった。

言葉も親しげである。

「そら、ここやったら、山田はんにも近いし あんさんの学校にも近こうてよろしいわ。

 実は、このアパート外人さん用に建てたんでっけど 外人さんあんまり来よリまへんのや。

 それで家賃一寸下げて貸し出そうと思うてましたんや。今の家賃やったら高こうおまっしゃろ」

家主は、云わなくても良い事を自分から喋り出した。

「へい、よう分かりました。

 此処決めてくれはったら、家賃は五千円で結構だす。礼金は、一万円、これ でよろしおまっか」

「有難うございます。大変助かります。それでは、今日手付入れさせてもらいます。

 入居は、来月の十五日にさせて頂きます」

「さよか、さよか。何時お越しいただいても よろしゅおまっせ。

 ほんなら、そこの(うち)へいって、預り金の証文と契約書お渡しさせて貰いますわ。

 鍵もお渡ししますよって、あんさんの親御さんにも見てもろうておくなぁれ」

家主の応接で大吾は、用意して居た手付金を取り出しテーブルに置いた。

家主は「おーい、おかぁちゃん、お茶持ってきてやぁ」

と大きな声を上げた。

先程からの諸々の話しで大吾の事が気に入ったらしい。

お茶を運んできた奥さんは、旦那に似ず和服姿の上品な人だった。

笑顔を見せて丁寧にお茶を置くと

「どうぞごゆっくり」と挨拶を残し下がって行った。

家主は、預かり証書と契約書を大吾に渡しながら

「これ、引っ越して来やはる時に書いて持ってきてくれはったら よろしいわ。

 鍵お渡ししときますよって、何時でも勝手に見とくなはれ」

と来た時とは、打って変わったニコニコ顔を大吾に向けた。

大吾は、家に戻ると仕事から帰った母親にアパートを見つけ決めてきた事、場所は母の勤め先の近くで、家主が山田ボタンの社長と知り合いであることを伝えた。

母親は目に涙を浮かべて喜び

(だい)ちゃん おおきに。ほんまにおおきにやで」と云って頭を下げた。

「母さん、そんな水臭い事すんなや、やっと居候から抜け出せんのや。

 これから肩身の狭い思いせんでええのや」と云った。

日曜日、大吾は、勤務先の吉田の親父さんに引っ越しの準備と云って一日休みをもらった。

吉田の親父さんは、好意的で引っ越しの時は、親会社のトラック借りてあげるから遠慮するなと云ってくれたが、居候で殆ど荷物のない大吾は、丁寧に断った。

彼は、その日 母に部屋を見せて、生活用品と家具の買い物をした。

何度もタクシーに荷物を積んで千日前の道具屋筋を往復し、預かっていた鍵で部屋に運び込んでおいた。

大きな家具は、夕方運ばれてきた。

荷物で雑然とした部屋の空いた所に ぺったりと座り込んだ母は、しみじみと部屋の中を見回していた。

居候を抜け出した安堵感と 大吾に世話を掛けた申し訳なさが顔に出ていた。

その夜 大吾は久し振りに母を戎橋に連れ出し、彼がよく子供の頃に連れて行ってもらった中華料理の蓬莱ほうらいへ行った。

子供の頃のそんな話をすると

「大ちゃん、そんな事 よう覚えてはるなぁ。それ位の事しか してやれへんかったからなぁ」

としみじみと云った。

家に戻り母は、自分の父母に引っ越しする日を告げた。

祖母は「加代、何時までも居ったらええのに」と母を労わり

「あのだらけのだいが、よう頑張るようになったんやなぁ」と喜んでくれた。

母の弟は

(ねえ)、引っ越したら遊びに行くわ。飯食わしてや。

 大吾その時は、お前と風呂行こや。風呂屋近くか」と聞いた。

「叔父さん、申し訳ないけど内風呂やねん。

 来はった時風呂に入ってもらうから」と云うと

「なんやて? 内風呂? ほんまかいな。えらい豪勢やないか。

 それやったら風呂入れてもろうて、ビールでも飲まして貰うわ」と云った。

大吾は子供の頃 この叔父によく銭湯に連れて行ってもらい、帰るときに 近くのパーラーで氷西瓜を食べさせて貰ったことを思い出し

「叔父さん、氷西瓜は?」と云うと

「そらお前や」と云って笑った。

「そやけど、姉ぇと(だい)が居らんようになったら 寂しなるなぁ。なぁ、おかん」

と自分の母親の方を向いて云った。


大吾は、仕事が公休日の十五日に引っ越しを済ませた。

その日は、同じ職場の今南さんが手伝いに来てくれた。

彼は大吾よりかなり年上であったが、大吾を気に入り 休みの日などよく遊びにつれてくれ、飯を食わしてくれた。

今南さんのお蔭で大きな箱物の片づけは、スムーズに運んだ。

あらかた片付けが終わって

「兄さん、今日は僕が(めし)奢らせてもらいますわ、外行きましょか」と云うと

「大吾さん 何言うてまんね、弟分に奢ってもうたら わし恥かくわ。

  飯は、(わし)のおごりに決まってるがな」

と云って、結局その日も彼のおごりだった。

夕闇が迫る頃今南さんは、帰って行った。

多分パチンコをするか飛田にでも行くのだろうと大吾は、その後ろ姿を見送った。


 アパートに移り住んでからの母親は、生気を取り戻したように見えた。

やはり 実家とは言いながら辛かったのだろう。

その頃実家には、母の弟の嫁もおり その事でも かなり肩身の狭い思いをしたに違いない。

新しく移り住んだアパートでは、北側の六畳を母が使い、南側の六畳を 大吾が使った。

母は綺麗好きで、自分の部屋と真ん中のダイニングキッチン、風呂、洗面所、便所を綺麗に整えた。

大吾の部屋の片づけは、遂に手を触れなかった。

掃除とベランダに洗濯物を干すとき以外は、大吾の部屋には入らなかった。

それぞれ部屋には、大きな物入れが有ったので かなり広く使えた。

元々外人向けに作られていたので 床は板張りである。

大吾はベッドを入れ 母の部屋は、板床の上にカーペットを敷いて布団で寝かせた。

引っ越して暫くは、だだっ広く落ち着かなかったが、吉田の親父さんが、引っ越し祝いとして、三千円を呉れたので その金で おいおい自分の部屋を整えることにした。


 引っ越しを済ませ三ヶ月が過ぎようとしていた。

吉田の親父さんには、復学する事を話しており一年前と同じように夜、学校に行かせてもらう了解も取り付けてあった。

大吾は、高津高校の事務室に行って復学の手続きを済ませた。

大吾は、引っ越しをして自分の部屋が出来ると アコースティックギターを買ってきて練習を始めた。

休学をしている所為で仕事が休みの時や 残業の無い夜は、時間に余裕があった。

ギターの事を思い立ったのは、過去の人生で歳を重ねてからジョーン・バエズ、ジョーン・デンバー、

イルカなどのフォークに()かれたからである。

この時代には未だフォークは、台頭して来てはいなかった。

大吾は、孤独を紛らわせる為の慰めにしようとした。

譜面なしで 記憶を頼りに爪弾いてみようと思ったが、素人が、一人で練習して居ても中々埒が明かなく遂に夜ギター教室に通う事にした。

三か月ほどするとフォークソングの為の爪弾きが出来るようになった。

フラメンコなどの高度なものは、やるつもりがなかった。

一人の時は、大概部屋でギターを弾きながら 以前にパソコンのインターネットで見た 彼らのライブショーを思い起こしながら口ずさんだ。

瞼を濡らすこと(しばしば)であった。


大吾は戻って来た人生で、堅実な暮らしを始めていた。

そして何時まで続く人生か分からなかったが、その事は考えない事にした。




3 高校復学


高津高校に復学した大吾は、皆と一年遅れの十八歳の二年生で進学クラスのD組だった。

担任は、以前の人生と同じ三宅先生、大吾が休学していた昨年赴任してきたらしい。

その他の教師連中は、皆顔見知りであリ暖かく迎えてくれた。

クラスには、過去の人生で同じクラスだった国田女史、康原、高瀬さんも皆いた。

自分だけが知っているクラスメイト達だった。

まだ隣のC組には顔を出さなかったが、一番の友人だった高坂を始めとする 顔見知りが居たが、勿論誰も大吾の事は知らない。

大吾は、出来るだけ目立たないようにしていたが、成績の良さ、たまに発言するときの落ち着いた話振りから次第に注目を浴びるようになった。

職員室でも話に出ることがしばしば有ったようである。

そんな大吾をC組の連中と結びつけたのは、担任の熱血教師三宅先生である。

二学期が始まって間もなく、放課後 三宅先生の肝いりの生徒たちと、その取り巻きが呼び止められ 

教室で三宅さんの期待の星としての話が有った。

成績上位の国田女史も交じっていた。

チビで度の強い眼鏡を掛けた三宅先生の熱弁にも関わらず 殆どが、只話を聞くというだけだったが、

国田女史だけが身を乗り出し 盛んに頷いて聞き入っていた。

話が終わって帰りがけに皆で上六の喫茶店に寄った。

近鉄百貨店の西向かいの一角を入った “純喫茶巴里“である。

大吾は懐かしく色んな事を思い出した。

「ええ音楽やなぁ。これシンシアのワルツやろ」

「へぇー、神野さんよう知ってはるやんか」高坂である。

「君も こんなの好き?」

「うん、どっちかと云うたら好きかな」

「よっしゃ今度 音楽聞きに行こうか、無料(ただ)で聞けるとこや。日にち合わせて行こう」 

「ほんまですか、それ案内してください。僕、時間いつでも大丈夫やさかい。

 そやけど昼からでないとあかんのですわ。朝から野球なんですわ」

彼の物言いは、以前と同じく丁寧であった。

大柄な少し歳の行った山本が 

「お前ら えらい気い合うとるやんけ」とかき混ぜた。

高坂は定時制に来ているが、大学を目指し昼仕事をして居なかった

こうして 高坂との付き合いが再現された。

大吾は、今度はもっと確かな友情を育もうと考えた。

ただ彼の人生は、以前知っている事と大きくは、変わらないであろうと思った。

それは、在日韓国人である彼の家族構成から来る事の問題であった。

大吾の仕事が休みになる十五日 大吾は、堂島のフェスティバルホールへ高坂を連れて行った。

そこは、松下電器のショールームで最新のステレオセットでレコードを聞かせてくれた。

「神野さん、凄いですなぁ。こんな所 知ってはるんですか」

その日もマントヴァニーの“碧空”他とベートーベンの”田園“を聞いた。

彼は、音楽も大吾もすっかり気に入り、大吾を一番の友人と思うようになっていった。

音楽を聴き終わり喫茶店に立ち寄って

「神野さん、今どんな仕事してはるんですか?」

「僕の仕事? 今は京橋のガラス工場で働いてますわ」

「それは、大変やわ。硝子工場見た事有るけど すさまじいですなぁ」

「まぁ、僕は ガラス吹いてる分けやなくて、カットグラスの方や。

 そやけど、今年一杯で辞めようと思うてるねん」

「何でですの?」

「うん、やっぱり 今の仕事は、金になるけど きついなぁ」

「そうと思いますわ」

「もうちょっと楽な事務系の仕事ないかと思うて 今年一杯で今の工場辞めて一月から失業保険貰いなが ら探す積りしてるんやけど」

十一月の終わりに大吾は、吉田の親父さんに 今年一杯での退職を申し出た。

理由は、大学進学の為に勉強に専念するとの事であった。

親父さんは残念がったが 大吾が、硝子工場で終わる人間だと思っていなかったので了承した。

吉田硝子の十一、十二月は、輸出商品で忙しかった。

大吾は、学校が冬休みに入ると 毎日遅くまで残業をして頑張った。

二十九日の御用納めの日、切子場の全員で大吾の為に送別会をしてくれた。

吉田の親父さんは、最後の給料と その年の賞与に加え 餞別として五千円もの大金を贈ってくれた。

そして昨年同様 正月に生駒にある自分の家に来るように促した。


こうして、二年と九カ月に及んだ吉田硝子での仕事は終わった。

明けての正月二日 大吾は、親父さんの招きに応じてひと晩泊りで 特級酒の一升瓶を下げて生駒の家を訪れた。

親父さんは、無類の酒好きで職場でも欠かす事の無い人だった。

奥さんも一緒に切子場で働いており、昔芸子で吉田の親父さんと一緒になったと云う中々粋な人である。奥さんの作る日本料理は秀逸だった。

子供の居ない吉田夫婦は、自分の息子の様に大吾を可愛がってくれた。

こんな訳で、これまでも何度も泊めてもらっていた。

親父さんは、これからも この家に泊まりで来るように進め、むしろ懇願するような有様であった。

大吾は、足掛け三年に及ぶ厚情に礼を言って吉田夫妻に別れを告げた。

その後も盆暮れには、欠かさず特級酒を送り続けた。

以前には、しなかった事である。


 吉田硝子を退職してから昼間の時間は、豊富にあった。

大吾は、下味原にある職業安定所に顔を出し 自分が希望する仕事が現れるのを待って居た。

別に慌てなかった。六ヶ月間は、失業保険が出るからである。

これまでの給料の60%で恐らく新しい仕事での給料は、これに及ばないであろうと思っていた。

二月か三月に成れば、必ず証券関係の給仕の募集が有るものと思っていた。

証券界は、現在有卦に入って居り新聞広告も人の募集は沢山出ていたが、定時制に通わせてくれるところは少なく 彼の条件に合致するところは、目につかなかった。

失業保険の期限が切れる直前までに決まればよいと思っていた。

大吾は、過去の人生で知り得た これからの十年間に起こる事象を丹念に整理した。

また忘れない様にと 思い出したあらゆる事をその都度克明に記録した。

そうしながらも突然の死が訪れるのだろうかと考えた。

先に死んだときは、高血圧が昂じたものだと考えていた。

と云う事は、事故にでも合わない限り 突然の死は無い筈である。

今までの処 過去の自分に比べて極めて健康状態は良かった。

大吾は、もどって来た人生を過ごしながら死にたくないと思った。

この人生を もっと極めて見たいと思った。

山上佐智さんとの事があった。 

過去の人生では、彼女のことでずっと後悔していた。

何度も夢を見ようと思うくらい、彼女の事が心残りであった。

今度は、彼女と共に悔いの残らない人生を送ろう決心し 彼女と再会を果たすまでの年月を数えた。

彼女は、まだ高校生で 次に短大に行くはずである。

この頃になると 大吾はこれから起こる事は、過去の人生で経験した通りの事になる事を疑わなかった。

彼女にアプローチする方法は幾らでも有ったが、現在の彼女の心境が分からない今は、慌てないほうがよいと考えた。

(あと五年---かなり長いなぁ)

再会したときの二十二歳の彼女と十八歳では、大いに違うだろうと思った。

もし早まって 違う展開になったときの不安があった。

再開したときと同じタイミングにしなければならないと (はや)る思い抑えた。


 母親に対しては、極めて自然な形で母への愛しみを持つことが出来た。

それは大吾の過去の人生経験の積み重ねによるものだった。

大吾は、二学年を学年五クラスでのトップの成績で終えた。

過去に貯えた知識と経験は、高校の成績にも大きく寄与していた




4 高校三学年、山三證券、


 吉田硝子を辞め暇が出来たせいで、高坂とは度々出会い中の島のフェスティバルホールにレコードを聴きに行ったり 喫茶店で話し合ったりした。

そろそろ春休みが終わり三学年の新学期が始まろうとしていた。

何時ものように高坂と行く上六のパーラーで珈琲を飲みながら

「仕事 決めたんか?」

「いいや、未だや。別に慌てて決めんでも 失業保険貰うてるさかい困らへん」

「そんなら ええけど。どんな仕事がしたいんや」

「うん、前にも云うたけど事務系で 今、職安に頼んでるのは、証券会社や」

「証券会社?一寸まてよぅ、確かうちのクラスの長尾 あいつ行ってる所 山三證券云うとったで。募集 してるかどうか聞いてみさせようか」

「おお、山三 それはええなぁ。今伸び盛りや」

「うん、会社景気ええ云うとった。せやけど 自分ら関係ない云うとったなぁ。

 使い走りのメッセンジャーで給料安いし云うて こぼしとったわ」

「別に給料の事はかまへん、株の勉強になったらと思うてるんや」

「ふーぅん、勉強すんのか、お前将来のこと考えてんのやなぁ。

 よっしゃ、長尾にすぐ電話で聞いてみたるわ」

高坂から生徒会役員の話しが出たのも この頃であった。


 三学年が始まって、二日目に高坂が放課後やって来て、長尾君の会社からの回答は、履歴書持って面接に来いと云うことだった。

なるべく早い方が良いと云う事であった。

翌日 大吾は、履歴書をもって朝十時に 北浜の山三證券に出向いた。

営業部の部長、課長、主任の三人の面接官が、正面の長テーブルに座り大吾を見ていた。

真ん中の部長が差し出された履歴書を見ながら

「神野さんですな、君えらい達筆やなぁ」

大吾の筆跡は、過去の人生のそれであった。

肉体は若返っていたが、考える力、知識、技能は、過去の人生からのものであった。

「はい、有難うございます」

大吾は、若者らしく折り目正しく応えた。

「ところで、何で 証券会社で仕事したいのかな」

「はい、株式投資の勉強をしたいと思っております」

面接官は一様に驚いた様子であった。

「ほーぉ、君は もう株に興味を持っている?」

「はい、そうですが。世の中の動きと株価の関係に興味があります」

大吾は、極めて当たり前のことを言った。

大吾は、既に自分が知っている未来の事をそれとなく口にしていた。

「ふーん、君は誰かに特別な事でも聞いたんか?」

部長は、青二才が知ったかぶりを云うと思いながら、少しからかうような気持ちで 敢えて大吾の云った事に触れた。

「御社の事ですか?」

「いいや、株価の動きの事や」

「いいえ、新聞を見ながら思いました」

「新聞のどこを見て?」

「政治と政治家の言動などです。その事で、日本の国がどう動くかです。

 それに対し株価がどう動くのかが興味あります」

部長は、一瞬狐につ摘まれたような気がした。

横に並んでいた、課長も主任も きょとんとしていた。

確かに彼らも政府の方針に対する株価の動きは、注目していた。

只この若者は、政府の方針とは言わなかった。

それを動かしている人間と日本の国と云った。

彼らは、一様に目の前の株価の動きと企業の業績に注目はしていたが、目の前の若者が云った事に驚いた。

部長は、一瞬ドキッとした。

「君、今幾つや?」

「はい、履歴書通り十九歳です」

「いつから、そんなこと考えたの?」

隣の課長が聞いてきた。

「二年程前からです」

「二年前から?それで、記事は全部理解できてる」

「はぁ、理解しょうと頑張って居ります」

「勿論、経済欄、株価は見ているだろうね」

「はぁ、それは勿論見ております」

面接官は、大学生の入社面接をしているような錯覚に囚われた。

部長は、たかが給仕にそんな高邁な事は、関係ないよと云いそうになったが、ぐっと飲み込んで どう云って良いか分からなくなった。

大吾は、五年後に山三証券を襲う倒産の危機を意識して そのような事を云い、また過去の記憶を確かな物にする為に欠かさず新聞を見ていた。

彼は、五年後の その時を自分の飛躍のチャンスと捉えていた。

しかし、かなり先の事である。

最後に課長が

「君、定時制やろ。五時で終われるけど給料は安いで。

 仕事云うても、使い走りやけど 我慢できるかな」

「はい、大丈夫だと思います。学校に行かせて頂ければ それで結構です」

「分かった。それでは、一週間以内に通知を出すから、待って居て下さい」

大吾は、背筋を伸ばして、丁寧に頭を下げ

「よろしくお願い致します。失礼いたします」と若者らしく云って背を向けた。

三人の面接官は、一様に彼の後姿を 興味深そうな眼差しで見送った。

採用通知は三日後に届いた。

ほぼ面接の後での即決であった。

部長は「良さそうや無いか。すぐ採用通知だしたり」と云い

採用する事に異存はなかったが、大吾の言った言葉が、頭から離れなかった。

給料は通勤費支給で一か月六千円であった。

今までの半分にも満たず、殆どが家賃で消えてしまった。

(あー、貯金の取り崩しか。何か収入の道を考えんとあかんなぁ)

と思いながらも、まず 一番目のステップを上ったと思った。


 時は、昭和三十五年で第一期の高度経済成長期の真っ只中である。

三種の神器と云われたテレビ、冷蔵庫、エアコンの黄金時代が始まっており、四年後の東京オリンピックに向けてのインフラ整備、土木建築を始めとして各産業界は、空前の好景気に向かっていた。

あと二年すれば名神、東名高速道の開通、続く新幹線の開通、大阪万博と好材料が続いていたが、自分が飛躍のチャンスと捉えている証券不況の始まりまでに 速く投資の資金を蓄えたいと思った。

今の貯えは、僅かなもので、仮に少額の投資をして現在の配当や売買では、損はしなくとも多寡が知れていた。

学校を卒業するまでに 貯えを 何とか三十万円までにしたいと思った。

しかし今の状況では、はるかに遠い目標だった。

貯えが、減って行く可能性の方が大きかった。

吉田硝子で稼いだ金も、アパートの引っ越しで かなり使っていた。


仕事から 戻った母親に

「母さん、今日山三證券から採用通知が来たで」

「ほんま、それは、良かったなぁ。山三證券云うたら一流会社やないの。

 美智代も一流会社へ行ってたし、大ちゃんも一流会社行きはって。ああ、良かった」

母親は、子供たちの片親の世間に対する引け目をいつも気にしていた。

一流会社に子供達が就職することで それが払拭できたようだった。

大吾は、給仕であり、正社員でない事は敢えて云わなかった。

母が喜べばよいと思っていた。

大吾には、一流だろうと二流だろうと どうでもよかった。

内心 後年の山三の倒産を知っていたので むしろ内容は、二流だとさえ思っていた。

学校の帰り道 高坂と喫茶店に寄った。

「高坂 おおきに。山三證券に行くことが決まったわ。ほんまに感謝してる。

 この通り おおきに、長尾君にもお礼云うてなぁ。」と頭を下げた。

「そらぁ良かった。僕、お前の役に立てて ほんまに良かった」と喜んでくれた。


大吾は、四月十五日からの変則入社となったが、誰も新しい使い走りに目をやる者はいなかった。

「主任が、君の席そこや。後で課長から、仕事の指示あるから もうちょっと待っていてくれるか」

と云って、慌ただしく電話を取って仕事を始めた。

三十分程して早朝会議を終えた課長が、席に戻ってきた。

大吾が隅の席に座っているのを見て

「いやぁ、神野君 お待たせ。早速来てくれはったな」

「はい、お早うございます」

課長は大吾の顔を見て機嫌が良かった。

課長の大きな声と機嫌のよさに周りの者は驚いて顔を上げ 大吾と課長の方を見た。

たかが給仕にと思ったようである。

課長は立ったままの大吾を座らせ、横の空いていた椅子を引き寄せ彼の横で、すべき仕事の内容を説明した。

終わると「一寸みんな、ええか」

席に居た者は、手を止めて課長を注視した。

大吾は次に彼のする事が分かったので、さっと立ち上がり姿勢を正した。

課長は立ち上がり

「今日から入社の神野君や。長尾と同じ仕事してもらうから ええか」

と云って大吾を促した。

大吾は「神野大吾と申します。何も分かりませんが宜しく お願い致します」

とはっきりした声で挨拶した。

課長は「一応みんな それぞれ自己紹介せえ」

と云って一同を促した。

大吾は、紹介者の長尾君に礼を言おうと探したが 彼の姿は見当たらなかった。

主任に聞いてみると一週間前に辞めたという答えだった。

大吾は、面接のときの課長の言葉が甦ってきた。

長尾君は、自分の退職の後釜として大吾を紹介したようだ。

実の所 長尾の退職の申し出を受けた所属課長は、甚だ不快だった。

所詮 給仕とは云えルール無視である。

紹介を無視しようと思ったが、彼がルール無視を分かっていて 恥じている様子だったので、其れに免じて受け入れる事にした。

だが、あんまり期待して居なかったが、まぁどんな人間か面接だけは、してみようと思った。

ルール無視の退社は、一応直属課長の責任である。

課長は、部長に長尾の退職を届け、その便法として後釜の面接希望者を見つけて居りますと報告した。

課長の責任は それで終わったようなものである。

採用するかどうかは、部長次第だと思っていた。

大吾を面接した時、彼の態度に課長は安堵した。

一応しっかりした若者らしい。

課長は長尾の事が有ったので、給料の事と我慢できるかと責任上 念を押した。

内心は、この若者に大いに興味を持った。

面接後の部長の反応は、早かった。

面接後その場で「良さそうや無いか。すぐ採用通知出したり」と云い

課長は、鼻を高くした。とこんな経緯であった。


 大吾の仕事は、朝九時から夕方五時まで外への使い走りと社内の雑用だった。

しかし、大吾の雑用は的確で行き届いていた。

お茶汲みは、高卒新入女性社員の仕事であり 他の面でも大吾の社内雑用の仕事と重なる部分もあったが、彼はお茶出し以外は 率先して仕事をこなした。

大吾の課は、営業で彼と課長を除いて十二人のメンバーが居た。

高卒の新入事務員と二年目の短大を出た女子事務員が配属されており、それに加え新たに入社した大卒が二名加わっていた。

営業活動は十名の男性社員が担うことになる。

其のうち半数は、高卒であった。

営業部は、大吾を面接した部長の下 三つの課に別れていた。


この当時は、FAXやコピー機と云った物は無く 複写は、カーボンコピーであった。

また印刷物は、謄写印刷 俗にいうガリ版である。

社内に配布されるものは、殆どがこれだった。

大吾は、過去の人生で、この技術を持っていた。

ガリ版の上で文字を書くことは得意だった。

原紙の細かなマス目を埋づめる活字体やフリーな文字も達者に書くことが出来たが、手間のかかる仕事である。

入社二年目の女子社員が、人の出払った席でガリ版を前に

「えぇー、まだこんなにようけ書かなあかんのぉー」

と悲鳴を上げた。

隅の机で、書類を整理していた大吾に

「神野くぅーん、一寸なんとかしてよう」と声を掛けた。

「佐々木さん、どうしはったんですか?」

彼女は、大吾より歳上である。

彼は、先輩なので丁寧な言葉を使った。

大吾は、朝から彼女が、懸命にガリ版の原紙を埋めているのを知っていた。

朝、課長が

「佐々木君、これ今日中に仕上げてくれるか」

と十枚ほどの原稿を渡したのである。

彼女の机の上の原稿は、まだ五枚ほど残っていた。

「佐々木さん、指痛いでしょう。僕で良かったら手伝わしてもらいます」

と云いながら彼女の席の所へ立った。

彼女は眼を上げて

「神野君、ガリ版出来るの?」

「ええ、中学校の時文集作ったりしましたから 」

それを聞いて佐々木さんは

「ほんまにぃー、お願い助けてぇ。あと三時間で仕上げなあかんね。そうせんと残業せなあかんことになるし」

大吾は、時計と残った原稿を見て原紙二枚かと見て取った。

「よっしゃ、頑張らしてもらいます。席替わってもらっていいですか?」

と云って彼女と交代した。

彼女は、隣の空いた椅子に腰かけ横から大吾の手元を覗き込んでいた。

彼は、素早く全体の構成をチェックすると、すぐさま、カリカリと骨筆の軽快な音をたてはじめた。

佐々木さんは、その文字の美しさとスピードに驚いた。

「うわぁ、凄い。神野君プロ見たい。神野君の字に比べたら うちの字恥ずかしいわ」と云った。

彼女の字もそれなりに整っていたが、スピードが全く違った。

彼女は席を離れ、暫く経って湯呑にお茶を入れて持ってきた。

「神野君、うちサービスする」と云って

大吾の肩に手をそっとかけた。

向かいの席で新入の女子社員三好さんが、驚いたような顔をして見ていた。

彼女は、先輩の佐々木さんから何時も一方的にあれこれ指図されていた。

佐々木さんは、悪気はないが物言いが、つっけんどんだった。

しかし性格は快活で はっきりしていた。

三好さんは、大人しい性質で何時も押されっぱなしで 彼女にびくびくしていた。

他の男性社員は、新米の三好さんには優しかった。

大吾は、一時間少しでガリ版を終えてしまった。

「佐々木さん、これで良いかチェックして下さい」

彼は、一度も修正液を使わなかった。

佐々木さんの原紙は、何か所もその後が残っていた。

彼女は、その仕事ぶりに驚きながらも 

「えっ、はい」

と云って傍らの椅子に腰を下ろして、原紙を読んでいった。

一か所の間違いもなかった。

「神野さん、完璧やわぁ。ああ、ほんまに助かった。そやけど神野さん凄いわねぇ」

と云って また肩に手を掛けた。

時計は、三時半を少し過ぎていた。

佐々木さんは、いつの間にか自分でも気が付かず 君からさん付で彼を呼んでいた。

「佐々木さんのお役にたてて良かったです。お茶いただきます」

と云って温くなった お茶を飲んだ。 

大吾は、前に座って眺めていた三好さんに

「三好さん、一緒にこれ刷りに行きましょか」と声を掛けた。

「は、はい」

彼女は慌てて立ち上がり、彼の所へやって来た。

「佐々木さん、これ何部作るんですか?」

「とりあえず十部、お願いしていい?」

「分かりました、三好さんと一緒に刷って来ます」

大吾と三好さんは、印刷室へ向かった。

佐々木さんは、その後ろ姿を口をすぼめ 顔を左右に振りながら見送った。

大吾は、新米の三好さんに謄写印刷のやり方を丁寧に教えた。

ネットへの原紙の貼り方、最初のローラーインクの馴染ませ方を教え、ローラーの運び方を実演し 彼女に刷らせた。

原紙は四枚あったので、二枚目からは、彼女に全てをさせた。

彼女は感が良く 彼の教えたとおりに進めた。

「そぉ、その通り。上手い、上手い」と云って褒めると 

彼女は、嬉しそうな顔を大吾に向けて ちょこんと頭を下げて可愛い舌先をちらっと覗かせた。

大吾は、うーん、この() 可愛いと思った拍子に 中学で一緒だった中元加代子さんを思い出した。

彼女と大吾は、小学校の時から 何故かクラスがずっと一緒だった。

彼女も父親が居らず母の手で育てられた。

中学校を卒業した時、大吾と彼女の二人は、大阪市の特待生として 中の島の朝日会館での式典に 姉に付き添われ行った事を思い出した。

彼女とは、子供の時からあまり親しすぎて男女の感情がもてなかった。

しかし三好さんの仕草と表情を見た時 急に彼女の事が甦って来た。

今日の印刷物は、明日の会議での課長の提出議案だった。

大吾は、その内容を頭に入れた。

仕上がった印刷物を持って席に戻った大吾は、机の上でホッチキスを止めながら

「佐々木さん、これは裸で課長の机に置かない方がいいですよ。

 原紙は、紙に挟んで一応保管してあるけど」と云った。

彼女は、彼の顔を見て

「大事なもの?」

「うん、大事と云うほどの物や無いけど、まぁ、明日の課長の提案書やから 他の課の人の目につかない 方が、ええと思うけど」と云った。

「わかった、分かりました」


ゴールデンウイークが始まる前の日の午後、営業デスクの殆どは出払っていた。

佐々木さんが、隅の大吾の所へ来て

「神野さん、お休みが沢山あるけど、予定詰まってる?」

この頃 三学年になった大吾は、生徒会の役員をしており それなりに多忙であったが

「いいえ。予定と云うほどの物は、有りませんけど」

「良かったぁ、それじゃ明日の祭日、私に付き合って下さらない? この間のお礼がしたいの。

 神野さんに手伝ってもらった会議の資料、課長から えらい褒められたんです。

 勿論、神野さんにも手伝ってもらいましと云ったわよ」

「ほーぅ、そうですか。良かったじゃないですか。

 明日別に何もないですから お付き合いさせて頂きますよ」

「それじゃ私 阪急西宮やから 梅田辺りで待ち合わせ良いですか?」

「分かりました、梅田の何処でお待ちしましょうか? 阪急の一番前の改札出たとこで如何ですか?」

「ええ、有難う。お願いします」

佐々木さんは、浮き浮きした様子で自分の席に戻り 大吾の顔を見て にっこりと微笑んだ。

大吾は内心で 四つ年上からの誘惑かと満更でもなかった。

彼女は、美人ではなかったが、十人並みで 背が高くスタイルが良かった。

そして性格が明るく はきはきしていたので大吾は嫌いではなかった。

すぐ近くの三好さんが、羨ましそうに二人の会話を聞いていた。

佐々木さんが手洗いにでも行ったのだろう 席を外した時、彼は椅子を滑らせて

「三好さん、今度 君に何か奢るからその時付き合ってや。

 あのお姉さんには、内緒やで」と云った。

彼女の顔はたちまち明るくなり

「待ってます。早く声を掛けてください」

と云って素早くメモに自宅の電話番号を書いて大吾に渡した。

大吾は、メモを受け取り目の前にちょっと捧げポケットに仕舞い込んだ。

そして、この()案外やなと思ったが、むしろ可愛いさの方が先に立った。


翌日の祭日午前十一時 大吾は、約束の待ち合わせ場所に出向いた。

彼女は、リバティー花柄のシフォンブラウスに クリーム色のスカート、頭にストローハットと云ういでたちで、手を振りながらやって来た。

結構お洒落で、やや大柄な彼女に良く似合っていた。

大吾は、何時ものラングラーのジーンズに薄いセーター姿である。

彼は、このジーンズを愛用していたが、この時代ではまだ珍しく、比較的高価なものであった。

しかし、会社や学校に行くときは、地味な身なりであった。

改札の手前で彼を見た時 彼女は、一瞬戸惑った。

着ているものから神野君で無いと思ったが、よく見ると彼だった。

「待ちはりました?」

「いいや、僕も今来たとこです」

「そやけど、神野さん、最初は見間違えてしもうたんよ。恰好ええもん着てはるから」

「そんな事無いです。佐々木さんのリバティーのブラウスも素敵ですよ」

彼女は内心身につけた女物を言い当てた彼に驚かされた。

「お食事まだ少し早いし、喫茶店で座りません。あなたとお話したい」

「そうですね、そうしましょうか」

「何処が良いかしら、百貨店は、人が多くて 混んでるやろうし」

「一寸歩きますけど、東通りに()え喫茶店沢山あると思いますよ。行きますか?」

「ええ、案内してくれはる。あたし百貨店の周りしか知らないの」

大吾は、東通りの白馬車へ彼女を連れて行った。

店内は、祭日なので混み合っていたが、うまい具合に壁際に座っていたアベックが立ち上がり 空いた席に向かい合って座った。

佐々木さんが、ストローハットを取り 頭を振ると 良く手入れされた長い髪が肩に零れ落ちた。

大吾は、美しいと思った。

「神野さん、そんなに見ないでよ。恥ずかしいやんか」

「いいや、綺麗なぁ。いや美しい。見とれてしもうたんですわ」

「あなた、口お上手」

「ほんまですて、お世辞や無いですよ」

「でも 有難う。あたし あなたに褒められて嬉しい」

彼女にしては珍しい はにかんだ笑いを見せた。

大吾は珈琲を飲み 彼女は、紅茶を飲んだ。

「神野さん、うーん、どうも馴染まないなぁ。大吾さんて 呼んでもかまへん?」

「いいですよ。それじゃ僕も静香さんて呼ばせてもらいます。

 うん、お互いに この方が良えみたいですね」

「そうよ、大吾さん」

二人は顔を見合わせて笑った。

「ところで、大吾さんは何処に住んではるの?」

「僕ですか、上六の近くです」

「それじゃ、学校にも近いし便利ね」

「ええ、丁度おふくろの勤め先にも近いんで、一昨年(おとどし)に越してきて二人暮らしですわ」

「あたしは、西宮。兄弟三人と両親の五人暮らし。あたし長女よ」

「それは、羨ましい。家族仲睦まじく一緒に暮らしているなんて」

「仲睦まじいなんて、親はうるさいし兄弟げんかばかりよ」

「それはそれ、うちは、親父居らんし、姉は結婚して出て行きましたんで ちょっと寂しいかな」

「お姉さん居てはったんですか、じゃぁ、姉弟お二人」

「そうです。姉は商社で英文タイピストしていて、同じ会社の営業マンと社内結婚、今高槻の方に住んで ますわ」

「ヘェー商社の方と。あたしの父も商社よ。近藤忠の総務課長」

「それは、凄い、前途洋々たる会社やないですか」

「そうなんですか? 父親は、俺の会社 くっついたり離れたり 何時に成ったらしゃんとすんのやろか と こぼしてばっかり。

 屋台骨は古いけど 会社としては まだ十年も経ってへん 云うてましたわ」

「それは、戦争の所為で どの会社も似たり寄ったりでしょう。

 それでも今藤忠さん 今物凄い馬力と違います?

 それに瀬島---いや、ともかく大成長している会社ですよ。

 親父さん良えとこに 居てはるやないですか」

大吾は、うっかり過去の人生の知識を漏らしかけて 内心慌てたが、静香は全く気が付いていなかった。

静香は自分には よく分からないが、まだ高校生の大吾の知識に驚いた。

この前の課長のガリ版の件と云い 今の知識と云い底の知れないものを感じる一方 彼のインテリジェンスに強く惹かれるものを感じた。

「ところで 大吾さんは、何で山三へ応募しはったんですか。偶々(たまたま)?」

「まぁ偶々かな、それと証券投資に興味が有ったもんで、友人にそんな話して居たら 長尾さんのことが 出て、山三聞いてみると云う事からですわ」

「ああ、長尾さんね。あの時課長 長尾さんの事えらい溢してはりました。

 あいつ 急に止めやがって云うて。

 ところが大吾さんを採用することになって、如何や、後釜直ぐええの見つけたやろ 云うて得意がって はりました」

「ヘェーそうですか」彼はこの話は、さらっと流すことにした。

「しかし、大吾さん 今高三でしょう。今から株の投資に興味持ってはりますの?」

「今から言うても あと二年もせんうちに社会人ですわ。

 大学行く気はありませんので 卒業したら しっかり働かなあきませんやろ。

 まぁ本番前の勉強や思うてます」

大吾は、彼女とこんな世間話みたいな事をしていても これ以上無駄だと思った。

彼女の父親が、近藤忠に居る事だけは、頭に刻み込んだ。

目の前の静香には、女としての関心しか残らなかった。

「静香さん そろそろお店も空いて来た頃やと思うし 食事に行きましょうか」

「ほんまや、うち大吾さんとの話に夢中になって お礼の食事忘れるとこやったわ」

「お礼やなんて いいですよ。僕が良いとこ案内しますよ」

彼は、御初天神通りを東の横道へ入った 串カツ店へ静香を伴った。

前の人生で良く知っていた店の本店である。

この会社の経歴書を作った事が有り この時期に此処が本店で有る事をよく覚えていた。

多分大吾の知っている社長ではなく先代が、店にいるはずだと思い大いに興味が有った。

店の佇まいは、以前と一緒であったが、全てがまだ新しかった。

大吾と同じくらいの年ごろの二代目となる息子は、店に出ていなかった。

串カツの種類は、まだ少なかったが 久しぶりに口にして 懐かしい味わいが戻ってきた。

大吾は、二代目店主との事を思い出していた。

静香は、再び いや何度大吾に驚かされたか分からない。

「大吾さんて 不思議な人、どうしてこんな店知ってはるの?」

「うん、知り合いの友達の友達から聞いたのかな。忘れちゃったよ」

彼は、静香が気を悪くしない程度に冗談めかして言った。

静香はその時 大吾の瞳が霞んでいるように見えた。

大吾は、店に入ってから、次第に口数が少なくなっていた。

「大吾さん、どないかしやはった?」

「いいや、御免、一寸考え事してたもんやから、ごめん」

彼は笑顔に戻し

「串カツ美味しい?」と話題をそらした。

「ええ、とっても、ほんまに美味しい、あたしこんなの初めて。

 父に大吾さんの事 自慢して目開かせてやる」と云った。

どうも静香は、父親の事をあまり尊敬していないらしいと彼は思った。

「親父さんと僕、関係ないやないですか。

 親父さん大事にして、串カツ食べに 此処へ連れてきてあげたら? 

 親父さん喜びはると思うけどなぁ」

静香は、彼に嗜められたと感じた。

「ほんま、大吾さんの云う通りかもしれへん。

 会社終わったら 父と一緒に来るのも良えなぁ」と云った。

そして、この人は、自分より遥かに人間が出来ていると感心した。

押し問答の末 勘定は、静香に払ってもらうことにした。

静香は、充分納得した。店を出ると

「静香さん ご馳走様。今日は静香さんと一緒で楽しかったです。

 阪急のとこまで送ります。僕も梅田から地下鉄で難波へ出ますから」

静香は、もう少し彼と一緒に居たかったが、大吾が先に切り出したので 従うより仕方がなかった。

大吾は、早く帰りたくなっていた。

静香は、決して悪い人間でも 嫌な人間でもなかったが、話していて彼の心に染み入るようなものは、何も感じなかった。


自宅へ戻った大吾は、静香との事で充実感がなく落ち着かなかった。

そして、約束していた三好君を食事に誘ってやろうと思った。

今の大吾には、彼女に妹のような気持ちが芽生えていた。

もっと深く掘り下げれば、娘のような気持ちだったかも知れない。

大吾は、彼女がくれたメモを取り出して早速電話を掛けた。

しかし母親らしい人の声で 彼女は、友達と出かけているとの事だった。

彼は、自分の電話番号と名前を伝えて電話を切った。

ベッドに転がりレコードを聴いていると 暫くしてダイニングに置いてある電話が鳴った。

受話器を取ると三好君だった。

名前は、郁子だと知っていた。

「神野さんですか、私三好です。お電話頂き出かけて居りましたので 済みませんでした」

「いやぁ、ごめんね。

 実は、この前約束してた郁子さんとの食事の件 明後日(あさって)の日曜日にどうかと思って」

「えっ、本当ですか。ほんとに神野さんが、食事に連れて下さるんですか。

 嬉しい。嘘や無いですね」

「なんで、郁ちゃんに嘘云うもんか、約束してたやんか。日にちOK?」

郁子は、郁ちゃんと云う彼の親しげな呼びかけが、とっても嬉しかった。

「はい、勿論OKです」 

「郁ちゃんは、住まい何処?」 

「私、今里の近くです」 

「それやったら、上六で待ち合わせ ええかな」 

「はい、OKです」 

「時間は、お昼ごはんやから 十一時半 どう?」 

「はい、OKです」 

「じゃぁ、僕がその時間に 上六の市電の停留所で待って居るから。

 お昼ごはんやから、お腹空かしておいでよ」

「はい、分かりました。最後にいいですか?」 

「なに?郁ちゃん」 

「はい、神野さん、約束憶えて居て下さって有難うございます。

 本当に嬉しいです。では、電話切らせていただきます」

受話器を置いて大吾は、一遍に気持ちが軽くなった。

郁ちゃんの声は、若々しく、明るく 気持ちが良かった。

声には、会社での弱々しさは無く、はきはきして力強かった。


翌日の土曜日に出勤すると先に来て 机を拭いていた郁ちゃんが、零れるような笑顔を大吾に向けて

「お早うございます」と元気よく挨拶をした。

「いやぁ、お早う」彼も微笑み返した。

暫くして静香が出勤してきた。

彼女は、大吾に にこやかに笑いかけながら

「神野さん、お早う。昨日は、おおきに。また宜しくね」

と意味ありげな視線を送った。

郁子は、何故か どきっとして顔を曇らせた。

大吾の方を見ると、手にしていた書類から目を上げて

「ああ、佐々木さん、お早うございます。どうってことないですわ」

と云ってまた書類に目を落とした。

郁子は、自分より年上の二人の関係が気になった。

その日の午前中、ずっと 気持ちが重く落ち着かなかった。

大吾は、そんな郁子を見て

「こらぁっ、元気出せ」

と郁子をにらんだ。

その眼は笑っていた。

郁子は弱々しく微笑み返した。

その日は、土曜日、半ドンだった。

「三好さん、方角いっしょやろ、一緒に帰ろうか」

と大吾が声を掛けた。

郁子は、ぴょこんと立ち上がって

「はい、お願いします」

と手を前に揃えて丁寧に頭を下げた。

「何よ、三好さん。先生に挨拶してる見たい」

と佐々木さんが、声を立てて笑った。

郁子は、佐々木先輩に

「はい、私の先生です」

と何時になく 彼女は、はっきりと応えた。

大吾と郁ちゃんは、北浜から市電に乗り帰路に就いた。

物も言わずに吊革にぶら下がり外を見ている多感な少女の郁子を見て 大吾は抱きしめてやりたい愛おしさを感じた。

郁子が、大吾の視線に気が付いて顔を彼の方に向けると

「郁ちゃん、上六で降りない?喫茶店に行こう」

郁子は素直に

「はい」と答えた。

喫茶店は、何時も高坂と一緒の時に使うパーラーである。

郁子は、テーブルの珈琲を前に姿勢を正して両手を揃えて座っていた。

「珈琲が冷めちゃうよ。飲んじゃったら」 

「はい 頂きます」 

大吾には、少女の頭の中と気持ちがよく分かっていた。

「郁ちゃん、両手出してみて」

大吾はその手を優しく包み込んで

「もっと肩の力を抜いて、目瞑って。二十まで数えたら目を開けて」

郁子は、云われた通り素直に目を閉じ 唇を動かして数えはじめた。

郁ちゃんの手は、小さくて、白く柔らかかった。

郁子が目を開けると 優しい大吾の顔が、自分を見ていた。

郁子は 微笑み返した。 

「どう、気持ち落ち着いた?楽になったかい?」 

郁子は こっくりと頷いた。

目を閉じて数を数えながら郁子は、彼の手に包まれて、とっても良い気持ちだった。

ずっとこうして居て欲しかった。

大吾の優しさが、染み入るように伝わってきた。

彼は、優しく語りかけた。

「郁ちゃん、佐々木さんとは、別に何にもないよ。これからもね。分かった?」

郁子は、こっくりと頷いた。

「さぁ、今日はもうお帰り、僕は、夕方から学校だから。

 明日の日曜日 ゆっくりしようや。僕の家は、この近くだから停留所まで送るよ」

彼は、郁ちゃんを市電に乗せて見送った。

窓から郁子が、笑顔で手を振っていた。

大吾は仄々とした気持ちでアパートに戻った。


郁子は、自分の部屋の机に向かって座り 大吾が包んでくれた両手を合わせて そっと口元に当て目を瞑った。

大吾の暖かさが甦って来た。

「神野のお兄さん、好き」と呟いた。

夕飯の時 家族で食卓を囲み何時になく郁子は、饒舌だった。

母親の木綿子(ゆうこ)

「郁、何や お前今日は、ようしゃべるなぁ。何かええ事あったんか?」

父親も郁子を見て

「お前 ええ人出来たか?」と云った。

「当たりー」

と云って父親を見て

「やっぱりお父ちゃんや、鋭いなぁ」

「何言いやがんね、色気づきやがって」

とぞんざいな口調で父親は、箸で小突く真似をしながら言った。

内心、悪い虫で無かったらと気がかりだった。

中学三年生になる弟が

「姉ぇちゃん、どんな人?会社の人?男前?」

と矢継ぎ早に聞いた。

「英樹に云いとうないけど 教えてあげる」

そして、大吾の事を掻い摘んで話した。

「お姉ちゃん 僕にも会わせてや。僕の兄貴に成る人やろ」

「そうなったらええけど、そんなん まだ分からへん」

聞いていた、父母は、まぁまぁな人らしいと思ったが、まだ二人とも若いし これから先 どうなるか分からないとも考えた。

母親の木綿子は、今の夫と結婚する前に自分の前から去った好きだった人の事を はしなくも思いだし、娘がそうならなければいいのにと思った。

郁子は

「そうやなぁ、英樹のお兄さんに成ったら 良えなぁ。そうなったら良えなぁ」

と箸の先を口にして目を遠くにして云った。

郁子の家は、四人家族だった。

父親は、区役所務めの公務員で 妻の木綿子とは見合い結婚だったが、彼は充分満足しており 幸せだった。


翌朝、郁子は早く目が覚めた。

外は天気が良く郁子は、カーテンを引き 窓を開けた。

隣で布団を並べて寝ていた弟が

「何やねん、姉ちゃん。今日は会社休みやろ、もっと静かにしてや、もう」

と云って頭から布団を引っ被り寝てしまった。

郁子は、開け放った窓から向かいの屋根越しに五月の晴れ渡った空を眺め 思い切り身体を伸ばした。

大吾に会える喜びで身体が浮き立っていた。

下の部屋に降りると母が、台所で立ち働いていた。

「郁、会社休みなんやろ もっと寝てたらええのに」

「うん、お母ちゃん、休みやけど今日は、神野さんと お昼ごはん食べに行くの。目が覚めてしもぅた」

「まぁ、まぁ この()、朝っぱらから嬉しそうな顔して。そんでやな」

娘の胸が幸せそうに膨らんでいるのを感じ 自分も嬉しくなった。

娘が昨夜話した神野君の事を自分なりにイメージし 昔の好きだった人と重ねていた。

今の娘より一つほど上の二十歳の頃だった。

あれから 二十五年が過ぎていた。

その人への想いは、何時も彼女の胸の奥にあった。

「郁ちゃん、慌てたらあかんよ、あんた達はまだ若いんやから。

 永くお付き会いできるように お母ちゃん祈ってるで」

何時になく しみじみとした母の言葉に郁子は、思わず

「はい」と応えていた。

郁子は、ポニーテールの髪を茶色の細身のリボンで縛り 七分袖の淡いグリーンのブラウスに ゆったりと裾の広がった白いスカートを履いた。

姿見の前で横を向き 後ろを向き 首を捻って自分の姿を眺めた。

手にエナメルのグリーンのベルトと 生なりのベルトを持ってどっちにするか迷っていた。

母親が

「郁、早うせんと約束の時間に間にあわへんで 最初から神野さん待たせたらどないなるんや」 

「そやかて お母ちゃん---これどっちにしたら良え?」

「きなり、きなりのベルトにし。ほんで髪を同じ きなりのリボンで縛り。

 迷った時は自然がよろしい」

「えらいこっちゃ、急がんと 遅れそう」

と云ってバタバタと玄関わきの下駄箱からつま先だけを丸く白のビニールをあしらった、ズックのフラットシューズを取り出して足を入れて飛び出していった。

後ろから

「気いつけて行きやぁ」と母の声が背中を押した。

食卓に座った父親は、広げた新聞を手に 眼鏡越しに娘の後姿を追っていた。

郁子は、小走りに今里の市電の停留所に向かい発車間際の電車に飛び乗った。

車内は始発駅なので空いていた。

座席に座った彼女は、走ったのと すぐ大吾に会えるのとで 胸がドキドキと波打っていた。

上六へは、直ぐに着いてしまった。

大吾が目ざとく彼女を見つけて手を振っていた。

「郁ちゃん、どないしたんや、鼻の頭に汗かいて」 

「遅れそうやったんで、慌てて。ああ、良かった。うち遅れへんかったよね」

「うん、大丈夫。別に遅れても どうって事ないのに、郁ちゃんらしいなぁ」

と云って笑った。

郁子の目には、その笑顔が とっても優しく素敵に見えた。

「さぁ、郁ちゃん お昼ご飯食べに行くよ。安くて、美味しいところが有るからね。

 郁ちゃんも きっと気に入ると思う」

「何処?」

「千日前、ひょっとしたら郁ちゃんも知ってるかもしれないなぁ」

「いいえ、あたし未だ千日前で ご飯食べた事無いんです」

二人は、次にやって来た市電に乗り千日前に向かった。

大吾は、アシベ会館裏に有る かやくめし“だるま”に郁ちゃんを連れて行った。

此処は、過去の人生で大吾がよく利用した処だった。

アシベ会館の上を見上げると窓に公宣のサインが有った。

過去の人生では、あと二年後に 此の会社で仕事を始めていた。

昼時で “だるま”は立て込んでいた。

「郁ちゃん、此処のかやくめしは有名やで」

「凄いですねぇ、神野さんのお兄さん 何でもよう知ってはるみたい」

「まぁな、それよりあそこのショーケースで好きなおかず選ぼうや」

「へぇー、そんなん出来るんですか」

大吾は、先に立ってショーケースの処に行った。

そして、鯛の子とえんどう豆の卵とじを取った。

「郁ちゃん 好きなもの二、三品取ったら?」

「いいですか、美味しそう」

彼女は、鯖の味噌煮と小芋の薄味煮つけを取った。

席に戻ると程なく かやくめしと おみおつけが運ばれてきた。

郁ちゃんは、時々大吾に目をやりながら、如何(いか)にもおいしそうに食べた。

そして「あたし、今度お給料もらったら このお店に、お母さん連れてきます。きっと喜ぶと思います」

食後“だるま”の並びにあるカウンターだけの喫茶店に入った。

後の珈琲専門店である。

此処も過去の人生で良く来たことが有った。

まだその頃の顔見知ったウェイトレスは居なかった。

後一、二年すれば彼女たちもここで働くことになるのだろうと思った。

郁ちゃんは、年上の兄に師事するが如く慎ましくコーヒーを飲んだ。

大吾はタバコが吸いたかったが、まだ 高校生なので我慢していた。

大吾は、過去において 二年後から利用することになった店内を感慨深げに見回した。


郁ちゃんと別れ上六で市電を降りた大吾は、仄々とした満ち足りた気分だった。

腕時計を見ると三時前だった。日曜日で母も家に居る筈だった。

彼は、母に電話をした。

「母さん、夕飯の支度未だやろ」

「大ちゃんか、晩ごはんの支度未だしてまへんけど、大っちゃん外で食べて来はんのと違うの?」

「いいや、もう直ぐ帰るけど、近鉄へ寄って 何か買って帰るわ。

 母さん休みやから すき焼きでもしょうか」

「へぇー、大ちゃん買い物してくれはんの。嬉しいなぁ。

 ほんなら お願いして楽しみに待ってます」

大吾は、郁ちゃんとの仄々とした気持ちの侭 母親との電話を終えた。

大吾には、珍しい事であった。

考えて見れば 彼は、過去の人生では、母親にどちらかと云へば無関心であったと思った。

彼は、近鉄百貨店の地下の食品売り場で すき焼きの材料を買い、母の為に日本酒の小瓶も買った。

母親の加代は、久しぶりのすき焼きを 其れも大吾が、御馳走してくれた事に大層喜んだ。

すき焼きを突きながら

「母さん、今まで再婚する事考えた事無いの?」

「何でぇな、急にそんな事云いだしはって」

「そうやなぁ、僕ら子供二人抱えて出来るわけないわなぁ」

「あほな、結婚やなんて、もう おっさんで懲り懲りやわ」

母は、いなくなった父の事を おっさんと云っていた。

母は、日本酒で顔を赤らめながら笑った。

大吾が母に やはり女だと思ったのは、何時だったかフランスの男優ジェラール・フィリップが好きだと聞いたことが有った。

ずいぶん経ってから思い出したことであった。

母も身の内が、疼くことが有ったのであろう。


連休が終わって会社に出ると 郁ちゃんは、満面の笑みを浮かべ

「神野さん お早うございます。この間は、有難うございました」

と挨拶をした。

「三好さん お早う。又、今度旨いもの食べに行こうよ」

「ぜひよろしくお願いします。母に お店の事話したら ぜひ連れて行ってくれって云いました。

 それと神野さんに よくお礼云いなさいって云われました」

席に座っていた 佐々木さんが、気になる顔を向けて

「三好君 神野さんとランデブー?」

「いいえ、ランデブーなんかじゃありません。神野さんは、私のお兄さんです」

ときっぱり云った。

「お兄さんねぇ、どうだか。危ないもんやわ」

とやっかんだ。

書類を見ていた主任が 

「お前ら なに朝から ごちゃごちゃ言うとんね。早よ さっさと仕事せぇ」

と云うと

隣の席の岩本さんが 

「いよっ、主任が焼きもち妬いてまっせ」

と混ぜかえし

「三好ちゃん、もう神野に ほ の字か?」

「違います。神野さんは、私のお兄さんです」

と口を尖がらせて繰り返した。

大卒新入の芦田君が 

「ええなぁ、僕らにも すこしお裾分けして下さいよ、神野君」 

と云って 目を細め大吾を見た。

静香は、内心面白くなかった。

この前の別れ際、何となく大吾が冷たかったように感じていた。

此の事が有ってから、郁ちゃんは、誰憚る事無く 神野さんのお兄さんと云って 彼を慕った。


 大吾は休みの間 将来の投資に向けての貯えを 増やす手立てを色々と考えて見た。

以前の人生では、クラスが同じだった高瀬さんの親父さんのガリ版を手伝い 幾らかの小遣いを稼いだことを思い出した。

休みが明ければ高瀬さんにそれとなく話を持ちかけてみる事にした。

高瀬さんの家も貧しそうだった。

事のついでに 彼女の親父さんの仕事も拡大できる道を考えても良いと思った。

彼女の親父さんを表面に立て営業活動の方法を考えて見ることにした。

連休が明けてからの大吾は、気分を一新して山三證券の給仕の仕事に精を出した。

自分の所属する営業部の情報整理を自分なりに考え、いつでも即座に使えるように組み立てた。

以前の人生でのパソコンの検索システムを上手く取り込んでインデックスファイルを作った。

課長に提案すると 課長はそれを部長に話した。

部長は

「神野君に 儂に説明させてくれるか」

と課長に指示を与えた。

部長の席にやってきた大吾が、概要を説明し終えると

「君、中々やるやないか。今日からしょうもない雑用やめて これに専念してくれるか。どうや?」

「はぁ、何処までの事が出来るか分かりませんけど、頑張ってみます」

と応え、部長直属の給仕兼 情報整理係となった。

七月の賞与の時には、一般社員の事務職並みとは行かなかったが、金一封三千円が支給された。

部長の計らいで有った。

金の事も助かったが、この仕事は、大吾にとっては宝の山を引き当てたようなもので、彼の知識に大いに役立つ事になった。

大吾は、自分が知っている 将来の成長株に注目しながら 別のファイルを自分用に作った。

大手企業は、誰もが注目していたので 現在芽の出ていない 大吾が、過去の人生で知っていた銘柄を注意深く見守った。


休み明けの学校に行くと 大吾は、高瀬さんに四方山話のついでの様に

「君のとこ、お(うち)は、どんな仕事してはるんですか?」

「うちとこ?うちとこは、大した事してへんわよ。

 お父ちゃんが、小学校の文集なんか引き受けてガリ版印刷やってる程度」

「へぇー、学校もガリ版の外注するんですか。

 それやったら、僕もガリ版得意やから 何処か学校探してアルバイトしてみようかな」

「ふぅーん、神野さんガリ版得意なんですか。

 それやったら、お父ちゃんに話して神野さんに回せる仕事ないか聞いてみるわ」

とこんな風で 高瀬さんの親父さんが、仕事を回してくれる事になった。

大吾は、高瀬さんの親父さんも大した仕事量で無いと思ったので 彼にチラシをつくり 近くの小学校、中学校に配布することを提案した。

親父さんは、自分達の手に余る仕事が来たらと心配そうだったが、受注が多くなれば その時に考えればよいと思った。

又、郁ちゃんの親父さんが区役所勤めだと聞いていたので 彼女にも頼んでみた。

自分のことでなく、クラスの友人の父親の事としてである。

結果的には、二人で手に負えない仕事量になり外注スタッフを集め仕事を捌くことになった。

高瀬さんの家の玄関引き戸の上に、高瀬謄写印刷所の板看板が架かった。


この頃、大吾の生徒会活動も忙しくなりかけていた時期である。

高坂から三学年の生徒会役員立候補の話が有ったのは、二学年が終わった春休みの終わりであったが、大吾にとっては既に経験していた事であった。

生徒会活動そのものは、今の自分にとって 意味が有る事のように思えなかったが、一学年下の金谷真希さんとの再会(大吾にとっては再会でも、彼女にとっては、初めての出会いである)を考え引き受けることにした。

立候補の結果、以前と同じメンバーが当選を果たした。

会長は、山本、副会長は高坂、書記は今村、そして総務部長が大吾で、彼以外は、高坂のクラスの人間である。


 この1960年は、日米安保で国中が沸騰した多難な年であった。

六月十五日の国会前デモで東大の樺美智子さんが死亡し 十月には、社会党委員長の浅沼稲次郎が、刺殺されるテロ事件が起きている。

高津高校も日米安保に反対するデモに参加し 生徒会執行部が先導したが、何事もなく終わる事を大吾は知っていた。

生徒会活動での大吾は、控えめにしていたにも拘らず その言動から何時しか中心的存在になり注目を集めた。

金谷真希さんは、同クラスの松村享蔵君とボランティアとして生徒会活動に参加し、大吾を憧れの気持ちで眺めていた。

彼女との以前の関係は、大吾にとって反省することが沢山あった。

何れにせよ今回も彼女との仲立ちは、高坂に頼む事に決めていた。


生徒会活動では、書記の今村が、大定連(大阪府定時制高校連合)の間を忙しく動き回っていた。

彼は、E組の左翼がかった浅野ほか数名のメンバーを引き込んでいた。

大定連は 1959年に結成された日米安保改定阻止国民会議の学生団体と歩調を合わせることになった。

生徒会執行部が開かれ 今村は、浅野ともう一名の社研部のメンバーを出席させた。

今村は、安保改定阻止国民会議の趣旨を浅野に説明させた後、今村の口から大定連の方針を報告した。

今日の会長山本は、しか詰めらしい顔で聞き入っており、今村の報告が終わると 

「神野君 どうやな」

と大吾に意見を求めた。

大吾は、過去の人生で自分たちには、何も起こらない事が分かっていたので

「大定連の方針に沿って動かなければいかんのと違いますか」

と応えた。

積極的でも消極的でもなかった。

「副会長は?」

山本から名指された高坂は、緊張したときの彼の癖で 鼻の横の筋肉をひくひくと痙攣させながら

「僕も神野と同じ意見です」と答えた。

高坂には、このような問題に対する定見はなかった。

会長は厳かな調子で

「それでは、今村君の報告にそって 我々も大定連と行動を共にすることに決定し、指導主事に伝えることにします」

と宣言した。

指導主事への報告は、執行部役員全員で出向くことになった。

職員室に最終授業が終わり直ぐ出向くと 大方の教師は帰り支度を始めていたが、大柄なしかつめらしい顔をした山本を先頭に四人の生徒会役員が、指導主事の席向かうのを何事かと見守って居た。

指導主事は、ずんぐりとした丸っこい体躯で、座っていた席で(つや)良く禿げ上がった頭を ピカピカと照り輝かせ、金縁の眼鏡越しに大柄な山本とその後に続く生徒たちを見上げ回した。

山本の報告を聞き

「ああ、そうですか、よく分かりました。校長にも報告します。

 くれぐれも皆なが、暴走する事の無い様に注意してください」

と釘を刺した。

指導主事は、後に続く三人の生徒の顔を順に見た。

副会長は緊張して鼻の横の筋肉を引く尽かせていた。

書記の今村は、好戦的な目で彼を見返していた。

大吾は、すこし後ろに穏やかな顔をして彼の顔を見ていた。

指導主事は、大吾を見て内心ほっとした。

心の何処かで彼を恐れていたのである。

大吾が、彼の顔を見て頷いたように思った。

大吾は、さぞかし主事さん びびっとるやろうなぁと内心可笑しかった。

その後の全校生徒会では、今村、浅野達と社研クラブを除いて 大方の生徒は、押しなべて関心が薄かったが、時の流れに押し流された。

四年生の一人の生徒から 定時制の我々は、勉学を優先すべきだとの意見が出されたが、後に続いて発言するものは居なかった。

彼は、大学受験を控えたこの年、余分なことに時間を取られたくなかった。

大吾は、内容はともかく勇気が有ると思った。

向中と云って成績優秀な生徒であった。

大吾は、先の人生の記憶と全く同じことが起きる事が可笑しかった。

そして変わったのは、自分だけかと思い起こした。

しかし、以前にガリ版のアルバイトをさせて貰った高瀬さん一家は、変わりつつあった。

高瀬さんの弟も この学校の一年生として入学しており 家の仕事を手伝っていた。

大吾は、高瀬さん一家に意識的に働きかけた。

それは、彼の記憶に有った一家の貧しさと、父親と高瀬さんの純真で真面目な人柄に心を動かされたからである。


安保問題に関して大吾は、今村に先導される執行部の意見に従った。

大吾から積極的に発言することは、殆どなかった。

皆は大吾の事を文化活動は好きだが 社会的な事は、関心が薄いのだろうと思っていた。

大吾は、何も問題が起こらない事を知っていたから 流れに沿って居ただけである。

今村は、自分を立てて呉れて居ると考えていたが、もっと大吾に強い意見を述べて欲しい不満は有った。

六月十五日に国会前のデモで樺美智子さんが、亡くなった。

数日後 執行部は、二時限目以降の授業を放棄し 全校生徒集会に切り替える事にした。

手分けして全校クラスに執行部役員が出向いて趣旨を手短く説明する事になった。

大吾は、四学年を担当した。

大吾は、四学年の進学二クラスの生徒たちの殆どは、参加したくないだろうと思った。

クラスに出向き入口を入ったところで教壇に立つ教師に向かい

「失礼します」と声を掛け、丁寧に一礼して

「只今から、授業を放棄し 全校生徒集会に切り替えます。講堂に集まってください。

 勉強が忙しく賛成出来ない方もいると思いますが、よろしくお願いします」

と丁寧に穏やかな言葉で説明して、教壇の教師に頭を下げた。

教員室に戻った教師達も 止むを得ないものと思っていたが、今村が向かった、二学年の教師たちは、憮然として不満を漏らしていた。

二、三の年配の教師が

「一体、どうなっているんですか」

と指導主事の席に詰め寄る一幕もあった。

授業がなく時間の出来た教師たちは、タバコを吸いながら雑談を始めた。

四年生の教室で授業を進めていた教師が

「あの、神野君云う生徒 よう物の分かった、礼儀正しい生徒やなぁ」

と切り出した。

向かいの席の四年担当も

「あの君が、よく話に出る神野君か。話通りさすがやなぁ」

と相槌を打った。

隣の二年生担当が 

「そらぁ、あの書記の今村云うの えらい勢いで入ってきて頭越しや。

 (わし)、ビビってしもうたで」

と云った。

その隣に座っていた眼鏡を掛けた女性の藤田先生が 

「大丈夫よ、神野さんが、上手くやるわよ」

と云った。

斜向かいの隅の指導主事は、タバコをくゆらせながら 何食わぬ顔で耳を傾けていた。

そして秘かに頷いた。

それからしばらく、大吾の事が話題に上がった。

教師の中には、今の安保問題に対し同調する 過激な人物もいたが、総じて控えめだった。


生徒総会は、大定連の方針に従って二日後のデモ行進の参加を承認した。

デモ行進は、夕方から授業の代わりに校門を出て大阪城公園に集まり、市内に繰り出した。

事前に知らされていたので、四学年の進学クラスの大半が、その日欠席していた。

各学年にも欠席者はいたが、多くはなかった。

大吾は、先頭に立ち 竹竿で列を制しながら行進した。

道の要所には、機動隊が出張り、大吾の傍には、警察官が並んで歩いた。

その日のデモは、何事もなく無事終了した。

その後の執行部会でデモ参加には、全校でと云う意見が出されたが、大吾が珍しく 

「自由参加」の意見を述べた。

今村は、自由参加を不承不承認めた上、校長に掛け合いデモ参加者を 欠席扱いしないように掛けあう事を提案した。

学校裏にある校長宅に執行部四人が出向いた。

和服に着替えていた校長は、応接室に四人を招き入れ

「皆さん、御苦労さんです」

とまず労いの挨拶をした。

奥さんが、薄いカルピスを盆に載せ丁寧に挨拶をして引き下がると、今村が、激越な調子でデモ参加者を出席扱いするよう掛け合いだした。

校長は、渋面をつくりながら 職員会に掛けますと返答した。

職員会は、生徒たちが荒れる事を恐れ 出席扱いにすることを決定したが、その後夜間デモは、起こらなかった。

大吾は、此の件は終わった事を知っていたので 後は今村たちに放り投げ 自分の関わりの多い文化活動に専念した。


 高瀬謄写印刷所は、順調に稼働し始めた。

親父さんと弟だけでは手が回らず、高瀬さんも勤め先を辞め家の手伝いをする事になった。

高瀬さんの親父さんは、大吾のアドバイスに感謝したのは云うまでもなく、以降 大吾のアドバイスを仰ぐことが多くなった。

大吾にとっては、金に成らない事であったが高瀬家が、少しでも豊かになって行くことが嬉しかった。

大吾は、高瀬謄写印刷所から挿絵や装飾文字などの入った特殊なものを引き受けた。

大吾の原稿料は、文字だけの物に比べて実入りが良かった。

時には、挿絵だけを入れて文字は、他の外注先に渡してやることもあった。

大吾にすれば、アルバイトなので月に二、三千円稼げればよいと考えていた。

一方では、生徒会活動の多忙さも有り それぐらいの時間しか割けなかった。

大吾は、十一月の文化祭が終われば、生徒会活動を出来るだけ少なくしようと考えていた。

年が変われば、卒業文集や既に出入りを始めた 区役所等の地域内官公庁の受注で高瀬さん一家も自分も忙しくなると考えていた。




4 真希ちゃんとの再会


 生徒会活動にボランティアで参加している 金谷真希さんを目にした時 大吾は、懐かしさで胸が一杯になった。

自分は彼女の事を良く知っているが、彼女は、何も知らないと云う奇妙な感覚に囚われた。

安保デモが一段落した或る日 大吾は高坂と何時もの上六のパーラーで珈琲を飲みながら 金谷真希さんの事を切り出した。

「何時もボランティアで来てくれる金谷さん、可愛い()やなぁ」

「神野、お前 目付けてんのか?」

「まぁな、お前 国一緒でよう知ってるやろ。紹介してや」

「お安い御用や。あの()らも お前の事は、よう知ってるわ。

 お前中々人気あるで。任せとき話しする」

以前と同じように高坂が、提灯持ってくれる事になった。

大吾には結果が分かって居たので 手続きみたいなものである。

真希ちゃんとの再会の状況は、以前の人生の時と少し違っていたが、大吾は、彼女との関係を もっと大切にしょうと思っていた。

それから、一週間後の放課後 

「神野、喫茶店寄ろうか」

「うん、かまへんけど、何や」

「まぁ、喫茶店でのお楽しみ」

大吾は、早速高坂が真希ちゃんのOKを取った事を理解した。

上六のパーラーに座ると高坂は、居ずまいを正し

「神野、よう聞けよ。ええか」

勿体ぶって切り出した。

「金谷さんにお前の事 話したんや。

 ほんならな、真希ちゃん 吃驚してまさか、嘘や云いよんね。

 それから、おろおろし出して、どないしょう 困った、云いよんねや。

 何でや云うて聞いたら夢みたいで信じられへんやてぇ」

「へぇー、俺それ程のもんでもないのになぁ」

「そんな事あるかいな。あの()らからしたら、お前 雲の上の存在やで」

「まさか、俺らと二つか三つ歳違うだけやろ」

「それでもな、おれでも時々お前が、遥か先輩みたいに感じる事あるで。

 執行部会やクラブ活動してる時のお前 凄いからなぁ。

 時々三十超えた人みたいに思う事あるわ」

大吾は、内心気を付けなければと思いながらも つい

「寂しいなぁ」 

と本音を漏らした。

「何で寂しいんや、三十超えた おっさん云う、てるのとちゃうがな」

高坂には、大吾の寂しさの本当の意味は分からなかった。

大吾が漏らした言葉を冗談と受け取り茶化してしまった。

その事で大吾の寂しさは、一層深まった。

「それで、これからどないしたらええ?」

と高坂が聞いてきた。

大吾は、我に返り 

「ああ、そうや。これからなぁ」

「なんや、お前 せぇないなぁ。人が一生懸命頑張ったのに」

「すまん すまん。実はなぁ、俺も夢みたいや思うて、金谷さんの顔 思い浮かべてたんや」

「ふえぇー、これから先思いやられるわ。何やら俺あほみたい」

「まぁ、そう云わんと折角つけてくれた提灯や。最後まで消さんといてよ」

「分かってる、分かってる。最初のランデブーの段取りまでちゃんとするから 日取り決めて」

「うん、おおきに。ほんなら今日は、金曜日やろ。明後日(あさって)の日曜日 近鉄百貨店の前で 午後一時で どうか聞いてくれる?」

「OK、任せとき。明日直ぐ話しするから 終わったらお前に云うわ。待ち合わせは俺抜きやで」

「そらそうやろ。お前居ったら もう邪魔や」

「ああーぁ。しょうもなっ」

こんな具合に話はついてしまった。

前回は、原水禁のカンパなどで八月の終わる頃であった。

今回は、一ヶ月半程早く真希ちゃんとの事がやって来た。

大吾の懐は暖かかった。

入社してまだ僅かではあったが、七月の初めに山一證券の初めての賞与 金一封が入って来ていた。


 約束の日曜日の午後一時 真希ちゃんは、二十歳を過ぎたと思われる女性と連れ立って現れた。

大吾の記憶に有った彼女の姉である。

往年の女優嵯峨美智子に顔立ちが似た、スタイルの良い女性だった。

肩も顕な裾の広がった白いワンピース、白のサンダル姿である。

ヘヤ―スタイルは、流行(はやり)の大きく盛り上がったショートカットである。

大吾は一瞬がっかりしたが、まぁ、ええかと思い直し 先に姉の方に頭を下げた。

真希ちゃんは、学校の白い襟のついたブラウスの上に黒のベスト、女学生用の折襞の付いたスカートに黒いビニールのフラットシューズ姿で恥ずかしそうに、もじもじしていた。

「神野君、姉の淑子です。貴男の事は真希から お話良く伺ってるわよ。

 どうか宜しくね。私用事が有るので これから市電に乗るから」

とそれなりに年齢を意識した上から目線である。

大吾は、内心むっとしたが、顔に出ることはなく、落ち着いて

「どうも 初めまして、神野大吾と申します」

と挨拶した。

姉の淑子は、悪げのない笑顔で 

「じゃぁ、これで失礼ね」

と云って道路を渡り市電の停留所へ歩いて行った。

大吾は、後姿を見ながら、良い女だと思った。

真希ちゃんは、がちがちに緊張していた。

「神野さん、済みません、姉と一緒で。

 姉が出がけに用事が有るから、ついでがてら一目神野さんを見たい云わはって。

 気い悪うしはったんや無いですか?」

「ううーん、少しも。お姉さん、金谷さんと似て美人やなぁ」

真希は、自分も褒められたようで嬉しかったが、大吾の姉に対する言葉に嫉妬が湧いた。

大吾は、そんな微妙さを直ぐ汲み取って

「真希さんの家系は、美人の筋かな」

と話題を広げた。

真希は、名前を呼ばれたことで大吾を身近に感じた。

「ごめんね、今日の誘いは、迷惑じゃなかった?僕も初めての事なので 一寸上がってるかもしれへん」

と嘘をついた。

内心十九歳の少年に帰れと自分を戒めた。

真希ちゃんを前にすると 曾ての初々しい自分が甦って来たように感じられた。

確かに口の中が乾いているようだった。

彼女の方は、もっとに違いない。

今日の大吾は、ジーパン、何時ものバスケットシューズで半袖の薄手のサマーセーターを着ていた。

真希ちゃんのいでたちの所為で、二人は誰が見ても高校生だった。

大吾は一瞬、これじゃ何処へも行けないなぁ、と思ったが

「真希さん、お昼ごはん食べた?」

「朝が遅かったんで まだです」

「そぉかぁ、それじゃ、百貨店の大食堂へ行こうか」

「はい」

彼女は言葉少なだったが、大吾は無理もないと思った。

すぐに彼女の少し甘えっぽい言葉と 八重歯を覗かせた笑顔が帰って来るだろうと思った。

近鉄百貨店の大食堂は、八階にあった。

真希ちゃんは、ずっと黙ったまま大吾の後からついて来た。

日曜日でフロアは、家族連れで込み合っていた。

少し列が出来て順番待ちであったが、別に急ぐ事もなかったので、並んで待つことにした。

待っている間にサンプルケースの前で

「真希さんは何食べたい?好きなもの決めて」

「神野さんにお任せします」

「勘定は、僕やから 。一寸ボーナス入ったとこやし遠慮せんといてや」

大吾は、出来るだけ大阪弁で砕けた調子で喋るように心がけた。

真希ちゃんは、迷っている風だった。

結局、大吾の勧めでエビフライランチとクリームソーダー。

大吾は飲み物を珈琲に替えて注文することにした。

順番が回ってきて二人は、外の見える窓側の席に並んで腰かけることになった。

向かい合って品の良い年輩の夫婦客と相席である。

相客の食事は、終わりに差し掛かっていた。

暫くして男性の方は、食後のタバコをゆっくりと吹かしながら 料理が運ばれてくるのを待つ前に座った学生風の二人を見やっていた。

食事を終えた初老の婦人が、お茶を飲みながら

「お二人は、学生さんですか?」と声を掛けてきた。

男性の方は、少し訝しげであった。

「はい そうですが。近くの高津高校の定時制に通っております。

 今日は、仕事も学校も休みなもんですから クラスメイトと食事に来ました」

大吾は初老の夫婦の考えている事が分っていたので有りの侭を丁寧に答えた。

「ほーぅ、夜学に通うてはりまんのか、高津高校の。偉いなぁ」

年輩の男性が、始めて納得したように表情を緩めた。

「これは、奇縁じゃなぁ。

 実は、わしも旧制の府立中学の出や。今の高津高校やがな。

 戦争のずっと前の昔のこっちゃけど。

 こんな所で後輩に会えるなんて嬉しいなぁ。それも夜学の苦学生や。なぁ、お母ちゃん」

と傍らの婦人に向かって語りかけた。

婦人も先ほどからの会話と 臆する事のない大吾の折り目正しい言葉使いを好ましく思い柔和な顔つきで頷いて

「昼のお仕事と夜の勉強 大変でっしゃろなぁ」と気遣いを現した。

「いいえ、それ程でも有りません。楽な仕事をしてますから」

「そおぅ、お勤めは?」

「はい、山三證券で給仕をしております」

「ほーぉ、一流会社や。山三證券は、今や証券界の雄や」

大吾の就職先が、先輩の名誉であるが如く 悦に入った様子である。

婦人は、「お二人とも、お若いのにお勤めをしながら ご立派ねぇ」

と真希ちゃんに対する労わりも見せた。

大吾は、偶々高津高校の先輩に出会った事を奇遇と思いながらも 此の先輩のブランド評価をよく理解し、的確に答えていた。

今の高津高校の定時制は、大吾から見てブランド評価に値する程大したものではなかった。

ただ 山三證券は、この老先輩の云うだけの価値は有ると思った。

しかし、数年後の証券不況に真っ先に危機に見舞われることは、恐らくこの人は知らないだろう。

まして、ずっと後年のバブル不況の時に 倒産するなど思いもよらない事だろうと思った。

まぁ、この人は、その頃生きてはいないだろう。

初老の夫婦は、大吾たちの料理が運ばれてきてからも暫く喋り続けていたが

「お父さん、もうこれ位にしておきはらんと、折角のお二人のお邪魔よ」と嗜めた。

二人とも大吾が、すっかり気に入ってしまったらしい。

そして、横で慎ましく微笑みながら控えめな真希ちゃんとの二人連れを好ましく感じていた。

「ほんまや、すまん、すまん。気の付かんこって。

 出来ることやったら今日の勘定 儂が払わせてもらおうと思うたけど此処は、食券の先銭やさかいあか んなぁ。

 差し出がましいけど (わし)の名刺差し上げますよって、その気になったら何時でも訪ねておくれや す」

と云って名刺を差し出した。

大吾は、食事を中断して立ち上がり 両手で丁寧に受け取り

「神野大吾と申します」とはっきりと自己紹介した。

君ちゃんもつられて立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。

老夫婦には、此の事が二人を一層好まい若者として印象付けた。

名刺には、住宅金融公庫 大阪支店専務理事 朝倉連太郎と記されていた。

二人は、老夫婦が去って、やっとゆっくり食事に専念することが出来た。

料理の来るのが遅かった為、老夫婦とのお喋りは幸いであった。

真希ちゃんは、ナイフとフォークの使い方に慣れていないようだったが、それでも美味しそうに料理を平らげた。

大吾が、巧みにナイフとフォークを使うのに感心しながら

「神野さんは、上手に洋食たべはる」と感心した。

「姉の結婚式とか、そんな機会が三度ほど有ったんや、そのお蔭」と誤魔化した。

「うち、一遍こんな所で洋食たべて見たかったです。

 今日は、神野さんと食事出来て最高。有難うございます」

 と堅苦しく礼を言った。

「真希さん、もう少しリラックスしよう。僕寂しくなるやんか」

「はい、済みません」

中々真紀ちゃんの緊張感は、解れなかった。

食事が終わって

「今日は、日曜日やし、何処も人で一杯やなぁ。何処か行きたいとこ有る?」

「神野さんに お任かせします」

「そうやなぁ、映画では、しょうがないし もっと真希さんと話の出来る所やなぁ。

 そうや、中之島公園にしよう。あそこなら川っぷちで ベンチが有ってええやろ。

 それとも大阪城公園?どっちがええ?」

「うち、大阪城が良いです。家からも近いし」

真希ちゃんは、初めて自分の意見を口に上せた。

「よっしゃ、そうしよう」

大吾は、以前の放課後に度々大阪城公園に二人で行ったときの艶めいた記憶が甦って来た。

不思議な事に今は全くそのような想いは、頭に浮かばなかった。

本当に彼女と話がしたかった。

年下の可愛い妹を見ている様であった。

少女の自分に対する恋心が、どんなものかを改めて知りたかった。

自分に恋している少女の心を覗き、その心を共有する実感と感情を味わいたかった。

今の大吾は、彼女を愛しているけれど、恋しているとは感じられなかった。

その面では、醒めていた。

精神年齢の所為だと思った。

今度の人生では、もっと彼女を大切にしたいと思っていた。

二人は、市電に乗って大手前の停留所で降りた。

以前の堀端を避け少し歩いて城内の天守閣のすぐ下の木陰のベンチに座った。

日曜日で、若いアベックや家族連れが、沢山いた。


真紀ちゃんが、傍の木陰を見上げ突然 

「きやぁっ」と叫び大吾にしがみ付いた。

大吾も思わず抱きかかえ 

「どないしたん?」

彼女は、大吾の腕の隙間から顔をのぞかせて、指さしながら

「あれ、あれ、蛇」と掠れた声を出した。

大吾も蛇は苦手で 

「どれ、何処と」

彼女の指差した方を見上げた。

上の方の木の枝を 腹を白く見せたまだら模様の蛇が、ゆっくりとうねりながら這っていた。

「うわぁ、蛇や、気持ち悪い」

大吾は、真希ちゃんを抱きかかえるようにしてベンチを跳び離れた。

真希ちゃんは、片腕で大吾にしがみ付き、片手を口元に当ながら蛇の居たあたりを見ていた。

大吾も真希ちゃんの背中に手を当てた儘、蛇の動きを追った。

周りの人も何事かと二人に気づいて、二人の目の先を追いかけた。

子供たちが木の下に集まってきて、上を見上げ小石や木の端くれを投げ上げ始めた。

一人の小学生の男の子が、長い柄の虫取り網で蛇を突つき 網を巻き込んで蛇をとらえようとした。

蛇も慌てたのだろう、どさりと地面に落ちてしまった。

男の子の動きは素早く、蛇の頭から網をかぶせ抑え込んでしまった。

二人は、さっきからの姿勢の侭少し離れて見ていたが

「いやや、気色悪い。お兄ちゃん、他のとこ場所替わろ」

と言い出した。

そして 

「かんにん、うち間違えて神野さんの事、お兄ちゃん云うてしもた。あほやなぁ」

と云って舌を出して笑った。

大吾は、何となく嬉しくほっとした。

「ああ、怖かった。ほんまに気持ち悪い。僕も蛇あかんね、ぞっとするわ」

この事で真希ちゃんの緊張は、すっかり解れてしまった。

真希ちゃんは、さっきから大吾にしがみ付いていた腕を離さなかった。

今は、両手で、大吾の腕を挟むようにして、歩き出した。

「木の下は、気色悪いから あそこのパラソルの椅子に座ろうか」

大吾は、売店の前にあるパラソルの付いたテーブルを指差した。

真希ちゃんは、楽しそうに笑顔で 

「あそこが良い、あそこやったら安心やわ」

と云って大吾を引っ張るように先に歩き出した。

大吾が知っていた少し甘えた物言いと仕草であった。

真希ちゃんは先に座った。

立ったままの大吾は

「真希ちゃん、暑いから 氷食べる?それともアイスクリーム?」

「神野さんは?」

「僕は、氷にする、氷金時や」

「うち、イチゴシロップ掛けたの」

真希は、八重歯を覗かせた白い歯並びを見せて笑顔で応えた。

そして、真希さんから真希ちゃんと呼ばれた事で一層大吾への親近感が増した。

大吾は、内心 

「よしよし これでええんや」と呟いた。

大吾が注文して出来上がりを待って居ると 真希ちゃんが隣に来て

「神野さん、座ってて。うち持って行くから」と云ったが

「ええよ、僕持って行くから、真希ちゃん座っとり。席取られるで」

彼女は慌てて席の方を振り返ると 

「お願いしまーす」と云って戻って行った。

暑い日差しの下、冷たい かき氷が美味しかった。

黒い真っ直ぐな長めの お下げに鼻筋の通った少し青みがかった色白の真希ちゃんは、美人で可愛らしかった。

八重歯を覗かせて赤いイチゴシロップのかき氷を 口に運ぶ顔を大吾は、改めて見つめなおした。

目は切れ長で 黒々とした瞳に白目が、青み()かって見えた。

遥かな以前の記憶と同じであった。

真希ちゃんは、大吾を覗き見上げるようにして

「そんなに見たら嫌や。恥ずかしいやんか」

とスプーンを口にしたまま目を細めて云った。

「うん、真希ちゃんが可愛いいから見とれてたんや」

「ほんまにぃ?」

と真希ちゃんは、嬉しそうな顔で応えた。

大吾は、頬ずりしたい衝動に駆られた。

そして 「あかん あかん あかんわ」と云って首を振った。

彼女は、少し驚いた表情で 

「どないしはったん?何あかんの?」

と不思議そうな顔をして大吾を見つめた。

「真希ちゃんの食べてる顔 見てたら 可愛いからキスしたい気になったんや。

 それで、自分を戒めとったんや」

「うわぁ、勿体ない。うち どきどきしてきた」

とあどけない表情を見せて云った。

そして 「人居らへんかったら して欲しかった。勿体なかったなぁ」

と今度は恥ずかしそうにぽつりと言った。

「もうこの話は、これまで」

大吾は、きっぱり言って彼女が、気にして居そうなことを聞くことにした。

「真希ちゃん、お父さんは?」

「仕事の事故で 3年前に亡くなりました」

「ふうーん、それは大変やなぁ」

「お母さんは働いてはるの?」

「近所の食堂で働いてます。

 暫くは、お父ちゃんの労災の補償でやって行けてたけど 今は生活苦しいです。

 今日見はった姉が、働いて生活の面倒見てるようなもんです」

大吾は、今日会った瞬間に この人水商売やなと直感していたので それ以上深くは聞かなかった。

今の時代水商売の女性は、概してよく見られなかったからである。

「弟さんが同じ学校に居ることは知ってるけど、他に兄弟は居るの?」

「いいえ、うちら三人だけです」

「ああそう。それでは、今のところは、お姉さんが大変やろうなぁ」

「うちのお姉ちゃん、美人座云う所で女給やってます」

真希ちゃんは、硬い表情で一気に云って大吾の顔を見た。

「ふーぅん、それは凄いなぁ。大したもんや。よう頑張ってはるんや」

大吾は、真希ちゃんの気持ちを汲んで賞賛するように応えた。

一瞬、真希ちゃんの表情に安堵感が()ぎった。

この人は、姉の水商売の事は気にしはらへんと思った。

「話が固とうなったけど もうちょっと我慢してな。

 君の国籍の事や、韓国やろ。

 高坂も韓国やし僕の一番の親友や。僕は、全然気にせぇへんから。

 在日の韓国の人が苦労してはる事は、僕もある程度知ってる積りや。

 個人的にはともかく、公には色々苦労が有ると思うけど 困った時は、遠慮せんと相談してや。

 何でも言うてくれたらええから。僕に出来ることは力になるさかい」

真希ちゃんは、硬い表情に戻り 

「お願いします」と云って俯いた。

「さっきまでの可愛い真希ちゃんが、そんな寂しい顔したらあかん」

「そやけど、神野さん 急に遠くの人見たいにならはった」

大吾には、彼女の気持ちがよく分かった。

生活の事、国籍の事、まだ年端のいかない彼女には、重たい話であった。

自分の好きな人としての甘い幻想が消し飛びかけたのである。

「あかん あかん、そんな寂しい事云うたらあかん。

 僕は、真希ちゃんが好きやから 何でも聞いときたいんや。分かってや」

彼女は、目線を食べかけていた かき氷の器に落としながら頷いた。

「あかん、あかん、又や」

今度の あかんは、彼女にも通じたらしく顔を上げて表情を和ませた。

そして 「うちも あかんと云って」

と云って舌を出して笑った。

「氷溶けてしもうたなぁ、まぁ冷たいから飲むと美味しいわ」

真希ちゃんは、残った器の半分程の融けたかき氷を つうーっと一気に飲み干すと

「神野さん、うち 神野さんからの話し めっちゃ嬉しかったです。

 夢みたいやと思いました。

 神野さんの事は、お姉ちゃんにも しょっちゅう話してたし 弟は学校で、良う知ってました。

 高坂さんから話が有った後 直ぐにお姉ちゃんに話したら 真希凄っごい、良えやんか。

 うちもそんな恋人欲しいて云わはりました。

 弟は神野さんが、お兄ちゃんになってくれたら嬉しい云うて喜びました。

 只お母ぁちゃんは、日本人やろう、てだけやったけど---。

 お姉ちゃん本当は、今日大した用事なかったと思います。

 きっと噂の神野さんが、見たかったんやと思います」

これだけの事を一気に喋った。

過去の人生で彼女の家族が、自分に関心を持ったことを思い出しながら、大吾は身の縮む思いがした。

「そうかぁ、そんな大層な人間や無いのに 真希ちゃんの為に頑張らなあかんなぁ。

 僕かてな、高坂からの返事聞くまで ドキドキしとったんや。

 真希ちゃんの答え聞いて舞い上がってしもうたで。

 僕が真希ちゃん好きになって、真希ちゃんもそうやと聞いて ほんまに嬉しかったなぁ。

 今でも真希ちゃんが前に居って、ほんまの気がせんくらいや。あかんあかん」

真希ちゃんは、切なそうな顔をして 

「うちも あかん」と答えた。

二人の間の共通の隠語になってしまっていた。

彼女の半袖から延びる腕と指先が、艶めかしく見えた。

大吾は、本当に胸の中で 

「あかんと」呟いた。

もしこれから一線を越える事になれば、今の人生で彼女の全ての責任を取らねばならない事になると思った。

そして人生を知りすぎている為に 青春の感激と激情を燃やせない事に一抹の寂しさを感じた。

今度の人生では、彼女を幸せにする事を真剣に考えようと思った。

「今何か考えてはるの?」

「えっ、いいや」

大吾は頭の中の思いを打ち払い にこやかな表情に戻った。

先程から彼女が自分を見ている事には気が付いていた。

「神野さん、うーん---、うちの気持ち神野さんて呼ぶのどうも合わへん。

 どう呼ばせて貰ろたら(ええ)んやろ」

(だい)でかまへんや」

「呼び捨て、それはあかんでしょう。

 大さん、これもぴったりせえへん。

 大吾さん、うん大吾さんにさせてもらってかまへん?」

「うん、いいよ。僕は真希ちゃんがぴったりや」

「大吾さん、うちも 大吾さんの事もっと知りたい。

 何でも良う知ってはりそうやし ほんま云うたら年の離れたお兄さんみたいやけど お兄さんは嫌。

 うちの大好きな人でいて欲しい」

大吾は、胸の内に兄になろうという思いを秘しながら

「僕もそうや、妹もええけど真希ちゃんは、僕の好きな人や。

 こんな事云うとったら 又あかんやで」

今度は、彼女は首をすくめて くすり と笑った。

「真希ちゃん、何でも聞いて。全部OKやから」

大吾は、彼女に生い立ち、今の家族の事、家が貧しい事、中学校を卒業して高津の定時制に入り 休学したその間の仕事の事、高坂との出会い、今の山三の仕事、趣味と余暇の過ごし方の全てを話した。

彼女には、全てを話すと云ったが全てではなかった。

将来の事には、まだ分からないと応え多くを語らなかった。

聞き終えて彼女は 

「ふうーぅっ」と大きな吐息を漏らし

「凄い、うちらの何倍もの人生を送りはったみたい」と云って納得した様子であった。

大吾は、彼女に本当の事が云えたらと思い視線を遠くに泳がせた。

そんな大吾を 彼女は見守って居た。

そして、まだ自分に話してない事が有るのだろうと思ったが、それがどのような事か全く想像が出来なかった。

今日初めて大吾と出会い僅かな時間の間に そんな情景と表情を何度も見たように思ったが、そこには入って行けない壁が有るように思われた。

「お姉ぇちゃんに聞かせたら絶対大吾さんの事好きになりそう。

 今まで家で大吾さんの話しする度に一遍会いたい云うてはったもん。

 うちライバルが、お姉ぇちゃんやなんて嫌やしぃ。絶対うちの負けに決まってる」

「真希ちゃん、冗談が凄い。まさかの話しが、ほんまに聞こえるやんか。

 僕が好きなんは、まーきーちゃん」 

と彼女の鼻の頭を突きながら締め括った。

彼女は、鼻を突きだし気持ちよさそうに目を閉じていた。

真希は、大吾と話して居て今日の事が、初めてでないような気がした。

もう随分と前から付き合っているような錯覚に囚われた。

彼女は、大吾の人柄がそう思わせるのだと思った。

時間は、夕方に近づいていたが まだ夏の日差しが強かった。

「真希ちゃん、そろそろ帰るかな」

「もう?」

彼女は、不満そうだった。

「あかん?」

真希ちゃんは、首を振りながら 

「あかんことないけど あかんしたい」と云った。

「そらあかんで、こんなとこで。人が沢山居てるやんか」

「そうやなぁ、人が居る処では あかんなぁ」

「今度、人の居らんとこでしよう」

「いつ?」

「うん、明日の放課後、学校の帰り家まで送っていくから」

「分かりました。大吾さん、好き」 

と云って はにかみを見せた。

それがとっても可愛らしく大吾は、抱きしめたくなった。

二人は、真希ちゃんの家まで歩くことにした。

歩いている真希ちゃんの鼻の頭と額に汗が噴き出ていた。

大吾は、ポケットのハンカチを取り出し拭ってやった。

真希ちゃんは、目を閉じて大吾に顔を預けた。

一瞬の事だったが大吾の身体は、疼いた。

彼女が、歩いている身体を寄せて押し付けるのが分かった。

車や人が時折行き交ったので 

「もうちょっと離れようか、恥ずかしいやろ」

「うち 恥ずかしいてもかまへんけど 大吾さん困まりはるんやったらそうする」

と云って少し体を離した。そして 

「大吾さん有難う。うち幸せにしてくれて。これって夢や無いやろなぁ」

「うん、夢やないで、現実、現実や」

そんなに遠くなかったが、空堀商店街を少し入った長屋門のある彼女の家には、直ぐに着いてしまった。

「お疲れさん。今日は、楽しいし嬉しかった」

「うちも」

と云うや彼女は当たりを見回して、素早く大吾の唇にチュッとキスをした。

大吾は、外見から見られないその大胆さに驚いたが 

「うわぁ、おおきに」

と云って笑顔を見せ握手の手を差し出した。

真希は、強い力で握り返した。

真希は、手を振って帰っていく大吾の後姿をいつまでも見送った。


真希が玄関の引き戸を開けると、すぐ横の台所で母親が、夕飯の支度をしていた。 

真希は明るく弾む声で

「ただいまぁ」

「お帰り、えらい嬉しそうやなぁ」

「そらそうやんか、神野さんと一緒やったもん。誰も居てへんの?」

「ああ、皆外や。もうすぐ帰ってくると思うで」

母親は、水仕事を続けながら応えた。

彼女は、楽なアッパッパに着替え 母親の台所仕事が終わるのを待って流しで顔を洗った。

タオルを絞り首筋と脇から手を差し込んで、汗ばんだ身体を拭い 額を指先でそっと撫でて、

その指を口に含み大吾を思い出しながら

「今日初めてのランデブーやのに 何でうち あんな事したんやろう」と呟いた。

暫くして 姉の淑子が戻ってきた。

「真希、えらい帰るの早いやんか」

「うん、さっき帰ったとこ」

姉の淑子もアッパッパに着替えながら

「神野君と どうやった。

 今日一寸見たけど恰好ええ子やなぁ。ジーパン姿でええもん着てはるで」

姉の淑子は、一目で大吾のジーパンとサマーセーターが良いものであることを見とっていた。

真希は、格好良いと思ったがその値打ちは知らなかった。

娘二人と母親は、狭い四畳半の卓袱台を囲み座っていた。

饒舌な二人の娘に比べ母親は寡黙だった。

真希は、近鉄の大食堂での食事から大阪城公園での大吾との会話の内容と自分の感じたことを 

一気に姉に向かって喋った。

姉の淑子は 

「ふうーん、そぉう」

と相槌を打ちながら聞いていた。

そして、大吾の生い立ちと日常を聞いてから 

「凄い子やなぁ、苦労もしたけど頑張り屋や。

 真希から話は聞いてたけど相当頭も良えのやろうなぁ。

 今日最初に会うた時の挨拶もスマートで卒がないわ。ほんまに格好の良え子やんか」

と羨ましそうに言った。

「お姉ぇちゃん!大吾さんに ちょっかい出さんといてや。邪魔したらあかんで」

と姉の淑子を睨みつけるようにして云った。

真希は、姉の商売柄から男出入りの多さをそれとなく感じていた。

「それで真希、今日は、話だけやったん?」

「なんで?ほかに?」

「なんでて」

「お姉ぇちゃん、うちらまだ学生やで。お姉ぇちゃんの水商売と一緒にせんといて」

とぷんと横を向いた。

母親が「真希、淑にそんな事云うもんや無いで」と嗜めた。

現在家計を支えているのは、姉の淑子だった。

「日本人なぁ」

吐息を漏らすように呟く母親に

「お母ぁちゃん、日本人のこと気にし過ぎや。

 店のお客さん大方日本人やし、真希紹介した高坂君も韓国やけど神野君の友達やない。

 店の韓国の()で客の日本人と付き合うたり 結婚してる() 沢山居てるで。

 お母ぁちゃんの時代とは、違うねん」

「淑、お前らは朝鮮云われてどれだけ うちらが辛い思いしたか知らんのや。

 お父ちゃんも苦労しはった。

 今でもそんなに変わってへんで。

 うちら肩身の狭い思いをしょっちゅうしてるがな」

母親は目を潤ませて云った。

「お母ちゃんの(ひが)みと違う。

 うち、お母ちゃんが、日本人にペコペコすんの見てられへん」 

と強い調子で反論しながら

「真希、そう思わへん?」 

真希に向かって問いかけ

「真希のさっきの話で 神野君が、真希に韓国人の事を最初に云う気遣いは、若いのに大したもんやないの?お母ちゃんも真希の為に喜んで良えのんとちがう。安心しいな」

「うん、分かった」母親は、ぽつりと答えた。

夜、日曜日も仕事の弟 康治が戻ってきた。

「神野さんが、僕のお兄ちゃんになんねんなぁ。凄いなぁ。

 僕もこれから学校で、一寸鼻が高こうなるなぁ」

と喜びを隠せなかった。


翌日の放課後、大吾と真希は連れ立って下校した。

校門を出た時は、高坂と橋本さんが一緒だった。

高坂が「あれっ、真希ちゃんもこっち行くの?」 

こっちとは、校門を出て南にくだ小橋(おばせ)のバス停の方向で有る。

大吾が 「うん、今日は、俺の家に寄ってもらうんや。おふくろも居る事やし」

「そうやんか。神野さんとこ寄せてもろうて、お母さんに ご挨拶する事になってんねん」 

とすぐさま真紀が合いの手を入れた。

高坂が「お前ら、なんやら猛スピードや無いか、どない成ってんのや」

橋本さんが 「ええなぁ、真希ちゃんが羨ましい」と云った。

彼女は、少し色は黒いが 小顔で、目じりが切れ上がり 細い鼻筋のつんと通った美人と云える方である。

すらりとしてスタイルがとっても良かった。

「神野、おふくろさんによろしくな」

高坂、橋本さんたちとは、バス停のある大通りに出た処で別れた。

橋本さんは、大吾に丁寧にお辞儀をし 真希ちゃんに手を振ってバイバイをした。

大吾達は、道路を南の方へ渡り近鉄の高架を潜り百貨店の南裏に出た。

大吾と母親が住まうアパートは、すぐ近くである。 

アパートは、二階建の白壁の瀟洒な佇まいで この当時としては、かなりモダンな方である。

コの字型の真ん中の空間に大きな(くすのき)が二本植わり、二階への鉄板の階段が有った。

階段手摺と廊下ベランダの腰は、明るいブルーの鉄板で化粧されていた。

各階六戸ずつで計十二戸のアパートである。

階段空間を中に南向きに開放されており大吾の部屋は、二階東の一番端っこだった。

玄関ドアは、しっかりした木製で明るいブルーのペンキ塗りで この時代は、殆どが木造の和風建築であったが、このアパートは、洋風で外壁は、真っ白なモルタルの掻き落としである。

真希ちゃんが

「わぁ、綺麗。外国みたい」と云った。

実際にアメリカ人が二組入居していた。

一組は軍人で日本人のオンリーと住んで居り もう一組は女の留学生の二人住まいであった。

二人とも十九歳で、近くのYMCAで働いていた。

休みの日などは、彼女たちが大吾の部屋に来てレコードを聴いたり 彼に日本の事を教えてもらったりしていた。

一人は、金髪で瞳が青く 美人ではないが美しかった。

もう一人は、少し太っちょで赤毛の白い肌にそばかすが沢山浮いた ぽってりとして それなりに愛くるしかった。

この娘の瞳はグレイだった。

大吾は、内心二人とも猫の目見たいやなと思って可笑しかった。

玄関ドア横の表札は、横書きで 201神野大吾と記されていた。

ドアを開けると半畳ほどの沓脱が有り、いきなり八畳程のダイニングキッチンである。

部屋の中央にテーブルと四脚の椅子が置いてあった。

正面にガス台と流し台、最近出始めた 角が大きく丸まった電気冷蔵庫並んでいた。

横の壁沿いの小奇麗な食器棚には食器が整頓して収納されていた。

「ただいま」 

大吾は、テーブルに腰掛け眼鏡を掛けて新聞を読んでいた母親に声を掛けた。

「ああ、大ちゃん お帰り」 

母の加代が新聞から目を上げた。

大吾の後ろに立っている真希ちゃんを見て

「あら、お友達と一緒」 

と驚いたように声を上げた。

「ああ、学校の友達、僕の彼女」

大吾は、悪びれる風もなく言いながら真希ちゃんを少し前に押し出した。

真希ちゃんは、どぎまぎしながら 

「金谷真希です。神野さんに何時もお世話になっています」 

と鞄を下げた儘、両手を前に揃えてお辞儀をした。

母親は、頬を緩めて ゆっくりと立ち上がり近づいて

「真希さんて云わはんの。大ちゃんと同じクラス?」

「いいえ、一年下です」

「あら、そうなの。大ちゃんよりもお若いのね。

 堪忍、あたし変な言い方してしもうて」

と云いながら口元に手を添えて笑った。

「そんな処に立ってはらんと(はよ)うお上がりやす。

 大ちゃん、あんたが上がらんと邪魔になりますやろ」と云った。

真希ちゃんは、関西弁綺麗に使いはる上品なお母さんだと思った。

「さぁ、こっちへ来てお座りやす。ご飯まだでしゃろ。

 少しなら 大ちゃんと二人分出来ますよって おあがんなさい」

と云ってくれた。

「夜分に押しかけ申し訳ありません」

と真希ちゃんは頭を下げた。

母親の加代は、美しい娘だと思った。

「大ちゃん、あんたも早うお座り。そうせんと真希さん遠慮しやはる」

と気遣いを見せた。

「うん、その前に手と顔を洗うわ。真希ちゃんも手 洗い、こっちや。

 タオル横に懸かったん使うて」

と云って玄関横の洗面所を指差した。

大吾は、玄関を入った右側の部屋のドアを開けて 真希ちゃんの鞄を下げ自分の部屋に入った。

二人分の食事の支度をしながら母親が 

「大ちゃん、お客さん今夜泊まって行きはるの?良かったら泊って頂いてもかまへんで」 

と大きな声で聞いた。

「ううーん、泊らへん。

 ちょっと話して二時間ほどしたら彼女の家まで送って行く」

その声を聴きながら真希は、さばけた良いお母ぁさんやなぁ思いながら うちのお母ぁちゃんは、

何時もウジウジしてはると思い大吾が羨ましくなった。

何時の間にか大吾が後ろに来てタオルを差し出した。

「ああ、すみません」 

タオルを受け取るとき大吾が、ギュッと手を握り、彼女の髪にそっと唇を付けた。

真希はドキッとしたが、母親が居るので落ち着かない気分だった。

大吾は、彼女の頭を撫でて 

「もう済んだ?代わってくれる」

と快活な声で言った。

真希が椅子に座ると

「大した物あらしまへんけど、上がっておくれやす」

と味噌汁を碗に入れながら進めてくれた。

食卓には、胡瓜とタコの酢の物、鯖の煮つけ、茄子と胡瓜の浅漬けが並べられていた。

大吾が、タオルを首に掛けて座ったので

「遠慮なく頂きます」 

と云って手を合わせた。

食卓の上は清潔で、並べられた食器も美しかった。

大吾は貧乏だと云っていたが、その様な事を感じさせなく 全てが小ざっぱりとしていた。

真希は、慎ましく黙々と箸を運びながら母親の加代が、彼女を見ていることに気が付いていた。

「綺麗な(ひと)」と加代は口にした。

真希は、箸を止めて母親に はにかんだ目を向け

「そんな事無いです」と云って硬くなった。

「どう、お替りしやはる?」

「いいえ、もう充分頂きました」

「じゃぁ、お茶煎れますよって、ちょっと待っておくれやす」

ガスコンロに火をつけに立った 母親の後姿を見ながら

「嗚呼、綺麗な言葉」と真希は、又思った。

母親は、お茶を入れながら

「うち、後片づけたら先に休みますよって 真希さん遠慮せんと ゆっくりしていっておくれやす」

と若い二人への配慮を見せた。 

「大ちゃん、珈琲飲むんやったら自分でお願いね。そこに摘まむものもあるから」

「ああ、良いよ」

母親は、暫く片付けの音をさせていたが、大吾の部屋の入口から顔を覗かせ

「じゃぁ、うち休ませてもらいます。ごゆっくり。此処閉めとくね」

と云ってドアを閉じて反対側の自分の部屋に引き取った。

大吾の部屋は、六畳ほどの板敷に物入れが付いており ダイニングから入った正面は、ベランダの付いた大きな掃出し窓になっていた。

開け放たれた掃出し窓からは、下に平屋の屋根が見えているだけで、夜の空が広がっていた。

いつの間にか大吾が点けた蚊取り線香の煙が、かすかな窓からの風にゆれ立ち上っていた。

押入れと向かい合った壁際に小巾なベッドが置いてあった。

ダイニングとの境の壁は本棚と一体になった机で塞がっていた。

物入れの建具は取り払われて 上段はカーテンが引かれ大吾の衣類、下段は書棚と引き出し付のキャビネットが並び、レコードプレイヤーと両サイドに箱型のスピーカーが収められ、巧みに改造されていた。

下段の隅に夥しい新聞が積み上げられており 真希には、其れが分類されているように思われた。

空いている壁は、殆どが書棚で埋められていた。

書棚には、学校関係の書籍は僅かしかなく いろんな分野の書籍が並んでおり 真希が日頃手にする事のないものばかりであった。

ベッドの枕元の壁にギターが架っていた。

それらを目にして、彼女は圧倒される思いがした。

本棚を見回していた彼女に

「真希ちゃんベッドに腰掛けて、その方が楽やろう」 

と彼女を促して大吾は、床の上に胡坐をかいた。

「この部屋には、高坂も来た事は無いんや。真希ちゃんが始めてやで」

と云う大吾の声を 真希はベッドの端に腰を下ろして半ばうわの空で聞いて居た。

そして 「凄っごい、これが大吾さんなんや」と声に出した。

今日家に誘われた時、てっきり例の あかんあかんになると思っていたが そんな気持ちは、すっかり影を潜めてしまっていた。

大吾は 「真希ちゃんが、何れ分かる時が来るかもしれないけど、これが僕の今の世界なんや」

しかし、真希には何の事か理解できなかった。

“何れ分かる時“これは昨日きのう大吾が、瞬間的に垣間見せる何か遠くを見ているような目、大吾がまだ話していない壁の向こうの何かと 関係有るのかも知れないと漫然と思った。

「真希ちゃんは、僕の特別な人やから此処見て欲しかった。

 本当に僕を理解してくれた時、話せると思う。

 今は無理や。未だそんな時期や無い。

 僕は、真希ちゃんが好きで愛してる。

 それは、本棚とは関係のない事や。

 僕の真希ちゃんへの気持ち分かってくれるかな。

 今は廻りの事関係なく生身の僕だけを見てほしい」

しかし、彼女には周囲の書棚が圧倒してくる思いに 昨日のような突き上げてくる感情が起こってこなかった。

ふと大吾の目を見ると涙が浮かんでいた。

それを見て真希は、訳も分からず胸が突き上げ、ベッドから降りて大吾の胸に飛び込んだ。

「大吾さん、なんやよう分からんけど大吾さんが好き、好き」

と云いながら同じように涙を溢れさせた。

大吾は、胸が彼女の涙で暖かく濡れるのを感じながら 彼女を抱いたまま身体を揺らせ続けた。

真希は、大吾に抱かれ ゆっくりと揺られ気持ちが安らいだ。

(うつむ)いた時、見上げる涙に濡れた彼女と目が合った。

大吾は、涙にぬれた彼女の顔に頬を付け 何時までも彼女を抱き揺らし続けた。

「真希ちゃん、可愛い。何でこんなに可愛いんや」

と彼女の目を覗き込んで呟いた。

彼女は、幸せそうな寛いだ笑顔で下から指で大吾の唇をそっとなぞった。

「大吾さん、うち 大吾さんが好きで 好きで堪らんから、大吾さんの事もっと分かるようにする。

 今は、よう分からんけど 段々分かってくると思う。

 昨日大吾さんが話しているとき、時々遠くを見るような目 何回かしやはった。

 大吾さんは、全部話す云わはったけど もっと何か別の事が有るような気がしているの。

 そやけど、今はこれで充分。

 大吾さんが、うちを好いていてくれてはって うちが、大吾さんを大好きや云う事分かって貰えてるか ら充分」 

と云って、大吾の背中に回した両腕に力を入れた。

「大吾さん、本当は、このまま朝まで抱いてて欲しいけど うちの家の人心配しやはるからもう帰りま す」

時間は、この家に来て二時間程しか経って居なかった。

「そうやななぁ、送って行くわ」 

大吾は座布団を一枚手に持って 

「自転車で送る、行こうか」と云って立ち上がった。

二人は、眠った母親を起こさない様に静かに外へ出た。

自転車を引っ張り出しながら

「僕の部屋の様子は、誰にも言わんといてや。二人だけの秘密やで」と釘を刺した。

彼女の家の長屋門の所で自転車を止め、別れる時二人は、軽く唇を合わせた。

永く付き合っている恋人同士のような仕草であった。

真希も何の抵抗もなく ごく自然に受け入れた。

大吾にとって、真希ちゃんとの事は過去の引き続きで、何度も彼女と過ごして来た現在である。

真希にとっては、全く新しい初めての出来事で 昨日始まったばかりであった。

けれども大吾と話していると そんな気がしなかった。

ずっと以前からそうであったような不思議な錯覚に囚われていた。

そんな気にさせる大吾を不思議な人だと思いつつ 自分にとって掛け替えのない人だと思った。

真希が家に戻った時は、十二時を少し回ったところで 母親も弟もまだ寝て居なかった。

「真希、えらい遅いなぁ。心配しとったで」

「うん、神野さんの家に行ったんや。

 大吾さんのお母ぁさんに会うて、ご飯よばれた。

 大吾さんのお母ぁさん 上品で綺麗な人やった」

「ほうか、日本人のお母ぁさんなぁ」

母親は、日本人に仲間入りできたような誇らしさを覚えた。

娘の真希が、偉い人の様に思えた。

何時になく「ほんまに、よかったなぁ」

と喜びを顔に顕わした。

真希には、母の考えている事が分かるような気がした。

そして母を身近に感じた。

頭の中に大吾の母と自分の母親が並んで浮かんだ。

大吾の母は、輝いており 自分の母親は疲れて萎んでいた。

急に母親が、可愛そうになって

「お母ぁちゃん、何時までも元気に長生きしてな」

母親は、怪訝な顔をして彼女を見た。

子供に こんな事を言われたのは、始めてで有った。

真希は母親に優しかったが、今のような事を口にした事がなかった。

真希は、母親の背中に回り後ろから母親を抱きかかえて

「お母ぁちゃん、産んでくれてありがとう」 

と耳のそばで囁いて、母親を抱いたまま身体を揺らした。

母親の目頭が熱くなった。

傍で、学校の教科書を開いていた弟の康治は、お姉ぇちゃん 幸せそうやなぁと思い家族を感じ、ほのぼのとした気分になった。

姉の淑子は、未だ帰っていなかった。

真希に比べて淑子は、そんなに優しくはなかった。

実質家計を支えている彼女は、家長的存在でもあった。

母親の愚痴を何時も一蹴した。

母親は彼女の前では、無口になっていた。

今日の真希の優しい労りがとっても嬉しかった。

真希に背中から抱かれて揺り動かされている身体が心地よく その揺れに合わせて、胸の前に回された娘の手の甲をゆっくりと撫でさすった。

真希は、母親と並んで一つ床で眠った。

横向きになって母親の手に自分の手を重ねて眠りに落ちた。

大吾の夢を見た。

大阪城の堀端の木陰のベンチに並んで腰を下ろし広場の人達を眺めていた。


姉の淑子が帰って来たのは、明け方で、着替えると並べて敷かれてあった寝床に そのまま潜り込んでしまった。

母親は気が付いていたが、何も言わなかった。

客との外泊に近い朝帰りは、しばしばであった。


七月に入ると八月十五日の原水爆禁止世界大会に向けた街頭カンパが、大定連の方針として打ち出され、生徒会執行部も同調する事になった。

今村が先頭に立ち推進した。

各学年委員に参加者を集めるよう呼びかけ、二十名ほどのメンバーと社研クラブのメンバーが加わった。

学校が夏休みに入ってからも街頭カンパ活動は、日曜日を選んで毎週つづけられた。

社研部のメンバーと二年生の松村君が集めたメンバーが、交代で参加した。

今村、浅野と今村を取り巻く女生徒数人は、殆ど毎週参加した。

松村君は、真希ちゃんに ご執心だったので 彼女を引っ張り出し熱心に活動した。

真希ちゃんが、参加する時は決まって橋本さんが一緒だった。

松村君は、大吾と真希が恋中にあって交際している事をこの時点では知らなかった。

此の事を知っているのは、高坂と彼女の友人の橋本さんだけであった。


世の中は、日米安保で騒然としていたが、原水禁のカンパ活動が終わって生徒会は、比較的穏やかになっていた。

大吾は、国政の動きと株価の動きを慎重に見守った。

日米関係の将来は、誰よりも良く知っていた。





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