いじめっこ理論
いじめにおいて、人間は三種類にわけることができる。言わずもがな、いじめる加害者、いじめられる被害者、何もしない傍観者だ。
私は紛れもなく、そのヒエラルキーの頂点にある、いじめる側に分類される人間である。
そしてあいつ、鴇沢想汰は間違いようもなく、最下層の人間、いじめられる側だ。
「ねえねえ瑠衣ー?あれやったの瑠衣でしょー?」
休み時間、昨日から読み始めたばかりの本から顔を上げると、クラスメイトの女子が性悪さを隠しもせずに笑っていた。
「さあ、なんのこと?」
「またまた惚けちゃってさ。あれよあれ」
心底楽しそうな彼女の指差す方向を見ると、そこには唖然として教科書を握り立ち尽くすあいつの姿が。その手からは、ぽたりぽたりと赤い雫が滴っている。
「ふうん、いっそ面白いくらいに上手く引っかかったね」
私は頬杖をつきながら呟いた。
教科書にカッターの刃を仕込む、古典的にもほどがある嫌がらせ。それだけではなく、上履きの画鋲もロッカーの落書きも、扉に仕掛けられた黒板消しまで、嫌がらせのトラップを全て綺麗に引っかかっていくあいつは、もう一種のパフォーマーかと疑ってしまう。
こんなワンパターンな嫌がらせ、なんで回避できないんだか。
「さっすが瑠衣、いちいちやることえげつないわー」
「あ、やっぱ鴇沢のあれって佐倉が犯人なんだ」
「うわー、瑠衣ってばわるーい」
私を取り囲んでくる生徒たちは皆、意地悪そうに笑っている。
あーあ、反吐が出るね。
私は立ち上がり、そいつらを掻き分けて鴇沢の方へ進んだ。目の前まで接近し、にっこりと笑って見せる。
「鴇沢、どうしたのそれ。すごく痛そう」
平然とシラを切って微笑む私は、相当な悪魔に見えているのことだろう。
顔を上げた鴇沢は、眉をへの字に困り顔をした……ように見えた。何故そんな曖昧な言い方なのかというと、顔半分を覆う長い前髪が、表情を隠してしまっているからだ。
「あ、佐倉さん。なんか、カッターで指切っちゃって……ははっ、困ったなあ」
その声音は全く困っているようには聞こえない呑気なものだった。
てゆうか、それ仕込んだの私だから。あんた本当に気づいてないの?だとしたら相当なバカヤロウだけど。
そんな私の蔑視に気づいているのかいないのか、鴇沢は特に傷ついた様子なくへらへらと笑っていた。
「ありがとう、佐倉さん。心配してくれて嬉しいよ」
「…………そう」
どうしてこんなことをするんだと私に詰め寄るどころか、感謝を述べる鴇沢。
こいつ、変だ。
でも、変なこいつに固執して嫌がらせを繰り返す私も、相当おかしな奴だ。
***
「あ、水筒忘れた」
下駄箱で靴を履き替えていたところで自分の失態に気づき、顔を顰めた。
隣にいたクラスメイト以上友人未満の女子生徒は、何がおかしいのかケラケラと笑い出す。
「うわーマジ?瑠衣っていつもミルクティー持ってきてるじゃん。一日寝かせたら腐って異臭やばいわ」
「腐らせないから。今から取りに行くし」
先に帰ってて、と告げて来た道を辿る。大した友情もない彼女は、待ってるだなんて殊勝な真似はせず、他の友人と連れ立ってさっさと帰って行った。
別にいいけどね。私、群れなきゃ気が済まないような人種じゃないから。
それにしても、どうしてこう毎日がつまらないのか。クラスにも学年にも友達になりたいような奴は見つからないし、皆が口にする話題は欠伸が出るような退屈な話ばかり。
憂いを拭えないままに歩き続ければ、すぐに教室に着いた。
水筒を回収すべく扉に手をかけたそのとき、中から話し声が聞こえて思わず手を止めた。
「瑠衣、最近調子乗ってるよね」
他愛もない雑談なら、気にも留めずに教室に入っただろう。だが、聞こえたのは他ならぬ自分の名前だったので、興味本位で聞き耳を立てた。
「ね。佐倉さんってどういうつもりで鴇沢くんのこと虐めてんのかな」
「そりゃあ鴇沢、とろいし髪型鬱陶しいけどさあ、別に瑠衣に何かしたわけじゃないっしょ?」
佐倉瑠衣。それが私の名前。
調子乗ってる、ね。それは私の何処を見て感じたのか。
「ちょっとめぐ、そこまで言うのは酷いよ。鴇沢くん、見た目はあんなだけどいい人じゃん」
「えー?ちょっと莉緒、なんで鴇沢の肩そんな持つの。何?鴇沢のこと好きなの?」
「ちっ、違うよ!そんなんじゃないよ!」
「あやしーなー。ほら、吐いちゃえってっ」
「だから違うってばあ!」
話題が私から逸れてきたので、耳を澄ませるのをやめた。鈴木莉緒が鴇沢をどう思おうが、私には全く関係がない。
しかし、ここで私が教室に入っていけば、木瀬めぐみと鈴木莉緒との関係が気まずくなるのは必至だ。
別にそれでも構わないのだが、盗み聞きしていたか追及されると面倒である。
水筒は諦めて帰るしかないだろう。ああ、本当に腐ったらどうしようか……そんなことを思っていると、不意に上履きが擦れてキュ、と音が鳴った。
「佐倉さん」
私が盗み聞きしていたのは、教室後方の扉。そして、前方の扉付近に見慣れた人物が立っていた。
長い前髪ですっかり顔を隠した、今しがた鬱陶しい髪型と称された、彼。
鴇沢想汰が、立っていた。
「佐倉さん、どうしたの?」
「別に、なんでもないよ」
鴇沢の顔を見た途端、恋慕の念を慌てて否定した鈴木莉緒の姿が脳裏を掠めて、思わず目を逸らした。
訝しげな鴇沢は、何を思ったのか教室の中を伺う。
聞こえてくるのは、クラスメイトふたりの会話。
「あー、にしても瑠衣ほんっとうざいわー。マジ性格悪い。うちが瑠衣の机に花瓶置いてやろっかな。鴇沢の代わりに仕返しじゃーってね」
「め、めぐ!ダメだよ、それは流石にやりすぎだって」
「なんでぇー?莉緒はむかつかないの?鴇沢のことボロクソにする瑠衣のことさあ」
「だ、だから私は別に鴇沢くんのことなんてっ」
ああ、本当に間が悪いな。
ちら、と鴇沢の方を見ると、目があった。
前髪の隙間から覗く、鴇沢の双眸。何を考えているのか読めない目。
ーーと、次の瞬間、鴇沢はなんの前触れもなく教室の扉を開け放った。
「……鴇沢?」
鴇沢の真意が全く計れない。彼が入っていった方の扉に駆け寄り、こっそり中を眺める。
突然の鴇沢の登場に、木瀬めぐみは目を丸くし、鈴木莉緒は頰を紅潮させた。
「何してるの、ふたりとも?」
鴇沢はいつもの柔らかな声でそう問うた。木瀬めぐみは数度の瞬きの後、「鴇沢ってさあ」と切り出した。
「瑠衣にむかつかないわけ?」
「……佐倉さんに?」
「そうだよ。いつもやられてる嫌がらせ、あれ全部瑠衣が仕組んでんだよ?明らかにいじめでしょ、これ」
「めぐ、そんなはっきり言わなくても……」
「瑠衣のやり口、ほんと汚いよ。このまま黙ってたらこのいじめ、絶対にエスカレートする」
いじめというワードを虐められている本人に向かって言うことは、相手のプライドを著しく傷つける場合がある。
だが、木瀬めぐみはそんな気遣いは一切せず、まっすぐに尋ねた。
木瀬めぐみは、正義だ。その表情に迷いの類いは見受けられない。彼女はまさに、正義の代弁者だった。
ならば私は、悪の権化だろうか。
普通なら鴇沢は、ここで今まで溜め込んできたストレスや辛さを吐き出したりするのだろう。私もそんな展開になると思っていた。
だけど鴇沢は、誰も予想だにしない言葉を口にした。
「やめてよ」
と、言った。いつもの柔らかな声ではなく、硬い、剣吞さすら感じるような声で、はっきりと。
「やめてよ、木瀬さん。どうしてそんなこと言うの。そんなこと、佐倉さんが聞いたら傷つくでしょ」
ここからでは鴇沢の背中しか見えない。だから鴇沢が何を考えているのか全くわからない。いや違うな、表情を見たところで、彼の胸の内を理解するのはどうせ不可能だ。
「はあ?なんで鴇沢、瑠衣を庇うの?」
木瀬めぐみは唖然とした後、私が抱いていたものと同じ疑問を口にした。
その隣にいた鈴木莉緒も、信じられないものを見る目で鴇沢を凝視する。
「鴇沢くん……?」
「どうして庇うって、何もしてない人が悪く言われてたら、庇うのが普通じゃないかな」
「……何もしてなくなんか、ないじゃない」
鈴木莉緒は、強い意志の篭った目で鴇沢を見つめた。そのまま激情を吐露する。
「いつも佐倉さんは、鴇沢くんに酷いことばっかりしてるでしょ!それなのになんで!?佐倉さんは全然優しくなんかないのに!鴇沢くんが庇うのはおかしいよ!なんでっ……」
「やめてって言ったよね」
相手が直情的にぶつかってこようが、鴇沢の声は至って冷静だった。それどころか、先程よりも冷たさが混じっているような。
「酷いことしてるのは鈴木さんの方だよ。それ以上言ったら、俺許さないから」
「っ!…………もう、いいっ!」
「あ、ちょっと莉緒!」
髪を振り乱した鈴木莉緒はそのまま教室を飛び出した。飛び出した先にいたのは、聞き耳を立てていた私である。
鈴木莉緒は私の姿に瞠目し、それから憎々しげな涙目でこちらを睨め、一言。
「……私、佐倉さんが嫌い」
そう言い残して、走り去って行った。木瀬めぐみも彼女を追って教室を出る。
残ったのは、私と鴇沢のふたりだけだ。
「……鴇沢、やってくれたね」
机の間を縫って近づきながら、嫌味っぽく呟いてみた。振り返った鴇沢は苦笑を浮かべていた。
「ごめんね、余計な御世話だったかな」
「うん、ほんと余計な御世話。どういうつもり?」
「え、何が?」
「白々しいね」
きょとんとする鴇沢に、こっちまで笑えてきた。口角を吊り上げる。私の笑顔は優しくもないし可愛くもない、悪役の笑みだ。
「木瀬の言うことは正しいよ。今日のカッターの刃は、私が仕込んだ。今までの嫌がらせも全部私。鴇沢だって気づいてたでしょ?」
「…………ええっと」
小首を傾げる鴇沢。その拍子に前髪が揺れて、束の間その表情が伺えた。
楽しそうな目の色を、していた。
「佐倉さんもみんなも、何を勘違いしてるのかな。おかしいね、佐倉さんは俺を助けてくれてるだけなのに」
「……助ける?何言ってーー」
「あれ、それともちょっと違うかな。うーん……そうだ、助けるというよりも、独占してる?」
ぞくり、と背筋が粟立った。身体中でガンガンと警鐘が鳴り響く。どうしよう、頭が痛い。
鴇沢はいつもと変わらぬ調子で、おもむろに自分の席に座った。机を漁り、教科書を取り出す。ページを捲った瞬間、走る鮮血。
私が仕掛けたカッターの刃は、先程と同じように、鴇沢の指先を傷つけた。塞がりかけた傷は再びぱっくりと開き、血が流れる。
「あ。カッターの刃、捨てるの忘れてた」
わざとらしく呟いて、私を見た。にっこりと微笑む。いつもと同じ笑い方だ。艶然と見えるのは、きっと私の目がおかしいからだ。そうだ。そうに決まってる。
「ほら。今の佐倉さん、苦しいって顔してる。他の誰も俺を虐めないように、手出ししないように過剰な嫌がらせをして俺を独占する。でも、悪いことしてるってわかってるから、罪悪感で押し潰されそうになってる」
「……意味わかんない。なんで私が罪悪感を感じなきゃいけないの」
私も笑い返した。笑えているはずだ。悪役の笑みを浮かべられているはずだ。
「さっきから鴇沢、ちょっと自意識過剰なんじゃないの?」
声が震えていない自信がない。それでもここで好き勝手言われるのは癪だから、なんとか踏みとどまった。
「ふーん、自意識過剰かぁ」
鴇沢は何かを考える仕草をしながら、席から立ち上がり迫ってきた。逃げたい、とほんの一瞬だけ思ってしまったけれど、絶対に後退りはしないと決意を固める。少しでも退いたら、私の負けだ。
ゆっくりと一歩、また一歩と歩みを進める鴇沢。とうとう私の目と鼻の先まで接近した鴇沢は、自分の肩ほどの背丈の私を見下ろして、
「じゃあ、そういうことにしておこっか」
すっと目を細めた。
やがて、血が滴る右手を目の前に差し出してにこりと笑った。甘い笑み、の部類に入る笑みだと思う。
「その代わりにこれ、舐めてよ」
鼻腔を擽る血の匂いは、鉄臭い。
屈辱的な物言いに視界が真っ赤に染まる。舐める?この私に鴇沢想汰の指を咥えて舐めろというのか?
……ふざけるのも、大概にしてほしいね。
私は鴇沢の右手を掴み寄せ、流血するその指先を口に含みーー思いっきり噛みついた。
「っ!?痛って……!」
「鴇沢、いい加減にしてよ」
鴇沢の血が混じった唾を吐き捨てながら、上目遣いに睨み上げる。
鴇沢の長い前髪を粗雑に引っ張り、顔を寄せた。痛みに顰められた鴇沢の表情がよく見えるようになる。
「助ける?独占?妄想吐き散らすのはお家でやりなよ。私が嫌がらせをする理由なんてひとつしかない、鴇沢が目障りだからだよ」
長い前髪に隠されていた本来の鴇沢は、端整な美形だった。長い睫毛に縁取られた目の眼力に、魅入られそうになる。
でも、鴇沢が美しかろうが醜かろうが、そんなことはどうでもいい。私は美醜によって態度を変えたりしない。
一際強く睨みつけ、次の瞬間にその身体を突き飛ばした。よろめく鴇沢を横目に、一言告げる。
「私は嫌がらせを止めない。鴇沢のこと、徹底的に痛めつけるから」
あーあ、気分が悪い。最悪。
苛立つ感情の行き場をなくした私は、それを燻らせながら教室を後にする。
扉に手をかけたところで、背中に鴇沢の声が刺さった。
「鈴木さんは佐倉さんのこと嫌いみたいだけどね、俺は好きだよ」
思わず足を止めた。
馬鹿じゃないの。なんで自分に嫌がらせをする人を嫌わないの。
「佐倉さんのこと、好きだよ」
「…………あっそ」
胸の奥から、ドロリとした何かが噴き出してくるのを感じながら、目を伏せて足早に教室を去った。
教室を、去った……が、すぐに方向転換して再び教室に飛び込む。
まさか私が帰ってくるとは思っていなかったらしい鴇沢は、目をぱちくりと瞬かせた。
「え?どうかした?もしかして、佐倉さんも俺のこと好き?」
「違う」
質問を即答で否定する。せかせかと自分の机に駆け寄り、中を捜索する。
「ーーただけだから」
「え?佐倉さん、今なんて」
「だからっ、水筒忘れただけだから!」
「……へっ?」
ああもう!何これ恥ずかしい!私はなんのために教室に戻ってきた?水筒を回収するためだろうが!それを忘れてどうするんだ!
ぽかんと口を開けていた鴇沢は、やがてくすくすと笑い出した。
「……っふ、ふふ、佐倉さんってば意外とお茶目だねっ……あははっ」
「笑うなし」
「ご、ごめんごめん……くはっ」
堪えきれずに噴き出す鴇沢に、恨めしさを込めた視線をじとりと送る。
顔に熱が集まってきているのがわかる。もう、なんなんだこれは!やりにくい!
「じゃあ私の用事はこれだけだから!帰る!」
「うん、そっかそっか」
尚も笑みが零しながら、鴇沢はいつもの柔らかな雰囲気を湛えた。
「それじゃあ、佐倉さん。ばいばい、また明日!」
手をひらひらと振って、私を見送る鴇沢。
別に、無視して帰っても良かったのだ。良かったのだ、けれど、
「…………じゃあね」
なんとなく気が向いたから、私も返事をしてみた。
胸の真ん中辺りが高揚し、そして妙な暖かさに包まれてきた。この臓器、なんて名前だったっけ。心臓?肺臓?
ーーああ、そうだ。
確かここは、心とかいう目に見えない臓器の位置だ。