君と、私と、日替わり定食
恵子にとって夜の町は日常であり、彼女にとって世界のすべてであった。
火曜と金曜に目覚める時刻は、朝と昼間のちょうど境目、10時半。
枕元に投げておいた携帯が大音量で音楽を垂れ流す。それは目覚まし代わりに設定した、80年代のスクリーンミュージック。気怠く女が歌う。それは、アメリカの麦畑が似合う音楽だった。
暖かい布団から手を出すと、冷たい空気が皮膚を刺す。携帯を止めることも忘れて、慌てて手を布団の内側に引き戻す。いつかテレビで見た亀も、外敵に襲われたときにこんな風だった。と、思い出してぞっとする。亀はだめだ。少なくとも、乙女の目指す姿ではない。
挫けそうになる心を励まして、携帯をつかむ。寝ぼけ眼で目覚ましを止める。ああ、なんて布団の中は暖かく、布団の外の世界は冷たく厳しいのだろう。携帯をつかんだまま、布団の中にもういちど潜り込む。自分の体温を閉じこめたような、心地のいい空間!
……再度眠りに落ちかけるが、必死に留める。思い切って、えい。と声をあげ、暖かい布団を蹴り上げる。厚手のカーテンを開ける。雨音とともに冷たい、晩秋の空気が肌を包む。ああ、雨だ。秋雨が世界を冷やしているのだ。
はじける雨音とともに、恵子はようやく目を覚ます。
「おはよお」
冷たい窓ガラスに額を押しつけ、恵子は呟いた。といってもこの狭いワンルームに住んでいるのは、恵子だけだが。
睡眠はたった5時間。ぼんやりとむくんだ顔をたたき、恵子は大きく伸びをした。そして音を立ててクローゼットをのぞき込む。
白のシャツに紺のベスト、スカート、低めのローファー。
跳ねた髪を丁寧にとかして、地味なシュシュで一つ結び。メイクはごくごくシンプルに。薄付きのベージュのアイシャドウ、薄桃色のチーク、口紅は薄目のものをさっと撫でる。
鏡の前で唇をきゅっとあげて、微笑む恵子はどこからどうみても、ただのOLだった。
「よしっ」
床に脱ぎ散らした派手なドレスと紫のピンヒール、酒と煙草の匂いをまとったショールを踏み越えて、恵子は玄関を飛び出していく。
それは週に2回、火曜と金曜だけの原口恵子の楽しみであった。
「はい、いらっしゃい」
スーツ姿の男女が行き交う細い道を抜けて、小さな店ののれんをくぐると中の大将が顔を上げてそういった。
笑顔はないが、感じは悪くない。
カウンターの一番隅に座ると割烹着姿の女性が素早くお茶とおしぼりを持ってくる。
「なんにしましょ」
「じゃあ、日替わり」
「はいよ」
メニューも見ずにそういった後、恵子は大将の背のあたりに置かれた小さな看板に目を凝らす。
……今日の日替わりは、焼きカレーに豆腐のあんかけ、味噌汁漬け物。よし、今日も美味しそうだ。
暖かいお茶を飲みながら、恵子はぼんやりと入り口を眺める。わいわいと、にぎやかな声が響いている。時刻は11時45分。そろそろ、近隣の会社員がランチを求めて歩き回る時刻である。
のれんの向こう、スーツ姿の人々がせわしなく動いている姿が見えた。すでに数時間、働いてきた大人達。
それに反して恵子はつい1時間前に起きたばかり。しかし起きたばかりだと知っているのは自分だけだ。はたから見れば、恵子だって数時間働いて、ランチに訪れたただのOLにしか見えない。
しかし、恵子は朝から働いてなどいない。恵子の職場は、夜の町・北新地だ。高級クラブの人気ナンバー3。それが恵子の素顔である。
爪先まで完璧に整えた指でおしぼりを丁寧に畳む。マニキュアを落としても、その指先は不自然なほど整っている。ふつうのOLに化けるのであれば、爪先だけでも気を抜いておくべきか。
ようやく冴え始めた目で、恵子は通りを眺める。
そこは、大阪駅前ビル地下2階。
ここは大阪そのものである。
大阪駅前ビルは、繁華街である北新地を越えたところにある。
4本の巨大なビル郡、それは地下でつながり、さらに他のビルも巻き込んでまるで蟻の巣か迷路のように複雑怪奇に絡み合っている。
地下街には多くの料理店が軒を連ね、昼にはランチの激戦区として名を馳せる。
恵子が普段働く、その華やかなりし夜の世界からたった徒歩5分。昼になれば、スーツ姿の男女が昼ご飯を求めて練り歩く。夜にはホステス相手にクダを巻くようなおやじが、きりりとした顔で颯爽と歩く様は別世界のよう。
恵子が夜の町で働き慣れて数年目のこと。ある日、ふとおもしろい遊びを見いだした。
それは、ランチタイムの駅ビルに侵入する。という遊びである。
夜から深夜にかけて働く恵子にとって、11時から13時にかけては朝だ。明け方までつきあいがあった日ならば、起きるにも辛い時間帯。
それでも、思いついたその遊びに彼女は夢中になった。
最初はリクルートスーツに身を包んだ就活生を気取った。しかし年齢とともに姿を変えた。いまでは紺のベストの上からベージュのニットカーディガンを羽織り、小さな鞄を手にしたOLの変装がお気に入りだ。
どれほど控えめにメイクをしても、やはり恵子の姿は目立つのだろう。あからさまに見つめてくる男もいたし、どこの会社の子だろう。などとささやく集団もいた。さらにランチタイムだというのにナンパをしてくる男もいた。
そんな目に遭ってもこの遊びをやめないのは、存外、仕事に役立つからである。
ランチタイムで交わされている会話の8割はくだらないものだが、2割はなかなかに興味深い。世情、ニュース、そんなものが会話の中に溢れている。盗み聞きすれば、客と話すネタになる。
そんなつもりで始めた遊びはすでに数年。しかし今では、駅ビルの美味しいランチに夢中になった。
恵子は最初、何も考えずに店へと入った。しかし入ってみて驚いた。どこも美味しい。
格安で、量も多く、種類も豊富。複雑に絡み合う地下街のあちこちで、多くの店舗が鎬を削っている。当然、味も値段もサービスも、どこの店も必死に競い合っている。
洋食、中華、和食に無国籍料理。なんでもござれ。
そのうち、会話を聞くという目的はさておいて、ランチ巡りに夢中になった。
最近のお気に入りは、和食のお店。650円の日替わり定食は、優しい味のハンバーグ、魚の煮付け、ショウガ焼きなど家庭料理が揃っているし、ときに贅沢な刺身がつくこともある。
ごちゃごちゃとしたビルの中にあるとは思えないほど小ぎれいな、カウンターだけのお店。12時になると行列ができるが、11時45分に入ればまだ座れる。
「はい、おまちどう」
「ありがと」
恵子の日替わりが届く頃、小さな店のカウンターはいっぱいになっていた。
目の前に届いたものは、ふつふつと沸き立つ焼きカレー。ドリア皿たっぷりにカレー、チーズ、そしてほどよく固まった卵がひとつ。
カレーの湯気は幸せの香りだ。そっとスプーンで卵を崩すと、黄色の黄身がとろりと広がった。一口食べれば口の中いっぱいに熱と幸せが広がる。
思った以上にスパイシーで本格的なカレーだが、チーズと卵がそれをまろやかにする。
あつあつになった口の中を、ぬるめの餡掛け豆腐で静めて、そしてまた熱いところを一口。
美味しい。と心の中で呟く。
この店を知って以来、恵子のOL遊びは完全に食べ物へとシフトした。
あといくつか美味しいお店を見つけたが、最近はこの店に軍配が上がり続けている。
「あ。傘、おちましたよ」
必死に食べていると、唐突に隣から声をかけられた。は。と顔を上げれば、カウンターにかけてあった傘が床に落ちている。あわてて拾おうとすれば、隣席の男が素早くそれを拾い上げる。
「ありがと」
「……いえ」
口を押さえて頭を下げる。と、男は恵子の顔を見て頬を赤らめ俯いた。
まだ若い……といっても恵子と同じ年くらいか。仕事柄、年齢の高い男とばかり接しているせいで、若い男を見てもせいぜい、
(……かあいらし。ぼんぼんちゃん)
としか、思えない。
スーツに少し皺が寄っているのは、一人暮らしの証拠。特に背中に皺が寄っているのは、独身。そして彼女もいないに違いない。
まだ後輩精神の抜けない、若い男。隣に座っただけで、恵子はそこまで一瞬で思い描く。が、顔には出さない。笑顔は得意だ。にこり。と笑って傘を受け取る。
「ごめんな。ありがと」
とっておきの笑顔をみた男は、ますます挙動不審となって顔を真っ赤に染めた。
恵子はその隙に素早くカレーを流し込み、席を立つ。背に男の視線を感じる。恵子の笑顔ひとつで、男は喜ぶ。
悲しいことがあっても、悔しいときでも笑顔だけは作り出せる。それは、恵子の武器だった。
夜、19時。仕事のスタートとともに恵子は再び変装する。派手なメイクに派手なドレス。綺麗な巻髪。
その変装がとけるのは深夜1時。アフターに誘われればときに、3時、4時になることもあった。
しかし最近は不景気なのか、アフターの数は年々減りつつあるが。
「まだそんな、悪趣味なことしとるのん?」
店の看板をはずした25時。化粧室でメイクを落としながらミキがいう。本名は知らない。この店で出会った28歳。先輩だが、偉ぶることがないので皆に好かれている。
顔で売ることはやめたの。という彼女の談のとおり、顔はそれほど美人ではない。ただ、会話が巧い。
彼女は鏡に身を乗り出し、顔を丹念にマッサージしている。そして鏡越しに、恵子をみた。
「シノブちゃん、やめときぃ。そんな昼に起きて、寝不足になるし、お肌荒れるし。まだ自分、25やからそんな余裕してるけど、あと1年経ってみ、寝不足が顔に出るようなるで」
恵子の源氏名を気軽に言って、ミキは大声で笑う。当然だ。彼女も、恵子の本名なんて知らない。
住んでいるところも本名も、趣味も、本当の笑顔もお互いに見せない話さない。それがルールだ。
「いい男でもおった?」
「まさかまさか。おっさんか、ぼんぼんばっかり。まあ、店にくるのもおっさんばっかりやけどね。昼の方が、みんなもっと、おじさん」
メイクを落としてすっぴんに戻った自分を、恵子はじっと見つめる。こうこうと灯ったわざとらしい白熱灯の下、鏡にうつる自分はまだ肌にはりはある。目だって大きい。鼻筋だって通ってる。
しかし、容貌はすぐに衰える。
そうなれば、残されるのは会話力だけ。
情報は常に最新にしておかなければならない。どんな会話にもついていかなくてはならない。どんな会話が求められているのか、リサーチしなければならない。
「じゃ、お疲れさま」
「なん。シノブちゃん、このあとどっか飲みにいかんの? ええ男の揃った店見つけたんよ」
「早起きして疲れたから、早くかえってねまぁす」
「もう、年寄りみたいなこといわんと」
「ええのんええのん。ミキ姉さんも早起きしよ。早起きは三文の得」
「夜の女は別よ。遅起きは三文の得」
顔を見合わせ、ぎゃはぎゃは笑う。それをみて、ほかの仲間も笑った。黒服の男も笑った。
そのお義理の笑いを背に受けて、恵子は外へ飛び出していく。
深夜を回っても北新地は、ネオンがまだまだ輝いている。酔った男がホステスの肩を借りてタクシーに運びこまれる。ガールズバーの勧誘の女の子が、そろそろ店じまいなのか看板を片づけている。
ホステスたちも、ちらほらと帰り支度。ホストらしき男たちが、そんなホステスを勧誘している。
恵子は深く帽子をかぶってホストの視線から逃れる。そして高いヒールで器用に夜の町を駆け抜けた。
(お疲れさま、自分)
夜の北新地は顔を上げても星もみえない。
こんな夜を、母も祖母も見上げてきたのだな。と恵子は思った。
恵子の母は、田舎の片隅でスナックを経営していた。祖母もまた昔は夜の女であった。今でも気位が高い祖母は、かつて大阪で人気のホステスであったと口癖のように言っていた。
だから恵子が夜の町に馴染むのに時間はかからなかった。どうせならと、祖母の語る大阪にでた。大阪には、北新地という巨大な繁華街がある。
クラブ、バー、ラウンジ、華やかな女の世界がそこにある。
そこに飛び込んだ18歳、それから年を重ねて22歳でミス北新地に選ばれた。そしてさらに年を重ねて25歳。北新地の空気に馴染んだ恵子がそこにいる。
次の火曜は、再び雨の昼となった。
雨の日、地下街は便利だ。にぎわう人々の間をすり抜けて、美味しそうな匂いの道を曲がり、恵子はいつもの暖簾をくぐる。
ぷん。と出汁の香りが鼻に届く。いつもの席に腰掛けて注文を済ます間もなく、声がかけられた。
「あ、また会いましたね」
振り仰げば、人なつこい顔がある。大きな目がきらきら輝いてまるで子犬のようだ。誰だっただろう。と、脳内に客の姿を思い描き恵子は頭を振る。職業柄、人の顔を覚えるのは得意だ。脳内に、名刺ケースのように人の顔が並んでいる。
悩むのは、いつも一瞬。
「あ。ほんまに。この間はありがと。このお店好きなの?」
……先週、恵子の傘を拾った男である。恵子がそういうと、彼は安心したように席間を少しだけ詰めた。
あのときはあまり顔をはっきり見なかった。しかし近くでじっくり見れば、本当に子供のような顔をしている。
「やすいし、健康的ですよね。美味しいし」
「日替わりがほんとに日替わりなところもええよね」
そう言うのを待っていたかのように、二人の前にお盆が運ばれる。運んできた女性が、商売用の笑顔を浮かべて二人に礼を言う。
今日は、サンマの塩焼きと豆腐の味噌汁、切り干し大根にポテトサラダ。
サンマは焼きたてで、じゅうじゅうと音を立てている。表面がパリッと焼けて、焼け焦げたところを突くと美味しそうな煙が上がる。
そこにじゅっと醤油を回しかけて、口に入れると旬の脂がとろけた。
「この辺お店多いから、あちこち行くんですけど、あ。僕、東京からこっちきてまだ半年で、あんまり大阪のこと詳しく無いんですけど」
男はとりとめもなく、喋る。大阪の喋りではないなと、恵子は思った。しかしこんな、先の見えない流れる風のような喋り方もいいな。と同時に思う。
「ほんま。この辺、お店多いから迷って、迷って……結局このお店」
「あ。この辺にお勤めされてるんですか?」
「そうそう、この辺」
原形を残したままのじゃがいもを、ざっくり和えたポテトサラダ。それを突きながら恵子は少しだけ嘘を吐く。いや、嘘では無い。駅ビルと北新地は、目と花の先だ。
「火曜と金曜だけランチしてるんです?」
「調査? それともナンパ? ナンパなら悪いけど、間に合ってます」
箸を掴んだまま、恵子は男の顔を覗き込む。男の気持ちを傷つけないぎりぎりの笑顔。これも得意だ。
微笑むと、男の顔が分かりやすいほど真っ赤に染まった。
「あっ。そうじゃなくって」
「うそうそ。からかっただけ、ごめんごめん」
食事は終わった。ビジネス街のランチは長居をするのはマナー違反だ。ちょうど満員になった店内を見渡して、恵子は机にお箸を置く。
温かいお茶を一口。身体に静かに染みいる。
そして、しょぼんと落ち込む男を慰めるように、言った。
「私は原口。すぐそこで働いてて、ランチは火曜と金曜だけ……これくらいでいい?」
「僕は高木。すぐそこで働いてて、ランチは毎日ここです」
男は、高木は目を輝かせて恵子を見る。そのあまりにも分かりやすい顔に、恵子は吹きだした。高木も照れたように笑う。
それが、高木との出会い……正しくは二回目の出会いであった。
「あら、また」
「どうも」
それからは、かっきり週に二回、高木に出会った。
11時45分頃に店へ来る恵子の行動パターンを読まれたのか、店の前で待たれていることもあった。
しかし子犬のように飛んで恵子に手を振る高木に、文句は言えない。せいぜい苦笑を浮かべて手を振るくらいである。
ハンバーグ、鯖の塩焼き、ハムエッグ、豚の角煮にメンチカツ。日替わりは本当に日替わりだったし、いつ訪れても味が一定して美味しいことに今更驚かされる。
「今日も美味しい」
秋が深まりつつある金曜日、恵子は寝不足の顔を化粧で隠していつもの席に座っていた。
「……うん」
「高木くん、元気ないね」
今日の定食は、カレイの煮付け。とろりとした身が茶色く煮込まれ、箸でつつくと、ほろりと崩れる。
それを並んで食べながら高木はどこか、目がうつろだ。茶碗を持ったままのぞき込むと、彼は無理矢理な笑顔を見せた。
「あのね、原口さん僕」
「うん、恵子。でええよ」
「け、恵子さん」
「はいはい」
今日の味噌汁は豚汁だ。大根に人参、里芋におあげさん。浮いた油が体を暖める。ふうふうと吹きながら、恵子は高木をみた。
「どしたん」
「あ……あの、映画とか見る?」
「見るよ。あ、でも映画館は滅多にいかんけど、ビデオで」
仕事柄、映画の話は時々でる。映画館まで見に行くのはよほどのヒット作のみだが、客の話に出てくる映画はたいてい借りてみた。
「最近、おもしろいものありました?」
「せやなあ……古いけど、シカゴ」
十数年前のミュージカル映画である。夜の世界をいきる女たちの殺人と策謀。しかし、それを彩る女優が美しかった。薄暗いはずの物語が、美しい色彩に包まれていた。
「女優がええねん。ぴん、って背筋伸ばして、犯罪者やけど、すっごく歩き方綺麗で」
「はあ」
高木はぽかん、と首を傾げたあと肩を丸めて豚汁をすする。
「僕、あんまり、映画とか……会話が下手で。取引先と、会話がうまくいかなくって」
高木はぽろり、と愚痴をこぼす。
一生懸命だが会話はヘタ。焦れば焦るほど、言葉が出てこない。高木を見ていると、仕事中の彼の顔がなんとなく浮かんでくる。
「営業、向いてないんかなとか」
「映画なんかすぐ見られるんやし、休みに日に見るとええよ。私のおすすめでいいなら、書いとく」
ちらりと店内を見れば、今日は人が少な目だ。これなら少し長居しても問題ない。
恵子は鞄からペンとノートを取りだし、ノートの片隅に映画の名前を羅列する。
ずらりと並ぶ題名はどこか、夜の香りが染み着いたものばかりだ。こんなところに滲みでるのだな。などと苦笑して、恵子はその切れ端を高木に押しつけた。
「もし、よかったら」
「ありがとうございます」
疲れたような高木の顔に笑顔が浮かぶ。
それは彼に会って、もう何度目かの逢瀬の頃である。
夕方の駅ビルも面白いよ。と、ある時、客がそう言った。
恵子がOLに変装して時折ランチを食べに行っている、と誰かが喋ったのだろう。こんなきれいなOLさんがいたら目立つやろうなあ。などとおべっかを使い、その男は笑った。
そんな遊びは嫌いじゃない。と言って彼は恵子の肩をばんばんと叩く。そして安物の煙草を思いきり吹かしながら、いったのだ。
「昼しか知らんのなら、片手落ちや。夜にいってごらん、昼とはちょっと、顔が違う」
ランチのお店が一斉に、飲み屋に変わる。夜の駅ビルは、昼と違って面白い。
一度見学しておけ。と男は言った。恵子の遊びはすでに店でも有名だ。ママは面白がって、いけいけなどという。ただし、日付はおなじく火曜と金曜、時刻は20時まで。シンデレラだってもう少し長く遊べるのに、と口を尖らせる恵子をママは容易くあやした。
だから恵子は、珍しくも夕方の駅ビルを堪能することとなったのである。
夜の駅ビルは、なるほど風景がすっと変わった。サラリーマンが行き交う風景に変わりは無い。ただ昼に比べて夜はいくぶんか大人しい。通りを行く人はそろってゆったりと、歩いている。
昼はランチの看板を掲げていた店は全てが飲み屋に代わり、サラリーマンが吸い込まれていく。生中300円、の看板を見て恵子は目を丸める。恵子の店なら1000円だ。
道はもちろん昼とは変わらないが、店から香る匂いが変わる。酒と、香ばしい焼き鳥と、おでんの出汁の香り。
そして、サラリーマンたちの笑い声。
トイレのために店を抜けたと思われる酔客を器用に避けて、恵子は興味深く周囲を見る。
駅ビルの建物は古い。何度か取り壊しの話も出たという。お世辞にも綺麗なビルとはいえない。その中に、多くの店が肩を寄せ合い、その店に多くの人が吸い込まれていく。
そんな風景はけして、嫌な物ではない。
昼間のOLの格好そのままに、薄手のコートだけを羽織ってビルの合間を颯爽と歩く。最近ランチでお気に入りのあの店も、夜はすっかり様変わり。一品と日本酒を嗜む店となっている。
沖縄の店からは民謡が流れ、立ち飲みワインバールでは表にまでせり出した机に、みっちり人が詰まっている。その合間を、多くの人が行き交う。酒の匂いと、笑い声。
ここには陽の香りしかない。北新地は、陰の香りだ。なるほど、ここに飽きた男が陰の香りを嗅ぎに北新地に繰り出すのだ。
そんな風に考えながら恵子は当てもなく、駅ビルを彷徨う。ラーメン屋、うどん屋、なんでもある。北新地からこれほど近いのに、恵子はこの盛り上がりをこれまで知らなかった。
(こんなに安ぅ、ご機嫌に飲めたら、そりゃ、客も減るわなあ……)
などと思いつつ、角を曲がった瞬間。足が止まった。
「ん?」
エスカレーターの降り口すぐそば。そこにスーツの男が蹲っている。飲み過ぎて具合でも悪くしたのかと通り過ぎかけたが、そのスーツに見覚えがある。物覚えがいいのも、困りものだ。
そっと覗き込めば、やはりそれは見覚えのある男である。
「高木くん?」
高木は、肩をふるわせ泣いていた。
「……高木くん?」
恵子は二度、声をかける。
「ひゃっ」
声がかかったことに驚いたのだろう。跳ね上がるように顔を上げる。そして声の主である恵子を見て二度跳ねた。その目は、兎のように真っ赤だ。
大きな目に、涙が浮かんでいる。ぼたぼたと、涙は流れ続ける。鼻も真っ赤だ。頬も真っ赤だ。まるで子供みたいだ。
「恵子さん? す、すみません……こんな、僕、あの」
「ごめんな、声かけてしもて。でも気になって。はい、ティッシュ」
「……ありがとうございます」
鞄からティッシュを取りだし差し出す。あまりじっと見ては、居心地が悪いだろう。泣いている男など、これまで何度も見てきた。
泣く男は二種類に分けられる。泣き顔だけは見られたくない男と、見て欲しい男だ。
「じゃあね」
そさくさ立ち去ろうとする恵子は、一歩進んでつんのめった。高木が、恵子のコートの隅を、掴んでいるせいだ。
高木は、どうも泣き男の後者であったらしい。
「ご……ごめん」
掴んだ自分に驚いているのか、顔中ぐちゃぐちゃに泣き濡れながら彼は謝った。それでも手は離さない。行きすぎる酔っぱらいが、何やらからかいの声をかけて去っていった。
「あ。あの……僕、取引先に、怒られて……いやもう、一回二回やなくて……だから、つい、僕……」
「赤ちゃんやん、もう」
「あ、あの、もし、よければ。お茶でも……って僕、何言ってるんだろ、でもあの、せっかく、ここで会って……声をかけてくれたから、あの」
高木は恵子を見上げて、また顔を真っ赤に染めた。
「も、もちろん、いやじゃなければ」
「ええよ、うれしい」
うっかりと安請け合いし、恵子はあわてて首を振る。腕時計を見れば、時刻はもう19時だ。店との約束まで、あと1時間。
「あ。でも今日は……習い事があって、8時前くらいまでしか無理なんやけど、ええかしら」
恵子は不意に空腹を覚える。いつもは出勤前にしっかりと食べて出るのだ。仕事後、食事を取らないようにするためだ。
しかし今日は、食べ忘れている。
思い出すと、腹がぐうと鳴った。
「……それでな。できればお茶より、ご飯がええかも」
「もちろん。じゃあ、時間もないし、飲むんやなくて、美味しいところ、僕知ってますから」
「あ。でも、お茶でもええのよ。お話、聞くよ?」
「ええんです。お茶だと、いっぱい愚痴いってしまいそうだから」
高木は顔を赤く染めて、呟いた。愚痴を言ってもいいのだ。と言いかけて恵子は口を閉ざす。愚痴を聞くのは慣れている。しかし、普通のOLならば、どうだろう?
「この辺、美味しそうなお店多いもんね」
「このあたりの飲み屋もうまいんですが、今日は時間ないから、僕のおすすめいっていいですか」
高木は涙をぐっと袖でぬぐい、恵子の手をきゅっと握った。思ったより、大きな手だ。そして思ったより、積極的だ。
通り過ぎる男達に、二人の姿はどんな風に映っているのだろうと思うとくすぐったい。しかし恵子は手を振り払わず大人しく並んで歩いた。
高木は駅ビルを抜け、階段を上がり、外に出る。
真っ直ぐいけば、北新地。一瞬焦るが、彼の足は止まらない。しばし無言のまま、人波をかいくぐる。
この時間。北新地のあたりは賑やかだ。
酔客、ガールズバーの呼び込みに、そしてホステスたち。賑やかな道を抜けて、ようやく辿りついたのは。小汚いラーメン屋である。
「ラーメン?」
「ここ、汚いけど、美味しいんですよ」
年季の入ったのれんだ。掘っ立て小屋のように小汚い建物だ。しかし前に立つと、ぷんと出汁の香りがした。
それは魚介スープの香りである。
「らっしゃい」
中に入ると、なるほどその店は小汚い。カウンターには油がぬるりと光ってるし、丸いいすはところどころ破れている。
しかし味がいいのか、店はほぼ満員だ。飲み帰りの男女、あとは仕事前らしきホステスの女性。
みんなカウンターに粛々と座り、おとなしくラーメンを食べている。
店主はカウンターの内側で忙しげに鍋をかき混ぜ麺の湯を切り、高木を見てにっと笑った。
「おお、えらいべっぴんさん連れて。彼女か」
「や、や、や、そんな」
「冗談冗談……ラーメン2つでええな」
店主はあっさりと言って、二人を席に招く。ぎし。と鳴る椅子に座ると、歓声が聞こえた。
顔を上げると、高い位置にテレビが設置されている。その古いテレビは、野球の中継を流しているのだ。
わあ。と歓声があがったのは、ゲームに動きがあったのだろう。しかし、恵子は首を傾げる。
たしか。一週間ほどまえに今シーズンは終わりを迎えた。
恵子は野球に興味は無い。が、客との会話のため、その辺りの情報収集は抜かりない。
「おっちゃん。もう野球終わったのに、これ録画?」
「ええねん。ここは年中、やってる」
店長はにやにや笑いながら、ラーメン皿を並べる。手慣れているのか手際は恐ろしく、いい。
「おっちゃん、阪神すきなん? 今年残念やったね」
「まあ、勝負は時の運、来年勝てばええ。再来年でもええわな。俺が見たいのは頑張ってる姿な……はい、お待たせ」
あっという間に、ラーメンが机に置かれる。温かい湯気が顔を撫でた。柄の剥げたレンゲでそっとスープをすくうと、口の中に甘味のような、柔らかい味が広がる。
「あ……ほんま、おいし」
「ね。少しだけ入ったにんにくがいいでしょう」
「にんにく」
恵子はラーメンを覗く。そこは澄んだスープがゆらゆら揺らめくばかりだ。にんにくの香りなど、ひとかけらもない。
ふとカウンターを覗くと、店主はラーメンを作るときに人を見ているのだ。とわかった。
飲み帰りの男女には、ラーメン鉢にすり下ろしたにんにくを落とす。夜の町の女には、いれない。
目が合うと、店主はへたくそなウインクをした。
「……ああ。そうやね、おいしい」
おいしいなあ。と恵子は思う。ラーメンを食べたのは、数年ぶりだ。
そもそも恵子の店に来るような男はアフターや同伴にラーメンを選択しないし、恵子も出勤前にラーメンなど食べやしない。
しかし数年ぶりでも美味しいと感じる。それはこの暖かさのせいだろう。
ぎちぎちの店、阪神の応援歌が流れる湯気のまみれた店内で、味わったこの味を一生忘れることはないのだろうな。と恵子は何となく、そう思った。
「あ。すみません、なんか、はじめての食事にラーメンとか、僕」
「何いうてるの。美味しかったよ。ありがとう」
ラーメンをお腹いっぱい味わって外に出た瞬間、高木は今の状況を理解したのだろう。慌てたように頭を下げて、恐縮しきりで動かない。
その頭を、思わず撫でた。まるで子供だ。
こんな風に一生懸命、仕事をしている彼の姿が思い浮かんだ。北新地に冬を思わせる風が吹く。コートの前を合わせながら、夜の町をみた。
OLの格好で、誠実な男と向かい合う自分が不思議だった。黒塗りの車が音もなく通り過ぎていく。道の向こう、派手なドレスを着た女が車に向かって手を振っている。
「あの」
ぼんやりと町の風景を見ていると、高木が顔を上げた。
「シカゴ、みました」
「あら。どうやった?」
「歌がすごくて、女優さんもきれいで……でも、あの主人公たちの、バイタリティというかパワーがすごいなって」
夜の町は暗い。北新地は陰だ。しかし夜の女が暗闇に飲まれないのは、女自身が明るいからだ。陰と陽は混じり合わない。
「暗いのに、明るくて、まっすぐで」
「そう。みんな、そうよ」
「……また、火曜か金曜に会えますか」
「たぶんね」
どこか遠くでクラクションが鳴る。苛立たしげな音だ。続いて車の急発進。そして女の笑う声と、酔った男の大声と。
この町は、音と光と闇に溢れている。
そして、この町こそが恵子の世界だった。
恵子は自然な動作で、腕時計をみる。
「じゃ。私、習い事」
「はいっ! また!」
学生のように元気よく声をあげる高木に手を振り、恵子は北新地に吸い込まれた。
(……私は三代続いて夜の女やから)
足早に道を渡り、いつものビルに吸い込まれる。店の裏から素早く店内に入り込み、メイクルームでOLの服を脱ぎ散らかす。
白シャツも、紺のベストもスカートも脱いだ。全身鏡に映る恵子は、下着だけ。暗闇の中、恵子の白い体だけが浮かび上がる。
まっさらな素肌にまとうのは、胸元まで開いた真っ赤なドレス。
目にしっかりアイラインを引いて、マスカラをつける。髪を素早く巻き上げ、唇には毒々しいほどの赤を。
鏡に向かってほほえむと、そこに妖艶な美女がいる。
(ああ。ランチ、お店替えないと)
あの店の生姜焼きも、ハンバーグも、魚の煮付けも全て美味しかった。
残念だな。と恵子は、思いながら扉を勢いよくあけた。
おお。と店内がざわめく。一歩進めば、視線とともに光が全身を包んだ。
高木の姿を見かけたのは、それから一ヶ月後のことである。
もうすっかり、北新地は秋の終わり。空気には冬の香りも混じりはじめた。
しかしホステスたちは皆、薄いドレスだ。もちろん寒い。しかし顔には出さない。顔に浮かべていいのは笑顔だけ。
恵子もまた男達を見送りに、外へ出た時、高木を見た。
一緒にいるのは取引先の人間だろうか。太った男はすっかり酔っぱらい、からみ酒だ。高木は困った顔で必死に男を支えている。
高木とラーメンを食べてすぐ、恵子はランチの店を変えた。ミキは「高木とつきあえばいいのに」などと言ったが、それは恵子の流儀に反する。高木のことは嫌いではない。好きかと言えば好きに近い。だからこそ離れなければならない。陰と陽はけして一つにはとけ込まない。
(……高木くん)
彼を見つけて、恵子は一瞬電柱の後ろに身を隠す。が、苦笑した。今の恵子はシノブだ。高木が今の姿を見ても、気づくはずがない。
タクシーにでも乗せるつもりなのか、必死に男を宥め、手を引き、身体を支え、時に冗談などをいう。太った男は駄々をこねる子供のように、高木にわがままを言っている。
それは一ヶ月前に駅ビルで泣き崩れていた高木とは、まったく違う。いい顔になった。と恵子は思う。
頑張った結果の顔だ。なるほど、ラーメン屋の親父の言ったことは間違っていない。人は、人が頑張ってる姿を見るのが心地いいのだ。
恵子は自分の客を見送ったあと、わざと高木のそばに近づく。まるですれ違うように。
「……頑張って」
囁いた。それは車のクラクションの音にかき消されたが、高木が、は。と顔を上げる気配を感じた。
それを無視して、足早にビルに吸い込まれる。
ネオンの明かりと酔客の夢の声。そして夜の帳の中。それが恵子の生きる場所であり、これからもそれは変わらない。
さあ。がんばろう。
誰もいないエレベーターに乗り込んで、ガッツを一回。やがて小さな箱は、恵子の店に辿り着く。
チン、と音を立てて開いた先に見えるのは、黒と紫と酒の世界。
いつか見た映画の主人公のように、恵子はすっと足を進めた。
あの映画に出てくる女のように背筋を伸ばし、高いヒールを物ともせず。
赤い絨毯の上を光を浴びて歩く、恵子は最高の笑みを浮かべて見せた。