深夜遊泳
目覚めると、部屋中が水に包まれていた。ぷかぷか体が浮いて仕方ない。時計を見る。深夜二時。変な時間に起きてしまった。なぜか息は苦しくなかった。窓を開けて外にでてみる。
町が水に沈んでいた。夜空が落ちてきたように全てが濃紺に染まっている。自然と身体がういて、街全体を見下ろせた。電柱についた青白い明かりがちかちか光る。ゆるやかな水の流れが遠くの像を歪ませる。
町を泳ぐのは楽しかった。いつもの風景の欠片が写真家が撮ったモノクロ写真のように意味ありげに見える。家と家との間の隙間、エアコンの室外機が並ぶ。奥にいくにつれて濃くなるグラデーション、その先は?
人の姿は見えない。猫も、虫も、カラスもいない。残念ながら魚の姿も見えない。植物はある。黄色く染まり始めたイチョウの葉が水に揺られるのを見て、僕は異様に寂しくなった。
そんな夢から覚めて、会社に向かう。車を走らせながらあんな夢を見た理由を考えてみた。秋の空気が僕を寂しくさせたのだろうか。
二ヶ月前、僕は転勤させられた。都心から三時間も離れた関東の田舎町にとばされ、ダムの水質検査をすることになった。疎遠になる学生の頃の友人たち、遠距離が無理で別れた恋人、そうやって自分を結ぶ線が少しずつ細くなり、朽ち果て、断たれてゆく。そんなことがあの夢を見させたのか?
堤防から、大きな水たまりを見下ろす。山を見れば分かる。自然の巨大なものは受け入れられる。人造の巨大なものは不気味だ。
水が放射され勢いよく滝を作る。飛び込めば水にぶつかる衝撃で死ぬのだろうか。それとも、コンクリートに囲まれた底の見えない池に沈み続けて窒息死するのか。どちらにせよ、誰にも見つからないような気がする。
胎児のように丸まりながら、あまりにも大きな子宮の海を沈み続ける。未だ殺されていない小さな生き物たちに蝕まれ、水の一部と化し、いつかは僕だった粒子が誰かの喉を通り胃に入る。そんな空想をしていると、どんどんと水面へ引きつけられているのに気づいた。
久しぶりに東京へ帰った。小規模な高校の同窓会だ。成功したやつらは忙しいし、わざわざ面倒な人間関係を作りたがらないから、出席しない。ささやかな家庭を得たやつや、それを欲し出会いを求めるやつ、暇を持て余した中層階級のやつらが集まる。僕も、彼らに混じれているだろうか。
部活が同じだった男と話をする。一緒に屋外で卓球をやった阿呆な彼にも奥さんができ、三歳の子供がいる。嫁はかわいいか? と訪ねたら、照れながらもうなずいた。最初だけさ、と皮肉げに冗談を言うくらいしか、僕はその幸せの魅力にあらがえなかった。
二ヶ月前まで暮らしていた実家の部屋についた。酔いのせいか、年のせいか体が重く感じた。そうして、そのまま眠りについた。
また、体浮いた。水の中では自分の体がとても軽い。僕の学生時代を象徴するような文庫本やらCDがゆるやかに泳いでいた。僕は外へと泳ぎでた。
指と指の間をひらいて、かく。すると心地よい重みが手に伝わって、体が前へ流れていく。泳ぐのは好きだ。たまに気泡がはじける音がするだけで、あとは音のない世界。水は光を屈折させて、遠くまで見られなくする。近くだけ、見れたらいい。
気づけば、あの駅に着いていた。たまに車を出して、仕事帰りの彼女を迎えに言ったあの駅に。プレゼントして貰った自動巻の時計を見る。深夜三時、彼女は何をしているだろう? 誰かほかの男の胸を枕にして眠っているだろうか。いいや、この夢に人はいない。だから、彼女もいないだろう。
必死に水をかいて蹴る。三階のベランダから、窓を覗く。白く光るものがある。胎児のように丸まる、まっしろな、彼女だ。
白い肌をあらわにした彼女は、目を閉ざし、まるまって、水の中を漂っている。外から見る部屋は、あのときから何も変わっていない。付き合い始めたとき揃えて買ったコップも置かれたままだ。あの日から、カレンダーさえめくられていない。
彼女にふれたかった。窓を開けようとしたけれど、鍵が閉まっている。ベランダにおかれた植木鉢でガラスを叩き割った。ゆっくりとガラスが飛び散る。彼女へ手を伸ばす。すぐに部屋の中のものがすべて粒子へ変わっていく。元より砂で作られた偽物だったように、部屋の外から入り込む水流が、それらをすべて崩壊させた。
彼女はそこにいた。けれど、僕が手を近づけるほどに、彼女の顔にしわができて、醜く老いていった。手で触れれば、その肉は腐敗した。水を漂うは、まっしろいしゃれこうべ。
その夜が明けた日に職場へ帰った。この地方は、やはり東京とは違う。誰にあっても、自分が惨めに思える。どの人も、ヘシオドスの歌った世界に暮らしているようにみえた。
老人は農作業にいそしみ、中高生はその若さを満喫している。高校を出て働いている若者もたくさんいる。大学生はいない。この地区に大学はない。
汗水垂らして働き、お金を得て、飯を食い、家族と寝る。幸せだろう。けれど、僕はだいぶ、その光景を美化しているようだ。それほど、現状が惨めなのか?
深夜の遊泳は楽しい。今日は、泳いでダムへと向かった。不思議だ。ダムの中は水から分離した油のように、層ができている。鉛のように重そうな水がたまっていた。
堤防の上から、町を見下ろし、僕はふと、ダムに沈んだ村はこういうふうに見えるのかもしれないと思った。輪郭のゆがんだ家並み。ぽつぽつ光る街頭。生き物のいない作られた池。
闇の奥が、呼んでいるような気がした。だから、僕は飛び込んだ。暗い。何も見えない。上がろうとしたとき、鉄の海の奥に光ものを見つけた。女だ。丸まっている女だ。
彼女だろうか? いいや、違う。もっと若い、若い女だ。どんどんと少女が沈んでいく。僕はそれを追った。近づけば近づくほど、距離ができるように思えた。ゆらめく水は、距離をごまかす。もっと、ずっと、すっと沈んでいく。その底まで、底までつけば、彼女の顔を見れるだろうか。触れることが、できるだろうか。そうやって、僕はいつまでも沈み続ける。