父がわたしの真名を売っていました。受け取った旦那様は三年間、わたしの名前を一度も呼ばず、何ひとつ命じませんでした
夕方、井戸のほうから足音が上がってきます。
砂を噛む長靴の音。縄を巻いた肩を、一度だけ回す気配。ナフラの緑地の領主、ザーヒルさまの足音です。三年も聞いていれば、扉の前で歩幅が変わるところまで分かります。
わたしは水差しと杯を卓に置き、奥の部屋へ向かいます。背中のほうで、足音が戸口まで来て、止まります。
一拍。
息を一つ、つくほどの間です。それから、決まって同じことをおっしゃいます。
「水を、ありがとう」
わたしの名は、呼ばれません。
朝になると、杯は空になっています。三年、毎晩こうでした。
カマルの人は皆、名を二つ持っています。人に呼ばれる表の名と、生まれたときに親から授かる、秘密の名。真名です。授けた親は、その名を子へ預けたら、二度と口にしません。真名を告げられた者がその名を呼んで命じれば、持ち主の精霊は動いてしまいます。だから真名は、婚礼の夜に、生涯の伴侶にだけ告げるものとされています。
三年前の婚礼の夜、告げ合う刻に、旦那様はおっしゃいました。
「言わなくていい」
ご自分の名も、おっしゃいませんでした。
それきり、わたしは表の名のサミーラでも、奥様とさえも、旦那様に呼ばれたことがありません。
わたしは井戸読みの家の娘です。水脈を見る精霊と契約して、十二の日に、その精霊へ自分の名を預けました。泉の精は、ふだんは手首のあたりで小さな水音を立てるだけの、おとなしい精霊です。嫁ぐ前は、この緑地はわたしの力が欲しいのだと思っていました。けれど三年、「井戸を見てくれ」と頼まれたことは一度もありません。三本目の井戸が涸れかけ、ナツメヤシの葉が黄ばんでも。
名を呼ぶ価値も、井戸を読ませる価値もない妻なのだと、わたしは思っています。
一度だけ、奥へ下がらずに、待っていた夜があります。ランプの芯を落として、卓の脇に立って、戸が開くのを。けれど旦那様は、わたしがそこにいるのを見ると、戸口で足を止めて、「休みなさい」とだけおっしゃって、井戸のほうへ引き返してしまわれました。それからは、下がるようにしています。
二年目の冬、熱を出して三日寝込んだときも、旦那様は、一度も見舞いにいらっしゃいませんでした。戸の外に、冷たい水を張った桶が置かれていたのは、女中が気を利かせたのでしょう。縁が夜露でもおりたように濡れていたことを、覚えています。
それでも水差しは、毎晩、置きます。旦那様が井戸から上がる時刻に、冷たい水を。誰に言われたのでもありません。置かない夜を、一度も作れなかっただけです。
その夜の夕餉の席には、三人分の皿が並びました。
上座に義母ナルギスさま、右に旦那様、左にわたし。羊の煮込みと、干しナツメ。口をきくのは、いつも義母だけです。義母は、悪い人ではありません。干ばつの三年、台所と帳場を一人で握って、緑地を保ってきた人です。
「三日後に、真名を返す儀を開きます」
匙を持つ手が、止まりました。
「星の子らの長、ハキームさまには使いを出しました。長が立ち会わなければ、儀は成りませんから。名を告げ合わなかったお二人の儀は、形だけで足ります。それと、婚礼の証文は、儀のあと、お父上へお返しします」
婚礼の証文。三年前、父と先代の旦那様が、星の子らの前で交わした書付のことでしょう。返してしまえば、この結婚は、なかったことになります。
「後添えには、砂の民の長のお嬢さんを迎えます。ヒバさんといって、十九。隊商の水場を分けてもらえます。水を買えば、ナフラは持ち直します」
持ち直す。三本目の井戸が涸れかけた緑地には、嫁を一人手放して水を買うほうが、早いのです。分かっています。義母は、間違ったことをおっしゃっていません。
「あなたが悪かったとは、言いません。ただ、このままでは、誰のためにもなりませんから」
わたしは膝の上で指を組んで、旦那様を見ました。
旦那様は、長いあいだ、黙っておいででした。杯の縁を指でなぞって、それから低い声で言いました。
「……彼女が、望むなら」
彼女。ここにいるのに、「彼女」です。
三年で初めて、旦那様が、わたしの意思を尋ねたのだと気づきました。わたしの名を呼ばない問いでした。望まない人に「望むなら」と尋ねる人はいません。ならば、答えは決まっています。わたしは、教わったとおりに、背筋を伸ばして答えました。
「望みます」
旦那様は、息を一つ止めました。いつもの一拍より、ずっと長く。
それから椅子を引いて、何もおっしゃらずに席を立ちました。椅子の脚が床を擦る音が、三年で初めて、食堂に残りました。
返す名も、わたしたちのあいだには、ありません。形だけで足りる、と義母は言いました。三年、形だけで足りていた結婚でした。
その夜も、水差しは、朝には空になっていました。
◇
翌朝いちばんに、わたしは駱駝に乗って、実家のバヌー・アイン、泉の子らの井戸屋敷へ向かいました。
離縁の取り決めは、嫁の実家と婚家の長が交わすものです。持参金の戻し分と、儀の前夜に実家で過ごす宵送りの段取り。母の形見の櫛も、取りに行かなければなりません。お使いに任せることもできましたが、わたしは自分の足で行きたかったのです。三年、自分の意思で出かけたことが、一度もなかったので。
半日かけて着いた屋敷では、水の音が途切れません。
中庭の池は縁まで満ちて、渡り廊下の下を細い水路が走っています。泉の子らの家は、生まれたときから水の上で暮らしているようなものです。手首のあたりで、泉の精が、いつもより少し大きな音を立てました。生まれた家の水の匂いがするのでしょう。
ナフラの三本目の井戸は、涸れかけているのに。
父ナビールは、帳場にいました。五十六になった父は、帳面から目を上げずに言いました。
「戻ったか。三年、井戸ひとつ読ませてもらえずに追い返される嫁が、どこの世にいる」
「ご挨拶が遅れました。宵送りの段取りを、うかがいに参りました」
「分かっている。迎えの支度は済ませてある。証文が戻れば、こちらも手を打たねばならん。あの名は――」
父は、そこで言葉を止めました。珍しいことでした。父は一度口にしたことを、途中でやめる人ではありません。
わたしは、儀のことを知らせる義母の声を思い出しました。婚礼の証文。三年前、父と先代の旦那様が交わした書付。
「父上」
自分の声が、思ったより静かでした。
「婚礼の証文とは、どの紙ですか」
父は、ようやく顔を上げました。わたしの目を、しばらく見ていました。それから、鼻で笑いました。
「見たいなら、見ろ。お前も、知っておいたほうが話が早い」
父が立って、帳場の奥の棚から、漆喰の小箱を下ろしました。中には、薄い紙が一枚。
見出しに「名の質」とありました。
その下に、父の字で、一行。
父の見慣れた字でした。見慣れないのは、そこに書かれた一行です。わたしの名でした。
生まれたときに父から授かって、十二の日に、泉の精の前で、わたし自身の声で、ただ一度だけ口にした真名。父は、授けた人です。けれど授けた者は、その名を子へ預けたあと、二度と口にしないものだと、教わってきました。
その名を、父は、紙に書いていたのです。
「名の質、というものだ」
父は、棚に肘をつきました。
「三年前、お前の嫁入りの前に、緑地に借りができた。隊商への出資がこげついてな。担保に、お前の名を書いた証文を、先代の領主へ渡した。星の子らの封の押された原本だ。借りは、お前の嫁入りで済んだが、証文は、婚姻のあいだ向こうに置く決まりでな。これは写しで、封はない。名は読めても、精霊は動かん」
「……封のある証文を持つ者は」
「お前の泉の精に、命じられる。精霊が従うのは、名の主が自分の口で告げた相手と、封のある証文を持つ者だけだ。先代は亡くなって、いまは息子の手にある」
息が、うまく吸えませんでした。
三年前から。わたしが、水差しを置きはじめた頃から。
「古い習わしだ。いまは恥のように言う者もいるが、金の貸し借りの担保に、娘の名を入れるのは、昔は珍しくもなかった」
「旦那様は、ご存じなのですか」
「証文を継いだ日に、名を読んだそうだ。先代の使いが見ていた」
継いだ日。婚礼の、ほんの前。
あの夜の、「言わなくていい」という声がよみがえりました。
「お前が婚礼の夜に、自分の口であの男に名を告げていれば」
父が、帳場の灯りの下で、少し楽しそうに言いました。
「封は割れて、この紙は、ただの紙くずになっていた。預け名というやつだ。自分で告げた名は、質にならん。売り買いもできん」
「言わなくていい、と、言われました」
「言われたから黙ったのか。おとなしくて、役に立たん娘だ」
父は、小箱の蓋を閉めました。
「告げなかったのは、お前だ」
それから、思い出したように付け加えました。
「儀が済めば、証文は封ごと私のもとに戻る。戻ってしまえば、こちらのものだ。何も心配せんでいい」
何も心配しなくていい、と父は言いました。わたしの名が、売り買いされていたことを、いま初めて知った娘に。
話が済んだときには、日が傾いていました。父は、泊まっていくがいい、とだけ言いました。その夜は、昔の自分の部屋に泊まりましたが、眠れませんでした。
母の形見の櫛は、出がけに、古い女中が黙って手に握らせてくれました。袖の中で、櫛の歯が、指に触れます。
夜明けに屋敷を出て、駱駝の背に揺られながら、わたしは何度も、指を握っては開きました。指先が冷たくなっていくのが分かりました。手首で、泉の精が、細い水音を立てています。わたしの動揺に、寄ってくるのです。
名を握る人は、泉の精に命じて、井戸を読ませることができます。それをなさらなかったのは、命じるまでもない、と思われていたからでしょうか。それとも、名を知られた女は、呼びかける値打ちもない持ち物なのでしょうか。
あの一拍は、手綱を引く間だったのかもしれません。
売られていたことよりも、三年、誰も教えてくれなかったことのほうが、冷たく喉に残りました。
◇
ナフラの緑地へ戻ったのは、昼前でした。
客間の前の柱に、星の形の印をつけた駱駝が繋がれていました。星の子らの長、ハキームさまのものです。明日の儀のために、早くおいでになったのでしょう。
わたしは客間へは行かずに、三本目の井戸へ向かいました。
井戸の縁では、老いた井戸掘りのバッサームが縄を巻いていました。六十になるこの人は、わたしが嫁いだ日から、いつも誰より先に井戸にいます。挨拶以上の言葉を交わすのは、この緑地では、この人だけです。
縁の石に、縄が擦れてできた深い溝がありました。三年で刻まれたにしては、深すぎるほどの溝です。
三年、一度も口にしなかったことを、わたしは尋ねました。
「バッサーム。旦那様は、なぜわたしに井戸を読ませないのですか」
縄を巻く手が、止まりました。
期待はしていませんでした。嫌われているからです、と言われると思っていました。名を握って呼ばない人が、わたしの力を借りようと思うはずがないのですから。
バッサームは、日に焼けた顔をこちらへ向けて、しばらく黙っていました。それから、縄を置いて、言いました。
「三年で、十一本です」
「何がですか」
「掘った井戸。ぜんぶ、人の手で。三本目のこいつの底も、旦那様が毎朝、縄一本で降りて、掘り下げておいでで。手のひらは、もう縄の形に固まっております」
わたしは、周りを見ました。
ナツメヤシの林のあちこちに、低い石の縁が見えました。三年のあいだ、わたしは嫁いだ家の外を、ほとんど歩いたことがなかったのです。浅い井戸が一本、二本。数えはじめると、十一本ありました。どれの縁にも、縄の溝がありました。一本ごとに、水は、手のひらにすくえるほどしか上がってきません。それでも、その浅い水が、ナツメヤシの根を、三年、持たせていたのです。
木陰の濃い緑は、その井戸のまわりにだけ残っていました。
「旦那様は、婚礼の朝に、わしらに言いなさった。奥様に井戸読みを頼むな。奥様が自分から言うまで、誰も、と」
「……旦那様ご自身は」
「あの人は、頼む、という言葉を使わん人で。頼めば、奥様は断れなくなる、と」
「断れます。わたしは、自分の意思で、断れます」
「さあ。奥様がそう思っておいでかどうか」
バッサームは、困ったように笑いました。
「わしらには、頼むのと命じるのと、どこが違うのか、よう分かりませんが。あの人は、ほかの誰に頼んでも、奥様にだけは、頼みごとが命じごとになってしまう、と思うておるのです」
命じるのと、頼むのが、同じに聞こえる。
思い出しました。夕餉の席で、杯を取る旦那様の手の、てのひらの皮が厚く固まっていたこと。朝に空になっている杯。あれは、ぬるくなっても、一滴も残さずに飲まれていたのでしょう。
「二年目の冬にも、ありましたな」
バッサームが、独り言のように言いました。
「奥様が熱を出して、三日、寝込みなさったとき。旦那様は、三晩とも、戸の外で夜明かしをなさった。入りもせず、呼びもせず。井戸と戸口を行き来して、冷たい水を汲んでは、桶に張って置いておられました。わしは井戸におりましたで、よう見ておりました」
戸の外の、桶。
わたしは、息を止めました。熱で朦朧とした、あの朝の桶です。縁が夜露でもおりたように濡れていたのは、夜どおし、人の手で汲まれた水だったからです。
名を握っていれば、泉の精に命じて、冷たい水の湧くところを呼ぶこともできたでしょう。旦那様は、桶を提げて、何度も井戸を往復なさった。名を使わずに済む仕事を、わざわざ選んで。買った名を口にすれば、買ったものを使うことになる、と思っておられたのかもしれません。
井戸も、同じです。掘るべき場所は、命じればすぐに分かったはずなのに。三年。人の手で十一本掘るより、ずっと確かに。
命じられるのに、命じなかった。頼むことさえ、しなかった。
わたしは、井戸の縁の溝に、指を置きました。石は、昼の熱で乾いて、少しも冷たくありませんでした。
泉の精が、手首で、小さく鳴りました。
三年ぶんの思い違いが、胸の中で、一つずつ、ほどけていきます。
あの一拍は、手綱を引く間ではなかったのかもしれません。名が喉まで来て、それを飲み込む間だったのかもしれません。
では、なぜ。
それを訊けるのは、旦那様だけです。
わたしは、決めました。今日のうちに、自分から話そう。名を呼んでもらえない理由を、訊こう。わたしが名のことを知ったと、告げよう。そのあとのことは、まだ、決めていません。
日暮れの前に、旦那様の部屋へ向かいました。宵送りの灯を持つ時刻までには、間があるはずでした。
廊下の幅いっぱいに歩く自分の足音が、三年ぶりに、はっきり聞こえました。
部屋の戸の前で、息を整えました。叩こうと、手を上げたときです。中から、声が聞こえました。
「証文は、儀のあと、彼女の父上へ戻るのでしたね」
旦那様の声でした。
「そうだ。封ごとな」
ハキームさまの、乾いた声です。
「それでいい」
間がありました。
「あの名は、私が持っていていいものではない」
上げた手が、戸の手前で止まりました。
別の声が、廊下の奥から聞こえました。義母でした。誰かに言いつけているようです。
「ヒバさんのお輿入れは、儀のすぐあとに。水を待たせては、緑地が持ちません」
わたしは、戸を叩きませんでした。
足を後ろへ引いて、何事もなかったように、廊下を戻りました。
旦那様は、手放すと決めておられるのです。わたしを自由にするためか、厄介払いのためか、分かりません。どちらにしても、旦那様は儀のほうを向いておられます。名が戻ったあと、どうなるのかを、考えている声ではありませんでした。
日が傾いて、ナツメヤシの影が長くなりました。
宵送りの灯を、わたしは自分で用意して、火を入れました。
小さな炎が一つ。いつも卓に置いていた水差しの代わりに、それを手に、駱駝の手綱を引いて、わたしは緑地を出ました。宵送りの灯を掲げた娘は、夜の道でも咎められません。
◇
実家の井戸屋敷に着いたのは、夜も更けてからでした。
宵送りの娘は、灯を一つ持って、裏の門から入る決まりです。門の外に、見慣れない駱駝が一頭、繋がれていました。荷は少なく、鞍に砂色の房がついています。砂の民の、隊商の鞍です。
門の陰で灯の火屋を傾けて、わたしは中庭をのぞきました。
帳場の戸口から、父が客を送り出すところでした。砂色の長衣の男が、懐から折りたたんだ紙を出して、父に渡しました。父は紙の印を月明かりにかざして、満足そうに袖の内へしまいました。
「手付けは、儀のあと。それで、ご承知を」
「承知した。長のファルーク殿には、よろしくお伝えを」
男が駱駝を引いて去ってから、わたしは中庭へ入りました。
父は、庭の隅の小さな井戸のそばに立っていました。わたしが十二の日に、泉の精と契約した井戸です。
「来たか。いまの話、聞こえていたか」
「いえ、何も」
本当は、聞こえていました。けれど、父が自分の口で話すのを、聞いておきたかったのです。
「なら、話しておこう」
父は、わたしの灯を見ようともしませんでした。
「儀が済んだら、証文は封ごと私に戻る。そのまま、砂の民の長ファルーク殿にお譲りする。約定は、いま交わした」
約定。譲る。お譲りする、と、父は言いました。
「ファルーク殿は、お前の泉の精が、砂漠の下の水脈まで指すと聞いている。隊商の水場が、すべて砂の民のものになる。その見返りに、砂の民への借りは、帳消しになる。ナフラの緑地には、ファルーク殿の娘が嫁ぐ。お前は儀のあと、あの家の庇護を受ける。悪いようにはならん」
「……わたしの意思は」
「お前の意思が、何の足しになる」
父は、初めてこちらを向きました。
「家のためだ。お前は三年、嫁ぎ先で何の役にも立たなかった。最後に、家の役に立て」
わたしは、何も答えませんでした。
父は、それを承知と取ったようでした。「朝まで灯を絶やすな」と言い置いて、母屋へ戻っていきました。
一人になった庭で、池の水の音だけが続いていました。
井戸の縁に腰を下ろして、灯を足もとに置きました。
家の役に立つ。
その言葉が、思っていたよりも、体のどこかに、静かに沈んでいくのが分かりました。三年、誰にも何も頼まれなかった。名を呼ばれず、井戸を読めとも言われず、水差しを置くことだけが、わたしの仕事でした。そのわたしが、最後に、役に立てるというのです。
一晩だけ、そう思ってもいい、と思いました。
泉の精が、指先でひやりと鳴りました。
わたしの名で、わたしの精霊が、見知らぬ男の声一つで、砂漠の水のありかを指す。わたしの意思とは、何の関わりもなく。それを、「役に立つ」と呼ぶのでしょうか。
灯の火が、風もないのに揺れました。持ち上げた手が、震えているのです。壁の影が歪んで、わたしの影が、井戸の影に重なりました。
道は、三つしかありませんでした。
一つ。儀を受ける。旦那様からは自由になります。名は父のもとへ戻り、見知らぬ男のものになります。
二つ。儀を拒む。わたしは買われた妻のまま、緑地に残ります。旦那様は、手放したがっておられます。
三つ。儀の場で、自分の口から、旦那様に名を告げる。
預け名になれば、封は割れて、証文はただの紙になります。父も、砂の民も、もう手を出せません。けれど、告げた名は、二度と取り返せません。わたしは、手放そうとしておられる方に、わたしのいちばん大切なものを、渡すことになります。使われても、捨てられても、わたしには何も言えません。
自分を守る自由と、自分で選ぶ信頼と。どちらかを取れば、どちらかを失います。
袖の中で、母の櫛の歯が、指に触れました。母は、わたしが十二の日に名を預けに行く朝、言いました。名は預けるものよ、売るものではないの、と。あの日は、意味が分かりませんでした。
「告げなかったのは、お前だ」
父の声が、耳の奥で鳴りました。
半分は、本当でした。婚礼の夜、「言わなくていい」と言われて、「はい」と言ったのは、わたしです。三年、名を呼ばれなかったのは、旦那様が呼ばなかったからだけではありません。わたしも、呼んでもらうための何ひとつを、自分から差し出さなかった。呼ばれないことを、自分の価値のなさのせいにして、水差しだけを置き続けた。
バッサームの言葉を思い出しました。頼めば、奥様は断れなくなる、と。戸の外の、あの桶も。
名を握る人が、三年、わたしに断る余地を残しつづけた。
それならば、わたしが差し出す番です。断る余地ごと。
夜が白みはじめるころ、灯の油は、もう残りわずかでした。わたしは立ち上がって、小さな炎をいたわるように、手で覆いました。
婚礼の夜に、言わなかったことを。
言いに行きます。
◇
儀は、日の高い時刻に、三本目の井戸のそばで開かれました。
わたしが着いたとき、ナツメヤシの陰には、もう人が集まっていました。星の子らの長ハキームさま。義母。井戸掘りのバッサームたちが、少し離れて立っています。父がいました。昨夜、駱駝を引いて去った砂色の長衣の男が、その隣にいました。林の端には、垂れ布をおろした輿が一台。後添えのヒバさんが、念のために連れてこられたのでしょう。
わたしは、油の尽きかけた灯を、井戸の縁に置きました。夜どおし持っていた炎が、置いた拍子に、ふっと小さくなりました。
旦那様が、こちらを見ました。
一拍。
けれど今日は、その一拍のあいだに、旦那様の目が、わたしの手の灯から、旅の砂のついた裾へ、ゆっくり動くのが見えました。宵送りを終えて戻った者の姿を、見て取っておられるのだと思いました。
ハキームさまの手には、星の形の封蝋を押した紙が、一枚ありました。星の子らの帳から出された、証文でしょう。
ハキームさまが、決まりを述べます。
「真名を返す儀は、互いの真名を、二度と口にしないと誓うことで成る。ただし、この夫婦は、名を告げ合わなかったと聞く。返す名のない儀だ。形だけで足りる」
「形だけでは、足りません」
旦那様の声でした。
「誓う前に、申し上げることがあります」
井戸掘りたちの、息をのむ気配がしました。旦那様は、長衣の袖をおろして、まっすぐハキームさまのほうを向いていました。
「私は、妻の真名を知っています。名の質の証文で。三年前から」
ざわめきが起きました。義母が、顔色を失いました。
名の質は、いまは恥とされる習わしです。買った側にも、買われた側にも、傷が残ります。それを、旦那様は、人の前で、ご自分の口でおっしゃったのです。
「ですから、私が誓います。二度と口にしません。証文は、封ごと、妻の父上へ」
「旦那様」
わたしは、前へ出ていました。足が、勝手に動いたのです。声は大きくなりませんでした。大きくならないほうが、遠くまで届く気がしました。
「その証文の行き先を、旦那様は、ご存じありません」
昨夜聞いたことを、わたしは短く話しました。儀のあと、証文は父のもとへ戻り、封ごと砂の民の長ファルークさまへ譲られること。わたしの泉の精が、砂漠の下の水脈まで指すと聞いて、買い手がついていること。
「でたらめだ」
父が声を上げました。
「父上の袖に、約定書があります。砂の民の印のついた、折りたたんだ紙が」
父の手が、袖口を押さえました。
「見せなさい」
ハキームさまが、静かに言いました。
長い間があって、父は、紙を差し出しました。ハキームさまは、それを開いて、ざっと目を通し、顔を上げました。
「売り買いの約束は、儀の外のことだ。わしの関わりではない。証文は、渡した者のもとへ戻る。これは決まりだ」
そこで、長い髭を撫でるように、一度、言葉を切りました。
「ただし、名の主が、自分の口で告げた名は、預け名になる。封は割れ、証文はただの紙だ。これも、決まりだ」
わたしは、旦那様の前に立ちました。
「旦那様。わたしの名を、預けます」
旦那様は、動きませんでした。長い、長い間でした。
「それは、私が受けてはならない」
低い声でした。
「名を買った者が、名を受ければ、あなたが恩や恐れで渡したのか、本心で渡したのか、誰にも分からなくなる。あなたは、いま、何も選べない場所に立たされている」
「分からなくなるのは、旦那様が、三年、わたしに命じなかったからです」
わたしは、言いました。
「わたしは知っています。名を握って、頼むことさえなさらなかった方に、わたしは、恩も恐れも、感じていません。……断るのも、あなたの自由です。預かるのも、預からないのも」
旦那様は、一拍、止まりました。
その一拍の長さを、わたしは、知っていました。三年、毎晩、背中で聞いてきた間です。
「……分かった」
旦那様が、頭を下げました。
わたしは、爪先立ちになって、旦那様の耳もとへ、口を寄せました。
生まれたときに授かって、十二の日に、泉の精へたった一度だけ口にした名を、わたしは、自分の口で、旦那様に告げました。
小さな音がしました。
振り向くと、ハキームさまの手の中で、証文の封の蝋が、星の形のまま、二つに割れていました。
「預け名となった」
ハキームさまが言いました。
「証文は、ただの紙だ」
父の口が、開いて、閉じました。
「……婚礼の夜に」
旦那様が、わたしの前で、低く言いました。
「言わなくていいと言ったのは、売られた名を、告げさせたくなかったからです。あなたが自分から言うのでなければ、意味がないと思っていました。三年、私が、言わせなかったのです」
「頼んでください」
わたしは言いました。
「名を呼ばずに頼まれたことなら、わたしは、断れます」
旦那様の手が、体の脇で、握られては、ほどけました。縄の形に固まったてのひらが、何かを探しているようでした。それでも、旦那様は、もう、止まりませんでした。
「……井戸を、読んでくれないか」
三年で、初めての、頼みでした。
「はい」
命じられたからではありません。読みたかったから、読むのです。
わたしは、三本目の井戸の縁に膝をつきました。縄の溝に、手のひらを当てます。石は温かく、手首で、泉の精が、水のように、すうっと鳴りました。
井戸の底の、さらに下。
「二尋、下です」
わたしは言いました。
「旦那様が、昨日まで掘っておられた場所の、すぐ下に」
旦那様が、目を見張りました。
「……昨日の朝、そこで、縄を置いた」
三年の人の手と、井戸読みの力が、同じ水脈の上で、会いました。
父は、ハキームさまの前で、何か叫んでいました。名は自分のものだ、と言ったのか、約定は有効だ、と言ったのか、もう誰も聞いていませんでした。ハキームさまは、「名の質は、恥の習わしだ。ここにいる者が、みな聞いた」と、それだけを言いました。砂色の長衣の男は、黙って一礼して、「ファルークさまには、そのとおりお伝えします」と言い残して去りました。
輿の垂れ布の奥から、若い女の声がしました。
「わたしは最初から、どうでもよかったのです」
輿は、砂の上を、静かに遠ざかっていきました。
誓う者はいません。儀は、成りませんでした。
その日の夕方、バッサームたちが、二尋、掘り下げました。湿った砂が出ました。夜になって、三本目の井戸の底に、水が溜まりました。
義母が、井戸端に立っていました。
長い杓子で、水をすくって、杯に注ぎました。それを、わたしに差し出しました。「冷たいうちに」と、一言だけでした。
杯は、冷たいものでした。
その夜、わたしは、水差しと杯を、卓に置きました。
奥の部屋へは、下がりませんでした。
足音が、井戸のほうから上がってきます。砂を噛む長靴の音。扉の前で、歩幅が変わります。
戸口に立った旦那様は、一拍、止まりました。
その一拍が何の間なのか、いまは分かります。買った名ではなく、預かった名として、口にしてよいかを、確かめる間です。
それから、わたしの名を、呼びました。
三年、旦那様の口の中にだけあった、わたしの名です。
泉の精は、動きませんでした。手首で、小さな水音が、ただ、いつものように鳴っています。
何も、起きません。
「何も起きませんでしたね」
「ああ」
旦那様は、少しだけ、笑いました。
「呼んだだけだ」
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