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父がわたしの真名を売っていました。受け取った旦那様は三年間、わたしの名前を一度も呼ばず、何ひとつ命じませんでした

掲載日:2026/10/20

 夕方、井戸のほうから足音が上がってきます。

 砂を噛(か)む長靴(ながぐつ)の音。縄(なわ)を巻いた肩を、一度だけ回す気配(けはい)。ナフラの緑地(オアシス)の領主(りょうしゅ)、ザーヒルさまの足音です。三年も聞いていれば、扉(とびら)の前で歩幅(ほはば)が変わるところまで分かります。

 わたしは水差(みずさ)しと杯(さかずき)を卓(たく)に置き、奥の部屋へ向かいます。背中のほうで、足音が戸口まで来て、止まります。


 一拍(いっぱく)。


 息を一つ、つくほどの間です。それから、決まって同じことをおっしゃいます。

「水を、ありがとう」


 わたしの名は、呼ばれません。


 朝になると、杯は空になっています。三年、毎晩こうでした。


 カマルの人は皆、名を二つ持っています。人に呼ばれる表の名と、生まれたときに親から授(さず)かる、秘密の名。真名(まな)です。授けた親は、その名を子へ預けたら、二度と口にしません。真名を告げられた者がその名を呼んで命じれば、持ち主の精霊(せいれい)は動いてしまいます。だから真名は、婚礼(こんれい)の夜に、生涯(しょうがい)の伴侶(はんりょ)にだけ告げるものとされています。

 三年前の婚礼の夜、告げ合う刻(とき)に、旦那様はおっしゃいました。

「言わなくていい」

 ご自分の名も、おっしゃいませんでした。

 それきり、わたしは表の名のサミーラでも、奥様とさえも、旦那様に呼ばれたことがありません。

 わたしは井戸読(いどよ)みの家の娘です。水脈(すいみゃく)を見る精霊と契約(けいやく)して、十二の日に、その精霊へ自分の名を預けました。泉(いずみ)の精は、ふだんは手首のあたりで小さな水音を立てるだけの、おとなしい精霊です。嫁(とつ)ぐ前は、この緑地はわたしの力が欲(ほ)しいのだと思っていました。けれど三年、「井戸を見てくれ」と頼まれたことは一度もありません。三本目の井戸が涸(か)れかけ、ナツメヤシの葉が黄(き)ばんでも。

 名を呼ぶ価値も、井戸を読ませる価値もない妻なのだと、わたしは思っています。

 一度だけ、奥へ下がらずに、待っていた夜があります。ランプの芯を落として、卓の脇(わき)に立って、戸が開くのを。けれど旦那様は、わたしがそこにいるのを見ると、戸口で足を止めて、「休みなさい」とだけおっしゃって、井戸のほうへ引き返してしまわれました。それからは、下がるようにしています。


 二年目の冬、熱を出して三日寝込んだときも、旦那様は、一度も見舞(みま)いにいらっしゃいませんでした。戸の外に、冷たい水を張った桶(おけ)が置かれていたのは、女中(じょちゅう)が気を利かせたのでしょう。縁(ふち)が夜露(よつゆ)でもおりたように濡(ぬ)れていたことを、覚えています。


 それでも水差しは、毎晩、置きます。旦那様が井戸から上がる時刻に、冷たい水を。誰に言われたのでもありません。置かない夜を、一度も作れなかっただけです。


 その夜の夕餉(ゆうげ)の席には、三人分の皿が並びました。

 上座に義母(ぎぼ)ナルギスさま、右に旦那様、左にわたし。羊の煮込(にこ)みと、干しナツメ。口をきくのは、いつも義母だけです。義母は、悪い人ではありません。干ばつの三年、台所と帳場(ちょうば)を一人で握(にぎ)って、緑地を保ってきた人です。


「三日後に、真名を返す儀(ぎ)を開きます」

 匙(さじ)を持つ手が、止まりました。

「星(ほし)の子(こ)らの長(おさ)、ハキームさまには使いを出しました。長が立ち会わなければ、儀は成りませんから。名を告げ合わなかったお二人の儀は、形だけで足ります。それと、婚礼の証文(しょうもん)は、儀のあと、お父上へお返しします」


 婚礼の証文。三年前、父と先代(せんだい)の旦那様が、星の子らの前で交わした書付(かきつけ)のことでしょう。返してしまえば、この結婚は、なかったことになります。


「後添(のちぞ)えには、砂(すな)の民(たみ)の長のお嬢(じょう)さんを迎えます。ヒバさんといって、十九。隊商(たいしょう)の水場(みずば)を分けてもらえます。水を買えば、ナフラは持ち直します」


 持ち直す。三本目の井戸が涸れかけた緑地には、嫁を一人手放して水を買うほうが、早いのです。分かっています。義母は、間違ったことをおっしゃっていません。


「あなたが悪かったとは、言いません。ただ、このままでは、誰のためにもなりませんから」

 わたしは膝の上で指を組んで、旦那様を見ました。

 旦那様は、長いあいだ、黙っておいででした。杯の縁を指でなぞって、それから低い声で言いました。


「……彼女が、望むなら」


 彼女。ここにいるのに、「彼女」です。

 三年で初めて、旦那様が、わたしの意思を尋ねたのだと気づきました。わたしの名を呼ばない問いでした。望まない人に「望むなら」と尋ねる人はいません。ならば、答えは決まっています。わたしは、教わったとおりに、背筋を伸ばして答えました。


「望みます」


 旦那様は、息を一つ止めました。いつもの一拍より、ずっと長く。

 それから椅子を引いて、何もおっしゃらずに席を立ちました。椅子の脚が床を擦(こす)る音が、三年で初めて、食堂に残りました。

 返す名も、わたしたちのあいだには、ありません。形だけで足りる、と義母は言いました。三年、形だけで足りていた結婚でした。

 その夜も、水差しは、朝には空になっていました。


◇


 翌朝(よくあさ)いちばんに、わたしは駱駝(らくだ)に乗って、実家のバヌー・アイン、泉の子らの井戸屋敷(いどやしき)へ向かいました。

 離縁(りえん)の取り決めは、嫁の実家と婚家の長が交わすものです。持参金(じさんきん)の戻し分と、儀の前夜に実家で過ごす宵送(よいおく)りの段取(だんど)り。母の形見(かたみ)の櫛(くし)も、取りに行かなければなりません。お使いに任せることもできましたが、わたしは自分の足で行きたかったのです。三年、自分の意思で出かけたことが、一度もなかったので。

 半日かけて着いた屋敷では、水の音が途切れません。

 中庭の池(いけ)は縁まで満ちて、渡り廊下の下を細い水路(すいろ)が走っています。泉の子らの家は、生まれたときから水の上で暮らしているようなものです。手首のあたりで、泉の精が、いつもより少し大きな音を立てました。生まれた家の水の匂いがするのでしょう。

 ナフラの三本目の井戸は、涸れかけているのに。

 父ナビールは、帳場にいました。五十六になった父は、帳面(ちょうめん)から目を上げずに言いました。

「戻ったか。三年、井戸ひとつ読ませてもらえずに追い返される嫁が、どこの世にいる」

「ご挨拶が遅れました。宵送りの段取りを、うかがいに参りました」

「分かっている。迎えの支度は済ませてある。証文が戻れば、こちらも手を打たねばならん。あの名は――」


 父は、そこで言葉を止めました。珍しいことでした。父は一度口にしたことを、途中でやめる人ではありません。

 わたしは、儀のことを知らせる義母の声を思い出しました。婚礼の証文。三年前、父と先代の旦那様が交わした書付。


「父上」

 自分の声が、思ったより静かでした。

「婚礼の証文とは、どの紙ですか」

 父は、ようやく顔を上げました。わたしの目を、しばらく見ていました。それから、鼻で笑いました。

「見たいなら、見ろ。お前も、知っておいたほうが話が早い」

 父が立って、帳場の奥の棚から、漆喰(しっくい)の小箱(こばこ)を下ろしました。中には、薄い紙が一枚。

 見出しに「名(な)の質(しち)」とありました。

 その下に、父の字で、一行。

 父の見慣(みな)れた字でした。見慣れないのは、そこに書かれた一行です。わたしの名でした。

 生まれたときに父から授かって、十二の日に、泉の精の前で、わたし自身の声で、ただ一度だけ口にした真名。父は、授けた人です。けれど授けた者は、その名を子へ預けたあと、二度と口にしないものだと、教わってきました。

 その名を、父は、紙に書いていたのです。

「名の質、というものだ」

 父は、棚に肘をつきました。

「三年前、お前の嫁入(よめい)りの前に、緑地に借りができた。隊商への出資(しゅっし)がこげついてな。担保(たんぽ)に、お前の名を書いた証文を、先代の領主へ渡した。星の子らの封(ふう)の押された原本(げんぽん)だ。借りは、お前の嫁入りで済んだが、証文は、婚姻(こんいん)のあいだ向こうに置く決まりでな。これは写(うつ)しで、封はない。名は読めても、精霊は動かん」

「……封のある証文を持つ者は」

「お前の泉の精に、命じられる。精霊が従うのは、名の主が自分の口で告げた相手と、封のある証文を持つ者だけだ。先代は亡くなって、いまは息子の手にある」

 息が、うまく吸えませんでした。

 三年前から。わたしが、水差しを置きはじめた頃から。

「古い習(なら)わしだ。いまは恥のように言う者もいるが、金の貸し借りの担保に、娘の名を入れるのは、昔は珍しくもなかった」

「旦那様は、ご存じなのですか」

「証文を継いだ日に、名を読んだそうだ。先代の使いが見ていた」

 継いだ日。婚礼の、ほんの前。

 あの夜の、「言わなくていい」という声がよみがえりました。

「お前が婚礼の夜に、自分の口であの男に名を告げていれば」

 父が、帳場の灯(あか)りの下で、少し楽しそうに言いました。

「封は割れて、この紙は、ただの紙くずになっていた。預(あず)け名(な)というやつだ。自分で告げた名は、質にならん。売り買いもできん」

「言わなくていい、と、言われました」

「言われたから黙ったのか。おとなしくて、役に立たん娘だ」

 父は、小箱の蓋を閉めました。


「告げなかったのは、お前だ」


 それから、思い出したように付け加えました。

「儀が済めば、証文は封ごと私のもとに戻る。戻ってしまえば、こちらのものだ。何も心配せんでいい」


 何も心配しなくていい、と父は言いました。わたしの名が、売り買いされていたことを、いま初めて知った娘に。

 話が済んだときには、日が傾(かたむ)いていました。父は、泊(と)まっていくがいい、とだけ言いました。その夜は、昔の自分の部屋に泊まりましたが、眠れませんでした。

 母の形見の櫛は、出がけに、古い女中が黙って手に握らせてくれました。袖(そで)の中で、櫛の歯が、指に触れます。

 夜明けに屋敷を出て、駱駝の背に揺られながら、わたしは何度も、指を握っては開きました。指先が冷たくなっていくのが分かりました。手首で、泉の精が、細い水音を立てています。わたしの動揺に、寄ってくるのです。


 名を握る人は、泉の精に命じて、井戸を読ませることができます。それをなさらなかったのは、命じるまでもない、と思われていたからでしょうか。それとも、名を知られた女は、呼びかける値打ちもない持ち物なのでしょうか。

 あの一拍は、手綱(たづな)を引く間だったのかもしれません。

 売られていたことよりも、三年、誰も教えてくれなかったことのほうが、冷たく喉に残りました。


◇


 ナフラの緑地へ戻ったのは、昼前でした。

 客間(きゃくま)の前の柱に、星の形の印をつけた駱駝が繋がれていました。星の子らの長、ハキームさまのものです。明日の儀のために、早くおいでになったのでしょう。

 わたしは客間へは行かずに、三本目の井戸へ向かいました。

 井戸の縁では、老いた井戸掘(いどほ)りのバッサームが縄を巻いていました。六十になるこの人は、わたしが嫁いだ日から、いつも誰より先に井戸にいます。挨拶以上の言葉を交わすのは、この緑地では、この人だけです。

 縁の石に、縄が擦れてできた深い溝(みぞ)がありました。三年で刻まれたにしては、深すぎるほどの溝です。

 三年、一度も口にしなかったことを、わたしは尋ねました。

「バッサーム。旦那様は、なぜわたしに井戸を読ませないのですか」

 縄を巻く手が、止まりました。

 期待はしていませんでした。嫌われているからです、と言われると思っていました。名を握って呼ばない人が、わたしの力を借りようと思うはずがないのですから。

 バッサームは、日に焼けた顔をこちらへ向けて、しばらく黙っていました。それから、縄を置いて、言いました。


「三年で、十一本です」

「何がですか」

「掘った井戸。ぜんぶ、人の手で。三本目のこいつの底も、旦那様が毎朝、縄一本で降りて、掘り下げておいでで。手のひらは、もう縄の形に固まっております」

 わたしは、周りを見ました。

 ナツメヤシの林(はやし)のあちこちに、低い石の縁が見えました。三年のあいだ、わたしは嫁いだ家の外を、ほとんど歩いたことがなかったのです。浅い井戸が一本、二本。数えはじめると、十一本ありました。どれの縁にも、縄の溝がありました。一本ごとに、水は、手のひらにすくえるほどしか上がってきません。それでも、その浅い水が、ナツメヤシの根を、三年、持たせていたのです。

 木陰(こかげ)の濃い緑は、その井戸のまわりにだけ残っていました。

「旦那様は、婚礼の朝に、わしらに言いなさった。奥様に井戸読みを頼むな。奥様が自分から言うまで、誰も、と」

「……旦那様ご自身は」

「あの人は、頼む、という言葉を使わん人で。頼めば、奥様は断れなくなる、と」

「断れます。わたしは、自分の意思で、断れます」

「さあ。奥様がそう思っておいでかどうか」

 バッサームは、困ったように笑いました。

「わしらには、頼むのと命じるのと、どこが違うのか、よう分かりませんが。あの人は、ほかの誰に頼んでも、奥様にだけは、頼みごとが命じごとになってしまう、と思うておるのです」

 命じるのと、頼むのが、同じに聞こえる。

 思い出しました。夕餉の席で、杯を取る旦那様の手の、てのひらの皮が厚く固まっていたこと。朝に空になっている杯。あれは、ぬるくなっても、一滴も残さずに飲まれていたのでしょう。


「二年目の冬にも、ありましたな」

 バッサームが、独り言のように言いました。

「奥様が熱を出して、三日、寝込みなさったとき。旦那様は、三晩とも、戸の外で夜明かしをなさった。入りもせず、呼びもせず。井戸と戸口を行き来して、冷たい水を汲(く)んでは、桶に張って置いておられました。わしは井戸におりましたで、よう見ておりました」

 戸の外の、桶。

 わたしは、息を止めました。熱で朦朧(もうろう)とした、あの朝の桶です。縁が夜露でもおりたように濡れていたのは、夜どおし、人の手で汲まれた水だったからです。


 名を握っていれば、泉の精に命じて、冷たい水の湧くところを呼ぶこともできたでしょう。旦那様は、桶を提(さ)げて、何度も井戸を往復(おうふく)なさった。名を使わずに済む仕事を、わざわざ選んで。買った名を口にすれば、買ったものを使うことになる、と思っておられたのかもしれません。

 井戸も、同じです。掘るべき場所は、命じればすぐに分かったはずなのに。三年。人の手で十一本掘るより、ずっと確かに。

 命じられるのに、命じなかった。頼むことさえ、しなかった。

 わたしは、井戸の縁の溝に、指を置きました。石は、昼の熱で乾いて、少しも冷たくありませんでした。

 泉の精が、手首で、小さく鳴りました。

 三年ぶんの思い違いが、胸の中で、一つずつ、ほどけていきます。

 あの一拍は、手綱を引く間ではなかったのかもしれません。名が喉(のど)まで来て、それを飲み込む間だったのかもしれません。

 では、なぜ。

 それを訊けるのは、旦那様だけです。

 わたしは、決めました。今日のうちに、自分から話そう。名を呼んでもらえない理由を、訊こう。わたしが名のことを知ったと、告げよう。そのあとのことは、まだ、決めていません。

 日暮れの前に、旦那様の部屋へ向かいました。宵送りの灯(ひ)を持つ時刻までには、間があるはずでした。

 廊下の幅いっぱいに歩く自分の足音が、三年ぶりに、はっきり聞こえました。

 部屋の戸の前で、息を整えました。叩こうと、手を上げたときです。中から、声が聞こえました。

「証文は、儀のあと、彼女の父上へ戻るのでしたね」

 旦那様の声でした。

「そうだ。封ごとな」

 ハキームさまの、乾いた声です。

「それでいい」

 間がありました。


「あの名は、私が持っていていいものではない」


 上げた手が、戸の手前で止まりました。

 別の声が、廊下の奥から聞こえました。義母でした。誰かに言いつけているようです。

「ヒバさんのお輿(こし)入れは、儀のすぐあとに。水を待たせては、緑地が持ちません」

 わたしは、戸を叩きませんでした。

 足を後ろへ引いて、何事もなかったように、廊下を戻りました。

 旦那様は、手放すと決めておられるのです。わたしを自由にするためか、厄介払(やっかいばら)いのためか、分かりません。どちらにしても、旦那様は儀のほうを向いておられます。名が戻ったあと、どうなるのかを、考えている声ではありませんでした。

 日が傾いて、ナツメヤシの影が長くなりました。

 宵送りの灯を、わたしは自分で用意して、火を入れました。

 小さな炎が一つ。いつも卓に置いていた水差しの代わりに、それを手に、駱駝の手綱を引いて、わたしは緑地を出ました。宵送りの灯を掲(かか)げた娘は、夜の道でも咎(とが)められません。


◇


 実家の井戸屋敷に着いたのは、夜も更けてからでした。

 宵送りの娘は、灯を一つ持って、裏の門から入る決まりです。門の外に、見慣れない駱駝が一頭、繋がれていました。荷は少なく、鞍(くら)に砂色の房(ふさ)がついています。砂の民の、隊商の鞍です。

 門の陰で灯の火屋(ほや)を傾けて、わたしは中庭をのぞきました。

 帳場の戸口から、父が客を送り出すところでした。砂色の長衣(ちょうい)の男が、懐(ふところ)から折りたたんだ紙を出して、父に渡しました。父は紙の印を月明かりにかざして、満足そうに袖の内へしまいました。


「手付(てつ)けは、儀のあと。それで、ご承知を」

「承知した。長のファルーク殿(どの)には、よろしくお伝えを」

 男が駱駝を引いて去ってから、わたしは中庭へ入りました。

 父は、庭の隅の小さな井戸のそばに立っていました。わたしが十二の日に、泉の精と契約した井戸です。

「来たか。いまの話、聞こえていたか」

「いえ、何も」

 本当は、聞こえていました。けれど、父が自分の口で話すのを、聞いておきたかったのです。

「なら、話しておこう」

 父は、わたしの灯を見ようともしませんでした。

「儀が済んだら、証文は封ごと私に戻る。そのまま、砂の民の長ファルーク殿にお譲りする。約定(やくじょう)は、いま交わした」

 約定。譲(ゆず)る。お譲りする、と、父は言いました。

「ファルーク殿は、お前の泉の精が、砂漠(さばく)の下の水脈まで指すと聞いている。隊商の水場が、すべて砂の民のものになる。その見返(みかえ)りに、砂の民への借りは、帳消(ちょうけ)しになる。ナフラの緑地には、ファルーク殿の娘が嫁ぐ。お前は儀のあと、あの家の庇護(ひご)を受ける。悪いようにはならん」

「……わたしの意思は」

「お前の意思が、何の足しになる」

 父は、初めてこちらを向きました。

「家のためだ。お前は三年、嫁ぎ先で何の役にも立たなかった。最後に、家の役に立て」

 わたしは、何も答えませんでした。

 父は、それを承知と取ったようでした。「朝まで灯を絶やすな」と言い置いて、母屋(おもや)へ戻っていきました。

 一人になった庭で、池の水の音だけが続いていました。

 井戸の縁に腰を下ろして、灯を足もとに置きました。

 家の役に立つ。

 その言葉が、思っていたよりも、体のどこかに、静かに沈んでいくのが分かりました。三年、誰にも何も頼まれなかった。名を呼ばれず、井戸を読めとも言われず、水差しを置くことだけが、わたしの仕事でした。そのわたしが、最後に、役に立てるというのです。

 一晩だけ、そう思ってもいい、と思いました。

 泉の精が、指先でひやりと鳴りました。

 わたしの名で、わたしの精霊が、見知らぬ男の声一つで、砂漠の水のありかを指す。わたしの意思とは、何の関わりもなく。それを、「役に立つ」と呼ぶのでしょうか。


 灯の火が、風もないのに揺れました。持ち上げた手が、震えているのです。壁の影が歪(ゆが)んで、わたしの影が、井戸の影に重なりました。

 道は、三つしかありませんでした。

 一つ。儀を受ける。旦那様からは自由になります。名は父のもとへ戻り、見知らぬ男のものになります。

 二つ。儀を拒(こば)む。わたしは買われた妻のまま、緑地に残ります。旦那様は、手放したがっておられます。

 三つ。儀の場で、自分の口から、旦那様に名を告げる。

 預け名になれば、封は割れて、証文はただの紙になります。父も、砂の民も、もう手を出せません。けれど、告げた名は、二度と取り返せません。わたしは、手放そうとしておられる方に、わたしのいちばん大切なものを、渡すことになります。使われても、捨てられても、わたしには何も言えません。

 自分を守る自由と、自分で選ぶ信頼と。どちらかを取れば、どちらかを失います。

 袖の中で、母の櫛の歯が、指に触れました。母は、わたしが十二の日に名を預けに行く朝、言いました。名は預けるものよ、売るものではないの、と。あの日は、意味が分かりませんでした。


「告げなかったのは、お前だ」


 父の声が、耳の奥で鳴りました。

 半分は、本当でした。婚礼の夜、「言わなくていい」と言われて、「はい」と言ったのは、わたしです。三年、名を呼ばれなかったのは、旦那様が呼ばなかったからだけではありません。わたしも、呼んでもらうための何ひとつを、自分から差し出さなかった。呼ばれないことを、自分の価値のなさのせいにして、水差しだけを置き続けた。

 バッサームの言葉を思い出しました。頼めば、奥様は断れなくなる、と。戸の外の、あの桶も。

 名を握る人が、三年、わたしに断る余地を残しつづけた。

 それならば、わたしが差し出す番です。断る余地ごと。

 夜が白みはじめるころ、灯の油は、もう残りわずかでした。わたしは立ち上がって、小さな炎をいたわるように、手で覆いました。


 婚礼の夜に、言わなかったことを。


 言いに行きます。


◇


 儀は、日の高い時刻に、三本目の井戸のそばで開かれました。

 わたしが着いたとき、ナツメヤシの陰には、もう人が集まっていました。星の子らの長ハキームさま。義母。井戸掘りのバッサームたちが、少し離れて立っています。父がいました。昨夜(ゆうべ)、駱駝を引いて去った砂色の長衣の男が、その隣にいました。林の端には、垂(た)れ布(ぬの)をおろした輿が一台。後添えのヒバさんが、念のために連れてこられたのでしょう。

 わたしは、油の尽きかけた灯を、井戸の縁に置きました。夜どおし持っていた炎が、置いた拍子に、ふっと小さくなりました。

 旦那様が、こちらを見ました。


 一拍。


 けれど今日は、その一拍のあいだに、旦那様の目が、わたしの手の灯から、旅の砂のついた裾(すそ)へ、ゆっくり動くのが見えました。宵送りを終えて戻った者の姿を、見て取っておられるのだと思いました。

 ハキームさまの手には、星の形の封蝋(ふうろう)を押した紙が、一枚ありました。星の子らの帳から出された、証文でしょう。

 ハキームさまが、決まりを述べます。

「真名を返す儀は、互いの真名を、二度と口にしないと誓(ちか)うことで成る。ただし、この夫婦は、名を告げ合わなかったと聞く。返す名のない儀だ。形だけで足りる」


「形だけでは、足りません」


 旦那様の声でした。

「誓う前に、申し上げることがあります」


 井戸掘りたちの、息をのむ気配がしました。旦那様は、長衣の袖をおろして、まっすぐハキームさまのほうを向いていました。


「私は、妻の真名を知っています。名の質の証文で。三年前から」

 ざわめきが起きました。義母が、顔色を失いました。

 名の質は、いまは恥とされる習わしです。買った側にも、買われた側にも、傷が残ります。それを、旦那様は、人の前で、ご自分の口でおっしゃったのです。


「ですから、私が誓います。二度と口にしません。証文は、封ごと、妻の父上へ」

「旦那様」


 わたしは、前へ出ていました。足が、勝手に動いたのです。声は大きくなりませんでした。大きくならないほうが、遠くまで届く気がしました。


「その証文の行き先を、旦那様は、ご存じありません」


 昨夜聞いたことを、わたしは短く話しました。儀のあと、証文は父のもとへ戻り、封ごと砂の民の長ファルークさまへ譲られること。わたしの泉の精が、砂漠の下の水脈まで指すと聞いて、買い手がついていること。


「でたらめだ」

 父が声を上げました。

「父上の袖に、約定書(やくじょうしょ)があります。砂の民の印のついた、折りたたんだ紙が」

 父の手が、袖口(そでぐち)を押さえました。

「見せなさい」

 ハキームさまが、静かに言いました。

 長い間があって、父は、紙を差し出しました。ハキームさまは、それを開いて、ざっと目を通し、顔を上げました。


「売り買いの約束は、儀の外のことだ。わしの関わりではない。証文は、渡した者のもとへ戻る。これは決まりだ」

 そこで、長い髭(ひげ)を撫(な)でるように、一度、言葉を切りました。

「ただし、名の主が、自分の口で告げた名は、預け名になる。封は割れ、証文はただの紙だ。これも、決まりだ」

 わたしは、旦那様の前に立ちました。


「旦那様。わたしの名を、預けます」


 旦那様は、動きませんでした。長い、長い間でした。

「それは、私が受けてはならない」

 低い声でした。

「名を買った者が、名を受ければ、あなたが恩(おん)や恐(おそ)れで渡したのか、本心で渡したのか、誰にも分からなくなる。あなたは、いま、何も選べない場所に立たされている」

「分からなくなるのは、旦那様が、三年、わたしに命じなかったからです」

 わたしは、言いました。

「わたしは知っています。名を握って、頼むことさえなさらなかった方に、わたしは、恩も恐れも、感じていません。……断るのも、あなたの自由です。預かるのも、預からないのも」

 旦那様は、一拍、止まりました。

 その一拍の長さを、わたしは、知っていました。三年、毎晩、背中で聞いてきた間です。

「……分かった」

 旦那様が、頭を下げました。

 わたしは、爪先立(つまさきだ)ちになって、旦那様の耳もとへ、口を寄せました。

 生まれたときに授かって、十二の日に、泉の精へたった一度だけ口にした名を、わたしは、自分の口で、旦那様に告げました。

 小さな音がしました。

 振り向くと、ハキームさまの手の中で、証文の封の蝋が、星の形のまま、二つに割れていました。


「預け名となった」


 ハキームさまが言いました。

「証文は、ただの紙だ」

 父の口が、開いて、閉じました。

「……婚礼の夜に」

 旦那様が、わたしの前で、低く言いました。

「言わなくていいと言ったのは、売られた名を、告げさせたくなかったからです。あなたが自分から言うのでなければ、意味がないと思っていました。三年、私が、言わせなかったのです」


「頼んでください」


 わたしは言いました。

「名を呼ばずに頼まれたことなら、わたしは、断れます」


 旦那様の手が、体の脇で、握られては、ほどけました。縄の形に固まったてのひらが、何かを探しているようでした。それでも、旦那様は、もう、止まりませんでした。


「……井戸を、読んでくれないか」


 三年で、初めての、頼みでした。


「はい」


 命じられたからではありません。読みたかったから、読むのです。

 わたしは、三本目の井戸の縁に膝をつきました。縄の溝に、手のひらを当てます。石は温かく、手首で、泉の精が、水のように、すうっと鳴りました。

 井戸の底の、さらに下。

「二尋(ひろ)、下です」

 わたしは言いました。

「旦那様が、昨日まで掘っておられた場所の、すぐ下に」

 旦那様が、目を見張(みは)りました。

「……昨日の朝、そこで、縄を置いた」

 三年の人の手と、井戸読みの力が、同じ水脈の上で、会いました。

 父は、ハキームさまの前で、何か叫(さけ)んでいました。名は自分のものだ、と言ったのか、約定は有効だ、と言ったのか、もう誰も聞いていませんでした。ハキームさまは、「名の質は、恥の習わしだ。ここにいる者が、みな聞いた」と、それだけを言いました。砂色の長衣の男は、黙って一礼して、「ファルークさまには、そのとおりお伝えします」と言い残して去りました。

 輿の垂れ布の奥から、若い女の声がしました。

「わたしは最初から、どうでもよかったのです」

 輿は、砂の上を、静かに遠ざかっていきました。

 誓う者はいません。儀は、成りませんでした。

 その日の夕方、バッサームたちが、二尋、掘り下げました。湿(しめ)った砂が出ました。夜になって、三本目の井戸の底に、水が溜(た)まりました。

 義母が、井戸端に立っていました。

 長い杓子(しゃくし)で、水をすくって、杯に注ぎました。それを、わたしに差し出しました。「冷たいうちに」と、一言だけでした。

 杯は、冷たいものでした。

 その夜、わたしは、水差しと杯を、卓に置きました。

 奥の部屋へは、下がりませんでした。

 足音が、井戸のほうから上がってきます。砂を噛む長靴の音。扉の前で、歩幅が変わります。

 戸口に立った旦那様は、一拍、止まりました。

 その一拍が何の間なのか、いまは分かります。買った名ではなく、預かった名として、口にしてよいかを、確かめる間です。

 それから、わたしの名を、呼びました。

 三年、旦那様の口の中にだけあった、わたしの名です。

 泉の精は、動きませんでした。手首で、小さな水音が、ただ、いつものように鳴っています。


 何も、起きません。


「何も起きませんでしたね」

「ああ」

 旦那様は、少しだけ、笑いました。


「呼んだだけだ」

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