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仮面の音

作者: 研磨の琉璃
掲載日:2026/07/10

祖母が亡くなったあと、私は山間の村にある実家へ戻った。


 築百年を超える古い家は、人の気配を失っていた。柱は湿り、畳はわずかに沈み、誰もいないはずなのに、ときおり廊下の向こうで木が軋む。


 葬儀を終えた夜、近所の老人が私を呼び止めた。


「二階の蔵だけは、夜に開けるな」


 それだけ言って帰っていった。


 理由を尋ねても振り返らなかった。


 祖母からも昔、似たようなことを聞かされた記憶がある。


「音が鳴っても返事をするな」


 子どものころは怪談だと思って笑っていた。


 だが、その夜。


 私は最初の音を聞いた。


 ――コン。


 木を軽く叩くような音。


 天井の上からだった。


 風かと思った。


 しかし十分ほどして、また鳴る。


 コン。


 今度は少し近い。


 まるで誰かが、二階を裸足で歩きながら柱を指先で叩いているようだった。


 私は時計を見る。


 午前一時三十三分。


 音は規則正しく続いた。


 コン。


 コン。


 コン。


 眠れるはずがなかった。


 翌朝、蔵を調べた。


 古い衣装箱、祭りの道具、錆びた農具。


 そして、一つだけ白布に包まれた木箱があった。


 箱には墨で書かれている。


 **面に触れるな。音を聞くな。**


 嫌な胸騒ぎがした。


 それでも私は蓋を開けた。


 中には一枚の仮面。


 白い能面に似ている。


 女とも男ともつかない顔。


 口元だけが、ほんの少し笑っていた。


 持ち上げた瞬間だった。


 耳元で、誰かが囁いた。


 「……聞こえた」


 私は振り返る。


 誰もいない。


 蔵は静まり返っていた。


 しかしその夜から、音が変わった。


 コンではない。


 カン。


 硬い。


 乾いた音。


 金属を叩くような響き。


 しかも部屋の中から聞こえる。


 押し入れ。


 壁。


 机の下。


 音の場所が毎回違う。


 私は録音しようとスマートフォンを置いた。


 翌朝。


 録音には確かに音が入っていた。


 カン。


 カン。


 そのあと。


 知らない声が小さく入っている。


 「返して」


 私は鳥肌が立った。


 その日の夕方、村で唯一残る神社へ向かった。


 宮司は八十を超える老人だった。


 仮面を見せると、顔色が変わる。


「どこで見つけた」


「蔵です」


「箱へ戻せ」


「これは何なんですか」


 老人は長い沈黙のあと語った。


 昔、この村には「音迎え」という祭りがあった。


 神は姿ではなく音で来る。


 鈴。


 太鼓。


 笛。


 そして最後に仮面を被った者が神を迎える。


 だが百年以上前、一人の男が祭りの最中に仮面を外した。


 誰もその顔を見ていない。


 見た者は全員、自分の耳を潰して死んだからだ。


 以来、その仮面は封じられた。


「音は近づいている」


 老人は震えながら言った。


「三日目に顔を見る」


「誰の」


「お前のだ」


 意味が分からなかった。


 私は笑い飛ばそうとした。


 だが笑えない。


 老人の目が、本気だった。


 帰宅した夜。


 午前一時三十三分。


 カン。


 音が鳴る。


 今度は一度だけではない。


 家中から鳴り響く。


 カン。


 カン。


 カン。


 まるで見えない誰かが壁を歩いている。


 私は懐中電灯を持って廊下へ出た。


 音は二階からだった。


 蔵。


 ゆっくり階段を上る。


 カン。


 扉の向こう。


 カン。


 誰かがいる。


 私は震える手で襖を開けた。


 暗闇。


 何もいない。


 だが仮面だけが床に落ちていた。


 箱へ戻したはずなのに。


 こちらを向いている。


 笑っている。


 その瞬間。


 カン。


 音が真後ろで鳴った。


 振り返る。


 誰もいない。


 だが首筋に冷たい息。


 耳元で囁く。


 「まだ聞こえる」


 私は逃げた。


 階段を転げ落ちる。


 そのとき。


 玄関の鏡に、自分が映った。


 いや。


 違う。


 私は仮面を被っていた。


 慌てて顔を触る。


 素顔だ。


 鏡だけが違う。


 鏡の中の私は笑っている。


 口が動く。


 「返して」


 鏡が割れた。


 翌日、私は村を出ようとした。


 荷物を積み、車のエンジンをかける。


 だがナビは同じ場所を指し続ける。


 一本道を三時間走っても、家へ戻ってくる。


 ガソリンだけが減る。


 夕方になる。


 私は諦めて家へ戻った。


 夜。


 音はさらに近づいた。


 今度は壁ではない。


 耳の中から聞こえる。


 カン。


 鼓膜の裏。


 脳の奥。


 心臓の鼓動に重なる。


 眠れない。


 音は止まらない。


 三日目。


 私は限界だった。


 神社へ駆け込む。


 宮司はいなかった。


 本殿は荒れ、床には大量の耳栓が散らばっている。


 その奥に古い日記があった。


 最後のページ。


 こう書かれている。


 **仮面は人を食わない。**


 **音を食う。**


 意味が分からない。


 続きを読む。


 **音を失った者は、自分の声を忘れる。**


 **声を忘れた者は、自分の顔を失う。**


 そのときだった。


 カン。


 日記の中から音がした。


 紙が揺れる。


 文字が滲む。


 墨が流れ、黒い液体になる。


 液体は床へ落ち、人の形を作った。


 顔だけがない。


 首から上が真っ黒だ。


 そいつはゆっくり手を伸ばす。


 私の耳へ。


 耳たぶを優しく撫でる。


 そして。


 音が消えた。


 完全な静寂。


 心臓の音も。


 呼吸も。


 風も。


 何も聞こえない。


 私は叫んだ。


 自分の声が聞こえない。


 恐怖で涙が出た。


 黒い影は仮面を差し出す。


 被れ。


 そう言っている。


 私は首を振る。


 影は動かない。


 仮面を差し出し続ける。


 静寂の中。


 私は初めて理解した。


 音がない世界は、生きている世界ではない。


 耐えられなかった。


 私は仮面を被った。


 その瞬間。


 世界中の音が戻る。


 鳥。


 風。


 木。


 鼓動。


 涙があふれる。


 助かった。


 そう思った。


 だが。


 耳元で誰かが笑った。


 「次は、お前が鳴らす番だ」


 私は仮面を外そうとした。


 外れない。


 皮膚になっている。


 顔そのものになっている。


 私は神社を飛び出した。


 村には誰もいない。


 いや。


 みんな仮面を被っていた。


 畑にも。


 道にも。


 家の窓にも。


 白い顔。


 白い顔。


 白い顔。


 全員が私を見ている。


 誰も喋らない。


 代わりに。


 カン。


 一人鳴る。


 カン。


 二人鳴る。


 カン。


 三人。


 四人。


 五人。


 やがて村中が音を鳴らし始める。


 その音は笑い声だった。


 私は逃げた。


 走った。


 森へ。


 山へ。


 夜明けまで。


 ようやく県道へ出た。


 通りかかったトラックが止まり、運転手が窓を開ける。


「大丈夫か!」


 私は助けを求めようとした。


 だが。


 口から出たのは言葉ではない。


 カン。


 一度。


 運転手の顔色が変わる。


「……その音」


 彼は震えながら後退した。


 バックミラーに私が映る。


 仮面はない。


 素顔だった。


 安心した。


 そう思った次の瞬間。


 鏡の中の私は、口を大きく裂いて笑った。


 そして。


 カン。


 鏡の向こうから。


 無数の白い手が伸びてきた。


 運転手は悲鳴を上げ、車を急発進させる。


 私は一人、道路に取り残された。


 静かだった。


 いや。


 静かではない。


 遠くから聞こえる。


 カン。


 カン。


 カン。


 山の奥。


 村の方角。


 違う。


 私の後ろだ。


 ゆっくり振り返る。


 誰もいない。


 それなのに、影だけが一つ増えていた。


 私の影の隣に、仮面をつけた誰かの影が立っている。


 その影は私と同じ動きをしない。


 ゆっくりと首を傾ける。


 音もなく口を開く。


 だが聞こえた。


 耳ではない。


 頭の内側で。


 「返して」


 何を。


 そう思った瞬間、私は気づいた。


 返すものなど最初から一つしかない。


 私の顔だ。


 影が一歩近づく。


 私は後ずさる。


 影も笑う。


 朝日が昇る。


 私の影だけが消えた。


 残ったのは、仮面の影だけだった。


 数日後。


 警察は山道で一枚の白い仮面を発見した。


 新品のように美しかったという。


 ただ一つだけ奇妙な点があった。


 耳を近づけると、中から小さな音が聞こえる。


 コン。


 いや。


 違う。


 それは誰かが木を叩く音ではない。


 必死に内側から出ようとしている指先の音だった。

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