仮面の音
祖母が亡くなったあと、私は山間の村にある実家へ戻った。
築百年を超える古い家は、人の気配を失っていた。柱は湿り、畳はわずかに沈み、誰もいないはずなのに、ときおり廊下の向こうで木が軋む。
葬儀を終えた夜、近所の老人が私を呼び止めた。
「二階の蔵だけは、夜に開けるな」
それだけ言って帰っていった。
理由を尋ねても振り返らなかった。
祖母からも昔、似たようなことを聞かされた記憶がある。
「音が鳴っても返事をするな」
子どものころは怪談だと思って笑っていた。
だが、その夜。
私は最初の音を聞いた。
――コン。
木を軽く叩くような音。
天井の上からだった。
風かと思った。
しかし十分ほどして、また鳴る。
コン。
今度は少し近い。
まるで誰かが、二階を裸足で歩きながら柱を指先で叩いているようだった。
私は時計を見る。
午前一時三十三分。
音は規則正しく続いた。
コン。
コン。
コン。
眠れるはずがなかった。
翌朝、蔵を調べた。
古い衣装箱、祭りの道具、錆びた農具。
そして、一つだけ白布に包まれた木箱があった。
箱には墨で書かれている。
**面に触れるな。音を聞くな。**
嫌な胸騒ぎがした。
それでも私は蓋を開けた。
中には一枚の仮面。
白い能面に似ている。
女とも男ともつかない顔。
口元だけが、ほんの少し笑っていた。
持ち上げた瞬間だった。
耳元で、誰かが囁いた。
「……聞こえた」
私は振り返る。
誰もいない。
蔵は静まり返っていた。
しかしその夜から、音が変わった。
コンではない。
カン。
硬い。
乾いた音。
金属を叩くような響き。
しかも部屋の中から聞こえる。
押し入れ。
壁。
机の下。
音の場所が毎回違う。
私は録音しようとスマートフォンを置いた。
翌朝。
録音には確かに音が入っていた。
カン。
カン。
そのあと。
知らない声が小さく入っている。
「返して」
私は鳥肌が立った。
その日の夕方、村で唯一残る神社へ向かった。
宮司は八十を超える老人だった。
仮面を見せると、顔色が変わる。
「どこで見つけた」
「蔵です」
「箱へ戻せ」
「これは何なんですか」
老人は長い沈黙のあと語った。
昔、この村には「音迎え」という祭りがあった。
神は姿ではなく音で来る。
鈴。
太鼓。
笛。
そして最後に仮面を被った者が神を迎える。
だが百年以上前、一人の男が祭りの最中に仮面を外した。
誰もその顔を見ていない。
見た者は全員、自分の耳を潰して死んだからだ。
以来、その仮面は封じられた。
「音は近づいている」
老人は震えながら言った。
「三日目に顔を見る」
「誰の」
「お前のだ」
意味が分からなかった。
私は笑い飛ばそうとした。
だが笑えない。
老人の目が、本気だった。
帰宅した夜。
午前一時三十三分。
カン。
音が鳴る。
今度は一度だけではない。
家中から鳴り響く。
カン。
カン。
カン。
まるで見えない誰かが壁を歩いている。
私は懐中電灯を持って廊下へ出た。
音は二階からだった。
蔵。
ゆっくり階段を上る。
カン。
扉の向こう。
カン。
誰かがいる。
私は震える手で襖を開けた。
暗闇。
何もいない。
だが仮面だけが床に落ちていた。
箱へ戻したはずなのに。
こちらを向いている。
笑っている。
その瞬間。
カン。
音が真後ろで鳴った。
振り返る。
誰もいない。
だが首筋に冷たい息。
耳元で囁く。
「まだ聞こえる」
私は逃げた。
階段を転げ落ちる。
そのとき。
玄関の鏡に、自分が映った。
いや。
違う。
私は仮面を被っていた。
慌てて顔を触る。
素顔だ。
鏡だけが違う。
鏡の中の私は笑っている。
口が動く。
「返して」
鏡が割れた。
翌日、私は村を出ようとした。
荷物を積み、車のエンジンをかける。
だがナビは同じ場所を指し続ける。
一本道を三時間走っても、家へ戻ってくる。
ガソリンだけが減る。
夕方になる。
私は諦めて家へ戻った。
夜。
音はさらに近づいた。
今度は壁ではない。
耳の中から聞こえる。
カン。
鼓膜の裏。
脳の奥。
心臓の鼓動に重なる。
眠れない。
音は止まらない。
三日目。
私は限界だった。
神社へ駆け込む。
宮司はいなかった。
本殿は荒れ、床には大量の耳栓が散らばっている。
その奥に古い日記があった。
最後のページ。
こう書かれている。
**仮面は人を食わない。**
**音を食う。**
意味が分からない。
続きを読む。
**音を失った者は、自分の声を忘れる。**
**声を忘れた者は、自分の顔を失う。**
そのときだった。
カン。
日記の中から音がした。
紙が揺れる。
文字が滲む。
墨が流れ、黒い液体になる。
液体は床へ落ち、人の形を作った。
顔だけがない。
首から上が真っ黒だ。
そいつはゆっくり手を伸ばす。
私の耳へ。
耳たぶを優しく撫でる。
そして。
音が消えた。
完全な静寂。
心臓の音も。
呼吸も。
風も。
何も聞こえない。
私は叫んだ。
自分の声が聞こえない。
恐怖で涙が出た。
黒い影は仮面を差し出す。
被れ。
そう言っている。
私は首を振る。
影は動かない。
仮面を差し出し続ける。
静寂の中。
私は初めて理解した。
音がない世界は、生きている世界ではない。
耐えられなかった。
私は仮面を被った。
その瞬間。
世界中の音が戻る。
鳥。
風。
木。
鼓動。
涙があふれる。
助かった。
そう思った。
だが。
耳元で誰かが笑った。
「次は、お前が鳴らす番だ」
私は仮面を外そうとした。
外れない。
皮膚になっている。
顔そのものになっている。
私は神社を飛び出した。
村には誰もいない。
いや。
みんな仮面を被っていた。
畑にも。
道にも。
家の窓にも。
白い顔。
白い顔。
白い顔。
全員が私を見ている。
誰も喋らない。
代わりに。
カン。
一人鳴る。
カン。
二人鳴る。
カン。
三人。
四人。
五人。
やがて村中が音を鳴らし始める。
その音は笑い声だった。
私は逃げた。
走った。
森へ。
山へ。
夜明けまで。
ようやく県道へ出た。
通りかかったトラックが止まり、運転手が窓を開ける。
「大丈夫か!」
私は助けを求めようとした。
だが。
口から出たのは言葉ではない。
カン。
一度。
運転手の顔色が変わる。
「……その音」
彼は震えながら後退した。
バックミラーに私が映る。
仮面はない。
素顔だった。
安心した。
そう思った次の瞬間。
鏡の中の私は、口を大きく裂いて笑った。
そして。
カン。
鏡の向こうから。
無数の白い手が伸びてきた。
運転手は悲鳴を上げ、車を急発進させる。
私は一人、道路に取り残された。
静かだった。
いや。
静かではない。
遠くから聞こえる。
カン。
カン。
カン。
山の奥。
村の方角。
違う。
私の後ろだ。
ゆっくり振り返る。
誰もいない。
それなのに、影だけが一つ増えていた。
私の影の隣に、仮面をつけた誰かの影が立っている。
その影は私と同じ動きをしない。
ゆっくりと首を傾ける。
音もなく口を開く。
だが聞こえた。
耳ではない。
頭の内側で。
「返して」
何を。
そう思った瞬間、私は気づいた。
返すものなど最初から一つしかない。
私の顔だ。
影が一歩近づく。
私は後ずさる。
影も笑う。
朝日が昇る。
私の影だけが消えた。
残ったのは、仮面の影だけだった。
数日後。
警察は山道で一枚の白い仮面を発見した。
新品のように美しかったという。
ただ一つだけ奇妙な点があった。
耳を近づけると、中から小さな音が聞こえる。
コン。
いや。
違う。
それは誰かが木を叩く音ではない。
必死に内側から出ようとしている指先の音だった。




