愛奈
その女──愛奈と出会ったのは、夏の気配が見え始める頃だった。
ひらひらと風に揺れる白いワンピースを着た愛奈は、何処か季節から浮いて見えた。
愛奈には、冬の夜を感じさせる気配があった。
全てが静まり、眠り、終わる季節。
ついそう言うと、愛奈はクスクスと笑った。
「なぁに、それ。季節に似合うとか似合わないとかって、あるの?」
そう言いながら、巧の腕に腕を絡ませる。
愛奈には、他人との距離感が近い所があった。
しかし、それに気が付かない振りをして、絡む腕に意識を向ける。
正直な所、最初に声を掛けた時に、下心がなかったとは言えない。
突然降り出した雨に、駆け足で帰った自宅前で、愛奈は雨宿りをしていた。
雨宿りというより、全身ずぶ濡れで途方に暮れていた、という方が正しいか。
はぁ、と吐く息が白く漏れていた。
その横顔を見て、「うちで雨宿りしていく?」と声を掛けたのだった。
ゆっくりと顔を向けた愛奈は、じっと巧を見つめ「いいの?」と可愛らしい声で答えた。
部屋に招き入れたものの、特に何も起きることはなく、巧は寝室で。愛奈はソファで早々に眠りに就いた。
翌朝、死んだように眠る愛奈の寝顔を見た時、巧の中に生まれたのは、敬愛のような気持ちだった。いや、心酔というような感覚だったかもしれない。
貸した部屋着は、着古して袖口や襟ぐりがよれていたし、頬に張り付く髪も手入れが出来なかったせいか、乱れている。
それなのに、特別な存在なのだと、巧は感じていた。
手を触れてはならぬような。
神聖な──。
パチリと目を覚ました愛奈は、なんてことはない風に「おはよぉ」と可愛らしい声で言って、眠そうに目を擦った。
連絡先を交換しようとした巧は「スマホ持ってないの」という答えに、全てを察し、朝食を食べさせて愛奈を見送った。
白いワンピースを風に揺らしながら、愛奈は遠ざかっていく。
何処か不思議で小さな幸福のようなものを感じた、夢のひと時。そう愛奈とのことを処理した巧は、しかし数日後、再び自宅前に立っていた愛奈に驚いた。
「……こんばんは」
どう声を掛けたらいいのか判らず、そして声を掛けてから、別に自分に会いに来た訳ではないのかもしれない。と気が付いた巧は、愛奈が嬉しそうに笑みを浮かべたのに心底安堵した。
「こんばんは。ねぇ、散歩しない?」
「散歩?」
「そう、散歩」
そう言って、愛奈は返事を待たずに歩き出す。
巧は迷わずそれに続き、隣に並んで歩き出した。
そうすると、愛奈はするりと腕を絡みつかせてくる。
そういう関係が、一か月程続いていた。
別に、恋人という訳じゃない。
色々な話をするが、恋だの愛だのそういった類の話はしない。
それが、益々特別な関係だと感じさせた。
相変わらず、巧の中に下心がない訳ではない。
だが、それ程までに、愛奈は人を惹きつける魅力を持っていた。
だからこそ、こうした曖昧な関係を保っていたい。
そう思わせた。
だから、こそ、愛奈が窺うような目をして訊いたその言葉に、巧はすぐに答えられなかった。
「私のお家、行く?」
これまでに近所に住んでいるということは聞いていた。
一人暮らしをしているということも。
胸が高鳴り、それを隠すように唇を噛む。
「行かない?」
「行く」
巧の答えに、愛奈は嬉しそうに笑う。
──愛奈は、俺のものに……なってくれるのか?
期待を胸に、巧は愛奈の導くままに歩いた。
「ここだよ」
と、愛奈が示した、小さく木々に埋もれるようにして建つ一軒家を前にした巧は、戸惑いに目を瞬いた。
「一人で、一軒家に住んでるのか?」
「うん。やっぱりマンションとかだと手狭だし。それにね、ここは色々事情があって家賃が凄く安いの」
家賃が凄く安い、という言葉に、その原因をいくつか頭に思い浮かべた巧は、思わずといった風に愛奈の横顔を見つめた。
クルリ、と顔を向けた愛奈は、不思議そうに巧を見上げている。
愛奈は何処か他の女とは違った所がある。きっと、そうした理由は気にならないのだろう。
「良い家だね。庭の木も手入れしてるの?」
随分と大きな木々が幾つも生えているが、放置されているという様子でもない。
階段を上がって庭をよく見れば、花々も咲いているのが見えた。
「うん、これ以上大きくならないようにきちんと剪定してるんだ」
愛奈が玄関の扉を開けると、少し強すぎるくらいの花の香りが鼻腔をくすぐった。
確かに、愛奈からはこの花の香りがする。
それが随分と家に染み込み、最早家自体がこの匂いを発しているようだ。
玄関の扉を閉めると、愛奈は巧の手を引いて廊下を歩き、振り返った。
「巧君。ようこそ、私のお家へ」
「う、うん……」
改めて言われると、気恥ずかしい。
心臓がドクドクと鳴る。
愛奈を……この目の前の愛らしい女を──。
巧の中で欲望が渦巻いていく。
それを感じ取ったかのように、愛奈は手を引き、廊下を進む。
その先にあるのは、風呂場だ。
巧は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
愛奈は、肩越しに振り返り、薄く微笑む。
握る手に力が籠もる。
風呂場に着くと、愛奈は巧の胸を軽く押し、浴室へと入れた。
よろめいてタイル張りの床に座り込み、愛奈を見上げる。
愛奈の動きに意識が集中する。
愛奈は、脱衣場で下着姿になると、軽やかに浴室へと入り、ゆっくりと浴室の扉を閉め、台に置かれた包丁を手に取った。
……包丁を、手に、取った。
それを巧が意識した瞬間、首元に強い衝撃が加わった。
潰れた声が漏れ、体がびくりと震える。
──痛い!
そう思うのに、そう感じるのに、もう既に体はいうことを聞かなかった。
あぁ……と辛うじて漏れた声に、愛奈がにっこりと笑う。
「大好きだよ、巧君」
──俺もだよ。でも、なん……で……。
巧の意識は、完全な闇に呑み込まれた。
「これで、やっと、愛し合えるね」
愛奈は、うっとりとそう呟いた。
巧の〝真実の愛の姿〟を掲げ持ち、その頬に付いた血を拭い取る。
戸惑いと、怯えと、恐怖に見開かれた瞳が愛らしい。
「巧君、可愛い……」
頬に軽くキスをする。
その頬はまだ温かい。
でも、すぐにこの肌は熱を失うのだ。
色もくすみ、完全な〝死〟を体現する。
愛奈はそっと床に敷いたタオルケットに巧を置き、残りの部分を浴槽に収めた。
「うん、やっぱりこれくらいの体型の人が一番いいかな。顔の肉付きもいい感じだし」
残りの部分を処置するのは後にして、愛奈は昂る胸を抑えるようにしながら体を拭い、着替えてから、改めてそっと巧を抱え持った。
駆け出しそうになる足を抑え、胸を抑え、乱れそうになる息を抑え、そのことに笑いながら階段を上がる。
階段を上がって左手にある扉を開け、愛奈は暫し恍惚として部屋の真ん中に佇んだ。
そうして、閉じていた目をパチリと開け、部屋の中をゆっくりと舐めるように見回し、宣言した。
「みんな、新しい愛すべき人だよ。巧君」
巧を掲げたまま、くるりとその場で回る。
見つめているのは、壁に設えた棚に並んだ首、首、首──。
愛奈の愛すべき人々だった。
愛奈を愛し、そして愛される人々。
愛はどれだけ沢山あってもいい。
それを愛し合う者達の中で循環させ、より沢山の愛を感じるのだ。
──此処は、私だけの場所。私だけの愛の場所。
愛奈は巧を抱き締め、そうして今度は唇に唇を重ねた。
巧の口の中に残った血が、唇に移って鉄のような味がする。「ふふ」と声が漏れた。
「大好きだよ、巧君。沢山、愛し合おうね。──皆とね」
愛奈は部屋をぐるりと見回し、心の底からの喜びの笑みを浮かべた。
「前から、ちょっと変だとは思ってたの。あんな事件があったのに、女の子が一人で住むなんて。一軒家でしょう? 普通は住まないじゃない、一人じゃ? でもねぇ、会えば挨拶もちゃんとするし、気立ても良さそうだったし、花なんかも育ててて……まさか、そこに死体が……ねぇ? 本当、怖いわぁ……」
ぼんやりとした視線を向ける小型犬を抱えた、壮年の女の話を聞いていた佐々木は、内心で息を吐いた。
あまりに凄惨な事件が起きていたというのに、口では「怖い」と言いながら、その様子は好奇心を滲ませている。
──大抵は、こんな反応だけど。毎度、叱り飛ばしたくなるんだよなぁ。
ある会社員の行方不明事件から、行き着いた先はこの木々に埋もれた一軒家だった。
中に踏み入れば、強い芳香剤や香水の匂いに混じり、刑事であれば瞬間感じ取ることの出来る死の臭いが、この家には染み付いていた。
どう説明すればいいのかは判らないが、多くの者が「判る」という臭い。
そうして捜索を進めてすぐ、二階の一室の異様な光景に声が上がった。
見渡す限りの、首、首、首。
綺麗に並べられたそれらは、一部は白骨化しているものもあった。
あまりの悍ましさに、胃液がせり上がって来る気配がした。
それを抑え、今は捜査に集中せねばならない。
──それにしても、異様すぎる。
この家に住む森中愛奈は、長い時を掛けコツコツと首だけを集めていたようだ。
他の部分は全て庭に埋められていた。
その上に咲く花々は、特上の栄養を得ているからだろう、実に鮮やかに咲き誇っている。
そもそものこの件の発端となった行方不明者──川合巧の頭部は、見つかっていない。
恐らく、森中愛奈が持ち出したのだろうと考えられている。
そう、森中愛奈は捕まっていない。
何処から情報を得たのか、それとも何かの導きか、佐々木達が囲んだ時には、既に何処にも姿が見えなくなっていた。
首ひとつを抱え、何処かの町を逃げている。
佐々木は思わず、はぁと溜め息を吐いた。
そのような状況を妄想している場合ではない。
凶悪犯を取り逃がしたなど、諸々と面倒なことが待っている。
そこまで考え、ガシガシと頭を掻く。
──凶悪犯罪だ。こんな感情を抱くべきじゃない。犯人を確実に捕らえることだけを考えるんだ。
ひとつ息を吐いてから、すっかり首が片付けられた部屋で手を合わせる。
──貴方達の無念は、必ず晴らす。
元々この家は、その昔殺人事件が起きてからというもの、事故物件として知られた家だった。
その事件すら、味気ないものに感じさせる森中愛奈の起こした事件。
一度目の事件も、犯人は捕まっていない。
──同じ結末には、しない。
佐々木は、もう一度息を吐き、踵を返した。
その時、まるで応えるように、部屋の何処かでキィと小さな音が鳴った気がした。




