清島安次郎の受難 其の二
3ヶ月前の話である。
安次郎は祖父と一緒に日本橋人形町にある茶屋で遊んだ後、夜も更けたのでその日は円満屋に泊まった。
円満屋の2階の上には屋根裏部屋があり、安次郎はそこを煙草をふかしたり、付文を読んだりするくつろぎの場にしていた。
その夜もそこで煙草をくゆらそうと窓を開けた。
すると向かいの栄屋で垂髪の女が薄暗い星明りの下、縫い物をしていた。
「可哀想に、こんな時間まで働かされて」
安次郎は女に手を振った。
始めは無視していた彼女もやがて手を振り替えしてくれた。
安次郎はそれに満足してまた煙草を吸い始める。
そのうちに、女が何か落とした気配に気付いた。
窓から外に出てそれを拾いに向かっている姿が見える。
かなり足元がおぼつかない。
「危ないな」
安次郎も心配そうにその様子を見る。
そのとき、彼女の降ろした髪の中からいびつな光を放つ線が部屋の中から伸びているのに気付く。
目を凝らし、思わずぎょっとした。
鎖が首に繋がれている。
「足滑らせたら死んじまう」
安次郎は部屋から飛び出し、女のいる庇へ向かった。
安次郎が塀を乗り越え、屋根づたいに女のところにたどり着いたとき、ついに女は足を滑らせた。
屋根にしがみつきもがく女を安次郎は抱え上げ、そのまま部屋の窓まで連れて行った。
驚くほど体の軽い女だった。
「大丈夫か、あんた」
窓の縁に座り安次郎は女の無事を聞いた。
女は黙ってうなずく。
「なんだって、こんな鎖なんか・・・」
鎖をジャラジャラならした。
女は首を振った。
「いいの、気にしてないから」
「気にするとかの問題か?夜中まで仕事させたり、首に鎖なんて。俺が組合に文句言ってやる」
安次郎が苦々しげにつぶやいた。
女はそれを聞くなり血相をかえ「だめっ」と安次郎に向き直る。
黒い瞳に長いまつげ、唇はさくらんぼのように艶がある。
美しい娘であった。
「お願いだから、ほっておいて。私はこのままでいいの」
うつむいたその目には夜露のような涙が光っていた。
その可憐で儚い様子は幻のように思えた。
夜空に吸い込まれ消えてしまいそうだった。
安次郎は思わず抱き寄せた。
そのまま女に顔を寄せるとその唇に、唇を重ねた。
「接吻したぁ?」
兵庫がすっとんきょうな声を上げた。
「安次郎さんって、ほんの数回言葉を交わしただけの相手とも接吻できるんですね」
沙代が軽蔑に侮蔑をこめた声で言った。
「いや、ついうっかりというか。幻かどうかわからなくなってさ。まだ酒も残ってて」
安次郎が冷や汗をかきながら言い訳をする。
「本当に接吻までなのか」
一真が冷茶を飲みながら尋ねる。
「一真まで・・・」
安次郎は途方にくれた顔になった。
「やっぱり覚えがあったか、見損なったぞ。栄屋はお園さんとお前を夫婦にして栄屋を継がせるつもりだ。吾は清島の家を継ぐ覚悟はいつでもできておる。お前は一日頭を冷やして婿養子に行く覚悟をつけるんだぞ」
知三郎はふんぞり返って言った。
「おちさ、てめえ。後で泣かしてやるからな」
ぎりぎりと青筋を立ててそういい残すと安次郎は家へと駆け出した。