序幕 其の二
夜も更けておりんは窓を開けた。
風がおりんの降ろしたままの黒髪をふわりと広げた。
時は既に夜九ツを廻り、見下ろす日本橋界隈を歩いているものは誰もいない。
空を見上げる。月の出ていない空は満天の星だった。
もう三月もすればまたあの命日がやってくる。
おりんはそっと天の川に手を合わせた後、星明りを頼りに窓から身を乗り出すようにして裁縫を始めた。
ここの栄屋に引き取られてもう9年になる。
ほとんど部屋から出されることもなく毎日縫い物だけを朝晩なくやらされている。
17歳という年頃の女には誠につらいことではあったが、仕方のないこととおりんは思っていた。
目の前の3間程の路地を挟んで、円満屋という呉服屋がある。
同業とはいえ、栄屋とは比べ物にならないくらい規模が大きい。
長女が武家に嫁ぎその孫は町奉行所に勤めていた。
安次郎というその侍がよく出入りをしている。
しばらくして、円満屋側の屋根裏の窓が開いた。
星明りでぼんやり顔がみえたときそこにいるのが当の安次郎であることに気づいた。
安次郎は煙草をぷかりとふかす。
伊達男の代表格。日本橋ではそう呼ばれるほど、安次郎は粋で若い女に人気がある。
安次郎はおりんに気付いたらしく顔を向けた。
おりんは恥ずかしくなり目を伏せる。
そうっと目をあげると、安次郎はまだおりんを見ていた。
おりんに向かって手を振っているのがわかった。
おりんは小さく手を振り替えした。
暗くて相手の顔はよく見えないが、安次郎はそれで満足したようだ。
煙草をまたぷかりとくゆらせ始めた。
おりんも裁縫を続ける。
そのとき手からはさみが滑り落ちた。
はさみは急斜になっている庇を滑り落ち、瓦に引っかかってしまった。
「とらなくちゃ」
おりんは窓からそっと外に出た。
黒い垂髪が風に巻き上げられ、首に巻きつくいびつな鉄輪をあらわにする。
その先に繋がれている鎖がじゃらり、と重い音をたてた。