結ばれざる者 其の二
小普請組の木山家に深い溝が生まれたのは小次郎が十八歳、兼ねてから持ち上がっていた縁談がほぼ決まりかけた頃だった。
突然小次郎はこの縁談を取りやめたいと言い出したのだ。
両親は困惑した。
しかし、その理由を聞いてますます驚いた。
小次郎は妹の厘が好きだったのだ。それも、どうしようもないほどに。
そう告げられた厘の動揺は大きかった。
当時七歳、非常識ともいえる兄のこの気持ちをどう扱ったらいいのかもわからない子どもであった。
そしてその日を境に家族はどこかよそよそしくなった。
特に厘は兄を避けた。
そうして奇妙な空気が続いていたある晩、小次郎がついに崩れた。
夜中、何かの気配に厘は目を覚ます。
同時にふすまを開けて厘の元に小次郎が近づいてきた。
その手には、抜き身の刀を携えている。
恐怖で厘の体が凍りついた。
暗くて顔は分からないが兄の形相がいつもと違うというのはおぼろげに分かる。
「厘、後生だからあに様を避けるのはよしてくれ。俺はどうかなりそうだ」
押し殺したその声に哀願が漂う。
そして次の瞬間、厘の手を掴んだ。
「いやあっ」
厘は、手元にあった枕を投げた。それにひるんだ隙に父母の寝ている部屋に駆け込んだ。
後の記憶はおぼろげだ。
母が兄をなじる。
父が刀を抜いた背中が見える。
兄は。
兄は、咆哮するとふすまを切り、柱をきりつけ、そのまま外に飛び出した。
明け方戻ってきた兄は、血を被っていた。
以来、兄は心を患い、妄言を言うようになった。
それだけではなく夜中になると刀を持ってふらふらと出て行く。
帰ってくると必ずどこかに血がついていた。
家人の目にも、小次郎が人を切っていることは明確だった。
「結局三人という扱いになってはいますがもっと殺されているはずです。私たちはどうしようもなく見ていることしか敵いませんでした。けれど、あの日は違ったのです」
夜になって出て行ったと思われていた小次郎は何を思ったのか引き返すと、庭の隅にある草むらに寝転がった。
厘がその姿を見つける。
星がきれいな穏やかな夜だった。
厘は小次郎に近づいた。不思議と怖い感じを受けなかった。
小次郎は厘に気づくと声をかけた。
「見ろよ。天の川だ」
厘も草むらに寝転がった。
「あれが牽牛だ」
星を指刺す兄は以前の優しい兄のままである。
「あれが、織女星」
厘は起き上がった。
「あに様。夜に出掛けるのはおやめになって」
今しか言うことはできないと思った。
しかし、小次郎はそれに答えずに星の話を続けた。
「星の二人は年に一度七夕の日に川をわたって逢瀬するんだ」
小次郎は星空を指でなぞってつぶやいた。
「皮肉なものだ。年に一度しか会えない二人より俺は好きな奴と毎日いるというのに、手も触れられない」
小次郎は溢れ出した涙を腕で隠した。
「厘よ、お前にはさぞかし俺が滑稽で異常な奴に見えてることだろう。でも本当にどうしようもないんだ。お前が恋しい」
厘は胸が痛んだ。
「あに様の気持ちには厘はこたえられません。厘は、妹なの」
言いながら、嗚咽がこみ上げてきた。
妹というだけではなく、厘は恋なんていうものすら知らない子供である。
「分かってるさ、一緒になろうとしているんじゃない。ただ、いつものように俺の近くにいるだけでよかったのに」
地面を叩いて小次郎が起き上がった。
「お前に拒まれたとき俺は全て失った。木山の家も、親ももうどうなったっていい。俺はもう、以前のようには戻れない」
さらに小次郎は厘にこう言った。
「俺がこんなになったのはお前のせいだ。俺が人を切るのも、木山の家を潰すのも」
厘には十分すぎる呪いであった。
もし、あの夜厘が兄を拒まなかったら兄は人殺しにはならなった。
何もかもが元のまま、皆普通に暮らせたのだ。
数日後、辻斬りに出た兄はそのまま捕らえられた。
「磔は、それは惨いものでした。私はそれも残された自分の使命だと思い見に行きました。でも、あに様は群衆の中から私を見つけ出して、厘、厘って、絶命するまで・・・」
語尾は涙で声にならなかった。
ふいに安次郎がおりんを抱きしめた。
「七太郎の件が冤罪だとわかっていても、兄がそれも自分の罪だといったから受け入れたんだろう。あんた、兄から受け取った重荷を背負いすぎなんだよ」
あやすように安次郎は背中をポンポンと叩いた。
「泣けよ。今まででっかい声で泣いたことすらないんだろ。すっきりするぞ」
十年分の思いが堰を切ったようにこぼれ出す。
安次郎の胸のうちで喉がかれるまでおりんは泣いた。
「七夕は嫌い。あに様の声がする気がして」
まだ少しぐずるように、おりんが言った。
「一人でいるとつらいだろう」
「もう、一人には慣れました」
顔を上げて、はれぼったくなった目をこすった。
「来年も、一緒に天の川を見よう」
そういった安次郎の言葉に噴出した
「私、これから尼寺にはいるというのに」
「でも一緒に見ることはできるだろ」
おりんは首をかしげた。
「だからさ、場所は違っても天の川は江戸でも鎌倉でも一緒だろ。七夕の日、俺は四ツの時に天を見る。そしてあんたのことを思い出すよ。約束する。これから年取っても、子孫ができても俺はずっとあんたを思い出す」
そう思えば怖くないだろ、と安次郎は笑った。
おりんはまた安次郎の胸に顔をうずめた。
やがて、おりんを呼ぶ声が奥から聞こえてきた。
「おりん殿、板倉殿がきたぞ。ご挨拶なさい」
一真の父、時宗に呼ばれておりんは晴れ晴れとした声で返事を返した。
立ち上がり奥へ向かう途中、安次郎にありがとうと微笑みかけて去っていった。