うな重(梅)
席に着いたとき、老爺はカウンターにいた。
品書きを、ガレアスの前に静かに置いた。
ガレアスは、品書きを、手に取った。
松。竹。梅。
少しの間、見ていた。
「梅を」
老爺は何も言わず、頷いた。
奥へ、消えた。
奥から、水音がした。
ガレアスは、手を、カウンターに置いた。
鎧がない。
篭手も、肩当ても、胸当ても、ない。
今日から、ない。
今朝、最後の任務を終えた。
レオンに、剣を預けた。
剣ではなく、騎士団を、だ。
レオンは両手で受け取った。
震えていなかった。
王都の門を出て、路地を歩いた。
気づいたら、ここにいた。
うな重の梅は、鰻の量が一番少ない。松の半分にも満たない。足りないと思う者もいるだろう。だが梅には梅の理由がある。飯の量は変わらない。タレも変わらない。鰻が少ない分、飯とタレの味がはっきり出る。土台の味だ。
いつからここに来ているのか、もう覚えていない。
気づいたら、来ていた。
気づいたら、通っていた。
老爺は何も聞かなかった。
ガレアスも何も言わなかった。
それだけのことが、何年も続いた。
ここで何度、考えたかわからない。
そのたびに、少し、軽くなった。
なぜ梅を頼んだのか。松でも竹でもなく、梅を。騎士団長でなくなった日に、一番小さい重を頼む。理由を言葉にできる者は少ない。だが体は知っている。今日は梅でいい、と。今日は梅がいい、と。
三十分が経った。
炭の音が、聞こえた。
ガレアスは、その音を聞いていた。
最初に来たとき、あの音が怖かった。
今では、その音を聞くと、肩が緩む。
それだけのことが、何年もかかった。
かすかに、香りが変わった。
タレが、炭にかかる匂い。
甘い。煙い。
何かが、溶けてくる。
今日も、融けた。
重箱が、置かれた。
ガレアスは蓋を、開けた。
開けた瞬間に来る湯気、熱いというより甘い、タレと脂が炭で焼かれた匂いが湯気に乗って鼻へ来る、これだけで口の中に唾が満ちる、これだけでもう始まっている。
鰻が、少ない。
松より、ずっと少ない。
飯の白さが、よく見える。
それでいい、と思った。
梅の鰻は少ない。だがその一切れは、松と同じ一切れだ。同じ鰻を、同じ炭で、同じ手が焼いている。量が違うだけで、味は変わらない。むしろ一切れの重さが、よくわかる。
「いただきます」
ガレアスは箸を入れた。
鰻と飯を、一緒に、口に入れた。
タレの甘みが来る脂が来る飯が来る皮がほろけて身が解けて飯の重みと混ざる炭の香りが鼻の奥にいる消えない最後まで、いる。
ガレアスは、もう一口入れた。
かき込んだ。
鰻の下の飯はタレを吸っている。端の飯はまだ白い。どちらも食う。どちらもうまい。梅でも、土台は変わらない。
ガレアスはかき込んでいた。
すでに、重箱の半分を、消していた。
騎士団長でなくなったことを、忘れていた。
レオンのことも、ハロルドのことも、
どこかへ行っていた。
全部、どこかへ行った。
今日も、行った。
山椒を、かけた。
かき込んだ。
山椒はタレの甘みを一瞬で切って切った後にまた甘みが来て山椒を通過した甘みは一回り深くなって同じ鰻が別の顔を見せる甘みに一度死んで生き返らせるそういうものだ。
重箱が、空になっていた。
肝吸いを、すすった。
出汁は変わらない何年来ても変わらない底の肝も変わらない苦みも変わらない変わらないものがここにある腹に落ちて終わる。
ガレアスは一息で、飲み干した。
箸を、置いた。
炭の音だけがあった。
ガレアスは、空の重箱を、少しの間、見ていた。
梅で、よかった。
松でなくても、よかった。
鰻は鰻で、ここはここで、
腹は満ちた。
それだけのことが、
ずいぶん長い時間をかけて、
やっとわかった。
「……ごちそうさまでした」
老爺は、無言で頷いた。
いつもと同じだった。
何も変わらなかった。
それが、答えだった。
暖簾をくぐって外に出ると、春だった。
風が、柔らかかった。
ガレアスは、鎧のない肩を、一度動かした。
軽かった。
これから行けるところが、たくさんある。
せいろ蒸しの店を、探してもいい。
白焼きに酒を合わせる昼を、過ごしてもいい。
知らない鰻屋の暖簾を、くぐってもいい。
だが今日は、また来よう。
もう一度、ここに来よう。
腹が、満ちている。
まだ、続く。
Special Thanks / Claude Sonnet 4.6




