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うなぎの騎士  作者: 藍愛某


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6/7

うなぎのせいろ蒸し

 席に着いたとき、老爺はもう奥へ消えていた。


 何も言っていない。

 ガレアスも、何も言っていない。

 それでいい。

 もうそういう間柄だった。


 今日はせいろ蒸しを頼んだ。

 老爺は、少しの間、ガレアスを見た。



 奥から、水音がした。


 ガレアスは、鎧の篭手を外して、カウンターに置いた。


 今日、決めた。


 来年の春に、引退する。

 国王に伝えた。

 旧友のハロルドに伝えた。

 レオンに伝えた。


 レオンは、黙っていた。

 長い間、黙っていた。

 それから、わかりましたと言った。

 声が、少し、震えていた。


 ガレアスは、それを聞いた。

 何も言えなかった。

 何も言わなくていいと、思った。



 うなぎせいろ蒸しは福岡・柳川の郷土料理だ。タレを絡めたご飯の上に蒲焼と錦糸卵を乗せ、重箱ごとせいろに入れて蒸す。蒸すことで鰻はさらにふっくらし、旨味がご飯に染み込む。重箱ごと蒸すから、最後まで熱い。冷めない。ずっと熱いまま、最後まで続く。



 引退を決めた後、何をするつもりか、と聞かれた。


 ハロルドが聞いた。

 笑いながら、聞いた。


 ガレアスは、少し考えて、答えた。


 鰻を食いに行く、と言った。


 ハロルドが、また笑った。

 今度は、少し違う笑い方だった。



 三十分が経った。


 ガレアスは、カウンターの木目を見ていた。


 後悔はない。

 ない、と思う。


 ただ、今まで考えたことのなかったことを、今日は考えた。

 この店が、ずっとここにあるかどうか。

 老爺が、ずっとここにいるかどうか。


 騎士団長でなくなったガレアスが、

 この暖簾をくぐっていいのかどうか。


 ……そんなことは、関係ない。

 関係ないはずだ。



 香りが変わった。


 タレの甘みと、蒸気の湿った匂い。

 いつもと違う匂いが、鼻に来た。



 重箱が、置かれた。


 朱塗りの重箱。

 いつもと違う。

 側面に、店の名が刻まれている。


 蓋を、開けた。


 湯気が、顔にかかった。

 熱い。


 錦糸卵が、鰻の上に乗っている。

 タレで光る鰻と、黄色い卵。

 いつもと、全然違う。



 重箱ごと蒸されたご飯はタレをすでに含んでいる。上からかかるのではなく内側から来る。鰻の旨味と卵の甘みがご飯に落ちて全部が混ざっている。これはもう、ご飯と鰻が別々ではない。


「いただきます」


 ガレアスは箸を入れた。


 鰻と卵と飯を、一緒に、口に入れた。



 甘みが来る脂が来る卵が来る全部が柔らかい全部が温かい蒸されているから全部が一つになっている鰻がどこにあって飯がどこにあるか境目がわからない。



 ガレアスは、もう一口入れた。


 熱かった。

 口の中が、ずっと熱かった。


 冷めない。


 引退を決めた日のことを、後で思い出すだろう、と思った。

 レオンの声が震えていたことを。

 ハロルドの笑い方が変わったことを。


 それを思い出すとき、この熱さも一緒に思い出すだろう。

 冷めなかった、この熱さを。



 ガレアスはかき込んでいた。

 すでに、重箱の半分を、消していた。



 重箱ごと蒸すから保温される最後の一口まで温かいこれが関東のうな重との違いだうな重は途中から冷めるせいろ蒸しは冷めない最後まで続く。



 ガレアスは山椒を、かけた。


 かき込んだ。



 重箱が、空になっていた。


 肝吸いを、すすった。



 椀の中まで熱い熱いまま肝が底にいる苦みも熱さの中にあって消えない冷めない最後まで冷めない。



 ガレアスは一息で、飲み干した。


 箸を、置いた。



 炭の音だけがあった。


 来年の春。

 この暖簾を、また、くぐる。

 騎士団長でなくなっても、くぐる。

 それだけは、決まっている。


 今日決めたことの中で、

 一番はっきりしているのが、それだった。



「……ごちそうさまでした」


 老爺は、無言で頷いた。



 暖簾をくぐって外に出ると、夜風が冷たかった。


 ガレアスは、篭手をつけ直した。


 口の中に、まだ熱さが残っていた。


 腹が、満ちている。

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