うなぎ定食
席に着いたとき、老爺はもう奥へ消えていた。
何も言っていない。
ガレアスも、何も言っていない。
それでいい。
もうそういう間柄だった。
今日は定食を頼んだ。
いつもと違う頼み方だった。
老爺は一瞬だけ間を置いて、頷いた。
奥から、水音がした。
ガレアスは、鎧の胸当てを少し緩めた。
引退のことを、考えていた。
昨日、国王に呼ばれた。
ねぎらいの言葉があった。
その後で、静かに言われた。
そろそろ後進に道を譲ることも、考えてはどうか、と。
ガレアスは、はい、と言った。
他に言葉が出なかった。
レオンのことを、思った。
あの踏み込みを、思った。
四十四歳だ。
騎士としては、まだやれる。
やれる、と思っている。
思っているが。
うなぎ定食は一度に多くのものが来る。蒲焼、うざく、茶碗蒸し、肝吸い、香の物。鰻を軸に、全部が組み合わさっている。一品ずつ違う顔がある。
三十分が経った。
ガレアスは、ぼんやりと暖簾を見ていた。
引退したら、何をするのか。
剣以外のことを、考えたことがない。
故郷に帰るか。
故郷に、帰る場所があるか。
わからなかった。
膳が、置かれた。
蒲焼、うざく、茶碗蒸し。
肝吸い、香の物。
全部が、一度に、並んだ。
多い。
いつもと、全然違う。
ガレアスは、少しの間、眺めた。
蒲焼はうな重の鰻と同じだが皿で出てくる。重箱がない分、鰻がそのまま見える。タレが光っている。これが始まりだ。
「いただきます」
ガレアスは蒲焼から箸を入れた。
鰻を、口に入れた。
タレの甘みが来る脂が来る炭の香りが来るいつもと同じ鰻がいつもと同じようにうまい。
ガレアスはかき込んだ。
引退すべき理由を、考えた。
体が言うことを聞かなくなる前に退くべきだ。
レオンのような若い剣士に、場所を渡すべきだ。
国王がそう言うなら、そういう時期なのだろう。
頭ではわかる。
蒲焼が、半分になった。
うざくは鰻ときゅうりと酢の和え物だ。さっぱりしている。蒲焼の脂の後に来ると、口の中が整う。鰻料理の中で唯一、涼しい顔をしている。
ガレアスはうざくを、口に入れた。
酢が来るきゅうりが来る鰻が来る脂が酢に切られてさっぱりする口の中がさっきと全然違う場所になる。
ガレアスは、箸を止めた。
引退した後を、想像した。
剣を持たない朝。
部下のいない一日。
任務のない夜。
何もない。
何もないが、腹は減る。
腹が減れば、ここに来る。
それだけは、わかった。
だが、それだけか。
それだけで、いいのか。
茶碗蒸しは出汁と卵でできている。中に鰻が入っている。表面は静かだが中に全部が詰まっている。崩すまで、中身がわからない。
ガレアスは茶碗蒸しに匙を入れた。
崩した。
中から、鰻が出てきた。
出汁が来る卵が来る鰻が来る全部がやわらかい尖ったものが何もない外側からはわからなかったものが中にあった。
ガレアスは、ゆっくり食った。
引退できない理由が、出てきた。
レオンはまだ、団長を張れない。
部隊の統率には、経験がいる。
剣が強いだけでは、騎士団長にはなれない。
それは、ガレアスが一番知っている。
あと、何年か。
あと、何年かあれば。
茶碗が、空になった。
蒲焼の残りを、食った。
うざくの残りを、食った。
香の物を、かじった。
奈良漬けは瓜を酒粕で漬けたものだ。甘くて、少し酒の香りがする。長い時間をかけて漬かっている。きゅうりの浅漬けはあっさりしている。たくあんは歯応えがある。三つ並ぶと、それぞれが全然違う。
ガレアスは奈良漬けを、かじった。
甘い。
それと、長い時間の味がした。
時間か、と思った。
肝吸いを、すすった。
出汁はゆっくり飲んでいい急かされない急かした出汁は急かされた味がする肝の苦みも急かせば消えない急かさなくても消えない消えないままここにあるそれでいい。
ガレアスは、ゆっくり飲んだ。
今日は、一息では飲み干さなかった。
苦みが、舌に残った。
引退の答えは、出なかった。
出なかったが、ひとつだけ、わかったことがある。
答えを出す場所は、ここではない。
ここは、考える場所だ。
答えが出なくても、来ていい場所だ。
それで、十分だ。
「……ごちそうさまでした」
老爺は、無言で頷いた。
いつもより、少しだけ、
間があった気がした。
暖簾をくぐって外に出ると、夜だった。
ガレアスは、胸当てを締め直した。
答えは、まだない。
だが、腹が満ちている。
それだけで、今夜は歩ける。




