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うなぎの騎士  作者: 藍愛某


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ひつまぶし

 席に着いたとき、老爺はもう奥へ消えていた。


 何も言っていない。

 ガレアスも、何も言っていない。

 それでいい。

 もうそういう間柄だった。


 今日はひつまぶしを頼んだ。

 老爺は一瞬だけ、ガレアスを見た。



 奥から、水音がした。


 ガレアスは、手甲を外して、カウンターに置いた。


 右手が、まだ、じんとしていた。


 今日、稽古で負けた。


 相手はレオンという。

 入団三年目。二十一歳。

 踏み込みが速い。剣筋が読めない。

 先月あたりから、妙に手応えがあると思っていた。


 今日、はっきりと、負けた。


 木剣が、ガレアスの首に止まっていた。

 一瞬、何が起きたかわからなかった。

 レオンの方が、先に気づいて、飛び退いた。

 顔が青かった。


 ガレアスは笑った。

 よくやったと言った。

 そう言いながら、右手がじんとしていた。



 ひつまぶしは名古屋の料理だ。おひつに盛った鰻飯を、まず四等分に区切る。一杯目はそのまま。二杯目は薬味を乗せて。三杯目は出汁をかけて茶漬けにする。四杯目はお好みで。同じ鰻が、食い方によって、三度変わる。



 負けたのは、初めてではない。


 若い頃は、よく負けた。

 師匠にも、同期にも、先輩にも。

 負けるたびに、悔しくて、またやった。

 それで今がある。


 だから、悔しくて当然だ。


 ガレアスは、右手を見た。


 悔しい、のか。

 これは、悔しい、なのか。


 よくわからなかった。



 一杯目はそのまま食う。余計なことは何もしない。鰻とタレと飯だけで、まず向き合う。



 おひつが、置かれた。


 老爺が、無言で、おひつの中を四等分した。

 それだけして、奥へ消えた。


 ガレアスは茶碗に一杯目を盛った。


「いただきます」


 鰻と飯を、一緒に、口に入れた。



 タレの甘みが来る脂が来る飯が来るうな重と同じようで少し違う器が変わると同じ鰻が違う場所にいる気がする。



 ガレアスはかき込んだ。


 悔しいかどうか、考えた。


 悔しくない、気がした。

 あの踏み込みは、見事だった。

 レオンが飛び退いたとき、その目が輝いていた。

 ガレアスはそれを、きれいだと思った。


 悔しくないなら、何なのか。


 茶碗が、空になった。



 二杯目を、盛った。


 三つ葉と山葵と海苔を、乗せた。



 薬味を乗せると鰻が変わる。三つ葉の青い香りが脂を切る。山葵が輪郭を締める。海苔が全体を巻き込む。同じ鰻が、別の顔を見せる。薬味とは、新しい角度から見るための道具だ。



 鰻と薬味と飯を、口に入れた。



 青い香りが来る一瞬で世界が変わる同じ鰻なのに違う鰻がいる。



 ガレアスは、また考えた。


 嬉しかった、のかもしれない。

 自分が鍛えた部隊から、あれだけの剣士が出た。

 セルジオの踏み込みを伝えたのも、効いたかもしれない。


 嬉しい。

 そうか、嬉しいのか。


 ならなぜ、右手がまだじんとしているのか。


 茶碗が、空になった。



 三杯目を、盛った。


 急須を持ち上げた。

 出汁を、静かに、注いだ。



 三杯目は茶漬けだ。熱い出汁が鰻と飯を包む。タレが出汁に溶ける。薬味が出汁に泳ぐ。全部が混ざって、全部が柔らかくなる。角が取れる。尖っていたものが、丸くなる。



 ガレアスは茶碗を持ち上げた。


 出汁ごと、すすった。



 熱い出汁が来る全部が来る鰻も飯もタレも薬味も全部一緒に来て喉を通っていく尖っていたものが何もない柔らかいだけだ。



 ガレアスは、すすりながら、思った。


 怖かったのかもしれない。


 悔しくもなく、嬉しくもあって、

 それでも右手がじんとしていた理由。


 負けた瞬間、一瞬だけ、思った。

 自分はもう、若くない、と。


 その思いが、まだ、手に残っていた。


 茶碗が、空になった。



 おひつに、少し残っていた。


 四杯目を、盛った。

 薬味を乗せた。

 出汁を注いだ。


 まあ、いい。

 怖くて、いい。



 おひつが、空になった。


 肝吸いを、すすった。



 出汁の中の肝は苦い怖いような苦みだがすすってしまえばただ温かい温かいまま腹に落ちていく怖くていい温かければいい。



 ガレアスは一息で、飲み干した。


 箸を、置いた。



 炭の音だけがあった。


 明日、またレオンと稽古をしようと思った。

 今度は負けるつもりはない。

 だが、また負けるかもしれない。


 それでいい。

 怖いなら、またやればいい。

 それだけのことだ。


 右手の、じんが、少し引いていた。



「……ごちそうさまでした」


 老爺は、無言で頷いた。



 暖簾をくぐって外に出ると、夜だった。


 ガレアスは、手甲をつけ直した。


 腹が、満ちている。

 明日も、やれる。

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