う巻き肝焼き丼
席に着いたとき、老爺はもう奥へ消えていた。
何も言っていない。
ガレアスも、何も言ってない。
品書きが、目の前にある。
手に取った。
文字が、頭に入ってこなかった。
しばらく、そのまま持っていた。
老爺が戻ってきた。
ガレアスの前に、静かに立った。
品書きを見た。
ガレアスを見た。
品書きを、指で一度だけ叩いた。
そして奥へ、また消えた。
ガレアスは、品書きを置いた。
……まあ、いい。何か出てくるということか。
奥から、水音がした。
ガレアスは、鎧の肩当てを外して、カウンターに置いた。
セルジオのことを、考えていた。
二十三歳だった。
入団して四年。
剣はまだ荒削りで、だが、踏み込みだけは誰より速かった。
あと十年あれば、と思っていた。
北の砦の査察の帰り道だった。
残党の奇襲だった。
ガレアスの、三歩前を、歩いていた。
三歩。
う巻きは鰻を芯に巻いた出汁巻き卵だ。鰻だけでも卵だけでも成立する料理を重ねて一つにする。重ねることで、どちらでもない何かが生まれる。そういう料理だ。
葬儀は、昨日だった。
両親が来ていた。
父親は泣かなかった。
母親は、ずっと泣いていた。
ガレアスは頭を下げた。
何か言おうとして、何も言えなかった。
騎士団長というのは、
こういうときに何か言える人間がなるべきだと、
昨日から、ずっと思っている。
今日、ここに来るつもりはなかった。
気づいたら、暖簾の前に立っていた。
肝焼きは鰻の肝を焼いたものだ。傷みが早い鰻の肝をその日に出せる店は毎日鰻を捌いている証拠でもある。苦い。誰が食っても、苦い。だがその苦みは消えるものではなく、ただそこにある。そういう味だ。
三十分が経った。
ガレアスは、ぼんやりと手を見ていた。
この手で、二十年、剣を握ってきた。
この手が、魔王を倒した。
この手が、セルジオを守れなかった。
同じ手だ。
まったく、同じ手だ。
三歩。
ガレアスが前を歩いていれば。
違う道を選んでいれば。
もう一本、斥候を出していれば。
考えても、終わらない。
昨日から、ずっと終わらない。
かすかに、香りが変わった。
炭の匂い。
それと、卵の甘い匂い。
混ざっている。
腹が、鳴った。
ガレアスは、少し驚いた。
丼が、置かれた。
白い飯の上に、黄色いう巻きが乗っている。
その横に、肝焼きが、どんと乗っている。
濃いタレが、光っている。
見たことがない。
品書きにも、ない。
老爺は何も言わなかった。
出汁巻き卵は外側からゆっくり火を入れて中心をふわりと仕上げる箸を入れると断面から出汁が滲む。
「いただきます」
ガレアスは箸を入れた。
う巻きと飯を、一緒に、口に入れた。
卵が来る出汁が来る鰻が来る三つが同時に来て混ざって一つになる卵の甘みが鰻の脂を包んで出汁がそれを全部まとめて飯に落ちていく。
ガレアスは、もう一口入れた。
今度は、肝焼きを崩して、飯と一緒に、口に入れた。
苦みが来る。甘みの後に来るのではない。甘みの上に、ただ、来る。消えない。飯と混ざっても、消えない。消えないまま、ある。だがそれが、さっきの甘みを、消しはしない。甘みも、苦みも、同時に、ある。
ガレアスは、箸を止めた。
消えない。
セルジオのことが、消えないのと、同じだ。
消えなくていい。
消えてはいけない。
あの踏み込みを、ガレアスは知っている。
部隊で一番、前へ出られる人間だった。
だから、三歩、前にいた。
そういう人間だった。
それは、重さだ。
ガレアスが引き受けるべき、重さだ。
消えたら、困る。
ガレアスはまた、箸を入れた。
う巻きと肝焼きと飯を、かき込んだ。
甘みと苦みが、口の中で混ざった。
混ざったまま、飲み込んだ。
それでいい。
う巻きの卵は冷めても硬くならない出汁が逃げないように巻いているからだ最後まで柔らかい。肝の苦みも最後まで消えない。この二つが同じ丼に乗っている。そういう料理だ。
丼が、空になっていた。
肝吸いが、いつの間にか横にあった。
すすった。
出汁は澄んでいる余計なものが何もない透明な椀の底に肝が沈んでいてそこだけ暗い一口すすると出汁の静けさの中に苦みがある消えない消えないが出汁がそれを抱えている。
ガレアスは一息で、飲み干した。
箸を、置いた。
炭の音だけがあった。
セルジオのことを、まだ考えていた。
重さは、消えていない。
ただ、さっきとは少し、違う。
重さは、引き受けるものだ。
消すものじゃない。
明日、部隊に話す。
セルジオの踏み込みのことを。
あの速さを、誰かに伝えなければならない。
それは、ガレアスにしかできない。
「……ごちそうさまでした」
老爺は、無言で頷いた。
暖簾をくぐって外に出ると、夜風が冷たかった。
ガレアスは、肩当てをつけ直した。
腹が、満ちている。
苦みも、まだ、ある。
それでいい。




