うな重(松)
席に着いたとき、老爺はもう奥へ消えていた。
何も言っていない。
ガレアスも、何も言っていない。
それでいい。
もうそういう間柄だった。
カウンターに六席。
今日も、ほかに客はいない。
奥から、水音がした。
ガレアスは、鎧の胸当てを少し緩めた。
今日で、三日だ。
魔王が、死んだ。
自分の剣で。
それは確かなことで、
国王も、民も、部下たちも、
その確かなことを、とても喜んでいた。
ガレアスも喜んだ。
喜んだはずだ。
では今、なぜこんなに静かな気持ちで
鰻屋のカウンターに座っているのか。
注文を受けてから捌き始める店がある。客を三十分、四十分待たせることになる。だがそれは、生きた鰻を注文ごとに仕立てるという意思表示だ。待たされることが、この店への信頼になる。
奥で、音がした。
ガレアスは知っている。
あの音が何の音か、もう知っている。
最初に来たとき、あの音が怖かった。
暗がりの中で、何かが動く気配。
剣に手をやりかけた。
老爺が一瞥して、また作業に戻った。
鰻を締める音だった。
今では、その音を聞くと、
肩が緩む。
勲章のことを、考えた。
王から授かった、金の勲章。
騎士団最高の名誉だと言う。
確かに重かった。
首から下げたとき、思ったより重くて、
少し前のめりになった。
それを誰にも言っていない。
魔王との最後の戦いのことを、考えた。
怖かった。
ひどく怖かった。
二十年戦ってきて、あんなに怖かったのは初めてだった。
膝が震えた。剣を持つ手が汗で滑った。
それも誰にも言っていない。
言わなくていいことは、言わなくていい。
鰻は捌いてから白焼きにし蒸してタレをつけて焼く。この工程に時間がかかる急かすことはできない。急かした鰻は急かされた味がする。
三十分が経った。
ガレアスは、ぼんやりと木目を見ていた。
この店が、なぜここにあるのか。
老爺はどこから来たのか。
「鰻」とだけ書かれた暖簾の文字は、何語なのか。
この国に、このような食事は、なかったはずだ。
……まあ、いい。
いつもそこで終わる。
かすかに、香りが変わった。
タレが、炭にかかる匂い。
甘い。煙い。
この匂いを嗅ぐと、何かが解けてくる。
何が解けるのか、うまく言えない。
鎧ではない。
もっと内側の、何かだ。
やがて、重箱が、置かれた。
ガレアスは蓋を、開けた。
開けた瞬間に来る湯気、熱いというより甘い、タレと脂が炭で焼かれた匂いが湯気に乗って鼻へ来る、これだけで口の中に唾が満ちる、これだけでもう始まっている。
「いただきます」
ガレアスは箸を入れた。
鰻と飯を、一緒に、口に入れた。
よく焼けた鰻の皮は箸をあてるとかすかに抵抗してその抵抗が一瞬で消えて割れた断面から脂が滲んでその脂をたっぷり吸った飯ごと口に入ったとき最初に来るのは皮の脂で甘くさっと消えてその後を追うように身がほろけて噛み切るのではなく解けるのだ舌の上で繊維が一本ずつ静かに解けていきながら飯の重みと混ざっていく。
ガレアスは、もう二口目を入れていた。
三口目を、入れた。
タレと脂が落ちた飯は別の食べ物で米粒の一つ一つが重くなっていてこれだけで飯が食えるんだが鰻がある鰻と一緒に掬って食うのがこの重箱の正しい食い方だ。
ガレアスはかき込んでいた。
すでに、重箱の半分を、消していた。
勲章のことを、忘れていた。
膝が震えたことも、忘れていた。
魔王のことも、部下の歓声も、
王の顔も、
全部、どこかへ行っていた。
山椒はタレの甘みを一瞬で切って切った後にまた甘みが来て山椒を通過した甘みは一回り深くなって同じ鰻が別の顔を見せる甘みに一度死んで生き返らせるそういうものだ。
ガレアスは山椒を、かけた。
かき込んだ。
ガレアスの重箱が、空になっていた。
肝吸いを、すすった。
出汁は引き算で余計なものを全部取り除いた後に残るものでその中に鰻の肝が沈んでいてこの苦みが今まで食ってきたすべての甘みを正確に思い出させるから肝吸いはうな重の回想だ。
ガレアスは一息で、飲み干した。
箸を、置いた。
炭の音だけがあった。
ガレアスは、少しの間、空の重箱を見ていた。
さっきまで考えていたことが、
何だったか、
すぐには出てこなかった。
ああ、勲章か。
重かった。
それだけだ。
それだけのことだった。
「……ごちそうさまでした」
老爺は、無言で頷いた。
暖簾をくぐって外に出ると、夜だった。
ガレアスは、鎧の胸当てを締め直した。
明日も、仕事がある。
それでいい。
腹が、満ちている。




