ペット
それは、「ごあ」と鳴く。
それは、猫のようでイタチのような姿形をして、毛が生えている割には触るとペタッとしている。まだら模様が時折人間の顔のように見える。
それは、よく懐いている。
神崎は、ゴアにエサを入れた皿を差し出すと、その背を撫でた。
はぐはぐと嬉しそうにエサを平らげていくゴアを撫でていると、奇妙な感覚と癒されていく感覚の二つが芽生える。
一体、この生き物は何なのか。調べても判らない。
ゴアは突然現れた。
大雨の日、ベランダからキュウキュウ鳴く声が聞こえたので覗いてみると、小さくて黒いものが隅に蹲っていた。
ライトで照らすと、それは怯えたように身を縮めた。しかし、逃げることはなかった。
少し悩んだ神崎は、タオルを敷いた段ボールを用意すると、その中に怯える生き物を入れた。
水や猫缶を生き物の前に置くと、少し警戒してから食べ始めた。
猫缶は、一か月程前に亡くなった愛猫ミルクの残したものだった。真っ白くて柔らかい、アイスブルーの瞳を持った美しい猫。
餌やおもちゃを入れていた棚は、ミルクが死んで以来開けていなかった。片付けなければ、と思いながらも出来なかった。
棚の上に置かれたミルクの遺骨と、撮り溜めた写真に目を止める。
「ミルク……」
雨足は強くなる。
再びベランダからキュウキュウという鳴き声が聞こえてくる。
神崎はベランダの様子をそっと伺った。
部屋の中に居ても雨風の音が激しく響いているのが判る。
その中に、か細いキュウキュウという声。
風の向きによって、時折雨はベランダへと吹き込んでくる。
神崎はベランダに出ると、段ボールを抱え上げた。少しだけ悩んでから、部屋の隅にレジャーシート敷き、その上に段ボールを置いた。雨に濡れていたが、表面をさっと拭けば、問題なかった。
キュウキュウ鳴く生き物に追加で餌を与えると、それは嬉しそうに食べた。
部屋の灯りの中で見ると、益々一体何を招き入れたのか判らなかった。
猫かとも思ったが、首や尻尾の具合がイタチのようにも見える。似たようなものではあるが、決定的にそれらは違う種類の動物だ。何より、手に生えるかぎ爪が猫ではないことを物語っている。
──野生動物って保護しちゃいけないんだよな。
神崎は窓の外にちらと目をやり、段ボールの中の生き物に視線を落とした。
「キュウ」
か細い声が言う。
そっと指を伸ばし、その体を触ると、ぺたっと吸い付くような感触があった。指を滑らせると心地よい。
生き物は、目をパチパチとさせると、丸くなって寝息を立て始めた。
「……ミルク」
神崎は、一か月ぶりに涙を流した。
キュウキュウ鳴いていた生き物は、いつしか「ごあ」と鳴くようになっていた。
その頃にはもう、神崎にもゴアがただの野生動物ではないことは判っていた。
最初こそ、役所に連絡するべきか、動物病院に連れて行かなければ、と考えていた神崎も、連絡をしたところでどうにも出来ないだろう。という考えに至っていた。
「ごあ」と鳴くからゴア。
不思議な生き物ゴア。
ゴアは神崎によく懐いていた。
見た目はイタチに寄ってきたような気もするが、猫のような要素も残っている。ただ、かぎ爪は大きくなり、頭の天辺に小さな角が生えた。
ゴアが頭をすり寄せる時に、たまに当たって痛い。
「ごあ」
ゴアは猫じゃらしよりも、ボールを投げて貰うのが好きだった。
ボールを咥えて神崎の所までやってくると、「投げろ」とばかりに見つめてくる。神崎が投げると、嬉しそうに追いかける。その姿は猫よりも犬のようだった。
「ゴア、ハウス」
ゴアはコマンドも覚えた。猫らしくない。そもそも猫ではないが。
神崎は犬の育て方を調べて、様子を見ながら実践した。
ミルクが使っていた猫用のケージは使えなくなってしまって、大型犬用のケージを購入した。
散歩は必要ない。出来る筈もない。
ゴアは成長した大きな体でも、あまり足音を立てなかった。何かに飛び掛かって物を壊すということもない。かぎ爪のある手足で、擦るように歩く。
「ごあごあ」
「判った判った。ほら、これで最後だからな」
猫用のおやつを口元に持っていくと、ざらついた舌でそれを舐めとる。
神崎はゴアの体に身を埋めた。ゴアは乾いた土の匂いがする。頬に当たる毛は、やはりペタッと吸い付いてくる。
「……お前も俺より先に死ぬのかな、やっぱり」
ペットを飼うことにおいて避けられないことだ。人間より寿命が長く、それでいて人間が飼うことの出来る生き物はそういない。いや、そうでない方が最期まで命の責任を持てる訳だが。
ゴアがペロリと神崎の耳を舐めた。
「こら、くすぐったい」
「ごあ!」
神崎が声を上げるのに、ゴアは喜んでいると思ったのか、ベロベロと舐め始める。
心が、満たされていく。
──でも、ゴアは一体何なんだ。
神崎は、ふとした瞬間に考える。
明らかに普通の生き物ではない。ただ、ちゃんと生きているものであるのは確かだった。ゴアが成長するにつれて買い替えることになったが、最初はミルクの残したトイレや爪とぎが役に立った。
ゴアは生きている。
ならば、何処かに親がいるのだろうか。そして、ゴアもいずれ親となるべきではないのか。
しかし、ゴアのような生き物は見たことも聞いたこともない。一体何処から神崎の家のベランダへとやって来たのだろうか。
「ごあ」
ゴアが神崎の膝の上に乗る。もう膝の上だけで丸くなることは出来ない。前足を乗せて、満足そうに少し潰れた鼻を鳴らす。その背を撫でる。
ゴアがどんなものであろうと、今はもう大切な家族だ。
神崎は、ゴアの瞳を見つめた。黒くて吸い込まれそうな瞳。頬を撫でると、その瞳はうっとりと細められる。
──可愛い奴だ。
ゴアは、時折夜に窓から部屋を抜け出すことがあった。
なんてことはない。猫と一緒だ。夜な夜な狩りを楽しんでいるのだ。
いつの間にか窓を開けられるようになっていたが、それも猫と同じだ。そこまで複雑な構造でなければ、人間が思うより遥かな器用さで、猫は窓や扉を開けてみせる。
夜そっと出て行くのも、本来ゴアは夜行性なのだろう。
しかし、ゴアは猫ではない。
もし、誰かに姿を見られたら保健所へと連れて行かれてしまうのだろうか。いや、犬や猫ではないゴアは何処に連れて行かれるのだろう。未知の生物として何処かの大学や研究所に連れて行かれるのだろうか。
いつも、神崎が目を覚ます前にゴアは帰って来ていた。
ゴアが外から帰って来た後にベランダを覗くと、隅に何かしらの欠片が落ちていた。羽や尻尾や肢といったそういうものが。
正直それを目にして気分が良いものではないが、猫もそういう所があるものだ。外に出さなかったミルクでさえ、家の中に虫が出ればそれを追い掛けていた。
正体不明のゴアなら、致し方のないことだ。
ある時、神崎の住む町で行方不明事件が多発した。
最初は子供や小柄な人が行方をくらまし、その内に体格の良い成人男性までもが居なくなった。そして、彼等は、絶対に失ってはいけない部分だけがポトリと道端に落ちている所を発見された。
猟奇的な事件だと、全国で騒がれた。
神崎は、ぼんやりとそのニュースを見ながら、「どうするべきなのだろう」と考えた。
ベランダには、いつしか赤黒い染みが付くようになっていた。ゴアの口元にも、毛繕いで拭いきれなかったものが付着していることがあった。
──ゴアが、襲ったのか。
でも、本当に? 確かにゴアは時々家を抜け出す。それもこっそりと、と呼べるような様子で。
それでも、神崎は信じたくなかった。
その可能性を肯定することは、ゴアとの別れを意味するのだから。
「ゴア……」
ゴアの体に顔を埋めて乾いた土みたいな匂いを嗅いだ。
ゴアは眠っている。
行方不明事件は、猟奇殺人犯が逮捕されると、暫く世間を騒がせた後に、興味を失われた。
神崎はホッと胸を撫で下ろした。
ゴアではなかったのだ。
だが、それならベランダを汚した赤黒い染みはなんだったのか。
猟奇殺人犯は、被害者から頭部を切り取っていた。しかし、犯人は自宅倉庫で解体作業をした後に飾っていたのだと供述している。何処へも持ち出してはいないと。
切り取った後の頭部より下は山に埋めたと主張したが、それは見つかっていない。
犯人には余罪があり、薬にも手を出していたことから連日取り調べが行われたが、そうこうしている内に、犯人は自身の舌を嚙み切って死亡した。
最後まで、意味の分からぬ、ただ猟奇的なだけの事件だった。
しかし、そこにゴアを当てはめるなら。
ゴアは今や、大型犬よりも大きな体になっていた。体毛もまだら模様がより濃くなり、一見すると暗闇のようでもある。ゴアが毛を逆立てた時にだけ、人間のような顔が浮き出て見える。
ゴアは何処まで大きくなるのだろう。
体は大きくなっているのに、食べる量はさほど変わっていない。神崎が与えるキャットフードをはぐはぐと美味しそうに食べる。おやつも犬猫用だ。
ここまでの大きさに育ったのなら、猛獣の部類になるのだろうか。
神崎とゴアを乗せたソファは重く軋む。
そろそろ引っ越しも考えなくてはいけない。ゴアとボール遊びするにはこの部屋は狭すぎる。
ゴアは一体何なのか。
正体は判らなくても愛おしい。
──ゴア。
「ごあ!」
ゴアが神崎にのしかかった。もう神崎の力ではそれを抑えることは出来ない。
ソファの上に押しつぶされるようになった神崎の上で、ゴアが笑顔を浮かべる。
「ほら……これは、痛いよ。どいて」
「ごあ!」
ゴアが嬉しそうに手を振った。
ブチッ。そんな音がしたと思う。
視界が赤く染まっていた。
「ま」
「さ」
「か」
「さ」
ゴボリと口から何かが漏れる。
「ごあ?」
ゴアが首を傾げて、自身が下敷きにする何かを見下ろし、次いでこちらを見る。
──あぁ、愛おしいゴア。お前は、俺より先に……。
意識が遠くなる。何故だろう。判っているのに、理解したくなかった。
ゴアの声が聞こえる。
ほら、そんなに鳴かなくてもいいよ。お前は窓を開けられるんだから──。




