第16話「父と蝶」
灰色の空に、一匹のモンシロチョウが舞っていた。
ビルの屋上。
そこは相原律人が毎朝コーヒーを飲む場所。
都心を見下ろしながら、沈黙の“支配”を確認する、彼の特等席。
その日、そこに現れたのは、想定外の存在だった。
「……お父様」
律人が振り返ると、
白いワンピースを着た少女――彩音が、風に髪をなびかせて立っていた。
彼女の目は、まっすぐに父を射抜いていた。
「誰の許可でここに――」
「あなたの許可なんて、もう要らないの」
その言葉に、律人の顔がわずかに歪んだ。
長年、計画通りにコントロールしてきた娘。
感情を切り離し、正義の理論だけで育てた彼女が、
今、自分の言葉で意思を持って立っている。
「どうしてここへ来た?」
「“終わらせに来た”のよ。
お父様が作った“正義”を。
私という実験体を通して、“倫理の死体”を延命していたあなたの人生を」
律人は無言になった。
言葉の重さに、一瞬だけ“人間”の表情を見せた。
だがすぐに、“官僚”の仮面に戻る。
「彩音、お前はまだ誤解している。
お前の存在は――人類にとって必要な答えを導くための」
「違う!」
彩音が叫ぶ。
「私は“答え”なんかじゃない。
私は、“あなたの恐怖”の産物。
感情を切り離せば、人間は完璧になると信じたあなただけが、
私を“壊した”のよ!」
律人の背後に、秘書が駆け寄ろうとした瞬間、
階段の踊り場から、もう一人の男が姿を現した。
「手を引け。ここからは家族の話だ」
――佐久間 蓮。
背広の下に黒いパーカーを着たその男は、
鋭い眼光で律人を見つめる。
律人は軽く舌打ちした。
「君か……。よく生きていたな。
だが、あれは決定事項だった。君が犠牲になるのは当然だった」
「そうさ。あんたの“正義”の下じゃ、俺は“切り捨て枠”だ。
社会のパズルの中で、“形が合わなかったピース”は捨てるしかない。
でも――俺は燃えるピースだったらしい。
全部、火事にしてやる」
彩音はその横で、静かに笑った。
「ねえ、お父様。
私、夢を見たの。“蝶になる夢”。
あなたの論理から、抜け出して羽ばたく夢。
それって、正しいと思う?」
律人は一歩下がる。
その瞳に、ついに“恐怖”が宿った。
完璧な論理と制御の神だったはずの男が、
自分が生み出した“答え”に反逆されている。
「君たちには正義がない」
蓮が一歩踏み出す。
「だから訊く。
“正義”ってのは、誰かの痛みの上に立つものか?」
律人は沈黙した。
答えを持っていなかった。
いや、答えを“創れなかった”。
蓮はスマホを取り出し、通信ボタンを押す。
次の瞬間――
ビルの外壁に設置された複数のスピーカーから、音声が流れ始めた。
それは、律人が倫理会議で発した“問題発言”の数々。
「一部を処分することで、社会は安定する」
「感情に流される判断は、不要」
「死ぬことで秩序が保たれるなら、それは善だ」
それらが、街中に放たれる。
市民が見上げる。
ビルの窓から、人々がスマホを向ける。
ネットに即座に拡散されていく。
律人の顔が青ざめた。
「君たち……!」
「お前の正義はもう、“透明な死体”じゃいられない。
見える場所まで引きずり出した。
あとは、世間が“解剖”する番だ」
彩音は、最後に父に近づき、囁く。
「私は、あなたの“正しさ”を受け継がない。
私は、ただの“人間”として生きるの」
風が吹く。
一匹の蝶が、屋上から高く飛び立った。
父は膝をつき、呆然と座り込む。
蓮は立ち去りながら、呟いた。
「正義は“概念”じゃない。
それは、誰かを傷つけた時に――
初めて、自分に返ってくるんだ」
その日の夜、相原律人は全ての役職を辞任した。
“Veil”による復讐は、ついに国家中枢へと達した。
だがそれは、終わりではなかった。
これは、まだ“前半”でしかない。
――次回、第17話「劇場型」
Veilたちの存在がネットで拡散され、“正義のテロリスト”として注目され始める。
社会と戦う者たちが、表舞台に引きずり出されていく。