09 涙のジュース
それから少しして、月枝は明奈の病室にいた。
もしかしたら、明奈の母は婦長にでも事情を伝えられていたのかもしれない。
おでこに湿布を貼っている月枝と左目に眼帯をした明奈が並んでベッドに座ったのを見て、不意に目頭を押さえると「ジュース買ってくるわね」と言い残してどこかへ行ってしまった。
「明奈ちゃんのママ、あたしのこと、おこってるのかな?」
不安そうに月枝が訊いた。
「ちがうよ。ママは、あたしのことで泣くときは、いつもジュースをかいにいくの。さっきママいってた。すごいともだちができたね、って」
「すごい?」
「うん。きこえたんだって。『明奈ちゃんの悪口、いうな!』って。ママは悪口いわれてもだまってるからさ。ほんとは、ちょっとよろこんでた」
「あ、ああ……そっか……」
明奈は、いたずらっぽく笑った。
「月枝ちゃんってかっこいいなぁ」
「そんなことないよ。でいりきんし、になっちゃうとこだったよ。でも、明奈ちゃんも、もっとおこればいいのに」
明奈は、うーんと首をかしげる。
「だって、けっこう、ほんとのことだもん」
「えっ?」
月枝は驚いて明奈の顔をのぞき込んだ。
明奈はニコッと笑うと淡々とした口調で言った。
「あのね、あたし、目玉、くりぬいたんだ。目のなかにガンができて、ネコみたいに光ってみえたのもほんとうだし、指はね、六本あったわけじゃないけど、くっついてたの、うまれつき。ほら、右手の指もちょっとまがってるでしょ? これは二さいのときに切りはなしてもらったの。しゅじゅつのあともまだのこってる」
いつもと変わらない調子で、平然と自分の病状を語る明奈は、まだたった六歳なのに、ものすごく大人びて見えた。
多分、あのおばさんたちみたいに興味本位で噂をするような人は、今までにもいたのだろう。
彼女も実際にそれを見聞きして傷ついてきたのだろう。
子供は、大人が思っているほどばかじゃないし、心が痛んだことは決して忘れたりしない。
明奈の凛とした横顔を見ていると、その視界がゆらゆらと揺らいで、鼻の奥がつーんとしてきた。
明奈があまりに落ち着いているのがかえって辛かった。
そんなことを明奈の口から語らせてしまった自分に腹が立った。
こんなときに泣くことしかできない無力さがもどかしかった。
「明奈ちゃぁぁん!」
月枝は、がばっと明奈に抱きついた。
両腕のありったけの力でその痩せた体を抱きしめた。
抱きしめた明奈の体は、消毒液の匂いがした。
それで余計に胸が締め付けられた。
婦長に抱きついて涙が枯れるほど泣いたのに、月枝は明奈の前で涙をこらえることができなかった。
本当に辛いのは明奈のほうなのに。
泣き虫の自分が情けなかった。
少しして明奈がライターのオルゴールを鳴らすと、月枝はようやく落ち着いた。
哀愁を帯びた『レット・イット・ビー』のメロディが心に染みる。
そんなにがんばりすぎなくてもいいんだよ、と綺麗なメロディが言っているような気がした。
「じゃあ、ごはん、たべよっか」
もう、午後三時を回っていた。
明奈は昼食を月枝といっしょに取るために、手をつけずに待っていてくれたのだ。
月枝は、あのとき自ら放り投げてしまったお弁当箱を、おそるおそる開いた。
案の定、卵焼きやらウインナーやらが、そぼろのご飯と一緒にごちゃごちゃになっている。
朝、お父さんが不慣れな手つきでがんばって作ってくれたのに。
また涙がこぼれそうだった。
「月枝ちゃん、たまごやきもらっていい?」
ごちゃまぜになった弁当箱の中から、いびつな卵焼きを掴みだし、明奈は、ぱくんと食べた。
「おいしい。月枝ちゃんのパパのたまごやき、あまいね」
明奈は、もぐもぐしながら自分のお膳に視線を落とす。
「じゃあ、月枝ちゃんも、あーん」
誘われて口を開けると、歯の抜けた傷を気遣った明奈が、肉団子を小さく切って口に入れてくれた。
すっかり冷めてしまった肉団子は涙と血の混じった味がしたけれど、明奈の優しさがいっぱいで、言葉にならないほどおいしかった。