07 雪達磨《スノーマン》と自鳴琴《オルゴール》
幼稚園が終わると、方向の同じ子供たちが先生に引率されてみんなで歩いて家へ帰る。
園児たちの家の前を通るルートが緻密に計算されていて、ゆっくり三十分も歩けば、みんなの家を回れるからだ。
昭和四十九年二月。
札幌駅から一キロ圏内にもかかわらず、このへんを走る車はまだまばらで、道路も舗装されているのは幹線のみ。
砂利道の石ころを蹴り蹴り、移りゆく自然を眺めながら仲良しの子と手をつないで帰る道のりは、子供たちにとって楽しいフィールドワークだった。
それもこれも、住宅地の真ん中にある幼稚園ならではのことだったかもしれない。
ちなみに、帰る方向の同じ子は、スモックにおそろいのリボンを付けていて、その色の可愛らしさは子供たちにとってけっこう重要な問題だった。
月枝は、北十二条の天使幼稚園から西方向に家があったので、紺色のリボン。
南へ帰る子が黄色のリボンで、北は緑リボン。
そして、憧れの赤いリボンは、バスや地下鉄で通園している子が左胸の名札のところに可愛く結んでいた。
月枝はこの赤いリボンが羨ましくてしかたがなかったが、赤いリボンのためだけに簡単に引っ越しなどできないことは六歳になったばかりでもちゃんとわかっていた。
それが、数ヶ月前から事情が変わった。
月枝の胸のリボンが紺色から赤に変わったのである。
紺リボンの友達はみんな、とてもうらやましがったので、月枝はちょっと得意だった。
年が明けてすぐ、一歳になったばかりの妹の日向子が北大病院に入院した。
母が付き添っているので、家に帰っても誰もいない。
月枝は幼稚園が終わると、夕方、父が迎えに来るまでの時間を病院で過ごすのが日課になった。
北大病院は、昭和四十六年の札幌オリンピックの年に開業した地下鉄南北線の北十二条駅から二丁ほど北へ向かった、北大銀杏並木の側にある。
日向子の検診で病院に通っていたころ、月枝は、銀杏の並木が、降るような黄色の天蓋に覆われたのを見て、無性にその真ん中を歩いてみたくなった。
母にねだって、車が少なくなったころを見計らって、精一杯気取って歩いたのだ。
木漏れ日がきらきらと金色に輝いて、まるで童話の中のお姫様になったような気分だった。
赤リボンの子のうち三人は石狩街道から北へ向かうバスに乗り、五人は十二条駅から地下鉄に乗る。
月枝は、その子たちを見送ったあと、先生に北大前の道路を渡らせてもらうと、そこでさよならをして、あとは北大の塀に沿って病院まで行くのが常だった。
先生に、バイバイと手を振って急いで病院の門まで行く。
月枝は、気合いを入れるように、赤い手袋の両手をパンパンと叩いた。
門の陰のきれいな白い雪を手に取り、小さな雪玉を作る。
ちょうどリンゴくらいの大きさに丸めて傍らに置き、もう一つ、少し小さめの雪玉を作ってちょこんと重ねた。
雪だるまだ。
右手の先を銜えて手袋を脱ぐと、肩から斜めにかけた黄色い幼稚園バッグの底を探った。
掴みだしたのは緑色のおはじきが二つと、赤いボタン。
目と口に見立ててそれらを埋め込んだ。
首に巻いていたマフラーを外して雪だるまを見えないようにくるみ、急いで小児科病棟へ向かった。
小児科の病棟では、どの看護婦さんも顔なじみなので、マフラーに隠した雪だるまが見つかりはしないかとびくびくしながら廊下を進んだ。
多分、外の雪なんかで作ったものを持ち込んだら怒られる。
それはわかっていたけれど、月枝は昨日交わした彼女との会話が忘れられなかった。
階段の踊り場に設置されている長いすが、ふたりの秘密の場所だった。
ふたりはそこに並んで腰掛け、いつまでも話しているのが好きだった。
「あたしね、雪ってさわったことないの」
明奈が言った。
「えっ? なんで?」
月枝は驚く。
「だって、冬はぐあいがわるくなるから、ずっとびょういんだもん。外のものはさわっちゃいけませんってママがいうし」
「雪なんて、まいとし、いやになるくらいふるのに」
「まどから見てるだけなんてつまんないなぁ。ああ、雪ってどんなかなぁ? うまったら冷たいのかなぁ?」
雪が長靴に染みてきて、足がしもやけになったことも、雪遊びをしているうちに下着までびしょびしょになって風邪を引いたことも、積もった粉雪の中で泳いだことも、かき氷に見立てて食べたこともないという明奈の告白だった。
月枝は、この雪国に育っているのに、そんな子がいることに驚き、なんとしても雪をさわらせてあげたいと思ったのだ。
足音をたてないようにぬきあしさしあしで、妹の病室の前を通り過ぎ、隣の病室へ直行した。
なんとなく、頭の中でピンクパンサーのテーマがぐるぐると流れていた。
明奈の病室にたどり着いた。
入り口から中をのぞき込み、付き添いの明奈の母や看護婦さんの姿を確かめる。
大丈夫。誰もいないようだ。
月枝は窓際のベッドで眠っている明奈のところまで、身を隠すようにして走り込んだ。
「明奈ちゃん」
声をひそめて呼ぶ。
うっすらと目を開けた明奈は、月枝の顔を見てうれしそうに微笑んだ。
「あ、ごめん。あたしねてたんだ。きょうはかいだんでまってようとおもったのに」
月枝は、ふるふると首を横に振った。
「むりしなくていいよ。それよりね、きょうはびっくりするものがあるんだ」
さらに声を潜めて月枝は言うと、マフラーにくるまれたミニ雪だるまを取り出した。
目の前に現れたちょっとひょうきんな顔をした雪だるまに、明奈は目を丸くした。
ぽかんと驚いた口を開け、感嘆の声を上げるために息を吸い込む。
月枝は、あわてて「しーっ! しーっ!」と口元で指を立てた。
明奈は、息を吸い込んだままの表情で固まり、右手で自分の口をふさぐ。
二、三回目をぱちぱちさせて、やっとのことで息を吐きだした。
「すごーーーい! だいてもいい? だいてもいい? だいてもいい?」
声はかすれるほど潜めているが、もう、いてもたってもいられないほど身をよじらせて、明奈はベッドから飛び降りた。
「ぬれちゃったら、しかられるよ?」
「いいもん。おねしょしたっていっちゃう」
月枝は、笑いながら雪だるまを明奈に手渡した。
明奈の左腕は包帯を巻いていて不自由なので、右手を添えてやる。
明奈はワクワクする気持ちを抑えられないようで、手のひらにずしりと乗った雪だるまの重みに「うわぁ~」と身を震わせた。
「つめたぁい……。かたまってる雪もつめたいんだねぇ、月枝ちゃん」
あたりまえのことに感動して、明奈ははしゃぐ。
多分、明奈は降る雪にしか触れたことがなかったのだろう。
「いつまでも、手にのせてると、しもやけになっちゃうよ。まどぎわにおこう」
「とけないの?」
「とけるけど、まどのところって、牛乳がこおったりするから、ゆっくりだとおもう」
「そっか……」
窓の桟に置かれた雪だるまは、ちょっといびつな頭が首をかしげているように見えて、愛嬌がある。
月枝は黄色い折り紙で兜を折って雪だるまにかぶせ、明奈は編んだリリアンをマフラーのように首に巻いてやった。
可愛いピンクのマフラーだった。
ふたりは顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「あのね、月枝ちゃん。あたしも、月枝ちゃんに見せたいものがあるんだ」
明奈はそう言うと、枕の下から小さな銀色の物体を取り出した。
「なに?」
「パパから送ってきたの。ライターなんだけどね……」
明奈の両親は離婚して、父親は汽車を乗り継いで行かねばならないところに住んでいる。
いつだったか「あたしのびょうきのせいで、わかれちゃったんだ」と明奈が寂しそうに言っていたのを思い出して、月枝はちょっと胸が苦しくなった。
「ライター? なんで?」
それが煙草に火をつける道具だということぐらいは、月枝も知っていた。
「うん。よーくきいててね」
聞く? と思って月枝が首をかしげた瞬間、明奈の手に握られた小さなライターから、可愛いメロディが聞こえてきた。
涼やかな音色。オルゴールだ。
「うわぁ~!」
今度は、月枝が自分の口を押さえる番だった。
両手で口を押さえ、歓声が出るのを抑え込むと、やっぱり目を白黒させて息を吐いた。
「すごいね。すごいね。かわいいね」
『レット・イット・ビー』のサビが流れ出すと、月枝は曲に合わせてその場で体を揺らした。
明奈もうれしそうに調子を合わせる。
一九六○年代、日本で、オイルライターにオルゴールが仕込まれたものが生産されていた。
ライターの上半分がオイルタンクと着火装置、下半分がオルゴールになっている。
ライターの下の方に小さなぜんまいを巻くためのつまみがついているのが特徴だ。
もちろん、オイルを入れなければ火がつかないので、オルゴールとして楽しめる。
このころ、宝石箱を開けるとバレリーナの人形が曲に合わせてくるくる踊るようなものが子供の間で流行っていたが、手のひらに収まるほど小さなものは珍しかった。
「すごいね。明奈ちゃんのたからものだね」
踊りながら月枝は言った。
「ううん。ふたりのたからものにしようよ。あの雪だるまも、このオルゴールも」
そう言ってニコニコ笑う明奈の笑顔と『ふたりのたからもの』という言葉が嬉しくて、このとき月枝は、病院から出られない明奈のために、自分が明奈を守ってやろう、明奈が喜ぶことは何でもしてやろうと心に誓ったのだった。
このライター型のオルゴールは、私が子供の頃、叔父から貰ったものがモデルです。
子だくさんの農家だった母方の実家から丁稚奉公(!)に出されたものの、めっちゃイケメンだったのを生かした(のか?)資産家の養子に入り、デザイナーになった人でした。
そして、幼稚園の時の、私のリボンは紺色でした泣