06 知らない過去からの電話
友引には葬儀を行わないという風習は、二十一世紀になっても、世代が移り変わっても根強く残っている。
そもそも、仏滅や友引といった「六曜」は、中国の三国時代に軍師として活躍した諸葛孔明が考え出した戦の暦で、仏教や葬儀とは何の関係もなく、友引の本来の意味は「共引」引き分けという意味だ。
それが「友引」となると、亡くなった人が友を引っ張って連れて行くという解釈になり、火葬場自体がお休みとなる地域もできた。
実際、友引に葬儀を強行し、偶然、参列した誰かが亡くなりでもしたら、その喪主や家族はいわれのない恨みを買うことになるだろう。
仏滅とエイプリルフールが重なった日に結婚式を挙げた友人が月枝にはいたが、葬式ばかりは、本人さえよければというわけにはいかないようだ。
なにしろ、主役はすでに意見を言えない立場なのだから。
父の横たわる布団の中へドライアイスが追加され、ただ待つだけの一日が始まる。
この日は、電話交換手になったんじゃないかと思うくらい電話がひっきりなしにかかってきた。
報せを受けた父の昔の同僚やら、遠方で葬儀に出席できない友人やら……。
繰り出されるお悔やみの言葉と、どうかすると延々と続く昔話。
ほとんどの電話は母が対応したが、「娘さんかい?」などと言いながら月枝を捕まえて父の若いころの話を聞かせてくれる人もいた。
月枝は、不思議な気分だった。
電話の相手はどんな顔をしているのかもわからない。
相手によっては父との関係もよくわからないのに調子を合わせて懐かしげに故人の昔話をする。
自分の想いだけをまくしたてて電話を切る人もいたが、「あんたのお父さんはいいやつだった」としみじみ言われるとなんとなく救われたような気分になる。
人付き合いが苦手な月枝でも、見ず知らずの相手からの慰めで癒されることもあるのだと、知らず電話口で涙をぬぐった。
しかし、そんなお悔やみの合間にかかってくるのが、明らかに妙な張りのある声のセールストーク。
「お料理の注文はございませんか」の仕出し屋に始まって、仏壇屋、葬儀社、果ては謎の拝み屋まで、うっかり返事をすると厄介なことになりそうな連中が、新聞のお悔やみ欄を見て電話をかけてくる。
そんな電話で母を煩わせるのは気の毒なので電話は極力、月枝がとるようにしていたのだが、いいかげん電話の応対にも飽きた午後、電話番を日向子と交代し、一休みするために二階へ上がった。
二階の寝室には鉄郎がいて、父の育毛剤が並んだ箪笥の上の鏡で髪を撫でつけていた。
「あら、そろそろあなたもお年頃?」
同じ場所で、寂しくなった髪を撫でつけていた父の姿が重なって見えた。
鉄郎は町内会長のところへ葬儀委員長をお願いしに行くのだと言った。
それで身だしなみを整えていたらしい。
鉄郎は、箪笥の上に置かれていた古い写真をブラシで指した。
「この写真、可愛いな。ふたり、仲良さそうでさ」
「え?」
夕べアルバムから落ちてきた子供のころの写真だった。
「それ……はっきり想い出せないのよね。確か、いっしょに汽車に乗ったことがあったような気がするんだけど……」
「ふうん」
鉄郎は深くは追求せず、さっさと町内会長のところへ行ってしまった。
昨日、月枝が買ってきた千秋庵の菓子折を携えている。
札幌の葬儀は、町内会が切り盛りすることが多いのだ。
近所の弔問客がやたらと多いのはそういった地域性の故かもしれない。
月枝は、鉛のように重くなっていた体を、窓際のソファに沈めてため息をついた。
二度と立ち上がれないのではないかと思うくらい、柔らかなソファは心地よかった。
私の父の葬式は、こんな感じで面倒でした。
やたらとかかってくる電話もこんな感じでした。
その三年後の母の葬式は家族葬のつもりで、自宅で行ったのですが、近所のおばさま連中から「家の中に入れなかった」「ちゃんと見送ることも出来なかった」などと、あとでさんざん恨み言を聞きました。
それに、いちいちお詫びをしました。
あーめんどくせぇー! ってなりました。
と、息子が喘息で入院、母が同じ病院で入院、というさんざん面倒な思いをしたあとだったので、わたしはもう、自分の時は、焼き場直行でいいよ! と思った出来事でした。