17 天国への汽車
明奈が死んだと聞かされて、月枝はポカンと抜け殻のようになってしまった。
家の中に閉じこもって、毎日、壊れてしまったオルゴールを見つめて暮らした。
きっと、明奈といっしょにこのオルゴールも死んでしまったのだと思った。
不思議なことに、涙も出てこなかった。
泣いてわめいて忘れてしまえるほど、簡単な想いではなかった。
それでも、凍傷になりかかった手足の指先が癒えてきて、耐え難いほどの痒みに襲われるようになると、明奈のいない時間がどんどん流れていくのを感じずにはいられなかった。
月枝は生きていて、手の指も足の先も、綺麗に治ってしまうのだろう。
かじかむ手で互いのぬくもりを感じ合った時間は、もう戻らない。
もう二度と、明奈の手に触れることはできない。
もう、二度と……。
ふと、明奈の葬儀のことが気になって、母に訊くと、月枝が熱を出して寝込んでいる間に全部終わってしまったと教えてくれた。
母が月枝の代わりに焼香をしてきたと言っていた。
「明奈ちゃんのお家に行ってみる?」
母はためらいがちに訊いた。
月枝は黙って首を横に振った。
明奈のいない家に行っても仕方がない。
月枝にはその場所で明奈がどうやって暮らしていたのかもわからない。
それよりも、あの日、明奈はどんなだったか、どんなふうに笑って、どんな風に話して、どんなものを見て、どんな風に泣いたのか、忘れないように確かめてみたくなった。
自分だけしか知らない、明奈の最後の一日を確認したくなった。
母が日向子を連れて夕飯の買い物に出かけたとき、月枝はあの日の赤い長靴を履いて外に出た。
ポケットには鳴らなくなったオルゴールを忍ばせていた。
一週間以上、家にこもっていたのでわからなかったが、外はすでに春の匂いがした。
道路にはもう雪はなかったし、吹く風もやわらかかった。
乾いた道を長靴で歩くのは少し恥ずかしかったけれど、気にせず歩いた。
行き先は決まっていた。
札幌駅だった。
あの日、ふたりで買った切符を今度はひとりで買い、ふたりで抜けた改札をひとりで抜け、ふたりで乗った旭川行きにひとりで乗った。
誰と話すこともない淡々とした旅だった。
あの日、あんなに楽しかったのは、あんなにすべてが輝いて見えたのは、明奈といっしょだったからなのだ。
明奈が笑っていたからなのだ。
そっとポケットに手を入れて、オルゴールを握りしめた。
野幌駅に降り立って、つり革揺れる夕張鉄道に乗り換えようと三番ホームに向かった。
だけど、そこはこのあいだとは様子が違っていた。
駅員が何人か行き先案内板を外したり、掃除をしたりしている。
汽車を待つ人も誰もいない。
不思議に思ってキョロキョロしていると、駅員に声をかけられた。
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
「ここの汽車にのるんです」
月枝は答えた。
駅員は困った顔になって言った。
「そうか。困ったねぇ。お嬢ちゃんは一人かい? あのね、ここの汽車は三月三十一日いっぱいで走らなくなっちゃったんだよ」
「え?」
今日は、四月五日だ。
そんな……。
「今、通っているのは貨物列車だけなんだ。だから、おじさんたちもこうやって片づけをしているわけさ」
ついこの間まで普通にお客さんを乗せて走っていた汽車が走らなくなるなんて、月枝にはすぐには理解できなかった。
「どうして?」
「どうしてって……。うーん……。そう決まったんだよ。お嬢ちゃんにわかるように説明するのは難しいなぁ」
夕張鉄道は、夕張炭田の石炭を小樽に運搬する目的で北海道炭礦汽船によって設立された。旅客サービスにも力を入れ、一九五二年には北海道内初の気動車を、翌年には北海道初の液体式気動車を導入してスピードアップを図った。
しかし、一九六二年頃より、石炭産業の衰退によって貨物輸送が減り始めた。
加えてバス路線の発達やマイカーの普及、人口の減少に伴い旅客輸送も激減し、一九七四年三月末をもって旅客営業を休止し、翌年三月末、沿線で最後まで操業していた北炭平和鉱の閉山に伴い、全線が廃止された。
月枝は、夕闇迫る野幌の町に出た。
駅を出て、あの日、明奈と旅した夕鉄の線路をたどって歩いた。
駅の外れにくると、小さな柵があるだけで線路に入るのは簡単だった。
線路の上を平均台のようにバランスを取りながら歩く。
「カタンカタンカタン……チャッチャッチャッ……」
左右に揺れてリズムを取りながら、明奈とふたり、車体の揺れに身を任せたのを思い出す。
揺れて戻って戻って揺れるつり革のリズム。
明奈は、まだあの汽車に乗っているような気がした。
今はもう走らないあの汽車は、明奈と同じところへ行ったのだ。
汽車も死んでしまったのだ。
全部、自分が殺したのだ。
だからもう、自分はあの汽車には乗れないし、明奈にも会えない。
とぼとぼと線路を歩きながら、線路脇の煉瓦工場の煙を見上げた。
人は死ぬと焼かれて煙になる。
煙になって天国に上っていくのだ。
明奈は天国へ着けたかしらと思ってそのまま夕焼けの赤い空を仰いでいた。
明奈は、汽車に乗って天国に行くんだから、きっとほかの誰よりも早く着いてるに決まってる、と思った。
見上げた赤い色の空に、夕鉄の汽車の窓から顔を出す明奈の姿が見えたような気がした。
「明奈ちゃん……」
気が付くと、涙が頬を流れ落ちていた。
明奈が死んだと聞かされても、枯れてしまったように出なかった涙だった。
「明奈ちゃん……明奈ちゃん……明奈ちゃん……」
天国に上っていく汽車を追いかけるように月枝は走り出した。
線路の上を、全速力で追いかけた。
どんなに早く走っても、どんなに大声で呼んでも、汽車は待ってくれなかったし、空ゆく汽車に手が届くわけでもなかった。
それでも、一生懸命追いかけた。
まだ、ちゃんとお別れを言ってなかったのに。
たくさんのありがとうも、もっとたくさんのごめんねも、溢れるほどの大好きも、なにも伝えていなかったのに……。
だけど明奈は逝ってしまった。
明奈は哀しい気持ちのまま旅だってしまったのではないだろうか。
父親に拒絶され、雪の中ですべての希望を失ってしまったのではないだろうか。
だから、月枝になにも言わず逝ってしまったのではないだろうか。
明奈がどんなに哀しくて、辛くて、苦しかったのか、考えれば考えるほど切なくて、月枝の小さな心はバラバラになってしまいそうだった。
心臓が壊れそうなほど走り続けて、月枝は枕木に足を取られて線路に倒れ込んだ。
堅く尖った砂利でたくさんの擦り傷ができた。
月枝は、線路にへたりこんだまま空を見上げた。
さっきまで夕焼け色だった空はもう暗い灰色になっていて、明奈を乗せた夕鉄の姿はどこにも見えなかった。
月枝は空を見上げたまま、蛇口の壊れた水道みたいに、わあわあと泣き出した。
そのまま、体中の水分が流れ出してしまうのではないかと思うくらい、泣き続けた。
どのくらい泣いていたのか、薄暗かった空が真っ暗になっていた。
月枝は、精も根も尽き果て、ぐったりと線路の上に座り込んでいる。
立ち上がる気力は出そうもなかった。
その月枝の耳に、誰かの声が聞こえた。
「おい、チビ」
空耳かなと思いつつ、月枝はゆっくり頭を巡らせた。
「やっと泣きやんだか? チビ」
チビチビと失礼なヤツだと思って、少しムッとした。
こんなときでも怒る元気は出るらしい。
「なんだか知らないけどな、貨物が来る。そこにいたら轢かれちゃうぞ」
言いながら月枝の腕を引っ張ったのは、小学校高学年くらいの男の子だった。
言われて線路の向こうに注意を向けると、遠くから鉄のかたまりの移動する音が地鳴りのように伝わってくる。
月枝は、男の子に引っ張られてようやく立ち上がった。
よろよろと線路の脇に移動し、迫ってきた貨物列車を振り返る。
灰色の煙と真っ白な水蒸気を吹き上げながら、真っ黒な蒸気機関車が走り抜けていった。
長い長い、石炭を積んだ貨車を引っ張っている。
「すげぇなぁ。でも、もうじき、この貨物ともお別れだよな」
男の子はつぶやき、月枝を見下ろした。
「おまえ、なんであんなところで泣いてたんだよ? 家の人は?」
「ともだちが、死んじゃったの。さいごにいっしょにのった汽車に乗りたくてきたんだけど、もう、汽車も死んじゃってた」
男の子は、低く唸った。
「うーん。じゃあ、供養してやれよ」
「くよう?」
「死んじまったやつの墓とかで拝むことだよ」
「お墓なんかしらないもん」
「じゃあ、作れ」
「え?」
「なんでもいんだよ。場所決めて拝む。そいつのことを一生懸命に考える。それしかないじゃん」
溶けて流れるほど泣いたせいで気持ちに区切りがついたのか、男の子の単純な言葉は、どんな慰めの言葉よりもするりと月枝の胸の中に入ってきた。
月枝は、キョロキョロとあたりを見回した。
もうそこは北海鋼機前の駅の側だった。
月枝は、ホームの外れに、ひときわ背の高い腕木式信号機が立っているのを見つけた。
腕木という長方形の板を上下させ、その角度や色で汽車に進行や停止を知らせる信号機だ。
なんだか、その高さが天国に近いような気がした。
「あそこにする」
言うなり月枝は走って行って、信号機の根元を手で掘り始めた。
男の子が追いかけてきて、その傍らにしゃがみこむ。
「なにやってんだよ?」
月枝は、オルゴールを出して見せた。
「オルゴールなの。だいじなふたりのたからものだったけど、あたしがこわしちゃったから、明奈ちゃん死んじゃったのかもしれない。ここにうめたら、天国にとどくかなぁっておもって」
「ばーか。オルゴール壊したくらいで友達、死んだりしねーよ。んでも、気が済むならここに埋めて拝んでみれば?」
ぶっきらぼうに慰めながら、男の子は穴を掘るのを手伝ってくれた。
すぐにオルゴールが埋まるくらいの穴が掘れる。
月枝はハンカチにオルゴールを包み、そうっと穴に納めた。
土をかけながら、月枝は何度も何度も明奈の名をつぶやいた。
泥だらけになった両手を合わせ、頭をたれて祈る。
今度こそ、明奈ちゃんが天国で幸せに暮らせますように……。
「明奈ちゃん、もう苦しくないかな?」
顔を上げて横の男の子を見上げた。
「天国に行ったんだろ? 幸せさ、ぜったい」
「ぜったい?」
「ああ」
その自信たっぷりな表情に、月枝は安心して小さくうなずいた。
「……うん」
闇の中に、白く高い信号機のポールがうっすらと光っていた。