1人ではなく
蒸し風呂の更衣室から出てきたユラシルを見てローグは陽気に声をかける。
「おっ、さっぱり……はしてないみたいだな」
おそらく体の汚れや疲れは多少なりとも取れたのだろう。
しかし、その過程である結論に至ってしまったことは、その暗い表情から容易に察せた。
ユラシルは怯えながら唇を震わせ、それでも震える声を必死に制御しながら口を開く。
「あの、私って……!」
「あー、待て待て」
意を決したユラシルの言葉を遮るように、ローグは手で制した。
少し呆気に取られながらも渋々といった様子で口を噤んだ彼女へと周りを気にするように見回しながら続ける。
「それから先はここで口にしない方がいい。とりあえず部屋に行こう。こんなところじゃ落ち着いて話せないだろ?」
今彼らがいるのは男女分かれた脱衣所の入り口、その目前。
旅籠屋で言えば一番奥にあるのだが、脱衣所前ということもあり、いつヒトが来るかもわからない場所である。
それに気が付いたユラシルはゆっくりと頷いて部屋へと戻る道を歩き出した。
(さて、ここからだな)
彼女と出会ってまだ数時間。わずかとはいえ共に過ごした存在がこの世界に絶望したまま死んでいく様は見たくはない。
そうさせないための言葉を考えながらローグはユラシルの隣に並んで歩き出した。
◇◇◇
囲炉裏を挟み向かい合わせで座布団に座るローグとユラシル。彼らの前には淹れたてのお茶が湯気をあげていた。
湯呑みを両手で包み、その温もりを感じていたユラシルが少し落ち着いた声で切り出す。
「私、お風呂に入っている間、ずっと考えてたんです。自分が何者か、どこから来たか」
覚えていることはそう多くない。
魔術を扱えること、蟲を操れることや名前ぐらいのものでそれ以外はほとんど覚えていない。
魔術や蟲の従え方を教えてくれたヒトも、名前を与えてくれた存在や産んで育ててくれた両親のことも。
この世界の記憶でさえも所々怪しい。
しかし、そんな存在がなぜかたった1人でユグドラシルにいた。
まるでなにもない場所から突如として発生したかのように。
そんな発生の仕方をする存在をユラシルは知っている。
「私は本当は魔獣ではないのでしょうか?」
問いかけるユラシルの顔には怯えと恐怖、縋り付くようなものが見えた。
ローグはそれらを受け止めるようにじっと見つめ返す。
(まぁ、そう考えるよな……)
実際、ローグもその考えに至っていた。
ユラシルのようにヒトの言葉を使う魔獣が発生することは今までなかったが、似たような例はある。
樹や根の10階層以降に現れるコボルトやオーガなどは彼女と比べれば片言だが独自の言語を持つ。
加えて、知能が高いため罠を張り、単純だが戦術を取ってくることもあり、ボロボロではあるが衣類や鎧を纏ってさらには魔術まで扱う個体も稀だが発生する。
そんな存在がある以上、ただ否定するのではむしろ彼女はより疑心暗鬼に陥ってしまうだろう。
少しの間、黙考していたローグは言葉を選ぶように一拍置いて口を開いた。
「たしかに、そうかもしれない……」
返された言葉にユラシルは小さく息を吸って目を見開き、すぐに顔を伏せる。
ならば自分がいるべき場所はここではない。
魔獣は魔獣らしくダンジョンにいる方がお似合いだ。
『……ィキキ』
瞬間、樹の5層にいたモラシュルの群れが頭に過ぎる。
それらに追われながらたしかに感じた死の予感。
爪を振るわれたときに感じた死の恐怖。
(でも私はここから離れないと……)
強迫観念にも似た焦燥感をはやし立てるように心の奥底から笑う声がする。
『そうよ。あなたはヒトじゃない。あなたは魔獣なんだから』
その声の先にあるのはユグドラシル。
冷たい死、拒絶するような闇が広がる場所だった。
お茶に映る自分の暗い顔を睨みつけながら湯呑みを持つ手に力を込めたところでローグの柔らかな声が耳に届く。
「だから、確かめよう」
「……えっ?」
反射的にユラシルは顔を上げる。
そこにはなんでもないように、それがさも当然であるかのように柔らかな笑みを浮かべるローグの顔があった。
今までと変わらない優しげな声に少し鋭い目つきを柔らかくさせた彼は続ける。
「わからないなら調べて確かめればいい。それができるのが俺たちヒトってやつだ」
彼の言葉には不思議な力があった。
確信に満ちた眼差しと相まって、ユラシルの心の闇に小さな光のような言葉。
それの意味も、狙いも何もわからなかったユラシルは自分が驚いているのか、困惑しているのかも分からない。
「調べ、る……?」
「俺もユラシルが魔獣の可能性を考えたさ。でもそうなると腑に落ちない点がある」
「腑に落ちない、点? そ、そんなの一体どこに……」
「今、君とこうして話せていることだ」
ユラシルは「あっ」と声を漏らした。
彼女は最初から言葉を話せることが普通であったため気にしていなかったが、魔獣は本来ならば威嚇や吠えるといった程度で話すことはない。
コボルトやオーガなどは言葉のようなものを話せるが、それらがユラシル程度まで話すようになるには発生から数十年は必要だ。
しかし、聞いた限りではユラシルは発生からそう時間を置いていないにも関わらず、こうして話せている。
「ユラシルの存在はたしかに謎だ。でもかといって魔獣と言い切ることも俺は出来ない。
ならそれはもう納得いくまで調べてみるしかないだろう?」
「で、でも……! それはローグさんにとっては必要ないことで、無駄なことで」
「そうでもないさ。ここまで関わったんだ。今更、全てを忘れてユラシルをほっぽりだす、なんてことはしたくない」
そこで言葉を区切ったローグはユラシルが聞き逃すことがないようにはっきりと告げる。
「ユラシルが自分の場所を見つけるまで俺は側にいるよ。約束だ」
甘えたくなる言葉だった。
だが、あまりにも自分に都合がよすぎる言葉と態度にユラシルは本能的に感じた恐怖に身を縮こまらせる。
「な、なんで……そこまでしてくれるんですか?」
乗り掛かった舟。ということは間違いないがそれでもここまで助ける理由がユラシルにはわからい。
なにか裏があるようには見えない、感じられない純粋な情がユラシルには恐ろしく感じられた。
「1人でいるのって心細いだろ?」
「……それはそう、ですけど」
「俺も1人だった。でも助けられた。
手を差し伸べられて今がある。俺を助けてくれたそいつに恩を返すにはとんでもない時間がかかる。直接返せないなら俺がそうされたように俺も誰かを助ける。それだけだ」
ローグはおもむろに立ち上がるとユラシルの隣に座ってその手を優しく包み込む。
いつの間にか震えていた手が感じる優しく暖かい温もり。それは心に広がっていた冷たさを吹き飛ばすほどのたしかな温もりであり、広がった闇を消し去れる光。
胸に広がるじんわりとした熱を感じながらユラシルは顔を上げる。
「ッ、ローグ、さん!」
そこから続く言葉を見つけられずに目に涙がこぼれて頬を伝う。
1人であのユグドラシルを彷徨い続けるものだと思っていた。
人知れず魔獣に食われるか、餓死すると思っていた。
誰にも知られず、想われることもなく朽ち果てるしかないと確信していた。
だが、ローグの言葉はユラシルのそんな考えを切り捨てるものだった。
優しさと温もり、そしてモラシュルの群れから逃げる時に掴んでくれた手の心強さを思い出したユラシルの体からようやく、力が抜ける。
「私……本当に……独りじゃないんですね」
涙を流しながらも笑顔を浮かべるユラシル。
ローグは頷きながら少し震える左手を優しく握りしめた。
「ああ、独りじゃない。俺がいる。まぁ、ちょっとばかり力不足かもしれないけどな」
「いえ、いいえ! そんなことはありません! とても心強いですっ!」
ユラシルは涙を拭うことすら忘れ、まるで花が咲いたような晴れやかな笑顔をローグへと向けた。
◇◇◇
隣の布団に眠るユラシルから寝息が聞こえる。やはり相当に疲れが溜まっているようでこのまま朝までぐっすり眠ることだろう。
それを確信できたローグは息を吐いて寝返りを打った。
(まずは帝都に向かう。あそこならユラシルの手がかりも何かあるかもしれない)
帝都はこのルイベ帝国の首都。
人口も特別多く、それに比例するように情報も集まっている。
しばらくはユラシルの状態を見ながら彼女と似たような存在や知っていそうな者を探すことが得策だろう。
(問題は生活資金だな)
少し気になる点と言えばやはり金だ。
一応多少の余裕はあるがそれは1人でいる場合の話で2人となった今は状況が変わる。
加えてユラシルは着の身着のままなのは見れば明らかともなれば、最低限帝都まで行くだけの道具は揃えなければならない。
「考えれば考えるほど足りる気がしない」
そうポツリと溢したローグだったがすぐに「いやいや」と首を横に振る。
(どうにかやるしかない……!)
足りるかどうかはわからないが、ひとまず明日はこの村唯一の雑貨屋兼武器屋に向かうべきだ。
幸いなことにその店の店主とその娘とは顔見知り程度とは繋がりがある。もしかしたら多少の無理をお願いできるかもしれない。
安心そうに眠るユラシルの隣でローグは小さな不安を抱えながら眠りについた。
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